第九章:Eve's eye is skyblue――空の瞳を持つ少女


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 六百段近い階段を上り辿り着いた街は、おかしいどころの騒ぎではなかった。
「狂ってるな」
 皮肉めいた口調で、ミユナが呟くのが聞こえた。皮肉でも言わなければ、この事態を飲み込める状況でもなかった。
 足を庇うように歩くゲイルの肩を支えながら、エリスは小さく頷きを返した。
「尋常じゃないね。今まで以上に」
 今まで四竜がいた街は、それら四竜の影響下にあった。四竜が操られ、通常ではない状況だったため、それぞれの街は何かしかの異変を内蔵していた。
 ミユナの故郷シュタンバルツでは、異常な寒さが。レジック・タウンでは毒を含んだ霧が。黒竜遺跡のあったリアーグでは魔物の異常発生がそれぞれあった。
 だが、これほどまでの事態はなかった。
 ジークは無言で前を歩いている。その背中の強張りが見て取れた。
 ジークの背から視線をはずし、街に移す。
 なるほど、さながら迷路のような街とは良く言ったものだ。熱さしのぎの為、そして船人たちの目印となるために塗られた真っ白な壁面が、重なり合うように細々と続いている。建物はどことなく丸みを帯びた柔らかなフォルムのため、白という色が持つ几帳面さも薄れていた。
 家々の戸は青く、空と海と同じ色をしている。と思えば、家の前にある花瓶は鮮やかな黄色で、そこに真っ赤な花が活けてある。潮風が前髪を撫でていき、真っ青な海が輝いていた。
 古来から、詩人たちは揃ってこの街を愛したと言う。
 エリスが好きな絵画詩人、セシレル・ハイムも例に漏れず、幾つかの詩を残していた。
「永久に輝きし雪色の、涙より深き青色の、神々住みたまわん麗しの島よ――か」
 ぼそりと呟くと、肩をかしていたゲイルが目を瞬かせた。
「セシレル・ハイムの詩にね、あるんだ。そういうの。けどまぁ……普段はともかく、麗しが聞いて呆れるね、今じゃ」
 簡単に説明し、エリスは小さなため息をついた。
 街は酷い有り様だった。
 ――眠りが落ちていたのだ。
 それも、唐突な、だろう。
 水を汲んだらしい女が、その場で倒れこむように眠っている。子供たちが階段のあちこちで転がるように眠っている。男たちはタヴェルナ(大衆食堂)の椅子に座ったまま、眠っている。
 物音一つしない街中で、目覚めている人間はこれまで一人としていなかった。
 狂っている――ミユナがそう言いたくなるのも判る状況だ。
 鳥の一羽でさえ、飛んでいないのだ。大人も子供も、老人も――男女問わず、誰もかもが、人間に限らずすべての生物が、眠っていた。
 安堵した幼子のような、穏やかな寝息を立てている。
 異常としか言いようのない光景だった。
「……蒼竜は、どこにいる?」
「遺跡があったはずだ。街外れに。ちょうど島の反対側になるから、一度上がって下りたほうがいい。今向かっている」
「うん」
 強張った声のジークに、頷く。何はともあれ、蒼竜が関係しているのは間違いないことだろう。
 地面に眠る愛らしい幼女の腕を避けながら、エリスは歩みを進めた。
 細く不揃いな、波型の階段を上っていく。
 上から見下ろすと、異様さがよく判った。青い紺碧の中に浮かぶ、砂糖菓子のような愛らしい街並み。だが、眠りが暗雲のように垂れ込めている。
 人が行動していない街は、ただの廃墟と同じだ。どれほど美しく、どれほど心奪われるような街並みであったとしても、明らかに生気が足りない。生気が足りなければ、美しさは半減する。
 街は、人が生きてこその場所だ。
 作りものじみた気味の悪さに、胸中がざわめく。
 再度漏れかかる嘆息を飲み込み、知らず落ちていた視線を上げた。
 そして――エリスは見た。


 白い壁の向こう、鮮やかに輝く金の髪。
 それは、地面に近い場所ではなく、エリスより少し上の位置にあった。つまり、立っている。その人物は、地面に横たわっていない。
「!」
 それは反射的な行動だった。エリスはゲイルの腕を払い、咄嗟に駆け出していた。
 ジークを抜き、その人物に駆け寄る。腕をとろうと手を伸ばし――
「来ないで!」
 甲高い声が響いた。
 その声に気圧される形で、エリスは思わず動きを止めていた。
 壁の向こうにいるのは、女性のようだった。女性というよりは、まだ少女だろうか。エリスと同年齢か、それより少し上といった程度の年頃かもしれない。声の調子から、エリスはそう感じた。
「やめて、来ないで!」
 悲鳴じみた叫びが、エリスたちが近寄るのを拒否していた。
 訳も判らず立ち止まったエリスは、どうすればいいのか判断を仰ごうと後ろにいる面子を振り返った。
 最初に飛び込んできたのは、見開かれたワイン色の瞳だった。
「……ジーク?」
 ジークの様子が、いつもと違っていた。
 ワイン色の瞳が、小刻みに視線を揺らしている。巨躯が小さな震えを纏っていた。
「……の、こえ……」
 かすれた声が、耳に届いた。
 ジークは夢遊病にかかったかのような頼りない足取りで、一歩足を踏み出した。
「お願い、来ないで!」
 再度、悲鳴が響いた。その瞬間、弾かれたようにジークが走り出していた。
 グローブをはめた手が、伸びる。
 そして、金色の光が跳ねた。
 ジークの手に引かれて、壁の向こうから一人の少女が姿を現した。
 肩までかかる金色の髪。淡いピンクの帽子と、同色のワンピース。袖口には幾何学模様が入っていた。年の頃なら、エリスと同じくらい、もしくは少し上といったところだろうか。若干面立ちのせいか、それより幼くも見える。
 一瞬だけ、青が見えた。空と同じ色の、たれ目がちな瞳。
 だがそれは、すぐに伏せられてしまう。
「みないで……」
 悲鳴ではなかった。少女のその呟きは、懇願だった。涙に濡れたその言葉は、哀願だった。
 エリスの位置からはジークの顔は見えなかった。だが、彼女を掴むその腕で、その背で、判った。泣いているのは、彼女だけではない。涙は流していないのかもしれないが――泣いているように思えた。
「……イ……ヴ……?」
(え……?)
 ジークの言葉に、エリスも目を見開かざるをえなかった。
 イヴ。
 名前は何度も耳にした。ジーク自身の口から。ゲイルから。ダリードの口からも。
 イヴ・バージニア。
 ゲイルとドゥールの妹で、ダリードの姉だった少女。魔女であり、ラボにいたという。そして、ジークがかつて愛した女性。
 だが、彼女は――
 もう、この世にはいないはずなのだ。
「……」
 彼女が左右に小さく首を振った。その次の瞬間、ジークが動いていた。腕を回し、少女を抱きしめる。震える指が、彼女の細い髪をなぞる。その時になって、ようやくエリスの位置からもジークの顔が見えた。
 強く、強くまぶたを閉じている。黒い頬ですら判るほど、朱の色がさしていた。
 愛していたのだ。
 何の疑問もなく、躊躇いもなく、エリスはその単語に辿り着いた。
 否――愛しているのだろう。今も。
 そう確信を持たせるほど、ジークの顔は膨れ上がる感情に染められていた。
「イヴ……」
 宝物を口にするような響きで、ジークが彼女を呼んだ。
「イヴ、だろ……? お前、何で……」
 訳も判らず、エリスは泣きたくなった。
 ジークのその声に、涙腺が緩む。それはエリスにむけられた言葉では決してないのに、何故かその音が、その声音が、その言葉が、その想いが――涙を呼びそうになった。
 しかし、抱きしめる腕を押しのけるように彼女が――それが本当なら、もう死んだはずのイヴが――ジークから身を離した。
 俯いたまま、ふるふると小さく首を振る。
 それをどうとも表現できないような面立ちで見ていたジークに、彼女は揺らぐ声で告げた。
「……たく、なかった」
「イヴ……」
 イヴが手で顔を覆った。その指の間から、太陽光に照らされ雫が光っている。
「……逢いたく、なかった。……貴方にだけは」

 愛していたからこそ。
 愛しているからこそ。

 逢いたくなかった。

 言葉になりきらない想いだったが、エリスには判った。
 魔法でもなんでもない。ただ、判った。同じ年頃の、同じ女として、直感的に解ったのだ。
 イヴがふらりと後方にさがった。
「わたしの顔をみないで。目を合わせないで。お願い。――お願い――」
 哀願。
 そして、その言葉を残すと同時にイヴは走り出した。あまりに咄嗟のことで動けずにいたエリスたちを放って、ジークが走っていく。
「イヴ!」
 ジークのひしゃげた悲鳴が、遠くなった。そう思ったときには、すでに二人の姿は視界から消えていた。
「……今の……」
 呆然とした響きに視線を投じると、ゲイルが頭を抱えて顔を左右に振っていた。困惑した面立ちは、若干青褪めてすらいた。
「イヴだ……確かに、イヴで……なん、で」
「ゲイル……イヴさん、て」
「死んだんだ。確かに死んだんだ。葬儀だってして、死――」
「ゲイル」
「死んだんだ! なのに何故、イヴなんだ。間違えようがない、妹だ。イヴだ! イヴが何故」
「ゲイル!」
 混乱して叫び始めたゲイルの腕を、エリスは掴んだ。ひっとしゃっくりを飲み込んだかのような音を漏らし、ゲイルの動きが止まる。
 碧色の瞳を覗き込んだ。
「落ち着いて。今は……何が、起きたのか、判らないけど、でも、あたしたちが混乱してちゃどうしようもないよ」
「エリスの言う通りだな」
 眉を寄せたミユナが肯定した。
「ジークのあの様子じゃ……落ち着けってほうが、無理だろう。ゲイルでさえこうだ。もう死んだはずの愛した奴が、急に目の前に現れたら……あいつだって落ち着いてられねぇだろ。だったら、少なくともあたしらは冷静でいなきゃならねえ」
 ミユナの言葉に、エリスは我知らず目を伏せていた。
 もう死んだはずの誰かが、急に目の前に現れたら。それが、大切な人なら。
 考えるだけでも――否、考えることすら出来なかった。
「とにかく」
 ミユナがエリスの頭をたたいてくる。
 その手を見上げると、やや作り気味ではあったが、それでもミユナが力強く微笑んでくれた。
「イヴさんも気になるが、二人がどこへ行ったかは土地感がないあたしらには捜しようもない。ジークがさっきいってた、蒼竜の遺跡とやらにいってみよう」


 どの遺跡なのか、を聞き忘れたとすぐに後悔した。
 島の裏側は、ずっと広がる葡萄畑と、その脇にある遺跡群だった。
 遺跡の入り口と思しきものが、いくつも開いている。旧い石造りの建物。地下へと口を広げている穴。
「……そういや、ホワイト・フィールドってサンデス伝説の場所だっけ」
「……あー……」
 エリスの呟きに、ミユナが認めたくないような肯定の音を漏らした。
 ルナ大陸最東端にあるホワイト・フィールドは、三日月型の島だ。
 過去に起きた何度もの噴火で、島の外側だけが残ったとされている。
 そして、その吹き飛んだはずの中心部が――サンデスと言われている。
 旧時代、全大陸<ヒュージ>時代、繁栄を極めた大国があったとされている。旧時代から残っている遺跡やらの壁画に、よくその名が描かれているのだ。
 伝説の大陸、サンデス。国でありながら、大陸全土を支配したと言われている。だが、実際その国だか大陸だかがあったという明確な証拠は残っていない。ただ伝説として、伝承として残っている。実際サンデスがどこの場所にあったかというのも諸説あり、ここ以外にも、候補として上げられている地は幾つかある。
 だが、一番サンデスがあった可能性が高いとされているのが、ここホワイト・フィールドなのだ。
 高度な魔術の遺跡が多数あるのがその可能性を高めたものだ。
 そして、高度な魔術の遺跡は――目の前に多数広がっていた。
「……蒼竜の遺跡は、どれ?」
「さあ」
 半ば以上投げやりな答えが、ミユナから返って来る。半眼になりながら、エリスは手近な石造りの建物へと指を向けた。
「とりあえず、入ってみよう」
 そう呟いたときだった。
 
 紅。

 光が、満ちた。
「っ……」
 息を呑む。閃光のように、それは一瞬強く光り、すぐに明滅し始めた。
「石が……」
 二つの光が、同時に明滅する。
 それは月の石だった。
 エリスとダリードの月の石が、呼吸をするかのように明滅している。
 ポケットからダリードの石を、襟元から自分の石を取り出し、その両方を手のひらに乗せた。
 赤く光る石を握り、鼓動が狂ったように早鐘を打ち始めるのを自覚した。
「エリスちゃん!」
 ゲイルが不安げな響きでこちらの名を呼んだ。肩を掴まれるが、エリスはそれを振り払う。
「ルナか?」
 ミユナの疑問符に、エリスはただ無言で左右に首を振った。
(違う。ルナが呼んでるんじゃ……ない)
 理屈はない。
 ただ、そう感じる――それだけだ。
「エリス?」
「違うの。ルナじゃない……だけど、あたしは……知ってる。この光の感じが、何かに似てる……」
「エリス!」
「――呼んでる!」
 呼ばれている。
 そう感じた。
 誰かが、自分を呼んでいる。
 石がそれを、伝えている。
 エリスはその感情に弾かれるように走り出した。今指を向けた遺跡へと。
「エリス!」
 背後からの声は、エリスの耳には届かなかった。
 遺跡の内部へと足を踏み入れると、靴の裏の感触が変わる。
 視界が一瞬暗く沈み、そして――


 紅の光が満ちた。


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