体育の喧騒が、校庭から聞こえて来る。そのざわめきに耳を傾けたまま、彼女は目を閉じていた。白いシーツによく映える、漆黒のショートヘア。目鼻立ちのすっきりとした、大人びた顔立ちをした少女だ。長い睫毛が、頬に僅かな影を落としていた。
 風が吹き抜ける。窓を抜け、カーテンを揺らし、前髪をかすめていく。
 梅雨の合間の晴れだ。まだ梅雨明け宣言はされていないけれど、もう少ししたら真夏の陽射しが痛いほどに肌を焼く季節になる。今はまだ、この暑さが心地いい。
 うつら、うつら。
 舟をこぎ始めたとき、窓とは反対側のカーテンが勢いよく引かれた。
「こぉら、あやちゃん。また勝手にサボって!」
 呆れたような、笑ったような声に、彼女――前田あやはすっと目を開けた。
 カーテンを引いたそのままの姿勢で、養護教諭が立っていた。
 かなりの長身に、肩幅の広いがっしり体型。少し長めの赤い髪は、染めているのではなく自前らしい。黒のTシャツに黒と赤のチェック模様のパンツ。首には十字架のチョーカー。同じデザインのピアスがいくつか。そんな格好の上から、白衣を羽織っている。
 あやは彼を見上げながら、内心で呟く。
 つくづく、妙な男だと思う。
「ちょぉっと。なぁに? じぃっと見ちゃって」
 一条椿。
 こんなナリでこんな口調でこんな奇妙な奴ではあるが――
 あやの通う学校、大平市立花川総合高等学校の養護教諭――つまり、保健室の先生だったり、する。





「あやちゃん、コーヒー、ミルクとお砂糖はいる?」
「いらない」
「あら、そう? じゃ、はいどうぞ」
 差し出されたコーヒーを受け取って、あやは小さく頷いた。クーラーが効いている保健室では、確かにホットのほうがいい。素直にすすっていると、目の前で嘆息をつかれた。
「何だよ」
 カップに口をつけたまま、睨みあげる。もっとも、こちらの睨みなんて効きやしないことはあやにだって判っていたが。
 やはりと言うか当然と言うか、ひるむことも一切なく、椿が苦笑する。
「何だよ、じゃないわよ。びっくりするでしょう、もう。勝手にサボっちゃ駄目でしょ?」
「許可取ればいいのかよ」
「……それもどうかとは思うけれど、アタシがいない間にベッドに潜り込んでるのはもっとどうかと思うわ」
「あたしはお前のその口調がどうかと思う」
「ほっといてちょーだいっ」
 なよなよすんなよ気持ち悪ぃ。
 胸中で毒づくが、それでも、今はさほど気にならなくなっている。少し前のあの一件以来、随分こいつに対する見方が変わったな、と自分でも思う。前は、嫌いだった。保健室にさえ近付きたくなかった。それが今では、こうしてこっそりサボりに来るほどになっている。
 教師としては駄目なのだろうが、椿はサボる理由を深くは訊いて来ない。問い詰めることも、教室に帰そうとすることもあまりない。それが、あやには心地良かった。訊いて欲しいと思った時は、それとなく訊いてくれる。むかつきはするが、それが大人なのかもしれないと、そうも思う。
 少しだけ、何も言葉を交わさなかった。さっきまでと同じ、体育の喧騒を保健室の中で聞く。いつも飾ってある百合の花の匂いと、保健室の薬品の匂いが、今はコーヒーの芳しい香りに包まれていた。
 コーヒーをすすりながら、少しだけ椿を見た。整った顔立ちをしている。自前の赤い髪も、彫りの深い顔立ちも、ドイツ人の血が四分の一入っているからだそうだ。パンク系のファッションも、よく似合う。黙っていれば――たぶんこれが、一番の問題だ――格好よい。
 ふと、目があった。一瞬ぎくりとして反射的に視線を逸らすが、椿は気にもしていない様子で微笑む。
「今日はどうしたの?」
 静かな問いかけに、心臓が跳ねた。
 カップを握った手に、知らず力が入る。ばれないように、カップをあおった。コーヒーの苦味を舌先に感じてから、囁くように呟く。
「別に。いつもの発作」
「そう」
 微笑んで、椿が立ち上がる。デスクにおいてあった何かの書類らしき束を持って、あやの真後ろにある棚へと移動した。その途中で、ぽんと頭を叩かれる。大きくて、やさしい手。
 発作、と言っても別に持病を持っているわけじゃない。ただ、時折、独りになりたくなるのだ。教室の喧騒が、学校と言う集団生活の場所が、たまらなく苦痛に感じるときがある。普段は、そんな素振りを外に出すことはない。だけどたまに、耐えられなくなる。人の中にいること。人の中で、独りだと感じてしまうことに、耐えられなくなる。そんなときは、一人になる。一人で独りを感じるのは、まだ、耐えられた。
 昔から、あったことだ。保健室が鬼門だった頃は、人気のない新実習棟の屋上を使っていた。今はそれが、この場所に変わっただけだ。
 椿は、知っている。自分の、この妙な発作を理解してくれる。あやにとってそれは、今まで人に言えなかった一つだった。ところがふいに漏らしてしまったあの日以来、椿はなんとなく共犯のような――同士のような、そんな気にさせる相手になった。今、真後ろで書類を整理しているこの男が呟いた台詞をまだ、覚えている。
 明かり一つない、暗い校舎の屋上で呟かれた言葉。
 ――ここには居場所なんてないんじゃないかって、アタシはずっと考えていたわ。
 たぶん椿も、同じ痛みを持っている。時折苦しいくらい、胸を締め付けるあの孤独。
 独りがいい、と思う。
 なのになぜか、ここに来るようになった。ここには椿がいて、決して独りではいられないのを知っているのに。
 あやは背中を逸らした。ぽてんと、椿の背に頭が乗る。
「あらら。どうしたの、あやちゃん。甘えっ子さんね」
「……椿、キモイ」
「ひどいわねぇ」
 くすくすと、苦笑が聞こえて来る。それでも、椿はその体勢を崩さないでいてくれた。背中同士でいるほうが、今は少し、やさしい。
「あのさ」
「なぁに」
「……しあわせって、どーゆーモンなんだ?」
「……」
 沈黙があった。唐突すぎたかもしれない、と言ってから後悔した。急に恥ずかしくなって、背中をはがす。少し冷め始めたコーヒーを、すすった。
「いきなりで、びっくりしちゃったじゃない」
 声がすぐ近くで聞こえて、伏せていた顔を上げた。移動した椿が、真向かいに座っている。頬杖をついて、微笑んでいた。
「どうしたの、いきなり?」
「……チイたちがさ」
「チイちゃん?」
 クラスメイトの名前を出すと、椿が首をかしげた。こくんと頷いて、続ける。
「このクソラブバカップルの幸せ者めが死ねこら、って会話をしててさ」
「……とりあえず突っ込まないで話を聞くことにするわ。それで?」
「うん。でもさ、うれしそうなわけ。首絞められたり蹴られたりしてるのに」
「……あなたたちの教室で一体何が行われてるのか、椿ちゃんはむしろそっちが気になっちゃうん……」
「論点そこじゃない。」
 むすっとして睨むと、椿が苦笑いを見せた。「判ってるわ。それで?」問われて、口ごもる。上手くいえない。言えないが、上手く言う必要は恐らく、ない。椿はいつも、あやのどうしようもなくグダグダな言葉でさえ、聞いてくれる。
「何でうれしそうなんだろう、って梨花に訊いたら、幸せだからだよ、って言うの」
「ええ」
「……あたし、よく判らんな、って思って」
 そこで、言葉が切れた。言葉が、出てこない。それでも何とか伝えようと、つたない言葉でもいいからと、探してみる。
「みんなが、好きな奴がどうとか、そう騒いで、るじゃん。そういうの聞いてると、なんか違うって、思う。みんなと同じような幸せっての、理解できないあたしが、ここ、居ていいんかなって」
 居場所じゃないんじゃないかって、思う。
 少しだけ教室が苦しくなって、だから、ここに来た。
 言葉は完全にそこで途切れて、何も言えなくなった。俯いて、コーヒーに映るゆらゆらした自分の姿を見る。情けない顔をしていた。
 ポン――と、頭をなでられた。
 身長が高いあやは、こうされるのになれていない。ほとんど反射的に赤くなった顔を見られないように、さらに深く俯いた。
「難しいわね、そういうの」
「……ん」
「あやちゃんは、幸せっ、て思ったこと、ある?」
「……風呂、かなぁ」
「ああ。お風呂好きなのね。アタシもよ。アタシはあとは、そうねぇ。道端で仔猫とじゃれたときとか、虹を見たときとか、かしらね」
「……お前が猫とじゃれ付いてる姿は、異様だと思う」
「ほっといてちょーだい」
 ぱすっと叩かれて、あやは思わず小さく笑う。少しだけ顔を上げると、椿が微笑んでいた。
「難しいけど、単純なことよ。うれしいなって、思うこと。それだけでいいんじゃないかしら。恋愛だけが、幸せの全てじゃないし、あやちゃんがその幸せを理解できないなら、別に無理して理解することはないの」
「……みんな、わかってることなのに?」
「判ってるようで、誰も判ってないと思うわよ? 幸せなんて、人それぞれだからね」
 ――ズルイと、思う。
 いつもこうだ。少しだけ、苦しくなって吐き出すと、求めている答えをあっさりくれる。押し付けがましいわけじゃなく、それが心地良い。
「……ん。判った」
 ありがとう、というつもりが、単純に頷くだけになってしまった。これも、いつものことだ。ちょっとだけ、自己嫌悪に陥る。
「あやちゃん?」
 名前を呼ばれ、椿を見る。ふっと――視界が翳った。
「……っ?」
 気付くとあやは、椿の腕の中にいた。硬い腕に、広い肩幅。やわらかな抱擁なのに、簡単には解けない。こういうとき、こんな口調だが、きちんと大人の男なんだと、そんなことに気付かされる。
「放せ、変態!」
 ――だというのに、口から漏れるのはいつもこんな台詞だ。ばすっと胸を叩いてみても、びくともしない。あやは項垂れて、叩く手を収めるしかない。
「はぁなぁせぇ、セクハラオカマぁ」
「やあね。人聞きの悪い」
 頭をなでられる。白衣は少し、消毒薬の匂いがした。
「あやちゃん」
「何だよ」
「幸せが何かって、難しいから、アタシもよく判らないけどね」
 耳元で、低い声で、妙な口調で、囁かれた。
「忘れないで。貴女の傍には、貴女を大好きな人たちがちゃんといるわ。梨花ちゃんも、もちろん、アタシもね」
「……」
「安心なさい。貴女はもう、独りじゃないわ。寂しくなったら、ここに来ればいい」
 そうだ。きっと、寂しかったんだ。
 自分だけが、みんなの言う「幸せ」を理解できなくて、置いてきぼりになったようで、寂しくて――寂しくて、ここに来た。
 力が抜けた。椿の腕の中で、あやは肩の力を抜いて、大きな胸にもたれかかった。
 大嫌いだったこの教師が、今はこんなにも安心できる。
「……あや?」
「何だよ」
「また寂しくなったら、ここに来ればいい。俺はちゃんと、ここにいるから」
 静かな囁きに、少しだけ笑いが漏れた。抜けた力のまま、軽く椿の腹を殴る。
「俺とか言うな、気色悪い」
「もう、わがままっ」
 椿が笑う。あやもその腕の中で、笑う。
 みんなが言う「幸せ」を、まだきちんと理解出来たわけでもない。それでも――


 こうして笑いあえる今は、少し、幸せだと思った。


――Fin.

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