「あーやちゃんっ」
放課後の喧騒を割る甲高い呼び声に、前田あやはきょとんと振り返る。同じクラスの小柄な女子がきらきらした笑顔で立っているのをみて、思わず首を傾げた。
「どしたの、ユキ?」
「えっへへー。ねぇねぇ、この後時間ある?」
「ん? まぁ、あるけど」
とてて、と近寄ってくるユキはすでに帰り支度だ。白いもこもことした帽子に、同じデザインの上着。小柄な身体と幼い顔立ちと相まって、どうにもあやと同じ高二だという事を忘れてしまいそうな容姿をしている。
「じゃ、買い物行こう」
「買い物?」
「うんっ、チイと、あと佳代っちも誘ってあるよん。かざかざは部活でダメだってー」
「へぇ。いいけど、梨花ついてくるよ?」
友人たちの名前に頷きつつ、あやは従姉の名前を出した。同じ学校に通う同い年の従姉で、遊びに行くときはほぼ必ずついてくるのだ。
「ああ、うん。あやちゃんたちはセットだから」
「セット言うな」
当然のように頷くユキの頭を叩いて顔を顰める。ユキは舌を出すと机を離れて扉へとむかう。
「じゃ、梨花ちゃんと佳代っち呼んで来るねー、チイと待ってて!」
騒々しく教室を出て行くユキを見送り、あやは小さなため息をつく。
「小うるさい娘でごめんよ」
「いや……チイが謝る様な事でもないだろうが」
いつのまにか隣にいたクラスメイトのチイに呟くが、彼女はいつもどおりのどこか淡々とした表情で言い切った。
「ユキの管理はあたしで、梨花の管理はあやだからさ」
「……管理て」
「あたしら似てるじゃん。手のかかるちまいのが何故か傍にいる」
「……チイ、ユキ、嫌いか」
「嫌いだったらつきあっとらん」
毒のある愛なのかもしれない。いまいち理解できなかったが、まぁいいかとあやは諦めた。
「で、買い物ってなに?」
「……あんた、マジで訊いてる?」
「は?」
目を瞬かせると、チイは呆れ顔で黒板を指差した。二月十二日。本日の日直が書かれている。
「……黒板が、なに」
「あんた本当に女か」
チイがジト目で見てくるので思わず睨み返す。そのチイの唇がにっと歪められた。
「明後日は何の日でしょう」
その言葉に、今更ながら何かを思い当たって。
あやはすうっと血の気が引いていくのが判った。
明後日。二月十四日。
セント・バレンタインデイ。
◇
騒々しいデパートの中は外の寒さなどものともせずに熱気に溢れていた。
「おお、すっごーい、いっぱいあるー!」
「すごいねぇ!」
きゃいきゃいとはしゃいだ声を上げているのはちまい二人こと、ユキと梨花で。その隣で普段からおとなしい佳代がにこにこと微笑んでいる。三人の後ろで、あやはげんなりと肩を落としていた。
「何をげっそりしとるか」
「だって、チイ……これは、ないわ」
隣に立つチイに恨みがましい視線を投げてみるが、あまり効果はない。しれっとした表情でチョコレート売り場を見ているだけだ。
デパートの一角に設けられた、バレンタイン特設会場。いろんな種類のチョコが所狭しと並べられ、女性たちがわいわいとその場所を埋めている。自分たちのような制服の高校生も多い。
「……絶対、浮いてる自信あるよ、あたし今」
「まぁ、否定はしまい」
呻くと、チイは短く頷いてきた。あやは身長が高い上に顔立ちもシャープなせいか、どうしても女の子女の子したイメージを持たれる事がないのだ。もっと単純に言えば。
「貰う側だよね、あんた」
「そーなんだよな……」
バレンタインは、中学の頃から貰う側だった。去年もいろいろと貰ったのも覚えている。ただ、甘いものがあまり好きではないので結構厳しい日だったりはするのだが。
「あげたこと、ないの?」
見上げてくる佳代に、あやは少し困った顔をする。
「父さん、なら」
「それは除外で」
だとすると、ない。素直に答えると、佳代は曖昧な笑顔をくれた。
「でも、あやちゃん完全にバレンタイン忘れてたわけじゃないんでしょ?」
ユキが唐突に声を上げる。
「何で?」
「えー。だって二月頭、あやちゃん挙動不審だったよ」
「ばっ、それはっ」
思わず声を荒らげかける――と同時に、がしっと首に手が回された。
「チイっ!?」
「おっけおっけ。ちょーい、黙ってね、あやさんや」
「ふぐっ、むーっ!」
「ユキさんユキさん、続きをどうぞ」
「はいなっ!」
口を塞がれてもがくあやの前で、ユキがピッと敬礼をした。
「わたくし、大嶋雪は、二月頭にそこにいる前田あや二等兵にバレンタインのことを告げましたところ!」
「ふほーへーへふむむー!」
「そんな日もあったけと流したように見せかけて、数日学内のとある場所を故意に避けていた印象があります」
「ふむー!」
なんとかチイの手を逃れようとするのだが、意外と力が強くて解けない。
「ほうほう、ユキ二等兵、ちなみにそこはどこだ」
何が二等兵だ、何を言わせる気だ、と言いたい言葉はいくらでもあるのだが「むー」としか言えない。
そんなあやは放ったまま、チイ、ユキ、佳代、そして梨花までもが顔を付き合わせた。その中で、ユキがにっこり笑う。
「ほ・け・ん・し・つ☆」
「ふむっ……ユキィイイイッ!」
なんとかチイの腕を振り払ってユキを捕まえようと手を伸ばすが、小柄ですばしっこいユキは佳代の手を引いて売り場へと走っていってしまう。小さな背中ふたつが遠ざかるのを見て、ぜえぜえとあやは荒い呼吸を繰り返した。
「あ……のバカ」
「まぁ、そんだけ取り乱すってことは自覚有りってことだわな」
チイの冷静な声に何も言えなくなってしまう。
確かに一時期保健室を避けていたのは確かだ。保健室、というか正確にはその住人である養護教諭、一条椿を避けていたのだが。
ちゃらちゃらとした格好に白衣を羽織った、男のなりをしていながらオネエ言葉の奇妙なあいつを、何故か避けてしまっていた。
「別に……なんとなく、だし」
「あー、はいはい、まぁいいけど」
と、チイが視線を下に落とした。
「めーずらし。梨花、何も言わないんだ?」
「えー?」
少し不機嫌そうな顔の梨花が二人を見上げてくる。たしかに、とあやは少し首を捻った。いつもならぎゃいぎゃいと文句でも言ってきそうなものだが。
「だってあやちゃんは、椿ちゃんに渡さないよ」
「断言かよ」
「うん。だって梨花が渡させないもん。ねー」
にこっと微笑んで、あやが答える前にとててと先にいった二人の元へと走っていく。その背中を見送り、チイがくすくすと笑った。
「こーええ。あんたが渡したら、明後日保健室が血の海になりかねないね」
「……七割くらい冗談じゃなさそうだから、やめろや、そういう台詞さ……」
思わず呻くあやの背中を、チイがぽんと軽く叩く。二人揃って歩き出しながら、あやは隣のチイを見やってみた。
肩口までのふわりとした髪に、意志の強そうな目鼻立ち。あやと一緒に『カッコイイ』とくくられがちだが、あやからしてみればチイは自分よりずっと『女』だと思う。少し、羨ましいと思うほどに。
「チイは、本庄先輩?」
「あー、まぁね。一応」
彼氏の名前に、曖昧にチイが頷く。
「ユキが手作りするっつってたからさ、それに付き合うと思う。明日。ついでだから一緒に作ると思うんだけど」
「ユキはダンナ?」
「ばっればれだもんね、あの子。気付いてないのダンナ本人くらいなんじゃねぇのかなぁ」
「ダンナって女いなかったっけ」
「いたね。冬前に別れてる」
「あ、それ知らなかった」
あやは普段余り恋愛云々の話はしない。興味が全くない、ワケでもないのだがうっかりその話をすると自分に話が振られてきそうで怖かったりするのだ。
「……佳代って誰なんだろ。チイ、知ってる?」
「んにゃ。あれはびっくりするくらいガード固いわ。学校の連中だと思うけど」
「なんで?」
「放課後急いで帰ってたりする様子がないからね」
そういうもので判るんだ、と何となく感心してしまう。やっぱり自分はそういう類に対してかなり経験値は低いらしい。
「あーやちゃーん、みてみてかわいいよ、これ。くまちょこ!」
梨花がにこにこと手を振っている。その手には、立体型テディベアのチョコレート。確かにかわいい。かわいい、が。
「……食うの、それ」
「うん。頭からバリバリと」
「その擬音やめれ」
食べる気になれない、それはさすがに。と思いつつ他のものにも目をやる。
ビターなもの、生チョコ、酒入り、ネタにしか思えないもの、といろいろとある。その中に妙にがっしりとした板チョコを見つけてあやは不思議に思い手にとってみた。
「クーベルチュール、って何?」
「製菓用チョコレートー。手作り用だよ」
間髪入れずにユキが答えてくれる。最初から手作りを考えているユキはその中からいくつか選んでいるようだ。
「梨花、これにしようかなぁ」
「ん? 梨花あげる相手いんのか?」
「え? あやちゃんだよ?」
「……」
当然、という顔で答えられてどうしようもなくて黙ってしまう。その傍で他のみんなが笑っていた。甘いものは苦手だと梨花は知っているからだろう、ちゃんとビターとかかれたものを選んでるあたり断れそうもない。
「佳代はー?」
「んー。このあたり、かなぁ」
と、ブランデー入りのものを選んでいる。こそっとチイが「年上だな」と耳打ちしてきた。そういうもの、なのかもしれない。
デコレーション用のトッピングや、ラッピング用のリボンや袋。チイやユキもわいわいと言いながら選んでいる。身内だけじゃなくて、その売り場にいる皆がやたらかわいく思えて、あやは少し気まずくなった。
似合わないよな、と改めて思う。
こういうかわいい場所に自分はやっぱり似合わない。
「あやー? どしたの」
チイの声に慌てて笑顔を作る。
「いや、別に?」
「ふーん? あや、どーすんの? マジ買わないの?」
「かっ、買わねえよ!」
「えー。義理も? 義理なら、梨花だって許すよなー?」
にこっとチイに微笑まれ、梨花はぷくっと膨れた顔でそっぽを向く。
「しーらないっ」
「あーはいはい」
ぺしぺしと梨花の頭を叩き、チイがこっちを向いた。
「買わないの? 淋しがるよ、椿ちゃん」
「そんっ……」
「そーだよう、あやちゃーん。なんでー?」
「うん、あげないの?」
三人に顔を寄せられ、どうしようもなくて呻く。
「だだだ、だって、別にそんなっ……あいつ、甘いの嫌いだし!」
言うと同時――三人の目がきらりと光った。
「ほう。ほうほうほう!? ちょいと聞きましたか佳代っちさんっ」
「聞きましたですよ、ユキさん。チイさん、どうでしょう」
「やー、男の味覚までちゃんと知ってるとは意外や意外、隅に置けませんなぁ」
「ちょっ、そういうんじゃねえっ!」
慌てて叫ぶが、遅かった。こちらを無視して三人はかしましく顔をつき合わせている。
「やっぱりそういう事ですか、チイさん?」
「でしょうよユキさん。何せいつの間にか呼び方変わってますし? 椿とか呼んじゃってますし?」
「保健室出入り率あがったもんね。クリスマスにはなんか貰ってたしね」
「むーっ、梨花たのしくなあい!」
梨花が叫びをあげるが、実際のところ全て事実なので反論のしようがなくてあやは口をぱくぱくさせた。
たしかに、ある一件を境に呼び方は変わった。出入り率もぐんとあがった。クリスマスには香水を貰った。事実だけ列挙されれば、確かにただの生徒と教師ではない気がする。
「おっけ、はいはい。梨花が今度はちょっと黙れ」
「むーぅ!」
「で、実際どうなのよ? 椿ちゃんとは?」
急に真顔で問われ――
あやは赤くなった顔を隠すために俯くしかなかった。
「べ、別にどうってことは」
「大進歩な発言だな……あんた、一学期まであんなに毛嫌いしてたのに」
「そっ、それはそうだけど、そういうんじゃなくて!」
「判ったから。だったら、渡せばいーじゃん」
そうは言われても。
思わず売り場のディスプレイを眺めてしまう。ハートやらなんやらの飾りがいっぱいで、愛だの思いを伝えるだの、恥ずかしげな言葉があちこちにちりばめられていて。
「そ、そういうんじゃ……ないし……。そりゃ……感謝はして、るけど……」
小さく呻くと、三人から同時にため息を聞かされた。
「も、どーしよーもねぇわ、この子」
「う、うるせえなぁ!」
喚くと、チイはぱっと梨花を解放して肩を竦めた。
「ま、いいけどね。あや、いっこ覚えとけ?」
「なんだよ」
「バレンタインは、感謝の日でもいいんだよ」
にっと笑われて――あやはもう一度赤くなった顔を誤魔化すだけで精一杯だった。
◇
それが昨日のことで――あやはベッドに横になったままじいっとカレンダーを睨みすえていた。
二月十三日。もう明日――というか、後数時間でその日になる。
確かに、感謝はしてるのだ。
学校のことも、私生活のことも含めて、一条椿という男がいてくれたから救われた部分はたくさんある。それは確かだが――
あの、チイやユキや佳代のようなきらきらとした笑顔を見ていると、柄じゃないよな、とも思う。
「うー……」
ごろんと寝返りをうって今度は天井を睨む。頭の中で、昨日のチイの言葉が回っている。そして今日も、椿を全力で避けてしまった。その行動に、自分でも情けなくはなる。
「もー」
呻きながらもう一度ごろんと寝返りをうつと、部屋の飾り棚が目に入った。小さな香水のビンが目に入る。慌てて枕に顔を埋めた。
クリスマスに、とあいつから渡された香水。まだ、一回しかつけていないけれど。
好きとかどうとかは、正直なところやっぱりよく判らない。それでも、笑ってるのを見るとほっとするし、一緒にいると落ち着く。何より、感謝の気持ちはやはり大きい。
――バレンタインは、感謝の日でもいいんだよ。
もう一度脳裏で再生されたチイの声に、あやは思い切って身を起こした。マフラーだけ羽織って玄関を飛び出す。
「ちょっと、あや!? どーしたの、こんな時間に!?」
「コンビニ!」
母親にそれだけを叫んで身を切るような寒さの外へと飛び出した。
◇
『ごめん。ちょっと用事あるから、今日は先行く』
簡素なメールを梨花に送ったのは、いつもの登校時間よりも随分早くで。
そしてその時間にはあやはすでに学校前に到着していた。
朝の冷え込みは厳しい。吐く息も白いし、スカートのポケットに突っ込んだ指先もかじかんでいる。生徒も、いつもよりまばらだ。
それでも、知っていた。
あいつはいつも、登校してくるのは早いのだ。
冷たい空気を一度吸い込んでからあやは駆け出した。校門を抜け、昇降口を通り、そのまま保健室に飛び込む。
「椿っ!」
「はいっ!?」
唐突な呼びかけに驚いたのか、デスク前に座っていた椿が飛び上がった。いつもどおりの、ちゃらちゃらとしたパンクスタイルに白衣を羽織った妙な格好。彼が、目を丸くしている。
「あ、あやちゃん……? びっくりした……今日は早いのねぇ?」
その言葉には答えず、つかつかと歩み寄る。ポケットの中に突っ込んでいたものに指先で触れてから、ぎゅっと握って突き出した。
「やる」
「え……?」
「手!」
「はいっ!?」
叫ぶと慌てて椿が手を出してくる。その大きな手に、持っていたものをのせる。
コーヒーヌガーのチロルチョコ、ひとつ。
一瞬、二人の間に沈黙が落ちる。それに耐え切れず、あやはばっと後ろを向いた。来た時と同じ速度で扉を出て行こうとする――
「って、待った!」
ぐいっと腕を引っ張られてつんのめる。だめだ、と思った。耳まで熱い。
「逃げないでちょうだい、せっかちねぇ」
「……るさい」
うめくと、ぽんと頭に手がのせられた。小さな笑い声が届く。振り返ってみることは恥ずかしくて出来ないけれど。
今椿がどういう顔をしているのかは、判る気がした。
たぶんいつもみたいに、困ったように微笑んでいるんだろう。
「あや?」
低く囁かれる。
「……なんだよ」
「ありがとな」
素直な感謝の言葉が、恥ずかしかった。慌てて椿の手を振り解いて外へ飛び出す。廊下に出てすぐ、あやは少しだけ振り返ってみた。
いつも見るふわりとした笑み。片手にはチロルチョコを持ったまま、椿がこちらを見ている。
すぐに目を逸らし、あやは小さく呟いた。
「……感謝は、してるから」
聞こえるかどうかも判らないくらいだ、と自分でも思った。それでもそれ以上大きい声で言う気にはなれず、あやは駆け出した。
まだ朝早い廊下の空気は、ひんやりとして冷たい。
でもなんだか少しだけ、気持ちいい気がした。
――Fin.