第十一章:To darling you――愛する者へ
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それは唯一の存在だった。
人ではなく、魔でもなく、神でもなく、また、神の使者でもなかったその少女を受け入れてくれる、唯一の存在だった。
彼女が唯一の存在である『彼』に出逢ったのは、十四のときだった。
そう、あの赤い少女と同じ歳だったころの話。
遠い昔の、話。
「オンリー!」
嬉しそうな声が飛び込んできた。その声自体に安らぎを覚え、彼女は振り返る。ひとつに結いだ栗色の髪がふわりと花の香を漂わせた。
隙間風が部屋を時折凍らせてしまいそうなほどに、古く汚い小さなアパート。
しかしそこは、少女が初めて手にした安らぎの場所だった。
「オンリー、パン手に入れたよ。おじさんが譲ってくれたんだ、食べよう」
汗と垢と煤とで真っ黒になった頬に、彼は満面の笑みを浮かべていた。綺麗とは言い難い、けれど生きる力に満ちたその顔が、少女はとても好きだった。
少女はこくりと頷いた。頷くだけで、声は出ない。その頃少女は言葉を紡ぐことが出来ないでいたのだ。
いつからそうなったのか、それとも初めから話せなかったのか、少女自身にも判らなかった。人と話す事など今までなかったから、必要性がなく、それ故に話すということができるかどうかすら判らなかったのだ。
「美味しいんだってさ、これ。あったかいうちに食べよう。あ、オンリー、お茶いれて?」
無邪気に言いながら、少年はてきぱきと動き始める。年齢は少女自身とさほど変わらない。早くに両親を亡くし、日払いの下働きを繰り返しながら生計を立てていると話してくれた。
この町について、行き倒れた少女を拾ってくれたのがこの少年だった。
少年は少女に、沢山の物をくれた。
食べ物を。安心して眠れる場所を。新しい――とはいっても、誰かのお古ではあったが少女が着ていたものよりは新しい――服を。
優しさを。ぬくもりを。微笑を。
そして、名前をくれた。
十四、五歳の少年が付けた、名前らしくはない名前。けれど何よりも、嬉しかった。
――君は、何で倒れていたの?
答えられなかったので首を横に振った。
――君は、魔女?
違うので首を横に振った。
――じゃあ、月の者?
それも違うので首を横に振った。
――特殊能力者、ではあるんだよね?
よく判らなかったので、黙って動かなかった。
少年は少し困った顔をした。
――君は、じゃあ、何でもないの?
頷いた。
他のどの存在でもない。死を呼び、死を操る存在。
――名前は?
持ち合わせていなかったので首を横に振った。
少年はまた少し困った顔をして、それから微笑んだ。
――じゃあ、僕がつけていい?
少女は驚きに目を開いて、少年を見つめるしか出来なかった。
――オンリー。君は他の誰でもない、君でしかない、ただ唯一の存在だから。
名前。
少女は驚きに、ただ立ち竦むだけだった。
栗色の目を見開き、ただ少年の黒瞳を見返すだけだった。
少年は、また少しだけ困った顔をして、首を傾げた。
――いや?
少女は強く首を横に振った。
少年が微笑む。
――じゃあ、オンリー。よろしくね。
文字も知らない少女は、彼に想いを伝える術を持ち合わせていない。
一番伝えたい言葉があったが、伝える術を知らなかった。
だから少女は、初めて笑った。
不器用にでは、あったけれど。
花がほころぶように、微笑みを咲かせた。
ただ唯一の。
その名前が、他の悪意に満ちた嘲笑とは違い、優しさをもって付けられたものだと判ったから。
ただ唯一の。
その名前をくれた少年こそが、少女にとってはただ唯一の、安らぎをくれた存在だった。
少女が少年と過ごしたのは、ほんの短い期間だった。
凍える冬が終わり、春が訪れるまでの短い期間。
二人は、その短い期間を大切に過ごした。
声も出すことが出来ない少女を、少年は受け入れた。
死を呼ぶ少女を、少年は優しく抱きしめた。
少女は少し怯えた。
少年を大切に思えば思うほど、死を呼ぶ自身の能力に怯えた。
少年はそれを笑った。
そんなものは追い払うと、そう笑った。
二人は、一秒を、一瞬を、逃さないように大切に過ごした。
少女にとって、初めての安らぎである少年。
しかし少年自身にとっても、それは安らぎだったのだ。
欠片でしかなく、使い捨てられるだけの自分を頼ってくれる存在。力に焦がれる年頃の少年にとってすれば、その少女はとても大切に思えたのだ。
少女には自分がいなければいけないと判っていたから。
その事実こそが、とても嬉しく思えたのだ。見上げてくる怯えた瞳が、笑みの形に歪んでいく様を見るのが、とても愛しかったのだ。
他人から見れば、二人は確かに幼かった。
けれどそれは、つたない恋愛より、何より、ずっと深い絆だった。
恋愛などと言う言葉では、軽すぎると思っていた。
二人は、ひとつなのだと判り始めていた。
欠片同士、二人でひとつなのだと。
小さなパンを分け合った。ひとつの皿からスープを飲んだ。夜は肌を擦り合わせて眠った。
凍える部屋の中で、人肌はとても温かかった。
とても、あたたかかった。
けれど。
終わりは、残酷なほどに唐突にやってくる。
その日少女は、家を出ていた。ごく簡単な下働き程度なら、少年のネットワークを使って紹介してもらえたからだ。その日は大衆食堂での皿洗いをして、ごく僅かな賃金を握り締め帰路についた。
帰路につくその足が速まり始めているのを自覚して、少女は疑念を抱かずにはいられなかった。足だけではなく、鼓動もだ。
何かを感じていた。それを何かと称する事は出来ずにはいたけれど、それはたしかに感じたのだ。
次第に駆け足になり、走っていた。小汚いアパートの扉を見つけ、乱暴に開く。
初めに飛び込んできたのは、白だった。
泣きたいほどに何もない、白色。
それが、いくつか。
その色が、そこに立っていた男たちの服の色だと理解するまでに数瞬を要した。
それは神官服だった。ルナ大陸で信仰されている宗教のひとつ、創造主ディスティを崇める創神教の神官が身につける服だった。
そしてその服の前面は、紅色に染まっていた。
動けなかった。
その紅色が示すものが何かを、少女はいやというほどによく知っていたから。
その白服が示すものが何かも、少女はいやというほどによく判っていたから。
その臭いが示すものが何かも、少女はいやというほどによく知りすぎていたから。
動けなかった。
――やはり、匿っていたか。
――愚かな小僧だな。素直に話しておけば……
――死を呼ぶ少女よ。
――我等、創造主ディスティを信じる民として。
――異端たるお前に裁きを与えん。
――正義の元に。
動いた。
意識より先に、足が動いた。手が動いた。体が悲鳴を上げた。声は出ない。
何度も、この存在に追い詰められた。石を投げられ、剣で斬られ、逃げた。
その存在が、何故ここにいるのか判らなかった。
ここは、その存在が割り込める場所ではなかったはずだ。
ただ唯一の安らぎの場所なのだから。
ただ唯一の居場所なのだから。
少女は何も考えず、否、考えられず、ただ走り出していた。
小汚いアパートの床が軋む。あかぎれた少女の小さな手が男たちをかきわける。
いつもの部屋。肌を擦り合わせて眠る凍える部屋。
無機質で、けれどぬくもりに満ちていたその場所は今、紅に染まりかえっていた。
少女は立ち尽くした。
染まりかえった部屋の中で。
部屋の中央にうつぶせに倒れた彼を見つけて。
何度も見た、その光景。
ただの容器(いれもの)と化したその存在。
――何故?
疑念。
――それは、お前が傍にいたからであろう、死を呼ぶ少女よ。
衝撃。拒否。恐怖。理解。
絶望。
そして、切望した。
誰でもよかった。
嘘だと。
夢だと。
言って欲しかった。
その日少女は、初めて自らの手を血で染めた。
どうやったのかは、覚えてなどいない。
ただ、殺した。
あたたかい赤い液体が、男たちから流れ出る。
粘り気を引き摺り、少女の細い腕を伝って行く。
舌を這わせて、少し舐めた。舌先に少し苦味が残る。それよりも強く、鼻の奥に鉄の臭い。
あたたかい液体が流れていくと、男たちの体は冷たくなっていく。
少年と同じように、ぞっとするほど冷たく、硬くなっていく。
座り込んだ少女の素足を濡らすその赤い液体を、彼女は両手ですくった。
微々たる量しかすくえなかった。微々たる量でしかないのに、指の間からさらに糸を引いて落ちていく。
少女はそれを少年の開いた腹へと落とした。
少年は目を閉じていない。
体は冷たくなった。けれどそれは、男たちと同じようにあたたかいものが体から抜け落ちたからだ。
だったら、あたたかいものを入れてやればいい。
何度も何度も、繰り返した。
すくっては、落とし。すくっては、落とし。
赤い液体が、何度も少女の小さな手のひらを行き来した。
けれど少年は一向に体を起こしはしなかった。
何をしているのだろう。
どうして起きないのだろう。
少女の栗色の瞳が、淀んだ栗色の瞳が、疑問に彩られていく。
赤く濡れた小さな手で、少年の肩を揺さぶった。
冷たくて、驚いた。
まだ、足りないのだ。
それとも、この隙間風のせいで少年は凍えてしまったのだろうか。
そう考えて、少女はふと思いついた。
だったら、いつものようにすればいい。
ひとつの皿からスープを分け合うように、抱き合って体温も分け合えばいい。
そして、嬉しかった。
死者を操る能力が、自分にはあったことを思い出したのだ。
――死者を。
そのことを、少女はどこかで気付いていながら、どこかで忘却していた。
ゆっくりと、少年の体を起こした。
淀んだ穴のような黒瞳がぼんやりと少女を映した。
嬉しくて、微笑んだ。花が咲くように。
腕をまわして、抱きしめた。
けれどそれは、少女が望んだものではなかった。
冷たくて、硬い。冷たすぎて、背筋が凍る。
それは少年ではない。少年の腕はいつもあたたかくて、優しくて、柔らかい。
だとしたら、これは何なのだろう。
判らなくなって、少女はその腕を振り払った。
鈍い音を立てて、それは床に倒れた。赤い液体が跳ね上がる。
ただの、容器(いれもの)だ。
死を操る能力のはずなのに。
彼は死んだのだったなら、何故操れないのだろう。
力が、もっと鮮明だったら。
彼がまた、微笑んでくれるのに。
ここに少年がもういないことに、少女は気付いた。
だから少女は歩き始めた。
少年を探した。
あてのない道をどれだけ歩いたのだろう。
少年のいない夜をどれだけ数えたのだろう。
月は廻り、満ち、欠け、そしてまた満ち――一年が過ぎたある冬の夜だった。
紅い月が昇っていた。
あの、あたたかい液体のようだと思った。
少女はぼんやりと見上げた。
そして、ようやく理解した。
もう少年は、いないのだ。
ただ唯一の安らぎだった少年は、いないのだ。
オンリー。
ただ唯一の。
その名前をつけられた少女は、理解した。
オンリー。
孤独を、理解した。
泣いた。
少女は嗚咽を漏らして、泣いた。
紅い月を見上げて、ただ泣いた。
その少女の耳に、声は届いたのだ。
――汝、力を求めるのか?
驚きよりなによりも、その言葉にしがみ付くように少女は頷いた。
――欲しい。
そうすれば、彼は微笑んでくれるから。
そうすれば、もう孤独は知らずにいられるから。
――ならば、我に仕えよ。
――貴女は、誰?
――我はルナ。この大陸を治めし女神。
頭の中で鳴り響く声に、少女は衝動を抑えられなかった。
力が欲しい。
鮮明な力が、欲しい。
――少女、名は?
――名前……
オンリー。
彼が付けてくれた名前が、頭に浮かんだ。
ただ、唯一の。
けれどその名は、彼がくれたものだ。
彼がいなくなった今、その名に意味はない。
オンリー。
孤独。
それは孤独を表すだけの名に過ぎなくなっていた。
だから少女は首を横に振った。
少年にしたように同じく。
持ち合わせていないと首を横に振った。
紅い月の輝く夜だった。
――なら、我が名を与えん。
――名前を……?
死を呼び、死者を呼ぶ、天使の名を。
死を司る天使の名を。
天から降ってきた女神の声。
その声だけが、救いだった。
その声だけが、孤独から救い出してくれるものだった。
だから、少女は決めたのだ。
この命を女神に捧げることを。
少年がいない今、少女には何も――本当に何も残ってはいなかったから。
その声が、救いをくれるなら。
その声に、全てを捧げよう。
紅い月の輝く夜だった。
少女ははじめて声を漏らした。
「わたくしは……アザレル・ロード。女神に仕えし、死を司る、天使」
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そして、かつての少女は――『ただ唯一の』少女、『孤独』を知った少女オンリーは――アザレル・ロードは、ゆっくりとまぶたを上げた。
紅い月が、今宵も輝いている。