第十一章:To darling you――愛する者へ


BACK 目次 NEXT


 困惑に歪み切った顔のまま、悲痛な面持ちのまま、ドゥールが剣を携えていた。その足が、一歩、また一歩と前に出る。
 誰も動けなかった。
 無意識のうちに剣の柄に手が伸び、エリスは胸中に苦々しいものが溢れかえってくるのを感じていた。彼と握手を交わしたのは、ついさっきだ。互いに武器を携えないという本来の意味での握手を交わした次の瞬間にこれでは、皮肉にもならない。指を降り、柄を握るのをやめた。何とかしなければならないというのは判る。が、具体的な行動が浮かばなかった。奥歯を噛み締める。
 しかし、ドゥールは――おそらく本人の意思とは無関係に――その歩みを止めようとはしない。エリスが後退する。が、隣にいたゲイルはぴくりとも動かずドゥールの姿を見据えていた。
 そのゲイルに向かって、ドゥールが剣を構えなおしたのを見て、エリスは叫んだ。
「馬鹿!」
 しかし、その声を合図にしたかのようにドゥールが踏み込んだ。
 銀の光が正面から振り下ろされる。
「くっ」
 汗を垂れ流していたゲイルが短いうめきを上げ、だがなんとか攻撃から身を守ろうとはしたようだった。足に力をこめ、右に跳ぼうと重心を傾かせる。
 刹那――
 ドゥールの剣が、まるでその動きを予知していたかのようにくるりと宙で向きを変えた。そのまま、ゲイルの右から凪ぐ型に変化する。
(まずい――!)
 駆け出しながら、エリスは内心で悲鳴を上げていた。
 正面からの攻撃に対し、ゲイルが右に避ける癖があるらしいことにエリスは気付いていた。白竜と対峙したときに偶然見つけたものだが、エリスが知っているということはドゥールが知らないはずがないのだ。だとしたら、気付いて然るべきだった。本人の意思とは違ったとしても、刹那刹那で剣を操っているのはドゥールの体なのだから。
 正面からの攻撃はフェイントだったのだろう。今まさに、右へ跳ぼうとしたゲイルが、右からの剣をその視界に収め動けずにいる。右へ跳ぼうとした衝動は何とか押さえつけたのだろうが、その反動で左にも前後にも動けなくなっていた。
 鈍い銀光がゲイルに肉薄する。
 次の瞬間には確実にその光がゲイルを凪ぐであろうことを予感して、エリスは胃が捩れる思いがした。
 しかしその瞬間だった。
 ――かくんっ。
 何の前触れもなくゲイルの膝が折れた。ゲイルが意図した行動なのか、それとも偶然の産物なのかは判別つかなかったが、結果、ドゥールの剣はくず折れたゲイルの顔を浅く凪ぐだけになった。
 赤が数的、跳ねる。
 流れた剣が、再度空で動きを変え、ゲイルに振り下ろされようとする。
 が、その時にはエリスはすでに剣を抜き、二人の間に割って入っていた。
 ヂッギィンッ――
(――ッ!)
 剣を受け止めた瞬間、右肩から全身を貫いた激痛に悲鳴すら漏らせなかった。電撃を受けたかのように手のひらから肩を抜け、体の中心そのものが悲鳴を上げる。しかし閉じようとするまぶたを何とかこじ開け、感覚が失われた右腕で、それでも剣だけは取り落とさないようにする。握っているのか何なのか、それすらよく判らない。だが、全身の体重をかけて、ドゥールの剣を押し返した。
「ミユナッ! ゲイル、さげて!」
 叫びながらちらりと視線だけをゲイルに投じる。
 何か信じられないものを見るような呆然とした面持ちで床に座り込んだまま、ゲイルは微動だにしていなかった。その碧色の右目のすぐ下に、真一文字に赤い線が引かれている。僅かにピンクの脂肪すら見えた。かなり深い傷だ。あと数ミリずれていれば確実に目がやられていたであろう傷。
 ミユナがそのゲイルの体を半ば引き摺りながら後退させた。と、それを視界に収めきる前に、二度目のドゥールの攻撃が来る。左から凪ぐような一閃に、エリスは後ろに跳んだ。どくどくと鼓動が速まる。
 痺れて感触のない右腕を、ほとんど気力だけで持ち上げながら剣を構えなおす。こうなると、左腕に掛かる負担も無視できないだろう。ゆっくりとドゥールに切っ先を据える。完全に悲痛さを湛えたドゥールの表情に、苦渋の味が濃くなった。口中でだけ、ごめんと呟く。
 ドゥールの背後にいる少女を、何とか止めることができればいいのだ。それさえできれば、すぐに剣を収めることが可能なのだから。
 じりじりと間合いを取りながら、エリスは鋭くジークに囁いた。
「ジーク、なんとかして止めて、イヴさんを」
「どうしろって……」
「なんとかっ!」
 我ながら強引がすぎる――と思いながらも、叫ぶ。そして叫んだと同時に走り出した。――ドゥールとは逆の方向へ。
「!?」
 その場にいたエリス以外の誰もが、状況を理解できなかっただろう。逃げ出した、とも思ったかもしれない。それほど唐突に、エリスは駆け出していた。
「ドゥール!」
 イヴの声に、ドゥールが駆け出す気配を背中に感じながら、エリスは速度を上げた。体の中心部が鈍く重みを残していたが、意思の力でそれを押し殺した。
 廊下には、甲冑を始めとした装飾品が飾られてある。両開きの扉の外に、一瞬だけ青い物が覗いた気はしたがそれが何なのかを確認する余裕はエリスにはなかった。背後にドゥールが迫る。
 その気配を確認して、エリスは一気に体を止めだ。踏み込んだ足を軸に体を捻る。困惑気に揺れる黒瞳を視界に収め、感覚の失せた右腕だけで何とか剣を支えた。剣を、右一文字に――凪ぐ。
 金属がかみ合う小さな、それでいて耳障りな音がしたのは一瞬だけだった。次の瞬間には、絨毯が吸収しきれないほどの騒音が塔に響く。ぶつかり、跳ねあう金属の音。
 廊下に立っていた一体の全身甲冑を倒したのだ。
「くっ……」
 崩れ落ちる甲冑が、視界を阻む。低いうめきが上がるその瞬間、エリスは気配を殺した。
 走る。
 崩れ落ちた甲冑に体を隠すように体勢を低くしながら。少なくともこういう時だけは、小柄な体は有利に働く。
 ――だんっ!
 踏み出した足が強く音を立てた。殺していた気配を解き、気を膨張させる。と、ドゥールがその気配に気付いて振り返った。
 が、遅い。
 陰に隠れるようにして、エリスはドゥールの死角に廻りこんだのだ。
 つまりは、彼の左側。
 左目に視力がほとんどないドゥールにしてみれば、左からの攻撃はかなり不利になるはずだ。エリスはそう踏んで、ドゥールの左に廻ったのだ。事実それは、有効だった。
 ドゥールが完全に振り返るよりも早く、エリスは行動に出る。
 柄を握っていた手を少し滑らせ、剣を回転させた。前に出る勢いは殺さぬそのまま、全体重をかけ、切っ先ではなく柄の部分を槍のように突き出す。――斬る筈がないのだ。敵ではないのだから。
 だが勢いのついたそれは、十二分の威力を発揮した。
 肩に突き刺さったそれに押され、鈍い衝撃音を立て、ドゥールが後ろに弾き飛ばされる。ドゥールは転がりかけ――だが、なんとか足を引いて転倒するのだけは堪えた。それはイヴが操った結果と言うよりも、ドゥール自身の体に染み付いた『戦いの癖』としての結果だろう。
 だが一瞬出来たその隙を、そのタイミングを逃すことはない。エリスは自身の体で、イヴのドゥールへと注ぐ視線上に割り込もうと足を滑らせる。
 普段なら、問題なく出来たはずの行動だった。
 だが、ほんの一瞬――ひと呼吸にも満たない、一瞬、エリスの体は動きを鈍らせた。体に残るいくつもの怪我のせいか、疲労のせいか、それとも相手がやはりドゥールでありイヴであるという、そのためらいのせいか、それは判らなかったが、事実としてエリスの動きは鈍った。
 切迫した状況でのその一瞬は、命取りにもなりかねない。
 持ち直したのはドゥールかイヴか――気付くと、エリスの真紅の目は真正面から振り下ろされるドゥールの剣の残光を捕らえていた。
(――ッ!)
 意識するより早く、体が動く。前に出る威力を無理やり転化させ、左に跳び退る。
 しかし、それすら予期されていたのかもしれない。
 次の瞬間には剣は横凪にされていた。
 そして、右肩に熱が走る。
 右腕が消し飛んだのではないかと一瞬錯覚に陥るほどの、熱さだった。
 喉の奥から搾り出された悲鳴を上げ、エリスは倒れた。
 頬を強く床に打ち付けても、それに痛みを感じる余裕などない。ただ、右腕が焼ける。
「づっうぐ……ぁぐっ」
 斬られたのだ――そう判断できたのはその頃になってからだった。正面からの攻撃に左に跳ぶ癖があるのは自覚していた。それが、まずかったのだ。右半身が残り、結果もとから負傷していた右腕を斬られた。
 ただでさえ、激痛が過ぎ神経が働いているのか否か判らない状態だった腕が、完全に使い物にならなくなっていた。床でのたうちながら、自身の右腕から流れた赤い液体が顔を汚すのがわかった。
 しかし、転がっているわけにもいかない。何とか立ち上がろうともがくのだが、足に力が入らない。視界は歪み、平衡感覚さえ失いつつあった。
 あまりの痛みに内臓が痙攣し、胃が疼くのを感じる。
「くそっ……!」
 小さなうめきがどこからか聞こえた。それがどこからか判らないながらも視線を動かすと、ジークが手のひらを壁に向けたところだった。ふいっと何の前触れもなくそこに穴があく。夜風がなだれ込んできた。
(……ジーク!?)
 理解しがたい行動をとったジークは、その次の瞬間、さらに理解できない行動をとっていた。その開いた穴から――虚空に身を躍らせたのだ。
「ジークッ!?」
 その大男の姿が空に消え、エリスは叫んでいた。と、その振動でさらに激痛が走る。
「エリスッ!」
 甲高い悲鳴で名を呼ばれた。その瞬間、何かふわりとあたたかいものが被さって来たのも判った。
 ミユナだ。身を呈して庇ってくれたのだと、判る。だがそれが逆に、エリスの意識を目覚めさせた。
 駄目だ。
 内心でそう叫んでも、言葉にはならなかった。思い通り動かない自分の体に舌打ちが漏れる。焦燥に見開かれた瞳に、金色の光が割り込んだ。
 耳をつんざくような音が響く。
 ゲイルが剣を持ち、つい先ほどのエリスと全く同じように、ドゥールとエリスとの間に割り込んでいたのだ。
 ぎりぎりと牽制しあいながら、ゲイルが短く叫んだ。
「さがって……くれっ!」
 次の瞬間、二人の剣がはじけあった。だがどちらも剣から手をはなしてはいない。ミユナに引き摺られ、エリスは壁に背を預ける形になった。口早にミユナが呪文を唱える。
「くそっ……あたしの法技じゃ、ジークの法技ほどの利き目はねぇんだよ……!」
「いい、いらない。そんなの、いらない!」
「いらねぇこたねぇだろ、てめぇ、こんな怪我で……! 判ってんのか、今の自分の体のこと!」
「そんなの今はどうだっていい!」
 叫び声を叩きつけると、ミユナの目が歪んだ。
 視界が淀んでいく中で、しかしエリスはその銀青色の瞳を正面から見つめ、懇願した。
「どうだって、いい。だから、あんなの駄目だ。あんなの、駄目だ……! 二人とも、傷つくだけだ!」
 アーロンとケイレブを殺した後のゲイルの横顔を、エリスは見ている。
 ダリートと対峙したときの思いを、エリスは持っている。
 ゲイルとドゥールが、互いに常に支えあっていた姿をエリスは知っている。
 二人の関係が、自身とアンジェラのようなものなのだと、エリスは理解していた。
 だからこそ、見ていられなかった。
 それこそ、相手に剣を振るうそのたびに、自身が斬られているような顔をする二人を、見ていられなかった。
「お願い、とめて。二人を、とめ、て!」
 動けるなら、自分で動いていた。だがどれほど意思力を持ってしても、体が貼り付けになったように言う事を聞いてくれない。その事実が、エリスの内蔵を焦がしていく。
 ミユナが苦虫を何匹もまとめて噛み潰したような表情をし、剣をかみ合わせていたドゥールとゲイルに視線を投じた。エリスも合わせるように二人を見やる。
 戦況は、やはりゲイルに不利だった。互いに願ってはいないことだとしても、自分の意思ではないドゥールと、自分の意思で剣を握っているゲイルとでは、やはりゲイルに躊躇いが強く出るのは仕方のないことだろう。それが如実に現れていた。
 と――ドゥールの剣におされ、ゲイルが後退した。が、その体がよろめいた。
 アーロンとケイレブとの戦いのときについた足の傷が、まだ完治していないことに、エリスはその時ようやっと思い出した。
 体勢を崩すゲイル。同時に、ミユナが隣で駆け出すのが判った。


 ドゥールの目が見開かれる。ゲイルの顔が強張る。ミユナの体が滑り込む。
 

 全ての音が、消えた気がした。


 鼓動が、一音を発する程度の時間。それにすら満たない瞬間。
 一瞬にして起きた全ての出来事が、エリスの目に飛び込んできた。


 ドゥールの剣が、ゲイルに――そしてその間に滑り込んだミユナに向かって、突き進む。
 ミユナの口が、何かを叫んで大きく動く。
 イヴの空色の瞳が笑みに歪む。
 全く何の前触れもなく、イヴのすぐ後ろにあった両開きの扉が開く。
 夜が広がる。
 ドゥールの剣の切っ先が、ミユナに迫る。
 イヴが驚きの色を露わにする。
 振り返る。
 その視線が外れる。
 ドゥールの顔が大きく歪む。
 ミユナは動かない。
 ドゥールの手に力がこもる。
 扉を開けて現れたジークが、イヴの体を後ろから抱く。
 顔に腕を回し、視界を閉ざす。


 ――そして、全ての音が復活した。


 今まさに、ミユナに突き立たんとしていた剣は、イヴの呪縛の視線から逃れたとしても、ドゥールが操っていた。
 それには下へ向かう慣性がある。
 それは急には止められないものだ。
 しかし――
 ドゥールが、ひび割れた絶叫を上げた。


 慣性すら無視した動きだった。
 剣の動きを虚空で無理やり捻じ曲げ、彼はその切っ先が向かう方向を反転させた。
 すなわち、自身へと。
 ほんの僅かなタイミングの違いだった。
 彼の握る剣は――ミユナに突き刺さるはずだったその剣は、一瞬にして標的を変えた。
 ドゥール自身へと。


 エリスの聴覚に届いたのは、沈みいく鈍い音と、彼の叫び。
 エリスの視覚は噴き出す鮮血に赤く染まりながら、その光景を確かに伝えてきた。

 ――剣を腹につきたて、倒れゆく少年の姿を。 


BACK 目次 NEXT