第十一章:To darling you――愛する者へ


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 金の獅子が顎(あぎと)を開き、金糸の髪をなびかせた女神が赤子を掲げる色硝子がはめられたバルコニーへの扉は開かれている。
 大理石の手すりがバルコニーにはあった。その空には、月。
 赤黒い絨毯を踏みしめ、エリスは一歩足を踏み出した。
 その手すりの手前に、何の前触れもなくその女は現れた。
 栗色の髪をふわりと編み、紅の笑みを浮かべる研究者。
 ――アザレル・ロード。

 だんっ――!
 その姿を視界に入れた瞬間、エリスは強く足を踏み出していた。
 剣を抜き、迫る。
(軽い……!)
 視界が斜線となり流れていく。その感覚に、エリスは思わず胸中で声をあげていた。体が軽い。いつもよりずっと。速さだけは誰にも負けない自信があった。けれどそれ以上に、体が素直に動く。意思と同時に動く。
 理由を考える間もなく、気付くとアザレルの顔が間近にあった。
 一閃。
 銀光が跳ねるのとアザレルの顔が驚愕に歪むのは同時だった。
 一拍遅れて赤い華が跳んだ。
 アザレルが後退し、エリスも間合いを取る。
 一撃を喰らわせ――エリスはゆっくりとアザレルと対峙した。
「わたくしに攻撃を当てるとは……素晴らしいスピードですね、エリスさん。腕を上げましたね」
 裂かれ、はだけた胸元から赤い液体を滴らせたまま、アザレルが微笑む。エリスはその姿を睨み据えたまま、唾棄した。唾に僅かに血が混じっている。いつ口内を切ったのかは判らないが、そんな事はどうでもよかった。
「一撃で決めたかったけれどね」
「惜しかったですね。けれど――危ういところでしたわ」
 塔に沿うように少し歪んだ長方形のバルコニー。その端と端で向かい合いながら、エリスはアザレルをただ睨みつけた。どす黒い感情が、自身の中で膨れ上がっているのを理解する。
 それは殺意だった。憎悪が入り混じった、殺意。
 これほど純粋な殺意を、エリスは今まで感じた事がなかった。
 バルコニーにはまだ出ずに、部屋の中にいたゲイルの気が膨れ上がるのも感じる。同じだ。殺意。
「何をしたか……判っているのか。アザレル」
 今までに聞いたこともないほど、低い声音だった。睨み上げながら、ゲイルがアザレルに呟く。
「ええ、まあ。操りはしましたけれど――ドゥールが死ぬのは、いささか予定外でしたわね」
「てめぇ!」
 ミユナが怒気を含んだ叫びを上げる。
 それを聞きながら――どこか冷めたような感情が、エリスの中で疼いた。
(アザレルが……操った、ことになっているの? イヴさんは……)
「イヴ・バージニア」
 気づくと、エリスは唇を割っていた。
 アザレルを見据え、言葉を投げる。
「イヴ・バージニアって、知ってる?」
 その言葉に、アザレルは一瞬怪訝そうに眉を寄せた。しかし、それだけだった。
 ただの戯言ととったのだろう。こちらの言葉は無視して続ける。
「あの子はまだ、実験体として使えたはずですから、もったいなかったと思いますわ」
 ――アザレルでさえ、覚えていない。
 その事実に、憎悪が募る。そしてその言葉にも。
 ドゥールの死を、ただの予定外と――そう呟くことに。
「けれどまあ、ただそれだけですわね」
「アザレル――ッ!」
 切り捨てるような一言に激昂したのは、ゲイルだった。突風がまるで彼の心に従うかのように渦巻き、アザレルに迫る。
 剣を引き抜き、アザレルに迫る。
 だがそのスピードは、先ほどのエリスの足元にも及ばなかった。アザレルは悠然と笑みを浮かべ、はだけた胸元を抑えたまま動こうとする。
 が、そこに鈴の音のような声が割り込む。

「炎を司りし者よ。我が前にありし者に裁きを!」

 一瞬、エリスは既視感を覚えた。
 アンジェラが得意としていた法技だったからだ。けれど、それを放ったのはアンジェラではなかった。
 ミユナ。
 呪文とともに法技は弾けて炎となり、アザレルを包み込む。
 熱気が膨れ上がり肌を焼いた。すんでで足をとめたゲイルが、後退さる。
 タイミングとしてはこれ以上ないほど完璧だっただろう。アザレルが動こうとしたその方向からの法技だ。
 炎が治まり、煙がはれる――そして、そこにいたのはアザレルではなかった。
 人影は二つ。
 流れるような目元。宝玉のような銀青色の瞳。流麗な鼻梁。笑みを象る整った唇。銀絹糸は風になびいている。ミユナとよく似た面立ちの、けれど齢を重ねた女性。
 穏やかさを湛えた栗色の瞳。ストレートの髪を丁寧に整えている。額に刻印された、古代文字。柔らかな雰囲気の、歳を重ねた男性。
 ナタリア・トーマ・フォン・グレイージュ。そして、レイス・バルム・デュ・グレイージュ。
「……っ!?」
 悲鳴を飲み込んだかのような音を、ミユナが上げた。煙の中から現れた両親の姿を見つめている。
 たたらを踏んだミユナには構わず、エリスは駆け出していた。
 二人の後ろ、少し外れたところにアザレルがいる。バルコニーではなく、塔の中に。転移して避けたのだろう。微笑みを浮かべて、立っている。転移がなくとも、どちらにせよ法技は致命傷にはならない。その事は判っていた。
(悪趣味が過ぎるね、アザレル・ロード)
 不思議と――心は穏やかだった。
 思い通りに動く体の軽さ。それがあるからかもしれない。白に近い感情の中で、エリスは次の瞬間にはナタリアとレイス、二人に肉薄していた。
 否――それは正確ではないかもしれない。彼らには、もうすでに『肉』はない。そこにあるのはアザレルが作り出した幻影に過ぎない。イヴと同じに。
「お父様……お母様……!」
 ミユナが、悲哀の声を上げる。縋るようなその声音に、二人は穏やかに微笑んだ。
 ナタリアが口を開く。
「ミユ――」
 その言葉を、エリスは最後まで発させなかった。
 一閃。さらに一閃。
 剣がまるで手足のように動き、その二人の幻影を斬った。流れるような動作。傍からみれば、あるいは何が起きたのかも理解することは出来なかったかもしれない。
 二人に対して正確に薙いだ剣は、そのまま動きを止めない。前に出るスピードは殺さない。
 まるで空気中に溶け消えるかのように、ナタリアとレイスは姿を消した。
 床についたつま先で、更に強く地面を蹴る。アザレルは、すぐそこだ。
 エリスは奥歯を噛み締めながら、アザレルに迫った。だが、二人を斬ったことで――スピードが落ちている。足りない。
 アザレルが更に避けようと身を捩ったそのとき、声が響く。
「エリスちゃん!」
 耳元で風が唸った。
 突風に背中を押される。ゲイルだ。
 その風に乗るように、エリスは地面を強く蹴った。
 アザレルの目が驚愕に見開かれ、彼女は叫んだ――
「ファイディ――!? 何故――」

 空気が悲鳴を上げる。

 何が起きたのか、エリスには判らなかった。
 ただ判ったのは、まわりの空気が悲鳴を上げ、大量の水が押し寄せたということだけだった。
 エリス自身をも飲み込みそうになった水は、しかしミユナの小さな叫び声で軌道を変えた。
 エリスを避け、水流が押し寄せる。洪水のようになったそれは、女神が描かれた色硝子の扉を弾け飛ばした。
 エリスが風に乗り跳躍した瞬間のことだった。
 飛翔していた蒼竜が、その口を大きく開け水を吐き出したのだ。ミユナが精霊に語りかけ、エリスを避けさせた。
 しかしエリスがその状況を理解したのは、あとになってからだった。
 ただ、何も判らずに剣を――振るう。
 水に足をとられ動けずにアザレルは愕然とした面持ちを見せていた。それでも身を捩ろうとする。
 しかしその体を、いつの間に移動したのか――ジークが羽交い絞めにしていた。
 動けない、その事実にアザレルは驚愕したようだった。転移でもしようとしたのだろう、ふいに姿が霞みかける。
 しかしアザレルの顔がエリスの視界を占めたとき、エリスは喉が避けんばかりに声を上げていた。

「斬――ッ」

 弾け跳んだ色硝子と、月光と、押し寄せる水の中。
 風に乗った少女は、破滅の一閃を――薙いだ。


 水と月光に反射し、色硝子が煌いている。
 女神ルナを象っていたその色硝子は、今はただ欠片として輝いていた。
 その、中で――
 赤黒い絨毯の上で仰向けになりながら、アザレルはそれでも微笑していた。
 その体には、深く赤い線が一筋、縦に伸びている。
 どくどくと血を流しながら笑うその姿は、どこか薄気味悪ささえ伴っていた。
 床に広がった水は、血と混じり歪んだ色彩を広げていた。
「何故ですか、ファイディ?」
 変わらず笑みを浮かべながら、アザレルが呟く。うわ言のように。
 バルコニーの手すりに、まるで重みを感じさせない動きで乗っていた蒼竜は、静かな口調で告げた。
『勘違いするでない。愚かき存在よ。わしは未来を司る。未来を途切れさせる汝とは、元から相容れぬものなり』
「――あのお方のご意志ででもですか」
『そうだ』
 断言に、アザレルは穏やかに柳眉を下げた。
「わたくしが、死ぬのですか」
『死なぬ。汝の『死』はすでにない』
「ええ。ええ、そのはずです。なら――」
 すうと息を吸い、アザレルは力を抜いた。
「何故わたくしは、死ぬのです?」
 呟くアザレルに、蒼竜はゆっくりと告げた。
『鍵を――その少女が持っている。だからだ』
 その言葉に、アザレルは澱んだ瞳をゆっくりと巡らせた。
 視線を受け、エリスは見つめ返す。
「そう。……そうですか。今、全てが判りました」
 アザレルが声を上げて笑った――否、嘲った。ごぼりと血を吐き出し、体液に身を沈めながら、月光の中で嘲う。
「素晴らしい。素晴らしいですわ、エリスさん。これが貴女の能力――ルナ様が……あの……お方が」
 声はどんどんと力を失っていった。
「貴女……を……求め、た、り――ゆう」
 アザレルの瞳が、閉じられた。
 その紅を引いた唇は、いつもにまして赤く歪んだ。
 呟きが、漏れる。
「――アイム・オンリー……」
 ただ唯一の。孤独な。いつかの、少女の名前。
 その言葉の意味は、エリスには判らない。
 エリスに判るのは、ただ事実だけだった。
 それが、彼女の最期の言葉だという事実だけだった。
 
 ――ざあっ。

 羽虫にも似たそんな音を残し、アザレルの体が灰色の砂塵に変貌した。
 水と流れ出た血の中に溶け、風に乗って幾ばくかは飛ばされていく。
 それが、アザレル・ロードの――死を紡ぐ天使の、あっけない最期だった。


「……っ」
 砂になったそれを、ジークが蹴り飛ばした。水気を含んでいるため、そう派手には飛ばない。
「あっけ――ねぇな。あっけねえ――こんな――! くそっ……!」
 苦々しげに、彼は呟く。エリスもどこかで、そう感じていた。
 あっけない。あまりにもあっけない、最期だった。あれだけの思いを招いた存在の最期が、これほどあっけないとは思いもしなかった。
 それを見下ろし、エリスは息を吐いた。
 と――強烈な眩暈に襲われ、ふらつく。くず折れかけたエリスの体を、ゲイルが慌てて支えてくれた。
「エリスちゃ」
「……っ」
 頭蓋が割れるような痛みに、歯噛みする。ゲイルの腕に爪を立て、何とか顔を上げた。心臓が軋むように痛み、妙な汗を背中にかいていた。
「……ちから、か」
 静かな声音で、ミユナが呟く。呼気を整え、エリスは首を左右に振った。
 ゲイルから、身を外す。何とか一人でも立っていられた。
「判らない。けれど……たぶ、ん」
「……そうだな」
 静かに頷くミユナに、エリスは視線を外した。
「ミユナ……その、ごめ……」
 謝りかけ、口を噤んだ。それはしないと、いつか彼女と約束したからだ。
 けれど結局言葉も見つからず、エリスは曖昧に続けた。
「レイス様とナタリア様……斬った、ね。あたし」
 エリスの言わんとすることが判ったのだろう。ミユナは嘆息を飲み込み、静かに首を振った。
「いや……あんな悪趣味なもの、壊してくれただけ、ありがたいよ」
「……うん」
 それ以上は何も言わず、エリスは頷いた。
 顔を上げる。
 まだだ。まだ――終わっていない。
 誰も彼も、ずぶ濡れだった。床に横たわっているドゥールの亡骸も。
 エリスから離れ、ドゥールの傍らに膝をつき、もう一度手に触れていたゲイルは、ゆっくりと立ち上がった。
 落ちていたエリスのバンダナを拾い上げ、こちらに手渡してくる。
「行こうか、エリスちゃん」
「……」
 バンダナを受け取り、その碧色の目を見上げる。
 まだ彼の目は、死んでいなかった。
 バンダナを結びなおし、深く呼吸をした。
 砂を踏みつけ、歩き出す。
 バルコニーに出ると、蒼竜がそこにいた。
『行くのか』
「行かなきゃいけないから」
『なら、手を貸そう。幼き人の子よ』
 蒼竜は自らの背に乗るようにエリスたちを促した。
 ジークの手を借り、その背に乗る。
 誰も何も、言葉を発さなかった。
 蒼竜が羽ばたく。
 その背に乗りながら見上げた夜空には、天高くなお紅い月が煌いていた。


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