第十一章:To darling you――愛する者へ


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 くず折れていくドゥールの体。
 溢れ出す鮮血。
 それらを瞳が捉えると同時に、ジークはイヴの体を背後から抱き、その瞳を腕で覆っていた。
 視線を媒介とする魔法だ。視界を閉ざせばいい――そのはずだった。だが。
 遅かった。一歩――ほんの一瞬だったが、遅かった。そう、ほんの一瞬だ。一瞬に過ぎない。しかしこの状況での一瞬は、取り返しのつかないほどの大きな一瞬だった。
 かみ合わせた奥歯が、不快音を発する。
 後一歩、早ければ。倒れるドゥールを見る事はなかったかもしれない。
 イヴが平常ではないのは、誰だって気付いていただろう。というよりも、はっきりと異常だった。イヴとは思えない言動が、この結果を招いた。だが、ジークの腕の中にある感触は確かにイヴ自身のものだった。
 単純な話だ――と、どこか冷静な頭の中で、声がした。
 アザレルがイヴを操っている。ただ、それだけの話だ。何故直接ドゥールを操らなかったのかは判らない。操れなかったのかもしれないが、実験、という奴なのかもしれない。単純に、イヴを操るほうがずっと楽だったから、ということもあるだろう。今のイヴはイヴではない。ただの『記憶』――アザレルが操るために作ったかりそめの存在だ。だとしたらいつだって、アザレルの思い通りになる。そう、今のように。
 全ては単純な話だ。
 だが、結果としてドゥールは倒れた。
 ジーク自身は、実のところドゥールが倒れたこと自体にはそれほど感情を揺るがせる事はなかった。さほど彼と深い関わりを持っていなかったこともある。何よりも、彼が招いた結果として、エリスが倒れたことも、アンジェラが攫われた事も許せないでいた事もある。
 けれど、それでも、知っている人物が、倒れていくのは確かに胸に痛みを残した。それが、大切な彼女の兄だということも、だ。
 そして何より――それを招いたのが、腕の中の彼女だということが、痛かった。
 ふいに、びくりっ、とイヴの体が震えた。強く抱く。
「イヴ、判るよな」
 後ろから囁くと、イヴの体がかたかたと小さく震えだした。
「ジー……ク……?」
 その声音が、普段のイヴのものだと判り、一瞬にして内臓が震えるように痛んだ。
 イヴが、正常な判断をつけられない状態での行為だったなら、そのままで良かった。正常でないときの行動を、正常な状態で理解するのは、あまりに辛すぎる。その事を、ジークは良く知っていた。だからこそ、正常でない状態なら、そのままでいいとさえ思っていたのだ。
 しかし、その逃避にも似た望みは、打ち砕かれたことになる。
 イヴはもう――気付いている。
「……ああ」
 低く、頷く。イヴの体がまた強く震えだした。それを抑えるように、更に強く抱きしめる。イヴの震えが、ジークの体に伝わってきた。
「いや……」
「イヴ」
「いや。い……やぁっ!」
「イヴ!」
 叫び、暴れだしたイヴの体をおさえつける。彼女の目を覆った腕が、ひやりと冷たさを覚えて気付く。泣いている。かたかたと震えだすイヴが、弱々しい呟きを漏らしてきた。
「いまの、いまの、なに。わたし、わたし――」
「考えるな!」
「ドゥールが、だって、て、ドゥールが……わたし、あやつ――」
「考えなくていい!」
 切り捨てるように叫んだ。叫びながら、視線を走らせる。倒れたドゥールからは、遠慮の欠片もなく血が流れ出している。甲高い悲鳴を上げながら、ミユナが、ゲイルがドゥールの元へと駆け寄っていく。壁に背を預けているエリスは、動きたくても動けないようだ。それでも、這いずるようにずるずると、無理やり体を動かしてドゥールへと向かっていた。
 遠くない。すぐそこの光景だ。
 けれど、まるで絵画のなかの情景を見ているかのように何故か非現実的だった。血の臭いは充満し始めている。それは確かに現実だ。だが、あまりに流れすぎる血が、逆に非現実感を纏わせていた。
 そうだ、あの部屋の中で見たイヴが、まるで人形のように見えたのと同じように。
 あの光景と、今のドゥールの姿が、かぶる。それは忌々しいながらもひとつの結論に辿り着き、ジークの頭の中に点滅していた。
 無理だ。助からない。
 そんな姿を、イヴに見せたくなかった。そんな事実を、彼女に見せるにはあまりに残酷すぎた。それを招いたのは、彼女自身なのだ。けれど、彼女の意思ではなかった。
 何故急に彼女の意思が戻ってきたのか、判らなかった。ありがたいことなのか、全く逆なことなのか、それすらも判らない。けれど、事実としてある。彼女は全てを理解している。自身の意思ではなかった時のことも、理解している。今の現状も――絶望的な、ドゥールの状態すらも。
「む……りだよ……無理だよ、ジーク……考えないなんて出来ないよおっ! いやあっ、ドゥールっ……!」
「大丈夫だ! 無事だ! あいつは俺が救う!」
 無理だ。
 絶望が、頭の中で断言する。
 無理だ。救えない。法技は万能ではない。魔法なら――そう、神族の扱う癒しの魔法なら、あるいは可能だったかもしれない。けれど今ここに、それを扱えるであろうあの幼子は――桜春<オウチュン>はいない。
 そもそもジークは本来、ルナ大陸の人間ではない。ルナ大陸の人間は潜在的に法技を扱うことが可能だ。それを途方もなく苦手としているエリスは、むしろ稀なほうだ。しかし彼女とて、正確に勉強し、ある程度訓練すれば扱えるようになるはずだ。ルナ大陸の人間には、その能力が潜在的に備わっているのだから。
 法技とは、過去にルナの女神が大陸に落とした魔力を――ルナ大陸中に空気のように蔓延した魔力を使って行う『技術』に過ぎない。つまり、ルナ大陸の人間は生まれた頃からその魔力の中で生きているのだ。それに対しての感応力や扱うための感覚――そういったものが、自然と身についていく。一種の慣れのようなものだ。それはおそらく、血筋として受け継がれていく、種の記憶にすらなっているはずだ。
 しかし、ジークは違う。
 本来の出身大陸であるパンドラには、そういった特殊な環境はなかった。あちらの大陸での『魔』は異形の物が扱うそれを指す。つまり『魔』の定義そのものが違うのだ。だからこそ彼ははじめ、法技の『魔力』がさっぱり理解できなかった。感覚をとらえることが出来なかったのだ。
 しかし彼はそれを物にした。例えではなく――事実として、死に物狂いで。
 自らの右手の平に開いた『眼』は、マイナスへの能力だ。それをジークは疎んでいた。だからこそ、それ以外の能力が扱えると知ったとき、神聖法技を――プラスへの能力を選んだ。法技の中でも特に難しいとされるそれを、選んだ。ルナ大陸の人間ではない。けれど、そこにいる限り条件としては――かなりの部分で不利があったとしても――全くゼロではなかった。法技が扱える。
 けれどその法技は、不完全だ。魔法のように万能ではない。更にいえば、ジークは高度の法技が扱えるが、穴があるのだ。高度の法技を、完璧に扱うことは、出来なかった。法技のなかの手順『組み立て』を出来ても、そこに注ぎ込む魔力を隅々まで行き渡らせることが出来ないのだ。そこはやはり、他大陸の人間と言う不利がある。それが完璧ならば、あるいは何とかなったかもしれない。けれど。
 無理なのだ。
 この面子の中で、それでも神聖法技を一番操れるのは自分のはずだった。ミユナもある程度は――とはいえ、一般レベルではかなりの高レベルだ。ジークがそれ以上なだけで――扱えるようだが、自分には及ばない。
 ドゥールは、救えない。それは見て、判った。元々、生家が医師の家庭だったこともあり、判ってしまったのだ。
 けれど。
 無理だとしても。不可能だとしても。
 ――なんとかして、救う。
 イヴがそれを望んでいるなら。
 なんとしてでも。
 ジークはイヴの体を無理やり反転させ、彼女の顔を自分の胸へと押し付けた。細い体を抱く。後頭部に手を回して、頭を強く押さえ込んだ。
「ドゥールは俺が救う。だから、考えるな。いいか、目を閉じろ。閉じていろ! 俺の傍から離れるな!」
「無理よ! 判るの! 貴方に法技を教えたのは、わたしよ!? 出来ないの! あの時と――あの時と同じように、また、わたしのせいで、わたしのせいで!」
「無理じゃない!」
 あの時と同じように――それが何を指すのか、ジークには判らなかった。だが、そんなことには構っていられない。短く叱咤すると、ふいに彼女の体から反抗する力が全て抜け落ちた。
「イヴ……?」
 訝しく思い、名を呼んだ。力の抜けた声で、けれど、何か――そう、たったひとつの希望を見出したとばかりに、軽く光を取り戻した声で、彼女は呟いた。だけどその光は、暗い光だった。
「そうね。無理じゃない。ひとつだけ方法があったわ」
 彼女は瞳を閉じていた。強く、閉じていた。閉じたまぶたの中で、それでも涙が零れていく。
「わたしを――『消して』、ジーク」
 棍棒か何かで頭を強打されたかのような衝撃があった。
「っな――」
「わたしを消して、ジーク! 貴方の『眼』なら出来るでしょう!? わたしが『なかったこと』になれば、ドゥールは死なないわ! わたしが『なかった』なら、操られることもそれに抵抗することもなかったんだから! だから、早く! お願い――!」
 頭の中が、がんがんと音をたてた。
 べらべらと早口でまくし立ててくるイヴの言葉が、それでも何故か頭の中に正確に入り込んでくる。彼女の言っていることは、確かだ。確かだった。
 彼女の手首を掴んでいた右手から、力が抜けた。ずるりと滑り落ちる右手を、イヴが掴んだ。目を閉じたまま手探りに、グローブをもぎ取った。
『眼』が空気に晒される。
「ジークッ!」
 懇願の叫びに、耳鳴りがした。
 イヴを消せば、ドゥールは救われる。
 イヴを――消す?
 馬鹿馬鹿しい。唾棄したいほどに馬鹿馬鹿しい。そんなことができるはずがない。
 ドゥールは救えない。ミユナとゲイルの震え声が聞こえてくる。エリスの呻き声も。頼りないドゥールの呼気も。
 ドゥールは救えないのだ。たったひとつの方法を除いて。絶対に出来ることなどない、方法を除いて。
 けれど。
「お願い――はやく、お願い――!」
 最愛の人は、それを望んでいる。


 絶望的だった。組み立てた法技を、ミユナが懸命な顔でかけているのが見えた。貧血のためか、暗く澱んでいく視界の中で、エリスはそれを見た。
 けれど、効果が見られなかった。
「何やってんだよ……馬鹿やろう」
 ミユナが、顔を歪めながら呟いている。ゲイルがドゥールの手を強く握っていた。怯える幼児のような横顔だった。
 ドゥールがうっすらとまぶたをあけた。澱み始めている瞳は、けれど何かを吹っ切れたような色さえ浮かんでいた。
「ゲイル」
 血を吐き出しながら、ドゥールが呟いた。ゲイルは碧の目を歪ませながら、囁く。
「……なんだよ」
「すまな――かっ」
 咳き込み、血を吐き出す。ゲイルが必死の面持ちで首を左右に振った。
「いい。気にしていない。喋るな」
 その言葉に、ドゥールがほんの少し、口の端を緩めるのが見えた。
 それが何故か、エリスには凍りつくほどぞっとする思いを呼んだ。それに似た笑みを、どこかで見たことがある。
 ――彼だ。ダリード。彼が死の直前に見せた、それだ。
 死の――直前に。
 背中にぞくりとするものを感じ、エリスは思わず叫んでいた。
「ドゥール、駄目だからね!?」
 何が駄目なのか、自分でも判らなかった。
 ドゥールの目が、こちらを見た。まぶたが半分、落ちかけている。
「……本当に……すまな……った。アンジェ……を」
「いい! もういいから! あいつは迎えに行く! あんたも一緒に来るんでしょ!?」
 返事はなかった。弱い息をドゥールは繰り返している。しかしその間隔も、徐々にひらいていっている。
 すがるような思いで、エリスは視線を流した。
 ジークなら。彼なら――


 逡巡は一瞬だった。
 一瞬しか、与えられていなかった。否、本来なら一瞬すら、与えられていなかったのだろう。
 唇を噛むと血の味が滲んだ。ジークはそれを舌先に感じながら、イヴの体を強く抱き寄せる。
 一瞬だけ、空が跳ねた。
 夜の暗い空ではない。あの部屋の窓から何度も見た、ずっと焦がれていた空だ。晴れ渡った、澄み切った、青空。
 唇を触れ合わせた。
 柔らかさは記憶にあるそれと同じだった。濡れている。涙で湿っている。少しだけ、しょっぱさを覚えた。そんなところまで、人間は幻覚にだまされるのか。いや――彼女だから、だ。
 ほんの一瞬の口づけの後、すぐにジークはイヴの身を剥がした。
 正面から向き合うと、イヴが安堵したように笑った。小さく。けれど確かに。
「生きてね、ジーク」
(お前は残酷だよ、イヴ)
 青空を抱きしめるように、彼はイヴの体を抱いた。その背中に手を回す。『眼』の開いた右手を。
 最期の言葉を、耳元で囁いた。
 ずっと言いたかった言葉だった。馬鹿馬鹿しい照れと勇気のなさで、結局彼女が生きている間には、伝えられなかった言葉だった。
 ずっと、一番に伝えるべきだった言葉だったのに。
 これまでも。これからも。ずっと。
「――愛してる」


「……ミユ……ナ」
 弱い音で呟く。
 ドゥールはミユナの手に触れた。ミユナの細い指が、震えながらもその手を握り返す。
 銀青色の瞳に揺らぐ涙が、つっと頬を滑っていった。
 ドゥールが、言葉を漏らした。
 ゆるく、笑みを浮かべ。微笑みを残しながら。
「……ありがとう」
 限りない感謝を。


 その『眼』がもたらした絶望は、すぐだった。
 彼女の微笑みは、その瞬間、消えた。


 何が起きたのか、エリスは一瞬判断がつけられなかった。
 真紅の瞳で捉えたそれらが、事実だとしたら――ジークが、イヴを消した。
 それだけ――だった。
 言葉を漏らすことも出来ないまま凝視していたエリスのすぐ前で、ジークが走りよってきた。その腕の中には、もう抱きしめるための誰かはいない。
 強張ったままのジークは、ドゥールの傍に膝をついた。手を翳そうとする。
 しかしその手を、ミユナが視線で遮った。
「……無駄だ」
 枯れきった暗い声で、彼女は漏らした。自身の手を見下ろしながら。
「もう、死んだよ」
 ミユナの手を握り締めたまま、ドゥールは事切れていた。
 まぶたを閉じ――もう、生きていなかった。
 それを見下ろし、ジークは顔を歪め、
「くそおっ!」
 力任せに床を殴りつけた。
 ぎっと額を手で押さえつけ、うめきを漏らす。
「間に――合わなかった――って、のか。死は、覆せねぇのか。死んだら、終わりか――結局は! 魔法だって万能じゃねえってことかよ……! イヴの最期の――」
「るせえっ!」
 悲鳴を叩きつけたのはミユナだった。その瞳から、ぼろぼろと涙が零れ始めていた。
「ドゥールが……死んだんだぞ。こんな時に何ほざいてやがる!? イヴって誰のことだよ!」
「ミユナ!?」
 冗談のようなその台詞に、ぞっとしてエリスは叫んでいた。ゲイルも、その事に反応しない。ただドゥールを見下ろしている。化石のような目で。
 体を走る激痛が、精神まで蝕んでいくようだった。意識が遠くなる。
 ジークのワイン色の瞳が、視界にうつる。
 全てを失ったような、弱い笑みさえ浮かべ、かすれた声で彼は呟いてきた。
「その瞬間を見ていた奴しか、覚えていられないんだ。見ていたのは……お前だけだった、みたいだな。エリス」
(嘘だ――こんなの――!)
 否定したかった。だが、出来なかった。ミユナは確かに、なんの躊躇いもなくその台詞を吐いた。ゲイルとて、その言葉に反応しない。
 ドゥールは、動かない。握手を交わしたばかりだったのに、もう、動かない。
 ドゥールは死んだ。イヴは消えた。
 否定したかった。だがそれは、事実だった。
 視界が沈んでいく。こんなのを望んでいたわけじゃない。こんなのは、望んでいない。なのに。
 激痛と疲労と絶望が、津波のように襲い掛かってくる。
「――エリス!」
 遠くで、誰かの声がした。
 だが、続く言葉を聞き取ることは出来なかった。
 すんでのところで掴んでいた意識を、エリスはゆっくりと手離した。


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