第十章:The message from the past――過去からの言葉


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 ぬくもりに満ちた声だった。
『ミユナ』
 年輪を重ねた女性が持つ深く、あたたかい声音。エリスはその声にリディアという女性を思い出した。アンジェラの母親だ。おそらくは隣で手を繋ぐアンジェラも思い出したのだろう。繋がりあっている指に僅かに力がこもった。リディアが持つ声音と良く似ていた。それは『母親』特有のぬくもりに満ちた声音。
 銀の光が溶け、眩んだ目が再度視力を取り戻したとき、エリスの瞳に飛び込んできたのは色のない二人の人間だった。
 透明な人型が二つ、オーヴの上の虚空に浮いていた。
 色はない。けれど、誰が見てもすぐに判っただろう。その流れるような目元も、人形のように整った唇も、流麗な鼻筋も、全てがミユナに酷似しすぎている女性。ミユナがこのまま歳をとれば、確実にこうなるであろうと想像つく姿。年月を経たミユナそのままのような女性。
 その隣で、彼女の肩を抱くように立つ一人の男性。こちらも色はない。流れるようなストレートの髪を丁寧に整えている。少し垂れ気味の穏やかさを抱く瞳。その額に刻印された古代文字は、それだけで全てを悟らせるに充分だった。
 エリスは動くことすら忘れ、ただその姿を凝視するしか出来なかった。
『ミユナ、レイスの言うことが本当なら、あんたはいつ、今の私たちに逢うことになっているんだろうね』
 女性が、どことなく寂しげな笑みを浮かべて言う。色のない微笑みに、けれど優しさだけは滲みあふれている。
『カーチャは元気かい? あんたも病気なんかしてないだろうね?』
 ――カーチャ、が意味するところをエリスは一瞬判断をつけられなかった。が、思い出す。ミユナの姉にして、現グレイージュ公国の女公爵エカテリーナの愛称だ。
 色のない彼女は一瞬、そこで言葉を切った。優しげな目元が僅かに伏せられる。
『あんたを育ててやれなかった母さんを、恨んでいるかい?』
 その彼女の肩を、隣にいた男性が優しく抱いた。
 その姿を見つめ、エリスは二人の名を思い出していた。教科書で幾度か目にした名前。十年前に馬車事故で亡くなったとされていた二人の名前。
 女公爵ナタリア・トーマ・フォン・グレイージュ。その夫、レイス・バルム・デュ・グレイージュ。
 男性が――レイスが、小さく微笑んだ。
『ミユナ。今お前はいくつになったんだろうか。私が最後に見たお前はまだ七つだった。アペルに叱られながら、いたずらをしでかしていたな』
 懐かしさに目を細め、レイスは続けた。
『それから、もう五年。今になってやっと、私はお前に真実を伝えるための装置を完成させた。……お前は、いつになってこれを見るのだろうか。――私とナターシャの命はもう直ぐ消える。願う事ならば、ミユナ』
 その声音が僅かに震えていた。
 限りない切望と、愛情と、けれど見える、絶望がない交ぜになり――震えていた。
『お前とカーチャにもう一度逢いたかった。……抱きしめてやりたかったよ』
「お父様……っ」
 押し殺した叫びが上がった。視線を二人から外すと、すぐに飛び込んできたのは二人を凝視しながら左右に首を振るミユナの姿だった。
 その頬に、雫が光っている。
 彼女は強く左右に首を振りながら、涙に濡れたうめきをあげていた。
「お父様……お母様! 恨んでなんかない、恨むはずなんてない! どうしっ……」
 嗚咽に詰まり、ミユナがその場にくず折れた。だがその両の目は涙に溢れながらも、閉じられることはなかった。強く光を湛え、切望に似た眼差しを、まるで虚空を捕らえようかというような強い眼差しを、二つの幻影に向けていた。
 その震える薄い肩を支えるものが居た。
(……ドゥール)
 エリスには何故かは判らなかった。距離的に近かった、ということもあるのだろうが、ドゥールが戸惑いを表したまま、不器用にその肩を支えていた。小刻みに左右に首を振るミユナには構わず、オーヴの上に浮かんだ二人の幻影は言葉を続けた。
『私は、オール・ノウズとしての能力で、お前がここに来ることを知った。いつになるかは判らない、だが確かに、お前が来ると、そう『判った』のだ。だから、私の持てるだけの知識を使ってこの装置を作った。お前に、この世界に、真実を伝えるために』
 レイスの言葉に、ナタリアが頷く。
『アザレルに、気をつけなさい。あれの真の目的はルナ大陸だけじゃない。世界全てを巻き込んだ計画なのよ』
(……?)
 疑念に眉根を寄せ、少しだけ視線をずらしてアザレルを見やる。だがエリスの真紅の目にうつるアザレルは、悠然とした笑みを浮かべているだけだ。
『アザレルの正体は、女神ルナの生み出した使者だ。ただし、月の者とは違いルナ自身が直接手を加えた存在。ルナのため、手足となり動くもの。死を司る存在。それは神から与えられた神技の片鱗だ。――そして目的は、アザレルの目的は、それそのものがルナの目的だ』
 ミユナの視線が揺れていた。餓えた子供が、ミルクを目の前にしたときのように、枯渇した思いが視線を揺らしている。だがその飢餓は、肉体的な飢餓ではない。真実に餓えたそれだ。真実がそこにある。それを欲し、揺れている視線だ。
『女神ルナの目的は』
 ナタリアの声に、皆の視線が彼女に向いた。エリスはそれを感じ、またつなぎあっているアンジェラの手に力が篭ったことも感じた。
 年輪を重ね、穏やかな微笑を浮かべる美しい女性が、だが僅かな陰りを言葉にのせて告げる。
『この世界を生み出した創造主――創造主ディスティに、対抗すること。神が、神に起こすクーデターみたいなもんだよ』
『そう。伝説を知っているな? 己が力を過信した女神セレネは、ディスティに謀反を働いた。――再び、それが起きようとしているのだよ』

 ――創造主ディスティに謀反を働き、名を取り上げられた愚かな女神、セレネ。それが、はぐれ月神ルナ。

 エリスの二の腕が、知らずに粟立った。だが、目の前の色のない二人は、静かな口調のまま続けている。
『アザレルが特殊能力者を集めているのもそれが理由よ。特殊能力者を操り、または特殊能力者の力を人間に植え付けることで、家臣となる――ルナのために動く手ごまを増やす。そのため、なのよ』
(手ごま)
 その言葉が、エリスの胸中に突き刺さった。
 手ごま。全てがそうだとしたら。
 エリスも、ゲイルたちも、アンジェラも。亡くなったゲイルの家族――ダリードたちも、ただのこまでしかなかったのだろうか。
 あの、出会いの星の下で聞いたように。ただのこまでしかないのだろうか。
 それを否定するために、四竜にあったというのに。待っていた答えは、それなのだろうか。
 ただ、こまとされ、ただ手ごまとされ彼は死んだのだろうか。アンジェラの手は、一度でも離れたのだろうか。
 つなぎあっている手が、震えて強く握り返してきた。爪が痛むほどに、強く。
 その細い指を強く握り、エリスの目は二人から外れることはなかった。
 ナタリアの哀しげな微笑が、ふいに揺らぎ始めた。空気中のちりが混じるように、ひび割れ始める。
 同じように、揺らぎ始めたレイスが、それでもやはり微笑んだ。
 限りない優しさを宿して。
『だから、気をつけてほしい。私は祈っている。お前の幸せを。お前たちの、幸せを。――私の、娘を、信じている』
 ひび割れが酷くなり始めた。砂塵が舞うように、二人の姿が揺らぎ、消えかける。
 悲鳴が上がった。
「お父様、お母様!」
 ひび割れたその声を合図にしたように、揺らぎが強くなった。耳障りな低い音を残し、二人の姿が掻き消える。

『ミユナ』
『……愛しているよ』

 ただ、愛しい娘の名を呼ぶその声だけが、最後に残り。
 そしてそれすらも溶け消え、その部屋には何も残らなかった。


 静けさに覆われた部屋の中で、誰も何も、話さなかった。
 呼吸ひとつ、堪えるかのような静寂の中で、鈍い音がした。ミユナがドゥールの腕を殴りつけた、その音だった。
「なんだよ……んだよ、これっ!」
「ミユ」
「なんなんだよこれ!」
 名を呼びかけたドゥールをにらみあげ、ミユナが言葉を叩きつけた。
「五年……五年だって? ってことは、なんだ。この部屋に、ここに、五年前にいたのか? お父様とお母様が、ここに? たった、五年前に!」
「おれが」
 ぽそりとした声がもれた。声の主に視線を合わせると、じっと床を見つめたままのゲイルだった。表情のない顔で、ぽつりぽつりと言葉を零している。
「おれが、創られたのも、そのためなんだな?」
「もちろん」
 そう答えたのは、柔らかな微笑だった。
「それ以外に、貴方が生きる意味などありませんよ、ゲイル。わたくしの研究の全てを通じて、作り上げた第一号ですよ。貴方はただそれだけのための存在です。もちろん、貴方だけではありませんけれど。くだらないこの世のために、馬鹿げた創造主のために、愛すべきルナ様のために、貴方は生まれたのですよ。わたくしの手によってね。貴方はわたくしの、かわいいお人形ですわ」
「イヴが死んだのも、そのためだってえのか!?」
 絶叫を上げたのはジークだった。蒼白した――実際には色は変わっていないのだろう。記憶でしかないのだから。だが、そう見える顔で立ち尽くしているイヴの肩をきつく抱きながら、ジークが言葉を殴るように叩きつける。
「わざわざ俺らの大陸まできて、部族の奴ら殺して、俺だけを攫うために――それも、手ごまにするためだってえのかよ!」
「今さらですわよ、ジーク。そんなこと、貴方ならとうに気付いていたと思いましたわ」
 アザレルは、それにすらただ微笑みで答えただけだった。
 すい、とその笑みがエリスに向けられた。反射的にアンジェラの手を強く握る。
 今になって、理解し始めていた。
 確かに女神は呼んでいたのだ。エリスを。ドゥールを。手ごまとなる存在を。エリス、ドゥール、ダリード。三人の月の者が関係を持ったとき、アンジェラたち魔女や特殊能力者、他大陸の能力者たちまでも巻き込んでいた。
 呼ばれていた。
 頭の中で確かにそう感じながら、エリスはアザレルを睨みつけた。
「なんで……こんなの見せたの。あんたは、見られないほうが良かったんじゃないの、アザレル」
「ご冗談を」
 エリスの言葉に、アザレルは肩を竦めた。
「これは真実ですから。時は満ちました。ルナ様がお呼びになってますよ、貴女方を」
「あたしはルナの手ごまなんかじゃない!」
「汝、月の子なり」
 静かな口調で継げられた『預言』に、エリスは動きを止めた。


 紅き月 天<ソラ>に架かりし刻
 証を持ちて生まれし者

 汝、月の子也り――


 ルナ神教で語り継がれる『預言』の言葉を呟いたアザレルは、その細い手を壁へと向けた。
「今宵の月が昇りました。今貴女は、二つの『証』をお持ちのはずです。ミス・エリス・マグナータ=月の者よ」
 ひとつは首にかけた自身の月の石。もうひとつはポケットにある、今はもう亡きダリードの月の石。
「全ては廻り始めました。この研究の塔――いいえ、女神の塔の最上部においでなさい、皆さん。あのお方がお待ちです」
 ルナ大陸を治めし、月と戦いの女神ルナが。
 だがエリスは、アザレルの言葉を振り払い叫んでいた。
「行かない!」
 アンジェラの手を強く握る。
「行くはずがない! あたしは、あたしたちは誰もルナの手ごまなんかじゃない! ダリードくんとそう約束したんだ。証明してみせるって言ったんだ。あたしたちが生きているのはルナのためなんかじゃない。あたしたちが生きてるのは、あたしたちのためだって!」
「愚かなこと」
 アザレルが、ふうと長い息を吐いた。
 その瞬間、ふいに手の平に感触がなくなる。心臓を冷水に浸けられたかのような思いで、エリスは隣を振り返った。
 なれたアメジストの瞳は、そこにはない。
「――アンジェラ!?」
「イヴッ」
 同じような悲鳴が上がり、視線をずらす。ジークの傍にいたはずのイヴの姿もそこにはなかった。
 目を見開き部屋中を見渡した。アザレルも、イヴも、アンジェラも、誰の姿もそこにはない。
 声だけが、響く。
『――これなら、来て頂けますか?』
「アザ……ッ」
『お待ちしております』
 微笑を含んだ声音の最後に、甲高い音が割り込んだ。
 見ると、ミユナがつい先ほどまで両親の姿を浮かび上がらせていたオーヴを剣で叩き割ったところだった。
 無機質な煌きが空中に舞う。
「ふざけんな……」
 ミユナのうめきに、エリスはほとんど無意識のうちに手のひらに力を込めた。だが、何も感触は返って来ない。
 いない。
 繋ぎあった手は、また、離れた。
 膝から力が抜け、くず折れそうになったエリスの腕を、ゲイルが支えた。
「エリスちゃん、行こう」
「ゲイル……」
「行くだろ」
 見据えてくる碧色の瞳を見上げ、エリスは唇を噛んだ。頷く。
「あたしたちは、手ごまなんかじゃないよ。そりゃ、確かにルナの目的はそれかもしれない。でも、違う。この力が、例えルナのための、ルナが作ったものだとしても、あたしは、あたしだ。関係ない」
 エリスは呟いた。視線を上げ、ゲイルを見上げる。
「あたしは、あたしの意思でここに来たんだ。ルナが呼んでたからじゃない。あたしの意思で、だ。アンジェラのために」
「判ってるよ」
「あたし、ダリードに言った事があるの。そう言ったことがある。あたしたち月の者の力が、例えルナが作ったものでも、ルナのためのものでも、それでも、ダリードくんの心と体は、ダリードくんのものだって。ダリードくんが思うように使っていいんだって」
「エリスちゃん」
 ゲイルが手をにぎってきた。アンジェラのように繊細な手ではなく、戦うものの荒れた手を握り返し、エリスは言った。
「四竜全てにあって、あたしの『力』は増幅したかもしれない。だけど、あたしはダリードと約束したから。あたしはダリードに応えたい。彼が信じてくれたように、あたし自身が生きているのは、ルナのためなんかじゃないって証明したい。だからあたしは、あたしの『力』はあたしのために使う。アンジェラと一緒にいるために使う」
「……ああ」
 頷いたゲイルは、一度だけゆっくりとエリスを抱いた。一瞬だけの抱擁の後、エリスは顔を上げる。
「皆も、そうだよね」
「おれ、ずっと力が疎ましかったんだ、エリスちゃん」
「ゲイル……?」
「だけど今は、ありがたいって思うよ。この力が、おれが創られたのだとしても、その力は守るために使える。……エリスちゃんを見習うよ。家族のために、力を使う」
 ゲイルが頷いた。
「俺は二度もイヴを失いたくないからな」
 ジークが応える。
「お父様とお母様は、あたしを信じると仰ってくださったから」
 ミユナが瞳に力を宿した。
 それを見届け、エリスはゆっくりと視線をドゥールに移した。
「俺は……」
 ドゥールが、か細い声で呟く。
「俺は、結局ルナのために動いていたようだ。家族のためだ、と、思って、結局はアザレルの――ルナの思惑通りに動いていた。判らない。手ごまだといわれても、そうだと肯定する自分が俺の中にいる」
「あたしたちを、売ったよね」
 彼に刺された腹部に鈍痛を覚えながら、エリスは静かに呟いた。
「売ったよね、ドゥール」
 ゆるく、ドゥールが頷く。
「今は?」
 エリスの問いに、ドゥールが顔を上げた。揺らぐ二つの瞳を――僅かに色の違う左右の瞳を見据え、エリスは訊ねた。
「今のあんたの『意思』は? 裏切るの? 手ごまになりたいの?」
 その質問に、ドゥールの瞳の揺らぎが止まった。真摯な色を湛え、こちらを見据えてくる。
「なりたくなどない」
「じゃあ、それでいいよ」
 短く息を吐き、エリスは右手をドゥールに差し出した。
 困惑した表情を一瞬見せるドゥールに告げる。
「全ての力の源は人の『想い』だって、赤竜は言っていたから。それでいい」
 ドゥールは一瞬だけ息を詰め、それからこちらの手を握り返してきた。
 彼と握手を交わしたのはこれが二度目だった。最初は、協定を交わしたときだ。ただしあの時は左手だった。形だけの、本来の意味をなさない握手。
 今度のは、利き手同士だった。武器を隠さないという本来の意味での握手を交わし、エリスは頷いた。
 次に握り合う手は、アンジェラの手でありたい。
 そう心に刻み込む。


「――行こう」


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