第九章:Eve's eye is skyblue――空の瞳を持つ少女


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 イヴが口にしたとおり、その場所はまさに『蒼水晶<クリスタル>の間』と呼ぶに相応しい雰囲気を持っていた。
 巨大な部屋。遺跡の奥だということも忘れてしまいそうなほどに、広い。天井も高く、つまりはかなり地下にあるのかもしれない。
 その部屋全体が、薄蒼に光っている。良質とされる高価なラストリー帝国産の宝石を持ってしても、これほどまでの輝きは得られないだろう。輝きのおおもとはカットの仕方だが、それとて人間の手で施すには無理があるほどの煌き。
 ゲイルが浮かべた魔導の灯火が、部屋全体に反射し、光が乱舞する。
「ジーク、もういいよ。いいかげん降ろして」
 若干頬が赤くなりながら――幾らなんでも恥ずかしかったのだ――エリスはぱたぱたとジークの頭を叩いた。ジークが素直にエリスを降ろす。
 足の裏に伝わる感触が、土でも石でもなくつるりとしたどこか異質なもので、エリスは転ばないように気を引き締めた。
「大丈夫か?」
「体、重い。けど、やるしかないでしょ」
「エリス……」
 疲労はそうすぐには回復しない。実際、立っているだけで視界が揺らぎ、足が棒になっているような有り様だ。頭痛もする。だが、労りとも呆れとも取れるジークの声を無視して、エリスは歩き始めた。
 蒼竜は、すぐそこにいる。
 その者に逢えば、エリスの能力は強まるという。強まって欲しいと願っているわけでもないが、強まることで助ける為の力となるのなら、それは歓迎するところだ。
 力がつけば、助けられる。
 アンジェラに逢える。
 そして、四竜全てに逢ってもエリス自身でいられるのなら、彼との約束も果たせる。
 その為に、逢うのなら。
 今現在感じている疲労など、取るに足りないものだった。
 流れ落ちる汗を拭い、半ば足を引き摺るような状態で歩く。拭いきれなかった汗が零れ落ち、クリスタルの床に跳ねた。
 幾ばくかも行かないうちに目に飛び込んできたのは、王者の姿だった。
 高い天井に向かって伸びる、水晶の柱が五つ。ちょうど五芒星の形に立っている。その中央に座しているものがいた。

 その体は巨躯なれど。
 気高き蒼の色褪せぬ。
 その口、炎を吐き出して。
 その角、稲妻呼ぶとせて。
 その鱗、剣をもはじき。
 その翼で天駆けぬ。
 海と空とをその身に宿し、
 気高き老竜、
 名をファイディ――

 ふいにミユナが呟いたその詩に、エリスは聞き覚えがあった。一瞬だけ目を閉じて思い返す。二年程前、セイドゥール・シティのアグライア・カンポ(輝き乙女の広場)で聴いた、吟遊詩人が謳っていたそれだ。
 街にやってくる吟遊詩人やら、移動サーカスやら、移動劇団やらを観にいくのが、エリスは元々好きだった。確かあの時は、アンジェラとパズーとカイリ――街にいた数少ない友人たちと連れ立って観にいった。
 旧き英雄たちの賛歌。そして、伝説の四竜を湛える詩。
 それを、目を輝かせながら見ていたあのころは、まさか自分がその竜の前に立つとは思ってもいなかった。
 だけど今、それは確かに目の前にある。
 ここからでは、巨大すぎるその体の全貌を、一度に視界に収めることも出来ない。硬い鱗はクリスタルの光に反射している。美しく、気高き竜。
 その圧倒的なまでの威圧感に、知らずに息が詰まった。その竜が――ゆっくりと瞳を開けた。
 皆が一様に構えるのを、エリスは制した。
 一歩足を踏み出し、蒼竜の視線を正面から受け止める。
「エリスちゃ」
「あたしにやらせて」
 ゲイルの戸惑いが滲んだ声を、遮る。
「これは、約束だから」
 彼との。
 最後まで口にせずとも、ゲイルには判ったのだろう。それ以上彼は何も言ってこなかった。
 蒼き竜が口を開けた。
 轟と言う音と共に、その口から炎が吐き出される。
 火炎は直線でエリスに向かってきた。熱気が肌を焼く。が、慌てることもなく、横によけた。後ろにいたゲイルたちも、無論無事だ。
 炎が自らの横をすぎた瞬間、エリスはクリスタルの床を蹴っていた。返って来る感触は、何故か硬くも柔らかくもない。
 竜が翼を大きく広げた。今度は風が吹き付ける。バンダナが後ろに飛ばされ、エリスの小さな体も転がりそうになる――が、後ろでゲイルが何かを叫んだ瞬間、風が上空に吹き上がり、衝撃が薄くなった。蒼竜に肉薄する。蒼竜が、再度口を開けた。今度は炎ではなく、勢い良く水流が吹き付けてくる。避けきれなかった水は、凶器となってエリスの肌を裂いた。だが、理解る。勢いは随分弱まっていた。それが、ミユナが水の精霊に干渉したからだと気付いたのは後になってからではあったが。
 目を凝らし、そして瞬時に発見する。
 クリスタルの五紡星の間から伸びる、一筋の赤い糸。
 もう何も、迷うことなどなかった。剣を引き抜き、握り締める。自らの能力が何かと問われても、今のエリスに答える術はない。だが、それでも感覚的に理解ってはいた。
 その赤い糸は、誰にも見えない。エリスにしか。そして、その赤い糸を切るのは、自分の役目だと。
 竜の牙が、エリスの二の腕に食い込もうとした瞬間、彼女はその糸を断ち切っていた。
 蒼竜は雄叫びをあげ、くず折れる。エリス自身もクリスタルの床に体を放り投げられた。頬に来る感触は、冷たくも温くもなく、違和感としか表せないものだった。
「……」
 度重なる身体の酷使に、体が上げる悲鳴はすでに限界点を越していた。締め付けられる胸の痛みに、心臓が軋む。肺が縮こまり、筋肉が痙攣する。噴出したものが、ただの汗なのか、それとも冷や汗なのか、判別もつかない。肌が粟立ち、関節が泣いた。
 荒い息の間に、割り込む声がする。それがゲイルだと気付き、閉じていたまぶたを持ち上げた。
「エリスちゃん、いくらなんでも無茶しすぎだよ」
 くしゃくしゃに歪んだゲイルの顔に、微苦笑を返す。そのエリスの上体を起こすため、ゲイルは手を貸してくれた。
 床に座り込んだまま、ゲイルに体重を預け、何とか上体だけは起こす。それでも、その真紅の両の目から、力は失われてはいなかった。
 肩で息をしながら、エリスは蒼竜を見据える。
 翼を畳みくず折れていた蒼竜が、ゆっくりと身を起こした。閉じられていたまぶたが開かれ、やはり蒼い瞳が覗く。
 声が、響いた。
『――人の子よ』
「……お気付きに、なられましたか」
 背後から、歩み寄りながらの声がした。ミユナだ。
 蒼竜が一瞬沈黙する。それは、肯定の仕草だったようだ。
『ああ。迷惑をかけたようだ。すまなかった』
 今までのどの四竜より、その声は威厳に満ち、重みがある。エリスたちにすれば、竜の年齢など判るはずもないが、その声音が年輪を重ねたものだと言うことは、なんとなくではあったが理解できた。
 その佇まいも、威風堂々たるもの。
『わしは蒼竜――老いぼれてはおるが、四竜が一、蒼竜。名をファイディと申す』
 その竜の声の間に、今度はジークも歩いてくる。振り返るほどの気力はなかったが、気配でそれを察したまま、エリスは蒼竜に据えた視線を動かすことはなかった。
 そのエリスたちを順に見据え、蒼竜が口を開いた。
『時に、人の子よ。わしを意識の呪縛から解き放ってくれたのは、おぬしらか?』
「おあいにくだが――」
 ジークが苦虫を噛み潰したかのような声音で答えた。
「おぬしら、ではなく、この赤くてちんまいお嬢ちゃん一人、だな。俺等は何もしてねぇよ。――ところで、爺さんよ」
「ばっ……! ジークお前、蒼竜相手に……!?」
 ジークのぞんざいな口調に、ミユナが慌てた声をあげた。こういった事にこだわりが全くなさそうなジークと、やはり礼儀と言うものを決定的に叩き込まれているであろうミユナの差だろう。あるいは、四竜を守護聖獣として崇めていたグレイージュの人間だから、ということもあるのだろうが。
 しかしそのミユナに、蒼竜は快濶な笑いをあげた。
『構うことはない。どちらにせよ、意識の呪縛を解いてくれた恩もある。――それで、なんじゃ、坊や?』
 竜の鱗は硬く、それこそ顔色云々だの、表情の細かな機微だの判るはずもないのだが、エリスにはその蒼竜が皮肉な笑みを浮かべたように見えた。エリスだけではなく、ジークも同じようだ。背後で苦いうめきがあがる。
「食えねぇ爺ぃだな……」
『竜を食ろうたところで、不死にはなれんぞ。それで、何か聞きたいことがあるのじゃろう?』
 のらりくらりとジークの言葉を交わし、蒼竜が訊ねる。ジークが後ろで息を吸うのが判ったが、その前にミユナが口火を奪った。
「お尋ねします。まず、一つ。この島の異常事態には、貴方が何らかの関わりをお持ちなのでしょうか。蒼竜ファイディ様」
『眠りか』
 蒼竜が、片まぶたを閉じた。人間にすれば、ようするに顔をしかめた、ということなのだろう。
(……芸が細かい、というか。人間臭い竜だなぁ……)
 蒼竜を見上げながら、エリスはぼんやりそう思う。
 ミユナが肯定した。蒼竜は細く息を吐き出し――ため息、のつもりなのかもしれないが。その息だけでエリスの体は若干後方に押された――続ける。
『それは今この瞬間に解けているはずじゃ。わしの能力が止められていたせいだろう。特に影響下にあるこの島の人間たちには、すまないことをした』
「おじーちゃんの……能力って?」
 呼吸は未だ荒かったが、エリスの口からは自然とその言葉が漏れていた。ゲイルが、喋るなと言うように肩にかけた手に力をこめてきたが、気付かないふりをする。
 蒼竜が、笑むように目を細めた。
『わしの能力は、水。そして、未来を司る――そう聞いてはおらぬか? そなたたちは、他の竜に逢ってきたのだろう』
 エリスは頷いた。
「でも、具体的には、判らないです。未来って、何ですか」
 途切れ途切れの言葉に、蒼竜は深く頷いた。
 両の翼を広げ、大仰な仕草で告げる。
『わしの能力。それは――おぬしらを、導くことじゃ』
「え……?」
 全くもって予期していなかった言葉に、エリスは目を瞬かせた。
(……みちび、く?)
 頭上に浮かんだ疑問符を読み取ったのだろう。蒼竜が言う。
『ルナ大陸における、四竜。白竜、赤竜、黒竜、そして蒼竜。これら全てに認められし者を、人は『英雄』やら『勇者』やらと呼ぶ。四竜に認められし者、それすなわち、女神に認められし者になる。わしら四竜は、神々の下で、人間たちを見つめつづける存在だからな。――まぁ、呼称は何でもよいのじゃが』
 そこで言葉を切ると、蒼竜は首を伸ばし、エリスの眼前に顔を寄せた。視界いっぱいに蒼の瞳が広がり、吐息が前髪を揺らす。本能的な恐怖に、エリスの体は一瞬硬直した。が、それを知ってか知らずか、蒼竜はすぐに首を引っ込めると、そのままの調子で続けた。
『その者たちを、未来へと導く。その手伝いをする――それが、わしの能力じゃよ。赤くてちんまいお嬢ちゃん?』
 その赤くてちんまいお嬢ちゃんであるエリスは、呆然と目を瞬かせるしかなかった。


「釈然としねぇな」
 不機嫌な口調で沈黙を遮ったのは、ジークだった。ゆっくりと歩を進め、エリスの隣に来る。そこで足を止めると、腕を組んで息を吐いた。
「能力なんて言うから、俺はてっきり未来が見えるのだと思ってたぞ。これだと、アンジェラのお嬢ちゃんのほうが数千倍役に立つんじゃねえのか。爺さんよ」
 何故か喧嘩腰になるジークに、蒼竜はあっさりと翼の付け根を持ち上げた。肩を竦めた、のだろう。
『見えるよ。だがな、見せてはならん。この未来は今現在の未来じゃ。時は常に移ろう。そして、それによって未来は常に変動する。確実不変な未来なんて存在しないのじゃよ』
 その言葉に、エリスは目を見開いた。
「で、も。アンジェラの先見が外れたことはない――」
『一瞬先は、の。未来と一口に言ったところで、時は瞬間の積み重ねじゃ。瞬間と瞬間の間は、そうすぐには変わらん。だからこそ、的中率は高まる。だが、わしが見る未来は常に移り変わる。子供たちが見える。高い建物が見える。だがそれらは、すぐに次の映像にとって変わる。瞬間の積み重ねは、一つどこかで歯車が狂えば、大きく未来は変わる。だからこそ、瞬間とて、確実不変ではない。決まった未来はないのだよ』
 蒼竜はそこで言葉を切ると、ふと笑みを浮かべた。破顔一笑。
『未来は常に作り上げるもの。人間よ、そなたたち自身がな。わしはその手伝いをするだけじゃ』
「……」
『さて、改めて問おう。人間の幼き子たちよ。汝等の、築き上げたい未来は? 汝等は、何を望む?』
「あたしは」
 真っ先に口を開いたのは、ミユナだった。焦燥が募る表情で足を踏み出す。
「あたしは、両親の死についての真実が知りたいです。何らかの原因にラボが関わっているのなら、それを許してはおけない」
「おれは……家族を、救いたいです。兄と、弟と、妹たちを」
 ミユナの言葉尻にかぶさるようにそう言ったのは、ゲイルだった。兄――がドゥールを指す単語だと、すぐに気づく。彼に刺された腹部を撫でながら、エリスはまぶたを強く閉じた。
 その仕草に気づかなかったのだろう。ゲイルは、そのまま続けた。
「それから……ラボを、潰したく思います」
『ふむ』
 蒼竜が頷いた。視線を二人から外すとエリスに据える。
『赤き少女よ。そなたは、何を望む』
「あの……ジーク、は」
 彼が勘定に入らないのは、赤竜に逢っていないからだ。それは判っていたが、エリスは堪らずそう口にしていた。だが、すぐに苦笑の横顔が返って来る。
「俺のことはいい」
「でも」
「俺の望みは、どっちにしろ『未来』には続かんよ」
(イヴさん……?)
 彼女の未来は、すでに途切れている。だとすれば、それはジークの言う通りなのだろう。もう一つ彼に目的があるとすれば、ラボを潰すことだろうが、それはゲイルが先に口にしている。
「いいから、お前の望みをいえよ、お嬢ちゃん」
「……あたしは」
 ジークに促され、エリスは顎を上げた。
 浮かぶのは、アメジストの瞳。少し鼻にかかった甘ったるい声音。その声が紡ぐ悪態とわがまま。彼女が好んでつけていたコロンの香り。おそろいのピアス。そう言った全て。
 当たり前に、あった、そう言った全て。
 だけど今では、かけがえのない望みになった、それ。
 そしてポケットの中に眠る、約束。今は亡き少年の言葉。
 その為に、エリスは声をはった。
「――フォルム共和国のラボへ」
 息はまだ荒かったが、声は凛と響いた。
「アザレルを倒したい。あたし自身の力が何かを見極めたいのです。ルナが何を望んでいるのか、それは判りません。ですが、とにもかくにも、ラボを潰さなければ始まりませんから。それから……救いたい人がいます」
 ふと、言葉を切って、エリスはジークを見上げた。
「――アンジェラ。あたしの親友と……それから、イヴさんを」
 ジークの視線が、驚きの色に変わったのを肌で感じた。蒼竜が、言葉を選ぶように告げる。
『すでに未来が途切れているものを救うことは、叶わんぞ』
「生き返らせるって、訳じゃなくて。じゃあどういう、って言われても、困るんですけど。ただ、今のままじゃあんまりだから。未来が、途切れていても、それでも、あたしたちに出来る全てをしたい」
 無言のまま――ジークがこちらの頭を撫でてきた。乱暴な右手が、それでも温かいと感じる。
 蒼竜が、再度微笑んだ。
『了解した。それでは、向かおうか。フォルム共和国のラボへ。先に外に出ているがいい』


 結局、立ち上がることが出来なかったエリスは、今度はゲイルに背負われた状態で遺跡を出ることになった。先頭をジークが務め、やはり最後尾をミユナが務める。
 行きと同じ道を進み、前方に今度は外の光が見える。
 ミユナは、先を行く背中から視線を落とし、爪先を見た。
(……真実。それを知って、あたしはどうするつもりなんだろうか)
 それは、彼女がつい最近もち始めた疑問だった。今まではただがむしゃらに、真実を知りたかった。知らないままでいるのは両親への冒涜とさえ感じていたからだ。
 だが――知って、どうなるものでもない。それもまた事実だった。
 生きていて欲しいと思う。遺骨がないのなら、その可能性も確かにあるのだ。
 だが、ラボのこと。そして、アザレルの言葉が過去形だったこと――それらを総合して考えると、その望みすら薄れざるを得ない。
 病弱な姉を国に置いてきたまま、薄い望みに賭けていて良いのだろうかと思う。
 知ったところで何も変ることのないそれを、今更ながらに追いつづける意味があるのだろうかとさえ、思う。
 無論それは、誰にも言っていないことだった。
 ミユナが知る限り、このメンバーはゆとりやら余裕やらと言ったものが欠如している。そこに、他者の事情を割り込ませる意味がないのをミユナは判っていた。
「……と」
 思慮に耽っていたためか、ふと顔を上げると、エリスを背負ったゲイルとの距離がだいぶ開いていた。慌てて歩くスピードを上げようとする。
 その時、背後で気配が生まれた。
「……!」
 気配に振り返り、警告の声を上げようと息を吸ったミユナは、そのままその息を呑みこむ羽目になった。
 アザレルがいると思ったのだ。
 だが、違った。
 そこにいたのは男だった。
 長身でありながら、やや細身。長い黒髪と、無機質な表情。良く目を凝らせば、左右の目の色が僅かながらに違うのが判る。
「おま――」
 そこにいたのは、ドゥールだった。
 色のない顔に、僅かながら焦燥が浮かんでいる。ミユナはそれを見止めた次の瞬間、咄嗟に彼の腕をとって壁の陰にその体を打ちつけた。
 抵抗もなく、ドゥールの体が壁に打ち付けられる。ぐったりとうな垂れるように、その首が落ちる。
 急激に血が顔に昇るのを自覚しながら、ミユナはドゥールの肩を揺さぶった。
「何やってんだよ、お前!」
 叫ぶその声は、彼女自身知らぬ間に小声になっていた。
「お前、自分の立場を判ってんのか――エリスたちに見つかったら、言い訳きかねえぞ!?」
 言いながら、ちらりと視線を先に投じる。エリスを背負ったゲイルの背は、すでに光の中にまぎれて見えなくなっていた。外へ出たのだろう。それを確認し、すぐに視線をドゥールへと合わせる。
 元々、色が良いとは思えない顔は、なおさら青褪めて見えた。
 俯いた顔のまま、ドゥールがうめきに似た弱々しい声を漏らす。
「判っている」
「判ってねぇよ! だったら、何で今更……っ」
「聞きたいことが、あった」
 弱々しいながらも、そうドゥールは断言した。顔が上げられる。しかし、その顔に浮かぶ表情に、ミユナは動けなくなる。道に迷った幼子のような、戸惑いが浮かぶその顔に。
「なん……だ?」
「アーロンとケイレブは」
 その単語にミユナの背が固まる。それを見たドゥールが、再度視線を落とした。
「……ゲイルが殺したのか。何故……」
「殺したんじゃない。救ったんだ」
 泣き出しそうなその男の頭に、ミユナは気づくと手をかけていた。ドゥールの体が、一瞬震える。その髪を、撫でる。
「そうせざるを得ない状況に、アザレルがしたんだ」
「……」
 ドゥールの震える手が、ミユナの服のすそを掴んだ。
「俺は――」
 彼が何かを言いかけた瞬間、遺跡内に声が響いた。
「ミユナ?」
 ジークだ。
 ドゥールが弾かれたように顔を上げる。ミユナはドゥールの手を一瞬だけ握ると、その背を強く押した。小声で、叫ぶ。
「早く行け!」
「ミ……」
「言わねぇから!」
 揺れる黒瞳を見据えて、ミユナは告げた。
「ここでお前に逢ったことは、誰にも言わないから。だから、早く行け」
「……」
 動かないのか、動けないのか――どちらにせよ立ち尽くすドゥールの背を、ミユナは再度強く押した。
「早く!」
 次の瞬間、ようやくドゥールが身を翻した。遺跡の奥へと走り出す。黒い背中が、小さくなっていく。
「ミユナ」
「ここにいる! ちと転んだだけだ」
 ジークの声に、ミユナは駆け寄った。背後を気取られぬように、早足で近付く、ジークの腕をとる。
「転んだぁ?」
「すべったんだよ。あたしも疲労が足にきてんのかも」
 訝しげな声を上げるジークを、言葉で黙らせる。若干顔をしかめたジークは、それでも何も言わずに歩みを再開した。外に向かって歩き出す。
 それを見ながら、ミユナは鼓動が早まっているのを感じていた。
 咄嗟の行動だった。考えもなかった。だが、判らない。何故、あんな行動をしたのか。これでまた、自分は隠し事を持つ。ともすれば、裏切り行為になりかねない隠し事だ。それは、エリスが刺されたあの時に後悔した筈なのに。
 それなのに。
(……どうかしてる)
 ミユナはきつく唇をかんだ。握った拳を、遺跡の壁に叩きつける。怪訝そうに振り返ったジークに、なんでもないと首を振る。
 外に出ると、それはすぐに見えた。
「ミユナ、はやく!」
 エリスの声に、ミユナの胸が痛んだ。それを押し込め、笑顔を浮かべる。駆け足で、ゲイルに背負われたままのエリスに近付く。
「見て! 乗せてくれるんだって!」
 エリスが向けた指の先には、蒼穹の中で飛ぶ竜の姿があった。
 その竜が、こちらに向かってくる。
(あたしは、馬鹿だな)
 飛来する竜を見上げたまま、ミユナは独りごちた。
 向かってくる竜の姿は、さながらそこだけ、青空が一筋の線となり、落ちてくるかのようだった。


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