第十章:The message from the past――過去からの言葉


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 研究施設内には、ドゥールが立ち入ることは許されていない場所が多々ある。
 今までなら取り立ててその禁を犯すこともなかった。犯す必要性を覚えなかったからだ。
 だが、その日初めて彼は禁を犯した。
 施設には、一般研究施設側と、アザレルのみが出入りをしている施設塔がある。
 施設塔への入り方は判らなかった。
 だが、ドゥールは一般研究施設内のアザレルの自室にいた。
 なぜか質素な木造りの机。そのあいた引出しを見つめる。
 細かい細工の施された、銀細工の小さな鍵があった。
 それを握り、ドゥールは一度息を止めた。
 視界にちらつく光。
 呼吸を整え、顔を上げる。
 彼は一つだけ頷くと、その部屋を駆け出した。


 空が滑り落ちてくる。
 全く事情を知らない人間が唐突にその光景を見たら、恐らくそんな感想を抱いたことだろう。
 青空を割り、一匹の竜が降りてくる。
 煉瓦造りの道に、蒼い竜の姿。ルナ大陸史をあさったところで、過去にこのような風景があったことはないだろう。しかしながら、それは確かに煉瓦造りの道上に降り立った。
 その巨体からは想像もつかないほどに、ふわりとまるで音もなく――だ。一種の幻想か夢のような光景。
 蒼い竜は煉瓦造りの道に足を下ろすと、ゆるりとその首をもたげた。
 その一角は、街中でも少し郊外にあたり開けている。人の手が入っていないであろう森も奥に見え、街並みはまだ夕刻に近付いたばかりだというのに、人の気もない。
 ただ、開けたその一角にあるのは巨大な敷地だ。煉瓦造りの道が続く先には、わざとらしいとさえ言えるほどの整った前庭。季節の花が艶やかな色を見せている。その前庭の奥には、コの字型の巨大な建物がある。漆喰の白壁に角張った箱のような外観。敷地のさらに置くには芸術品のような尖塔が見えた。
『ほら、着いたぞ。おぬしらの希望の場所――』
 蒼竜ファイディの言葉が終わらぬうちに、エリスはその背から飛び降りていた。
 瞬間、激痛が全身を貫き、エリスは思わずその場にくず折れた。
「こらっ、エリスちゃん!」
 ゲイルが叫びながら竜の背を滑り降りてくる。ファイディが深々とため息をついた。
『人の子よ。あまり無茶をするな』
「……ちょっとぐらい、する」
 煉瓦の地面に爪を立て、体を起こす。腕に力を込めたとたん、右肩に走る激痛に悲鳴を飲み込む。
(骨……?)
 その痛みには覚えがあった。幾度か経験した痛みは、骨折か、ひびか――といったところだろう。アザレルとの戦闘の時、無理に剣を引き寄せたのが悪かったと見えた。戦闘中の剣は、操り方をひとつ間違えれば、自らにダメージを与えるものになる。衝撃に耐えられず、右肩がやられたのかもしれない。
 腹部の傷とて全快ではなく、細かい打撲や切り傷に至っては数えたくもないほどだろう。ジークに絞められた首も、実の所まだ痛みが残っている。疲労は言うまでもない。
「満身創痍赤小娘、ちっとじゃねえだろそれは」
 呆れたようなジークの声に、唇を噛む。
 すぐそこに、手をのばせば届くかもしれない位置にアンジェラがいるのに、体が言うことを聞いてくれないもどかしさ。悔しさ。焦燥感。胸の痛みが、視界を滲ませる。
「いいかげん――」
 ジークの嘆息が混じった声が降って来る。と、グローブに包まれた手が目の前に差し出された。その手にそって、視線を上げる。ワイン色の瞳が、苦笑を湛えていた。
「独りでなんでもかんでもしようとするな。俺たちだって、肩ぐらいは貸してやれるんだから」
「……独りで、立たなきゃ」
 ジークを見上げて、呟く。
「独りで立てなきゃ、何も出来なくなる。今だってそうだ。アンジェラがいないから、あたしこんなで、そんなの、いやだ。ちゃんと、立って、そうでないと――」
「それは理想だが、目の前の目的を達成するためには理想は引き伸ばしにしてもいいだろ。何でも使え。卑怯だろうとなんだろうと、何でもな。立つ為に敵の足に手をかけてもいい、ぐらいの勢いでいろ。今はお前はそれでちょうどいい。使える俺たちだっているんだから、使えるものはくそでも使え」
 まるで子を説得させるような口調に、エリスは唇を引き締め、それからやや躊躇って頷いた。
 それでいい、とばかりにジークが笑う。その手を借りて、なんとか立ち上がる。
 ふらついたエリスを、反対側からゲイルが支えた。
 視線を上げる。
 ゲイルが苦笑を浮かべた。
「帰って来たな」
「吐き気がするほど懐かしい」
 ゲイルの声に、ジークが肩を竦めた。ミユナが背後からゆっくりと近付いてきた。
 建物を見上げ、呟く。
「いるかな、あいつら」
「いるよ」
 エリスは即答した。
「アンジェラ、絶対に、いる」
「――イヴも。……ドゥールも、な」
 ミユナの囁きに、ゲイルが僅かに視線を揺るがせたのが判った。ジークに、怒りの気が増すのも、だ。だがエリスは不思議とその単語で落ち着いた。ゆっくりと呼吸をし、足を踏み出す。
『気をつけるんじゃぞ』
 背後からのファイディの言葉に、エリスは無言の肯定を示した。


 白い部屋には変わりない。
 場所は移っても、その無機質さだけは変わらない。ただ救いがあるとすれば、新しい白い部屋には窓があったということだろう。
 アザレルに部屋から連れ出され、イヴと二人別室へと移されたアンジェラは、その中でイヴの話に耳を傾けていた。
 とはいえ、彼女の話はそう長くは続かず、すぐに沈黙が落ちる。
 窓の外に視線を投じた。日に焼けるのは嫌いだが、日光に当たらなければ腐る。そう思う。髪を弄り、アンジェラは静かに嘆息した。
 夕暮れに近い西の空は、赤みを帯びてピンクの雲が流れ始めている。もう少し立てば、空は完全に赤い色に転じるだろう。
 エリスと同じ色に。
 再度漏れかけたため息を飲み込み、ソファから立ち上がる。無駄にスプリングの利いたソファは、好きになれない。実家を思い出すから――だ。
 窓から下を見、アンジェラは思わず息を呑んだ。
 絵画のような、作り物めいた前庭に鎮座する蒼い竜――そして。
 ゆっくりと歩を進める、赤い少女の姿。
「――エリス!」
 思わず叫んだその声に、隠し切れない歓喜の色が滲んでいた。
 その声に、イヴが顔を上げた。走りよってくる彼女のために、見る位置をあけてやる。
 彼女の顔に、表現しようのない泣き笑いのようなものが浮かんだ。赤い少女の隣を歩く、大男の姿を見つけたのだ。
「ジーク……」
 アンジェラは一つ深呼吸すると、イヴの手を握った。
 温度がない。が、特に冷たいわけでもない。ただ、返って来る感触は確かにある。
 アンジェラはイヴの手を握り、囁いた。
「逃げるわよ」
「え……?」
 呆然とした声をあげるイヴに、アンジェラは肩を竦める。
「私は自分から動かないままいるのなんて、絶対にごめんだから。すぐそこに、エリスがいるんだから」
「……そうね」
 イヴが、にやりと笑みを浮かべた。
 頷きあい、鍵が閉められた扉に向かう。魔導は使えないのかもしれないが、試すだけ試せばいい。無理なら、力づくだ。女とはいえ、二人がかりなら、きっかけくらいはつかめるかもしれない。それでも無理なら、窓からでもなんでもかまわない。
 二人が扉に向かって歩を進めた、その時だった。
 荒々しい音を立てて、扉が内側に開かれた。
 現れた人物を見て、二人は息を呑む。


 前庭を抜け、白い建物に足を踏み入れたとたん、違和感を覚える。
 生活の匂いの全くしない、開けた空間。入り口すぐの目の前には、遮る物が何もない空間が広がっていた。天井も高く、吊り下げられたシャンデリアは、作りこそ質素ではあるが高価なものには違いない。壁際には機械時計もあり、壁にかけられた絵画は、最近上流階級の間でも人気の印象派の油絵だ。
 その少し奥に、やはり白い台が、細く横に伸びている。受け付けのようなその台の上には、硝子製の花瓶――このご時世、そんなものをわざわざ飾るのは、よほどの成金趣味ではある。活けられた花が、作り物のような煌きを見せていた。
「ようこそ、魔導技術開発研究所へ。ご用件は?」
 そう言って微笑んだのは、二十代後半ほどと見て取れる女性だった。待合室のような空間に、これほどまでにないほど溶け込んだ微笑は、やはり白い。カウンターの向こうからのあまりの異質感に、エリスはたじろいでその場で足を止めた。
「……なに?」
「一般受付だからね、こっちは」
 ゲイルが苦笑をして、すたすたと左側に歩き始める。受付にいたその女性は、ゲイルのその行動を見ても何も言わなかった。エリスたちも、慌てて付いていく。
 その空間を抜け、左の奥にある扉。ゲイルが手荷物から出した鍵でそこを開けると、またすぐに廊下が伸びている。材質があまりよく判らない白い床は、靴音を良く響かせた。
 ジークに支えられ、進んでいく。鼻を突く微妙な異臭に顔をしかめるが、それを感じているのはエリスだけのようだ。元から五感は、人並み以上に鋭いせいもあるのだろう。
 その白い廊下を抜け、幾度か曲がる。誰ともすれ違わない、奇妙な違和感。
 やがて道が終えると、再び目の前に扉が現れる。
 ゲイルが足を止め、微苦笑を浮かべた。
「こっちが、家。居住区だね」
「……うん」
 頷くと、ゲイルは扉を開けた。


 扉を開けてすぐ、二段だけ下りる階段があった。
 そして、リビングが広がっている。
 それはまるきり生活臭にあふれた、一軒家の装いだった。
 そして――そこにいた子供が二人、目を丸くして、それから叫んだ。
「ゲイル兄!」
「おにいちゃん!」
 少女と少年がひとりづつ、転がるようにゲイルに飛びついてきた。ゲイルが膝をついて二人を抱きしめる。
「アグネス、ヒセキア……」
 その声に、愛しさが滲み出ている。どうしようもないほどの、愛情。
 少女のふわふわの毛を撫でていたゲイルは、ふと瞳をゆがめた。
「ドゥールは、どこかな」
「ドゥール兄なら、さっきまでいたよ? 研究施設のほうに行ったけど、どうして?」
「いや。それなら、いいんだ」
 ゲイルは首を振り、二人を放した。少年のほうがぱたぱた遠くへ走っていく。――奥に続く扉を開けて、何かを叫んだ。恐らくは、ゲイルが帰って来た事を報告に行ったのだろう。
「騒がしい上に、汚くてごめん」
 苦笑を浮かべるゲイルに、エリスは首を振った。
「そんなのは、いいよ。ただ……」
「アンジェラちゃんは、施設側だと思う。少しおれが探ってからのほうが、動きやすいから。少しだけ我慢してくれないか。もしかしたら、そのうちドゥールも戻ってくるかもしれない。そうしたら、聞けばいい」
 ゲイルの言葉に、エリスはしぶしぶながら頷く。
 その瞬間、はじけるような騒々しさを伴って、奥の扉が開かれた。
「ゲイル!」
「兄ちゃん!」
 口々に叫びながら、子供たちが飛び出してくる。子供たち――といったところで、下はほんの幼子から、上はエリスたちとほぼ同い年、といったところで、年齢もバラバラだ。
 しかしその騒々しさに、エリスは思わずたじろぐしかない。
(うわ……)
 家族、というものをエリスはあまり知らない。
 いなかったわけではないが、いなかったに等しい。父も母も、エリスには愛を注いではくれなかったし、実の所一年ほど、人の家に預けられたこともあったのだが――虐待の酷さに保護された、といったほうが正しかっただろうが――それはあくまでも、家族ごっこに過ぎないと思っていた。
 本当の家族のあたたかさを、エリスは知らない。
 だからこそ、目の前の光景はまぶしすぎた。
 だが、その感慨に浸る間などなかった。


 がしゃん――と派手な音が背後でした。
 想像しかったリビングも一瞬にして静まり返る。
 あわてて振り返ったエリスの目に飛び込んできたのは、床に倒れているミユナの姿だった。
「ミユナ!?」
 叫ぶ。
 あわててしゃがみ込むが、その瞬間、また全身を貫く痛みが襲ってくる。うめきを上げたエリスの横を過ぎ、ジークがミユナの肩に手を置いた。
「ミユナ。どうした」
「わる……なんでも、な」
「なんでもなくて倒れる阿呆がいるかボケ」
 蒼白に変じた色を見せるミユナの顔を覗き込み、ジークが舌打ちする。
 ミユナは弱々しく首を振り、泣きそうな声を漏らした。
「違うんだ」
「何がだ」
「精霊が」
 ぽそりと漏れた言葉に、エリスたちは思わず顔を見合わせる。
 ミユナの能力は、精霊との意思疎通だ。精霊はどこにでもある存在だからして、ここにもいて不思議ではない。だが、それが『見えて』通常であるミユナにとってすれば、どうと言うことでもないはずだ。
 ミユナはゆっくりと首を振った。
「精霊が、言うんだ。帰って来た――って。あの二人の子供が、って……」
「二人……?」
 エリスの言葉に、ミユナはいやいやをするように首を左右に振った。
「お父様とお母様が、ここにいらっしゃったんだ……」


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