息が止まるかと思った。
 その一枚で、俺は世界を変えられるかもしれないと思った。
 大げさでなくて本気で、彼女を撮ることで世界が変わると信じられた。




風を撮る






 はじめて俺が彼女を見たのは、五月に入ってすぐの月曜日。ゴールデンウィークあけの放課後だった。
「ミキケン!」
 思わず声を張り上げていた。俺の目はもう校庭の一点に吸いつけられていて、足はその場を動こうとはしなかった。それなのに我関せずとばかりに歩みを進めるミキケンの気配を感じて、俺は叫んで奴を止めさせるしか思いつかなかった。
 ミキケンが足を止める気配がした。
 ミキケンこと三木健二は同中出身の友人で、無口、無愛想、無表情と三拍子揃ったナイスガイで、クラスは盛大に離れたが今でもこうしてつるんでいることが多い。仲良しさん、だ。ミキケンは認めないと思うが。
「浅木?」
 怪訝そうなミキケンの声。俺はミキケンを振り返ることも出来なくて、ただ校庭の一点をじっと見据えていた。
 風があった。
 校庭の片隅、陸上部が集まっている。その一角に、風が吹いていた。
 ショートダッシュの練習でもしているらしく、何度も繰り返して走るひとりの女がいる。
 陸上部の女子なんて珍しくなんてない。それなのに、何人もいる中でただひとり、その女にだけ目が吸いつけられていた。
 すらりとした身長。長い手足。高い位置できゅっと結ばれた髪。挑むような眼差し。それに何より、その女が全身に纏うものが俺の目を吸い寄せていた。
 それはただ、風だった。
「ミキケン」
 その女を見たまま、俺は熱に浮かされたうわ言みたいに呟いていた。
「すげぇのがいる」
 ミキケンは俺の隣に並んできて、やがて「ああ」と低く頷いた。
「クラスにいたと思う、あいつ」
「マジッ!?」
 思わず叫んでミキケンを振り返っていた。ミキケンは面倒くさそうに顔をしかめて「たぶん」と頷いた。基本的に他人に興味を持たないミキケンのことだ。曖昧なのは仕方ない。むしろそのミキケンでさえ、クラスにいた気がすると覚えていたくらいなのだから、あの女の存在感はすごいのかもしれない。ミキケンのクラスってことは六組か。
 ぞくりとした。
 その瞬間、俺は居ても立ってもいられなくて、首からぶら下げている一眼レフのカメラを抱えて渡り廊下を飛び出していた。
「浅木」
 ミキケンの呼び声も無視して、校庭に降り立つ。唐突な俺の行動にぎょっとしているらしい野球部の連中には目もくれず、俺は眼レフのカメラを構えた。
 おじさんのお下がりのフィルムカメラ。中学の頃から使い続けているそれはすっかり俺の手に馴染んでいて、殆ど何も考えずに手が動いていた。シャッタースピードを速めにして、露光をいじって、ピントを合わせる。
 カシャッ、カシャッ、カシャッ――
 心地よく重い、シャッター音。二枚、三枚、四枚――五枚。そこでいったん俺はシャッターから指を離した。
「……お前それじゃストーカーだ」
 ミキケンの冷たすぎる一言も無視して、俺はカメラを抱えたまま走り出した。陸上部の傍まで走っていく。俺の剣幕に、女子陸上部はぎょっとしたような顔で全員が動きを止めた。もちろん、あの女もだ。
「い……一年生? 何か用?」
「ある。おおあり」
 背の小さい二年生に即答して、俺はその女に向き直った。
「あんた」
「え?」
「名前」
「か……風岡風子、だけど……」
 誰? と警戒心ばりばりの声を無視して、俺はぞくぞくと這い上がってくる興奮を抑えられずに、思いっきり笑っていた。
 見つけた。見つけた見つけた!
「かざおか、ふうこ」
 名前を口にして見る。か、風の丘の風の子――!? うおおお、まさに、まさに天啓って感じの名前じゃないか! すげぇビバな名前をつけたあんたの両親に敬礼だ!
「俺、一組の浅木康弘ってんだけど」
「……はぁ」
 気持ち悪そうに言われるが、俺、めげません! だって天啓!
「風岡風子、あんたに決めた!」
 俺の堂々の宣言に、陸上部どころか他の部活の連中含めた校庭全体に一瞬奇妙な沈黙が落ちて。
 ややあって当の本人風岡風子がでかい目を丸くしながら叫んだ。
「はぁっ!?」
 ……あれ。俺、はずした?

 ◇

「かっざおっかさーんっ」
 六組の戸をバシコンっと開いて、俺はさわやかな声を上げた。同時に、六組の空気がしんっと静まり返る。ミキケンのため息と、それから――
「何で逃げるかなっ!?」
 後ろの戸からそそくさと出て行こうとする風岡風子を見つけ、俺は思わず叫んでた。
「さよならっ!」
「待ってー!?」
 慌てて尻尾みたいな髪を引っ掴むと「ぎゃっ」と短い悲鳴と共に風岡風子が足を止めた。
「いったいなぁ! 何するのっ」
「だって逃げんだもん、俺だって暴力はふるいたくなーいでーすよー」
 涙目で叫んでくる風岡風子に肩を竦めて見せる。凍りついたような六組の空気を感じて俺は風岡風子の首に腕を回した。
「いやいやいや、おっさわがせしゃーしたーっ」
「いやーっ、なんでひっぱるのー! たーすけーてーっ」
「くくくっ、いやよいやよも好きのうちぃっとなぁっ」
 ヘイヘイ姉ちゃん悪あがきだぜいっ。ミキケンの深いため息を扉を閉めて追いやって、俺は風岡風子を引っ張って廊下を進んでいく。廊下を歩くほかの生徒が何事だと見つめてくるが、まぁ気にしない。別にとって喰やしねぇし。廊下の端まで引っ張っていって、俺はそこでようやく風岡風子を解放した。いやいや、もちろん廊下側は俺が立っていて、通せんぼした状態でね。
「一体何なの?」
 壁に背中を預けた状態で、風岡風子が俺を睨む。んおぅ。美人の怒った顔って迫力だぁね。ってそーじゃねぇ。目的目的。
「だぁから。昨日言ったじゃん。あんたに決めたって」
「あたしはポケモンじゃないし戦えませんけど!?」
「別に戦えっていってないじゃん。おばかさーん」
「あんたねぇ……っ」
 あ、怒っちゃった。いや、ちげぇちげぇ。怒らせたいわけじゃないし。こほんっ、とひとつ咳払いして、俺は風岡風子に向き直る。
「確かに唐突だったことは謝る。ごめんなさい。ってかだってあんた、俺が何か言う前に追っ払うし逃げるし話聞いてくれないじゃん」
「……何の用?」
「モデル」
 ざくっと言い切ると、風岡風子が固まった。
「……なんだって?」
「だから、モデル。モーデール。被写体。これの」
 言って首から下がっていたカメラを持ち上げる。おじさんから貰ったF2のフィルムカメラ。いいカメラだけど、当然古い。今じゃデジカメが完全主流で、これみたいなカメラはとっくに製造も打ち切られている。でも俺にとってずっと使い続けてきたこれは新しいカメラを買うよりずっとずっと価値がある。
 風岡風子は俺とカメラを交互に見つめ、ややあって素っ頓狂な声を上げた。
「写真のモデルっ!? あたしがあっ!?」
 ……だからそう言ってんじゃん。
「やだよっ。何でそんなことしなきゃならないのっ!?」
「これ見て」
 喚く風岡風子を無視して、俺は数枚の写真を手渡した。風岡風子はそれを受け取って、目をぱちくりさせた。
「綺麗に撮れてんだろ」
 昨日撮ったばっかりのあの写真だ。風を纏って走るような――ううん、ほとんど風そのものみたいな風岡風子の姿。
「すげぇって思った。あんたを撮りたいって思ったんだ」
「……そう、言われても」
 困惑した顔を上げ、写真を返してくる風岡風子。
「あたし、写真撮られるの好きじゃないし、時間だってないし」
「あ。そっちは平気」
「は?」
 にっと俺は笑って告げた。
「大丈夫、勝手に付きまとうから」

 ◇

 風岡風子は大変迷惑がっていらっしゃったけど、宣告どおり俺はその日から風岡風子に付きまとっては写真を撮り始めた。
 主な場所は校庭。陸上部の練習中。あとは普通に校舎内。教室、廊下、食堂とかピロティとか、いたるところ。風岡風子の居る場所居る場所で俺はシャッターを押し続けた。
「かっざおっかさーん」
「おーっ、今日は速いねーっ」
「ひゃー、いい顔いい顔。俺にも向けてくれるとうれしいなぁ」
 ぶっちゃけ正直テンション上がりすぎていた。
 一週間も過ぎる頃には、俺のこの行動は花総二期生の名物みたいになっちゃってた。
「よー、浅木。最近なんかストーカーやってんだって?」
「うわ、ひでぇ。そんなんじゃないっつの」
 廊下ですれ違う友人たちがそんな風に話しかけてくるくらいで、やられてる本人にとってはもっと重荷だったらしい。
 付きまとい始めて十日目。風岡風子がとうとうキレた。

 ◇

「いいかげんにしてっ!」
 五月晴れの青空に、風岡風子の怒鳴り声が響き渡った。
 一瞬、校庭の喧騒が静まり返る。陸上部の顧問の松もっちゃんも、他の部員も、野球部も他の部も。怒鳴る風岡風子と怒鳴られる俺を交互に見て動きを止めている。
「毎日毎日毎日、気持ち悪いしうっとうしいし迷惑なのっ! いいかげんにしてっ」
 怒鳴られて。
 俺はカメラを構えたまま固まるしかなかった。
「金輪際あたしに近づかないで」
 有無を言わさない口調で言い捨てて、風岡風子は俺に背を向けた。ずっ、と首が重くなった。カメラを手から離したからだ。風が吹いた。俺と風岡風子の間を、壁みたいになって通り過ぎていく。
 迷惑、迷惑――か。
 首に掛かるカメラの重みを感じながら、俺は陸上部にぺこっと頭を下げた。唇の端を強くかんで、そのまま校庭を後にした。

 迷惑なのっ!

 風岡風子の声が、耳の中でうるさかった。

 ◇

 ちぃとでも考えればすぐに判るはずのことだった。
 確かに誰でも自分の行くとこ行くとこに密着取材さながらで付きまとわれたら、疲弊もするし気持ち悪いしうっとうしいだろう。しかも相手は知らない奴で、一応異性で、しかも勝手に写真撮られちゃそりゃそう思って当然だ。そんな当然なことに気付かないほど、俺は舞い上がっていてテンションあがりっぱで、自分勝手になっていた。
 言い訳するなら、天啓だって思ったからだ。
 こいつの写真を撮ることが、俺の夢に繋がるって思ったからだ。
 でも当然ながらそんなもの、風岡風子にとっちゃ関係なかった。当たり前のことだった。

 ◇

「……珍しい」
 久しぶりに一緒に登校した次の日の朝、ミキケンが怪訝な顔で呟いた。
「何が」
 学校は駅から遠い。その道のりをとろとろ歩きながら俺は短く問い返す。
「カメラ。下がってない」
「……鞄には一応入ってる」
「それでも珍しい。お前がカメラ下げてないの、行事の日以外で始めてみた」
「俺もそんな喋るお前、久々に見たけどな」
 すうすうする首を一度軽く回して、少しだけ歩を早める。隣を歩いてくるミキケンが短くため息を吐いた。
「あれ、やめるのか?」
「やめねぇよ」
 即答する。ミキケンだけが知っている俺のやるべき夢。『あれ』のこと。それはやめない。やめるはずがない。
「一生やめねぇよ」
「じゃ、なんで?」
「……反省中」
 それに、風岡風子じゃなくたって撮れるものかもしれないんだ。俺は舞い上がっていて、そんなこと考えもしなかったけれど。
 ミキケンはそれ以上何も言わなかった。
 その日から暫く、俺らの間でカメラの話題も写真の話題も『あれ』のこともでなかった。そんなこと、ほとんどはじめてだった。
 風岡風子とも会わなかった。廊下ですれ違っても目もあわせず、できるだけ関わらないようにしていた。
 そうすると自然六組からは足が遠のいて、ミキケンとも学校で喋る機会はがくんと減った。俺は一組で、廊下の端と端。会わなければ会わないですんでしまった。俺はつるんで遊べる友達はそこそこ多いし、淋しいって思うほどでもなかったけど、なんだかちょっと物足りない日々が続いた。
 それから暫くした水曜日。
 久しぶりに雨が降った。

 ◇

 雨が降ると学校という場所は一変する。そのことに気付かない奴も多いけど俺は知っている。
 景色も風景も空気も変わるし、何より人の流れが変わる。渡り廊下も屋根がついている場所が混むし、体育館が無駄に混む。でも俺はそんな雨の日が意外と好きだ。俺だけの秘密の場所が穴場になるからだ。
 食堂と体育館の間の細い道を通り抜けて、山岳部の連中が使っている壁のぼりの器具(ロッククライミングっていうんだっけ?)の横、用途不明の非常階段がある。……上がっていけばどこかには(たぶん食堂の上とかその辺。でも扉はかぎかかってる)通じているんだろうけど、さび付いていてもはや完全用途不明と化しているその場所は、かなり学校の中でも隔離されている。俺がその場所を見つけたのは入学してすぐの頃で、普段はそれでも一応山岳部の連中が居たりするんだけれど、雨の日には奴らはいない。よってささやかな屋根もあるこの場所は雨にも濡れずに過ごせる穴場スポットになる。
 その階段を数段上り、段のところに座り込む。
「ふぅ」
 ざわめきは聞こえるけれど、なんだか隔離されているせいか遠い。少しだけ落ち着く。鞄の中からカメラを取り出して首に下げる。久しぶりの重みが心地良い。ついでに携帯電話を取り出してみる。メールも着信も特になし。ニュース記事だけざっと目を通す。
 ――二歳の子供が殺された。そんなニュースが簡素な文字で流れている。
 毎日毎日、そんな滅入るニュースばっかりだ。ぱちんっと携帯を折りたたんでポケットにねじ込んだ。空いた手でカメラを軽く叩く。
 おじさん、日本もあんたが望んでたようにはならないのかな。
 鞄の中から数冊のポケットアルバムを取り出してあけてみる。見慣れた写真たち。
 ――写真はさ、撮るものじゃなくて撮らせてもらうものだから。
 ふいに、懐かしいおじさんの声を思い出した。ああ、そっか。そういえば言ってたっけそんなこと。俺、そういうこと忘れてたから、迷惑かけたのかな。自嘲気味に笑って、ポケットアルバムをそのままに俺はカメラを携えて立ち上がった。非常階段をカンカンとあがっていく。
 視界が開けた。
 少しあがると、体育館と食堂の隙間から雨に濡れた校庭が見渡せる。人は居ない。ちょろちょろ見えるのは、体育館やら食堂やらを出入りする生徒の姿。
 なんでもない、当たり前の風景。
 カメラを持ち上げる。シャッターを下ろす。カシャッ、カシャッと気持ちのいい音がする。久しぶりの手ごたえにぞくぞくする。
 同じようでいて、一瞬も同じ時を留めない日常の姿。誰かが笑って、誰かが怒って、誰かが悩んで、誰かが泣いて、誰もが生きている日常の姿。
 アングルを変えて、シャッタースピードを変えて、ピントを変えて。何度も何度もシャッターを切る。
 思う存分撮り終えて――ふっと大きく息を吐いた。
「あーっ、生き返るっ」
 やっぱ駄目、俺駄目、写真撮ってないと息がつまる。やっぱ撮らないと駄目だ。
 でも。
 ……ものたりねぇな。やっぱ。ちょっと物足りない。あの風みたいな姿を――撮りたい。
「……つってもまぁ、嫌われちゃいましたからねぇ」
 苦笑して呟いて、降りようと振り返って。
「うおっ!?」
 俺は思わず叫んで後ろにすっころびかけた。がんっ、と階段に腰を打ち付けて座り込む。
「いってぇっ」
「ちょっ……大丈夫?」
「くおぅ……いや、痛い。痛い、けど」
 涙目で呻きながら、俺は顔を上げる。
「何であんたがここに居るんだよ……」
 びっくりした顔でこっちを見下ろしていたのは、風岡風子本人だった。

 ◇

 制服のままの風岡風子は俺が置きっ放しにしていたアルバムを抱えていた。何がなにやら判らずに黙り込む俺の隣に同じように座って、小さな声で呟いてくる。
「いきなり来てごめん」
「いや……それは別にいいんだけど。そりゃ盛大にビビったけど……つかなんで……」
「三木くんが」
「ミキケン?」
「雨の日はたぶんここだって」
「あー……」
 頷く。ミキケンは当然知ってるし、ミキケンとこいつは同じクラスだし判るのは判る、けど。
「……いや、じゃなくて。判るけど判んねぇよ。何でわざわざここに来たんだ?」
「それはその……。いいすぎたって、思って。その、ごめん」
「え?」
 思わず隣を見る。風岡風子は下を向いたままだった。いや、ええと。
「……謝るのこっちだし。悪い。迷惑だったんだろ?」
「うん、すごく」
 はっきりした女だなぁ、おい。
「でも、あそこまで言うことなかったかなって。……浅木くん、なんかすごい落ち込んだ顔してたし」
「……そうだっけ」
「してたよ」
 断言される。その辺は、自分じゃ判らなかったので黙っていた。
「話、聞けばよかったなって後になって後悔して。それで話したくて来たんだけど」
「うん」
「浅木くんは、何であたしを撮りたいって思ったの?」
 顔を上げてこっちを見て。
 風岡風子が真正面から問いかけてくる。視線を受け止めて、俺はふっと息を吐いた。一度雨雲の掛かるくらい空を見上げてから、風岡風子の抱えているアルバムに視線をやる。
「それ、見た?」
「え? あ……うん。勝手にごめん。下にあったから」
「別にいいよ。それ、どう思った?」
 問いかけると、風岡風子は少し唇を噛んだ。目を伏せて、小さく呟く。
「哀しい」
「だろうな」
 頷く。そう思うはずだ。古い写真だ。遠い異国の子供たちがたくさん写っている。笑っていたり、ただ澄んだ目をこちらに向けていたり。やせて、がりがりで、怪我をしていたりする子供たちが、汚い路地に座ったままの状態で、それでも笑っている。時には傷ついた眼差しで責めるようにこちらを見ている。そんな写真がたくさん収められている。
 日常の姿だ。
 でもそれは、俺たちの知らない日常だ。
「これ、浅木くんが撮ったの?」
「まさか。おじさんだよ。インドとかあの辺行ったときにとって送ってきた写真」
「おじさん?」
「そ。俺の親父の弟さん。このカメラの元の持ち主。――もういないけどな」
「いない?」
 きょとんとする風岡風子に軽く肩を竦める。
「死んだ。俺が中学入るちょっと前。内戦起きてる国で、紛争に巻き込まれて。遺留品としてカメラは戻ってきたけど、おじさんが撮ったはずの最後のフィルムは入ってなかった。なんかまずいもん撮ったんだろうけどな」
 当時はニュースになったし、政府も向こうの国に抗議とかしてくれたらしいけど、結局フィルムは戻ってこなかった。その辺の詳しいことは最近知ったばっかりだ。
「フリーのカメラマンだったんだ、おじさん。そういう写真いっぱい撮ってたし、それなりに有名だったらしい。帰国するたびにいろんな話聞かせてくれたし、いっぱい写真見せてくれた。すげぇなついてて……で、おじさんが死んだ後、親父が俺にこのカメラくれた」
 戦争や紛争が日常の子供たち。学校に通うことを夢見るしか出来ない子供たち。俺たちと同じ星に住んでるのに、同じ時代に生きているのに、全く違う日常を過ごしている子供たち。
「危険だってことはおじさんも理解してたんだって。親父も何度も止めたらしいし。でも、おじさんはそういう土地へ行くのをやめなかったし、そういう土地で必ずカメラを構えてた。その場所の日常を撮りつづけた。何でだと思う?」
 風岡風子は軽く首を振った。判らない、というように。
「世界を変えたかったんだって」
「世界を……」
 大げさな言葉に、風岡風子が絶句したみたいに目を見開いた。小さく笑いかける。
「ジョン・レノンになりたいんだってよく言ってた」
「ジョン・レノンって……ビートルズ?」
「うん。戦争に反対し続けて、イマジンを歌って……歌で世界を変えようとした人。おじさんは写真で世界を変えたかったって」
「写真で……出来るって思ってたの?」
「出来る。俺の世界は変わったもん」
 言い切ると、風岡風子が目を瞬かせた。俺はアルバムを指差して、
「俺、それ見たとき自分の中の何かが変わった気がした。俺の知らない日常があって、俺たちはただ単純にかわいそうとか辛いとか思うだけだけど、そいつら違うんだよ。当たり前だから笑ってもいられる。そういう日常が、まだまだこの星のこの時代に存在する。すげぇたくさんいる。それを知ったとき、俺、今こうして学校来て当たり前に笑ってる今をすげぇって思った。震えた。変わったんだ、俺の中で何かが。俺の中の世界が」
 ミキケン以外にこの話をするのは実ははじめてだった。ちょっとだけ緊張しながら、でも俺は話したくて仕方なくて、風岡風子はそれを聞いてくれていた。
「俺の世界が変わっただろ。ってことは、同じように誰かの世界も変わっていくかもしれない。そうしてみんなの世界が変わったら、この世界っていうでかい単位も少しは変わるかもしれない」
 おじさんの夢見た世界。誰かが誰かを思う日常が、当たり前に広がる。そんな世界。
「でもおじさん、死んじゃったから。俺にこのカメラ回ってきたとき、じゃあ次は俺の番だって思ったんだ」
「世界を変える……?」
「うん。でも俺はおじさんとは同じようで逆の方向からやってみたかった」
 言って立ち上がる。横で同じように風岡風子も立ち上がるのを見てから、俺はすっと腕を伸ばした。
 さっきまで撮っていた、学校の風景――
「当たり前の、俺が知ってる日常を撮っていきたかった」
 帰り道に寄り道したり、テストでうなったり、授業中にうたたねしたり、喧嘩したり泣いたり喚いたり、誰かを好きになったりする。そんな、俺たちの、俺たちなりの当たり前の日常を。
「日常がホントはすごいものだって、切り取って見せ付けてやりたかった。お前ら、実はこんないい顔してるんだぞ、自分で気づいてないだろって。それとおじさんの写真並べたとき感じるものが絶対あるはずだから」
 階段の手すりに寄りかかって、俺は軽く笑った。
「ミキケンはさ、それ感じてくれたんだ」
「え?」
「中学の時、俺が撮ったホンットに普通の日常の写真をさ、先生が廊下に貼ってくれたんだ。ミキケン、その写真の前でずっと足を止めてて……で、俺に話しかけてきた。『俺たち、こんな風に生活してるんだな』って」
「すごいね」
「うん。嬉しかった。でさ、さっきみたいにべらべら喋ったわけよ。俺が日常を撮り続ける理由」
「うん。そしたら?」
「『変わったよ』って言った。俺の写真で、ミキケンの中の世界は変わったって言ってくれた。すっげー、マジすげぇ嬉しかった」
 当時から無口で無愛想で無表情のミキケンの、ボソッとした一言で俺がどれだけ飛び上がって喜んだか。懐かしく思い出しながら振り返って――言葉を失った。
 風岡風子が、笑ってた。満面の笑顔で。
「すごいね」
「え……あ、うん」
「それで、なんであたしを撮ろうとしたの?」
「あ」
 言われて頭をかいた。そうだった。それを言わなきゃ。
「あんた、風みたいだったから」
「走ってたから?」
「アホ。そんなんいっぱいいるだろ。そうじゃなくて、それだけじゃなくて。上手く言えないけど……ホントに風に見えた。すげぇって身体がびりびりした」
 きゅっと拳を作る。あの時身体に走った衝撃は、まだうずいている。
「風はさ、どこにでも吹くじゃん。俺らの日常にも、おじさんの撮った日常にも。だから……なんっていうのかな。あんたはどっちの日常も吹き抜けていけそうだったんだ」
 その風を、俺たちの日常を過ごす当たり前の風を撮ることで。
 あの日常にさえもその風を吹かせることが出来る気がして。
「あんただって思った。あんたを撮らなきゃいけないって。俺の撮るべき日常の姿、あんただったって。見つけた! ってすげぇ興奮して……で」
「付きまとった」
「ホントごめんなさい……」
 うなだれると、風岡風子が声を上げて笑った。それから、まるで内緒話を切り出すようにそっと唇に指を当ててから囁いた。
「あたしさ」
「うん?」
「走るの、嫌いだって思ってたんだ」
「……はぁっ!?」
 今度は俺が素っ頓狂な声を上げてしまった。その声が面白かったのか、風岡風子はくつくつと笑いをかみ殺す。
「あたしね、いっこ下の妹がいるの。陸上部、中学まで一緒にいたんだけど。あいつすごいの。すっごい速くてばんばん記録とか出してさ」
 そっと腕を伸ばして雨粒を受けながら、風岡風子が囁くように喋り続ける。
「最初に陸上始めたのはあたしで、あいつは後からまねしただけのはずなのに、あっちのが記録出すわけ。走るのが好きって言い切っちゃうくらいでさ。なんかお姉ちゃんとしてはどんどん鬱屈してきちゃうわけ。でも高校入って結局陸上部に仮入部して……でもやっぱ記録とか出せるわけじゃない。あたし速くないんだよ別に。いないのに妹のこととか考えちゃって、やっぱ本入部はやめようかなぁって思ってたときだった。あんたがいきなり来たの」
 言って、ポケットから数枚の写真を取り出す。
 俺が撮った、風岡風子の写真だ。
「これ見て、びっくりした。びっくりしたんだよ、ホントに。なんだぁ、あたし楽しそうだ。走るの、嫌いなわけじゃないんだって」
 そう言ってふふっと笑った。
「三木くんと同じかな。こんな風に生活してるんだって、こんな風に走ってるんだって、自分じゃ見えない部分見せられてドキっとした」
「変わった?」
「え?」
「あんたの世界」
 俺の問いかけに風岡風子は口をつぐんだ。少ししてから唇の端をくっと持ち上げて、
「さあ?」
 と笑った。
「さあって!」
「これから判るといいなぁって思って」
 言いながら、風岡風子が階段を下りていく。
 ――あれ? あれ、まって。ちょーっとまって、ジャストモーメントプリーズ!
 これから――?
「風岡!」
 慌てて呼び止めると、風岡風子は足を止めて振り返ってきた。ポニー・テイルが風にふわっと揺れて笑っている。
「これからよろしく、浅木」
 その一言は。
 これからも撮っていいってこと、だよな?
 これから撮り続けて、あんたの世界を変えるような一枚を――ううん、そんなちっこいことじゃない。
「おっしゃまかせとけ!」
 雨音を背に、俺はばんっと胸を叩いた。
「世界を変える一枚、あんたで撮ってやっからな!」

 そうだ、まかせとけ。
 俺は当たり前の日常を撮る。
 おじさんが俺らの知らない日常を撮ることで世界を変えようとしたように、俺は俺たちの日常を撮ることで世界を変える。
 その中の一枚としてあんたを撮る。風を撮る。
 あの時感じた俺の直感は間違っちゃいない。
 そうだ、俺はあの時思ったんだ。息が止まるかと思ったんだ。
 その一枚で、俺は世界を変えられるかもしれないと思ったんだ。
 大げさでなくて本気で、あんたを撮ることで世界が変わると信じられたんだ。
 だから。

「覚悟してろよ、風岡風子!」

 指突きつけて宣告したら、風岡風子はもう一度大きく笑った。
 おじさんの撮った日常と俺たちの日常の両方を吹きぬけていくような風が、ふわりと笑った。


――Fin.

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