第八章:A marine requiem――潮風の鎮魂歌


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 何かの絵画を見ているかのような錯覚に襲われた。
 駆け寄ったゲイルが、背の低い少年を強く抱きしめた。少年もまた、ゲイルの首に手を回しきつくしがみつく。背の高い少年は、抱きつくことはしなかったが、それでもゲイルの服の袖を握り締めた。
「ケイレブ……」
「ゲイル兄ちゃん」
 抱き上げられた少年が、ゲイルの名を呼びながら泣き出した。癖の強い栗色の髪を撫でながら、ゲイルが目を細める。
「ケイレブ、大丈夫、大丈夫だ」
「ゲイル兄」
 ゲイルの服の袖を握っていた、背の高い少年が不安げな響きでそう言葉を発した。ゲイルに抱かれている男児がケイレブだとするなら、この背の高い少年がアーロンという名前なのだろう。
 金とも銀ともつかない薄い色素の髪に、鮮やかな水色の瞳を持つその少年に、ゲイルはいまだ困惑した表情のまま訊ねた。
「アーロン、何でお前たちがここに……何があって」
 他の乗客が何事かと野次馬的な視線を飛ばす中、三人は向き合っている。と、ふとアーロンが水色の目を伏せた。
「アーロン……?」
「しごと、だよ」
 幼い声に、エリスは一瞬耳を疑った。エリスだけではなかった様で、ゲイルも目を丸くしてその言葉を発した、腕の中の少年に視線を合わせる。
「ケイレブ……仕事、って……」
「おしごと。ラボの」
 ケイレブの硝子球のような茶色の瞳が、ただ真っ直ぐにゲイルに据えられている。
 仕事――その単語に、エリスの心臓が早鐘を打つ。まだふらつく足元を何とか自力で支えながら、前へ進む。と、くいっと後ろから何かに襟首を引かれ、エリスはつんのめった。
「って……」
「何してるこら」
 振り返ると、苦虫を噛み潰したような表情でジークが立っていた。勝手にベッドを抜け出して歩き回っていることを怒っているのだろうが、今はそれどころではなかった。ジークのワインレッドの瞳を見上げながら、エリス自身混乱したまま言葉をつなげる。
「判んない。なんか、ゲイルの弟たちなのかな……仕事、って」
「仕事?」
 それまで余裕のあったジークの顔が、その単語ひとつで一瞬にして変わる。
 エリスの右手を引き、先端で立ち尽くしている三人に向かい歩いていき、ジークは声をかけた。
「ゲイル」
「ジーク……」
 低い声に、困惑した瞳のゲイルが振り返る。その腕の中の少年を下ろし、ゲイルは二人の少年を交互に見た。
「どういうことだ? ラボの人間だな」
 青くたぎる炎を連想させるような、静かな怒りを含んだ声に、アーロンとケイレブがゲイルの背に隠れた。だが、それにはかまわず、ジークは目を細めながら三人を見やる。
「仕事だと? お前も裏切ったのか、ゲイル・コルトナル?」
 ジークは、一歩前に出た。ちょうど格好として、エリスを背でかばうような状態になっている。ゲイルと正対しながら、数歩の距離を詰めようともしない。
 ただ、完全なる詰問口調で、告げた。
「答えろ。ゲイル・コルトナル。ラボの仕事だと? お前も、裏切りか?」
 どちらの意味でも否定できなかったのだろう。ドゥールが裏切ったのではないと、彼はまだ思いたいはずだ。とすれば『も』という単語には同意も出来ないだろう。裏切ったわけではないとしても、その部分が引っかかり、否定の言葉を咄嗟に吐くことは出来ないはずだ。
 青褪めた表情で、だがゲイルは一言も言葉を漏らさなかった。背に庇った二人の弟の手を握りながら、じっと佇んでいる。
「ジーク、ちが」
「黙ってろ」
 経緯を話そうとしたこちらの言葉を、ジークは鋭くきる。右手首を掴んでいるジークの手に力がこもったのが、エリスには判った。力だけではない。左手にはグローブをはめていないせいで、はっきりと判る。その手に汗の弾が浮かんでいることを。
 熱いほどの手が、緊迫した状況を如実に告げていた。
「――裏切ったのか、ゲイル?」
 その言葉に答えたのは、ゲイルでもエリスでも、そこにいる二人の少年でもなかった。何か見世物でもはじまったのか、と野次を飛ばすほかの乗客でも、もちろんなかった。
 ただ、空気を多分に含んだ、柔らかい声音がその問いかけに応じた。
「裏切りは、誰ですか?」
 その声の頭をきいた瞬間、エリスは掴まれていた右手を思い切り振り払った。そのまま、手を腰に持っていき、剣がないことに愕然とする。部屋に置いたままだ。
 切っ先を突きつけられない代わりに、エリスは視線を刃としてその声の主に突きつけた。
「アザレル!」
 いつの間に、そこにいたのだろうか。ゲイルたちのすぐ後ろ――集まっていた野次馬たちの数歩だけ手前に、その女は佇んでいた。
 相変わらずの、微笑を浮かべて。
 ゲイルは弟たちを庇ったまま、咄嗟に振り返った。そしてその女の姿を見止めると、よろけるような動作で、後ろに――こちら側に寄ってきた。後ろから見ても、判る。その怯えが、背中にでていた。
 普段目にすることのないような、巫女服をアレンジしたかのような特殊な服装に身を包んだその女に、野次馬たちがさらにあおりを大きくする。紅を引いた唇が笑みの形に歪んだのを目にした瞬間、エリスは叫んでいた。
「巻き込まれたくないなら、近付くな!」
 普段なら、滑稽にしかならない台詞だったことだろう。だが、こちらの声音に、その声音に含まれる意味に、気付かない者はいなかったようだ。蜘蛛の子を散らすように、野次馬たちが船内へと帰っていく。この調子だと、異変に気付いたミユナがでてくるのも遅くはないだろう。
 その様子を見届けた後、アザレルが笑い声を漏らした。
「お優しい事。そんな調子なのに……貴女も、アンジェラさんも、ご自身のことよりも他人の事なんですね」
 その名前を、目の前の女から聞きたくはなかった、血が一気に上がり、顔が熱くなる。
「あんたアンジェラに――!」
「落ち着け、エリス!」
 叫び、身を乗り出そうとしたエリスの体を、ジークが後ろから羽交い絞めにした。前に出る威力を殺がれ、エリスはそれでもアザレルを睨みつけたまま叫んだ。
「放して、ジーク! こいつは、アンジェラを」
「今のお前は何も出来ない!」
 一喝。叩きつけられた言葉に、エリスは全身の重みが増すのを感じざるを得なかった。体のあちこちが上げている悲鳴が、耳に痛い。血が滲むほどに強く唇をかみ、エリスは無理やり感情を押し殺した。それでも、殺しきることの出来ない憎悪が、視線となりアザレルに据えられている。
 しかし当のアザレルは、こちらに順番に視線をやり、それでも微笑を絶やすことはなかった。栗色の瞳がある一点で動きを止めた。
「裏切り、ですって? ジーク?」
(え――?)
 エリスの肩に、鈍い痛みが走る。肩を掴んでいたジークの手が、力を増したのだ。訳もわからず、ジークの顔を見上げる。下からでは表情までは読み取ることが出来なかったが。
(待って……ジークと、アザレルって……?)
 疑問を口にするだけの余裕はなかった。エリスの肩を掴んだままのジークの手が、僅かに、だが確かに――震えていた。
「アザレル・ロード……」
「ええ。それで……裏切り、ですって?」
 その言葉に、ゲイルの体も強張った。二人の弟を抱きしめながら、ゆっくりと後退してくる。自然一列に並び、エリスたちはアザレルと対峙した。
 こちらを、ゆっくりと視線でなぞって来る。海からの潮風が、アザレルの髪を揺らし、マストを鳴らす。
 潮の香りを嗅ぐように目を細め――そして、アザレルは微笑んだ。
「ドゥールは何も、裏切ってはいませんでしょう? あの子は最初の仕事をこなしているにすぎません。裏切ったのは」
 血色の唇が、その名を告げる。
「ゲイル。貴方と、ジークでしょう?」
 悲鳴を飲み込んだかのような音が聞こえた。誰のものだか確認することもなく、エリスはただアザレルを見据えるしか出来なかった。肩を掴むジークの手の震えが強くなっているのは、判る。だがそれすら、どうすることも出来ない。
「ですから、アーロンとケイレブにお仕事を頼んだのですよ」
 エリスは反射的に、彼ら二人を見た。ゲイルに抱えられ、二人は震えていた。アーロンの、鮮やかな水色の瞳からいくつもの水滴が零れおちている。
「ゲイル兄……」
「アーロン、何があった」
「ゲームはこれからですよ」
 ゲイルの言葉に答えたのは、アザレルだった。振り返る。

 ――パチン

 アザレルの指が、音を鳴らした。そう――まるきり、ドゥールが魔法を使うときのあの仕草と酷似した状態で。
 そしてその音が聞こえた瞬間、悲鳴が上がった。
 アーロンと、ケイレブだった。
「アーロン、ケイレブ!」
 背の高い体を縮こまらせ、アーロンがうめいている。ケイレブに至っては、地面に倒れこみ泣き声とも悲鳴ともつかない叫びをあげていた。
 ケイレブの癖の強い髪が潮風の中で蠢く。
 そして――触手が生えた。


 ケイレブの小さな背中が瘤(こぶ)をつくる。薄汚れた質素な服に、縦に亀裂が入った。その瞬間、子供の手首ほどの大きさもある何かの触手が、ケイレブの背中から生えたのだ。
 背中を割り、内部から生えて来たそれは赤黒い内臓の色をしていた。鮮血が甲板に飛び散る。ぬめりとした粘り気のある透明な水が、その触手を覆っていた。そのぬめりが、太陽光に反射する。潮風の中に、生ぬるい鉄の臭いが混じる。
 意志を持ったかのようにそれは蠢き、空で向きをかえた。速さを増し、ケイレブの体へと向かっていく。でてきたその場所から、また中へ入っていくと、ずぶずぶと肉が裂ける音が響いた。
「う、あ、ああああっ」
「ケイレブッ!」
 白目をむき、ケイレブがのたうつ。その悲鳴は、すでに先ほどまで聞こえていた男児の声とは思えないほどに、ひしゃげ歪んでいた。
 弟の体から吹き出た血で全身を濡らしながら、ゲイルが絶望じみた声音で叫んだ。
 ケイレブの中に入り込んだそれは、少年の中でもまだ意志を持って動いているようだった。ケイレブの二の腕が、倍の太さになり――そして、ひっこんだかと思うと首が倍の太さになり、瘤をつくる。
 エリスは、その姿から目をはずすことが出来なかった。血が飛び散り、エリスにも降りかかる。生ぬるい水が頬を伝い滑り落ちていく。だが、それでも、視線をそらすことが何故か出来なかった。瞳が釘付けになったかのように動かなかった。
 背後で甲高い悲鳴が聞こえた。振り返らずとも判る。ミユナだ。
「これは、おしおきですよ」
 笑みを含んだ声音が聞こえた。視線はそちらに投じていないはずなのに、その栗色の瞳が、紅を引いた唇が、何故かエリスにははっきりと判る。
 その視線が、ゲイルへ、そしてジークへと注がれたのも。
「裏切り者へのね。ゲイル。ジーク」
「だったら……俺らに直接来やがれ! 何故こいつらを巻き込む!?」
 悲鳴じみた絶叫は、ジークだった。エリスを掴んでいる手が、震えている。肩に爪が食い込むのが判ったが、それを振り払うことはしなかった。
「全ては――実験ですよ」
「貴様……!」
「お判りですか? エゼキエル・アハシェロス?」
 その頃になって、エリスはようやっと首を動かすことが出来た。アザレルが蛇のような瞳を、ジークに向けていた。捕らえられ、動くことすらかなわない瞳に、ジークが息を飲む。
「貴方の本来の居場所は、愛しい彼女と過ごした、その場所でしょう?」
「アザレル!」
 悲鳴が、上がる。混乱した状況に、エリス自身は、悲鳴も上げることが出来なかった。ジークの、ゲイルの、ケイレブの、アーロンの、ミユナの、それぞれの悲鳴だけは聞こえたが、誰が何を言っているのかは、理解できなかった。
 ただ、目の前の鮮烈過ぎる映像だけが、脳裏に刻み込まれていく。
「イヴを、まだ愛してますか、ジーク?」
「その名をてめぇが告げるな」
 低く、鋭い刃のような声音に、アザレルが微笑んだ。
「もうすぐ……素敵な夢が、見れますわよ」
 鮮血が飛び散る。
「何があったんだ、これは!」
 背後から駆け寄ってきたミユナが、焦燥を募らせた叫びをあげる。だがエリスは答えることが出来なかった。目の前で起きている事がなんなのか、判らない。視界に飛び込んでくる全てがエリスの理解の範疇を超越していた。
 再度叫び声があがった。否――それはすでに声とは表し難いほど、歪み崩れている。アザレルの気配が、かすかな笑い声とともに消えたのは判ったが、そちらを見る余裕すらなかった。
 ケイレブの体の中に入った触手が、肩のあたりから飛び出した。ピンク色の脂肪が、いやに鮮やかに目に飛び込んでくる。滑稽なほどに撒き散らされた赤い血のりが、マストを、傍にいたゲイルを、甲板を色づけた。
 それだけではなかった。一本だけだと思っていた触手は、そうではなかった。ケイレブの腹部を貫き、耳を引きちぎり、何本もの触手が、うねる。
 ケイレブだけではない。アーロンの体からもまた、同じように触手が数本飛び出していた。
 完全に色を無くした唇を震わせて、ゲイルが立ち尽くしている。その膝が笑っているのが見えた。自身の膝からは、すでに力も抜けている。立っているのか、ジークに支えられているのか、エリスには判断もつかなかった。
 アーロンとケイレブは、すでに肉塊と化しているようにすら、思えた。腕は関節とは逆に曲がり、首は傾げ、その間から触手が飛びでている。顔面には血管が浮き出ていた。白目をむき、口からは血色の泡を吹きながら――それでも、口をきいた。
 言葉になりきらない、騒音のような響きで、それでも確かに台詞を紡いだ。
 エリスにすら判ったのだ。恐らく、ジークやミユナにも判っただろう。だとすれば、その言葉をかけられたゲイルが判らないはずがなかった。
 アーロンとケイレブは――アーロンとケイレブ『だったもの』は、確かに、こう言ったのだ。
 全身から、幾本もの虫の如く蠢く、血色の触手を生やしながら。
「ゲイル兄……」
「ゲイル兄ちゃん」
 鮮やかな金髪を血で染めながら、ゲイルは動かなかった。その言葉に、動けなかったのかも、知れない。


「たすけて」


 それは確かに、そう言った。 


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