第九章:Eve's eye is skyblue――空の瞳を持つ少女


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 アンジェラ・ライジネスにとって、ただ待つという行為は苦痛でしかない。
 子供のころは違った。動かなければならないと判っていても、足が竦んだ。動けずに立ち往生して、いつも後悔していた。エリスが来るのを待っていた。
 だが、今は違う。
 待っていることが得策だとされても、それは出来ない。自分から動かずに事態が発展するのを望むことは出来ない。今もそうだ。
 ただ、黙ってエリスが来るのを待つなんて事は出来ない。
 当然のように部屋の隅に椅子を置き、座ったまま本を広げているスージーにちらりと視線を投じる。監視役なのだろう。だとしたら、邪魔だ。
 下唇を舌で舐め、アンジェラは立ち上がった。スージーに近寄り、告げる。
「喉、乾いたんだけど」
 スージーは顎を上げ、こちらを見返してきた。
「喉乾いたの。紅茶飲みたいのよ。淹れて来て」
「判ったよ」
 しおりを挟んで本を閉じ、スージーが立ち上がる。小さな用件は彼女に言えばいいことになっているらしい。
「ダージリンとアッサムのブレンドよ。三対二にして。空気沢山入れてちゃんとジャンピングした葉っぱじゃないと嫌よ。それから、カップはセイドゥール製の陶器。薔薇の模様がいいわ。濃過ぎるのは嫌よ。葉っぱは少なめで、長めに蒸らして。言っとくけど、それ以外は飲まないから」
「わがまま……」
「うるさいわね。エリスはよく淹れてくれたのよ。それがないなら、珈琲で構わないわ」
 アンジェラの注文に、スージーは小さな嘆息を漏らした。そのまま背を向けて、扉を開ける。
「待って」
「まだ何かあるの?」
 呼び止めると、呆れ顔のスージーが扉を開けたまま振り返ってきた。
 その瞬間、アンジェラは動いた。
 脱いで、細く折っていたショールを遠心力の力を利用して振りかぶる。
「きゃっ!?」
 ショールが顔面にあたり、スージーが小さな悲鳴を上げた。それを聞き終える前に、床を蹴る。
 スージーの横を過ぎ、廊下に飛び出した。無機質な、生活臭のしない廊下。右も左もわからず、ただ勘にまかせて走る。
 後ろからスージーの声が聞こえた。足を止めるわけがない。アンジェラは内心で毒づきながら、さらに足を速めた。
(とにかく、出なきゃ。ここから出なきゃ)
 待っているだけで事態が発展することなど、ない。動かなければならない。たとえそれが、どれほど微力なものであろうとも。
 次第に息が上がってくる。が、気味の悪いことに誰ともすれ違わない。靴が廊下を叩く、カンカンと高い音が響くばかりだ。
 どれほどの距離を走ったか判らなかった。幾つ目かの角を再度勘に任せて曲がった瞬間、何かとぶつかった。
 衝撃に一瞬息が詰まる。
 咄嗟に身を翻そうとしたとたん、肩をつかまれた。
「アンジェラ!」
 聞き覚えのある声に、無理やり手を振り解こうと体を捻った。だがそれは叶わず、アンジェラはきつい視線を投げつけた。
「ドゥール……!」
「……何を、している」
 僅かに色の違う左右の目が、困惑に揺れている。それを見上げ、アンジェラは自身の頬に知らずに皮肉な笑みが浮かぶのを自覚した。
「帰るのよ。私の居場所はこんな場所じゃないわ。エリスの隣よ」
 ドゥールの顔が、少しばかり歪む。
「させない」
「何故?」
 間髪いれずに訊ねたアンジェラの言葉に、ドゥールは薄く唇を開いた。
「俺は、どんな手を使おうと、家族を守る。そのためなら、どうなったっていい」
「……守る?」
 その単語を、アンジェラは鼻で嘲笑った。引きつる頬に笑みを浮かべ、泣き出しそうな瞳で、吐き捨てる。
「馬鹿にも程があるわ、ドゥール・バレイシス。その心意気にはお見逸れいたしますけれど、本当にただの馬鹿なのね」
 鼻から息を吐き、アンジェラは続けた。そこにはない、香水の甘い匂いが漂ってくるようなむず痒い違和感。
「貴方のせいでまた家族が死んだことを知らずに、そんな台詞良く吐けるわね。滑稽だわ」
 その単語は、効果があった。
 肩を掴んでいたドゥールの手から力が抜け、落ちる。色をなくした唇が、震えている。
 それを見上げ、アンジェラは湧き上がる苛立ちを目の前の男に叩きつけた。
「ドゥール・バレイシス、貴方のやっていることはただの臆病で、ただの馬鹿な行為よ。前に動き出そうともしないで、現状維持を望むのなんて叶うはずがない。それはただの馬鹿な行為どころか、害にしかならない行為よ。貴方のせいで、未来が途切れる子達がまた増えたわ」
「どういう……ことだ」
「貴方が家族を殺したのよ、ドゥール!」
 叫んだ瞬間、アンジェラの意識は闇に落ちた。彼女自身は何が起きたのか理解は出来なかっただろう。いつのまにか追いついていたスージーが、彼女に眠りの法技をかけたのだ。
 崩れ落ちたアンジェラの体を半ばただの反射で抱きとめ、だが抱き上げるほどの気力はわかず、ドゥールはそのまま床に座り込んだ。
「油断大敵、というかなんというか。元気な捕らわれのお姫様だね」
「スージー……」
 歩み寄ってきたスージーが、腰をかがめてドゥールを見下ろした。みつあみがふわりと揺れる。
「とりあえず、部屋に連れて行くね」
「スージー!」
 相変わらず淡々とした妹に、ドゥールは思わず叫び声を上げていた。スージーが顔を向けてくる。
 その瞳を見つめ、困惑気味に彼は訊ねた。
「アンジェラの言っていたことは……何だ?」
「気にすることないんじゃない? この人、ドゥール兄を追い詰めたかっただけにも見えるしさ」
「スージー!」
 怒鳴り声に、スージーの動きがぴたりと止まった。光のないうろんな瞳を向けてくる。
 その様子に、不安が確信に変わるのをドゥールは確信した。
「おまえ……『視た』な」
 スージーが僅かに視線を外した。
 この妹の能力は、無論ドゥールは知っていた。
 遠視能力。遠い場所の物事を、見る。
「何を見た」
「アーロンと、ケイレブ」
 今度はあっさりと答えを返してくる。胃がちりっと痛みを発した。心臓が不安に鼓動を早くする。
 そんなドゥールの様子を見下ろし、眠るアンジェラに視線を合わせて、スージーが微笑んだ。
「死んじゃった」
 軽い口調に、視界が沈んでいく。
「ゲイル兄が殺してた」
 闇が落ちた。まぶたをただ下ろしたに過ぎないとしても、闇に落ちてしまったような感覚があった。
「もうわたし、何がなんだか判んないよ、ドゥール兄」
 妹のその言葉に応える術を、ドゥールは持ち合わせていなかった。


「エリスちゃん」
 呼びかけてくる声が、あまりにおろおろとした響きで、エリスは思わず苦笑した。
「大丈夫、だから」
「けど」
「死にはしない。だから」
 ゲイルの顔が不安に歪んでいる。それでも震える膝を叱咤して、エリスは無理やり立ち上がった。
 よろけた体を、ミユナが支えてくれる。
「今の」
 ミユナが言葉を選ぶようにして言って来る。
「……今、アザレルを斬ったのは、能力か」
「判んない……」
 弱く頭を振る。そんな理論的なことを考えられるほどではない。
「今は、考えないでいいよ」
 その言葉に顔を上げると、ゲイルが地面に落ちた二つの石を拾い上げてくれていた。それを手のひらにのせてくれる。握り締めた。
「とりあえず、イヴたちに会いにいこう。……アザレルの言うことが本当なら、ジークが心配だから」
 ゲイルの言葉に、エリスはゆっくりと頷いた。


 絵画のような情景だった。
 エリスがそう思ったのは、部屋に飾ってあったセシレル・ハイムの絵画に似た風景が描かれていたからだろう。
 白い町並みが遠くに見え、古き遺跡が建ち並ぶ。アイロンをかけたように穏やかな紺碧の海とキスをするように、青い空は広がっている。
 静まり返った島の中、一組の男女が向かい合っている。
 陽の光を集めた金色の髪。俯いた瞳の色は見えない。
 島の大地と同じ、褐色の肌。この島名産の葡萄ワインと同じ色の瞳。
「イヴ……なんでだ?」
 上ずった声音が、小さく広がる。
 手で顔を覆ったままの彼女は、強く左右に首を振るだけだ。
「なんで……逃げる? 俺はずっと、お前に――」
「やめて!」
 イヴが悲鳴を上げた。
「お願いだからそれ以上近寄らないで。話し掛けないで……」
 泣いていた。
 彼女は泣いていた。エリスはそれを見ながら、ゆっくりと足を一歩踏み出した。筋肉が縮むと、体のあちこちが悲鳴を上げる。そこかしこを庇い、怪我が重なっている。疲労が体に重い。
 それでも、彼女の涙にはかなわないだろう。
「ジーク」
 大柄な背に、呼びかける。
 白い上着を着たジークの背は、ただ静かな音を発した。
「わりぃお嬢ちゃん。今はこいつと話したいんだ」
「話をきいて」
 ジークの願いは最もだろうと思った。だが、エリスはそれを遮り、続ける。
「さっき、アザレルに会ったんだ」
「!?」
 反応したのはジークではなく、イヴのほうだった。伏せられていた顔を、弾かれるように上げる。空色の瞳が、きらりと反射した。
 綺麗な人だった。
 僅かにたれ目がちな空色の瞳。少し幼い丸みを帯びた頬。特別整った顔立ちという訳ではないが、彼女自身が持つのであろう暖かさが滲み出ているような、綺麗な女性だった。
 今はその顔が、悲しみに彩られてはいたけれども。
「アザレルに……会ったの。ねぇ、ジーク」
 ジークの背は、動かなかった。エリスは、イヴと視線を合わせたまま、告げた。
「言いたく、ないんだけど。けど――」
 アザレルの言葉を思い出す。

『死者の『想い』を呼び起こし、幻影のように見せることなど造作もありません』

 それが本当だとするなら、ここにいるイヴは確かにイヴであるのだろう。だが、アザレルの手中にある人形と、何ら変わりはない。
 その言葉を、当のイヴ本人は感じ取ったのだろう。悲しみに彩られた頬に、あきらめたような小さな笑みが浮かぶ。歳相応というよりも、大人びた微笑だ。
「もう、いいよ。あとは、わたしが話すから」
「イヴさん……」
 イヴはこちらに微笑みかけてくると、ゆっくりと息を吐いた。強張っていた肩が少し下がり、空に溶け消えそうな雰囲気が広がる。
 ジークの背が、少しだけ強張るのが判った。
 イヴはその細い足をゆっくりと前に踏み出した。
 一歩、二歩。ジークへと――かつての恋人へと足を踏み出す。
 そして、彼の数歩手前で、イヴは足を止めた。
 春先の空のような笑みが、広がる。
「ジーク」
「イヴ……」
 イヴの細い指がジークの頬をなでた。つま先に体重をかけ、背伸びをする。ジークが僅かに腰をかがめた。そうすることが当然だといわんばかりに。
 二つの唇が触れ合う。ほんの一瞬のことだった。
 一瞬だけ僅かに触れあい、すぐに離れる。そんな軽いキス。
 そして離れた次の瞬間、鋭い音が響いた。
「……!?」
 その光景に目を丸くしたのは、ジークだけではなかった。無論ジークが一番驚いていたのかもしれないが、外野であるエリスたちにしても予想外のことだった。
 イヴがジークの頬を平手で打ったのだ。
 後々、ジークの頬は綺麗に腫れあがるだろう。そう思わせるだけの威力はあった。
 イヴはその手をゆっくりと組んで、息を吸う。
 穏やかだった表情が、徐々に険しくなった。先ほどまでの薄れそうな雰囲気はない。そこにあるのは、確固たる意思を持った強い眼差しだった。
「ジーク?」
 その声音も、柔らかい、優しい響きではなかった。強気な少女のそれだ。
「……あ。ああ」
「いーかげんにしなさいよ! この単純馬鹿!」
 イヴが上げた叫び声に、エリスはただぽかんと口を開けるしか出来なかった。すぐ隣で、ゲイルが吹き出す音が聞こえる。
 視線を投げると、ゲイルがくつくつと小さな笑みを零しながら頷いて来た。
「たしかに、イヴだ」
「……ええっと?」
 混乱してきた頭で、僅かながらに思い出すことがあった。確かジークは以前、アンジェラはイヴに似ていると零していたことがある。
(……ああ……そういうことか……)
「わたしがこれだけ頼んでるのに、何で言うこと聞いてくれないのよ!? 馬鹿! ほんっと馬鹿!」
 叩きつけられる言葉に、ジークの顔が歪んだ。泣き笑いのように。叫ぶイヴの体を、無造作に抱き寄せる。
 再度、唇を合わせた。
 とどめなく吐かれようとしていた罵倒の言葉は、口付けに消される。やがてまた唇が離れたとき、イヴの体はジークへともたれかかっていた。
「……馬鹿だよ、ジーク」
「知ってるよ」
「ホント馬鹿。単純。単細胞。何も考えないんだから」
「知ってる。目先のことしか考えられねえな」
「察してよ!」
 イヴが弱々しくジークの胸を叩いた。
「わたしは……死んでるのよ。この姿は幻なのよ」
 イヴの言葉に、エリスは胸の痛みを覚えずにいられなかった。それでもジークは、彼女を抱く腕を緩めることはない。強く抱きしめられたまま、イヴが小さくうめいた。
「アザレルがあたしを操るために与えただけの幻影なのよ。そんな姿で」
 嗚咽が上がる。しゃくりあげたような泣き声に、言葉が混じった。
「貴方だけには逢いたくなかったって言う気持ちくらい、察してよ……」

 愛していたからこそ。
 愛しているからこそ。

 逢いたくなかった。

 ――その想いが、再度伝わってくる。
 けれどジークは、ただ強く抱きしめなおしただけだった。
「阿呆」
 もうその声は、震えていなかった。
「俺はお前がどんな姿でもかまわない。ただ、逢いたかっただけだ」


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