フォトグラフ2
〜春風と雪柳〜



 卒業式から三週間がたって、俺はこの土地から今日、旅立つ。



「いいかげん準備しなさいよ! もうすぐ時間でしょ!」
「判ってるー」
 階下から聞こえてきた母さんの声に、俺は座っていたベッドの上から手を伸ばして、MDコンポをきった。
 ベン・E・キングのスタンド・バイ・ミーが途切れて、コンポがCDを吐き出す。
 CDをケースに閉まって、それからリュックに詰めた。
 準備はあらかた終わっている。元々あんまり荷物もちでもないし、少ない荷物も全部すでに引越し屋に頼んであるのでこの部屋にはない。手で持っていくのは、このリュックひとつで終わりだ。
 見慣れた部屋は、何となくがらんとした印象を受ける。大して変わってるわけでもないのに、不思議な感覚。
 携帯電話の時計をみると、そろそろ出発の時間だった。
「――よっこいしょっと」
 ベッドから立ち上がって一つ伸びをする。窓の外は、いい天気だ。
 リュックサックを背負って、俺は玄関の戸を開けた。
 笑ってる母さんになんて言えばいいのか一瞬迷って、結局いつも通りの言葉を発する。
「じゃあ……いってきます」


 第一志望の大学に受かった。その大学はここから遠く離れた土地で、今日が引越しの日だった。
 開花宣言を出されたばかりの桜も、色鮮やかに咲いていて、時折風に流されてピンクの花弁が飛んでくる。
 少し前まで肌寒さを装っていた太陽も、ぽかぽかとあったかくなっている。
 普通に考えれば、いい日、なはずだ。
 条件的にも全部パーフェクトに素敵な日を演出してくれている。
 それは判っている。
 だけど。
 ――なんとなく、足が重い。
「……理由は判るんだけどなぁ」
 苦笑いを浮かべて空を見上げる。うすい水色の空には、雲ひとつない。


 ――グッバイ! マイ・ベスト・フレンド!


 ふいに耳に聞こえてきたのは懐かしいあいつの声。もちろん、実際に聞こえてきたんじゃなくて、記憶の中にこだましているだけだ。教室の中、陽射しを浴びて笑うあいつの笑顔。
 同級生の女子だ。
 小柄な俺よりさらに小さくて、そのくせ無駄にパワー溢れる厄介なぐらい元気な女。いつもしょっちゅう殴られていた気がするし、クラス・メイトからもセットで覚えられていた気がする。
 そんな関係。
 三週間前――卒業までは、毎日会っていたけど、卒業したとたん会わなくなった。
 会う理由が、特になかったのもある。仲は良かったけど、結局男女のトモダチコンビだ。そうそう外であうもんでもない。
 会わなくなるってのは、判ってた。
 判ってた、はずなんだけど。

 ――判って、なかったんだろうな。

 卒業式の日、式が終わった後、本当は言うつもりだった。
 ――好きだ、って。
 ずっと一緒のクラスで、ただふざけあっていた男友達からそんなことをいわれても、たぶんあいつは混乱するだけなんだろうけれど、それでも言うべきだって、おもっていた。
 今日のこの日が来ることを判っていたから。
 引っ越してしまえば、本当に遠い人になる。距離的にもそうだけど、たぶんそれがもたらす何かのほうが、遠くなる。
 言おうと思っていた。言う機会も――じつは、あった。
 式が終わった後、偶然――なのかなんなのか、あいつと二人きりになれたから。
 言おう言おうと思って、何度も喉から言葉がもれかけて、だけど結局俺はその言葉を飲み込んだ。
 教室の中でけらけらと笑うあいつの顔が、歪むのを見たくなくて。
 あいつから笑顔が消えるのを、見たくなくて。
 ――言えなかった。
 そんなのはもちろん、いいわけなんだろうけど。
 他のことはパーフェクトにいい日だ。
 だけど、ただひとつだけ。ただ、ひとつだけが、俺の足を重くしている。
 ――グッバイ! マイ・ベスト・フレンド!
 そういって笑ったあいつの顔が、俺の足を重くしている。
 これで良かったんだろうか? それともやっぱり、言うべきだったんだろうか?
 答えが出ないまま三週間がすぎて、新しい土地が俺を待っている。
「……はぁ」
 ぐしゃぐしゃになった心の中を全部吐き出すみたいに、俺が大きなため息をついたその時だった。

「……何、道の真ん中でため息ついてんの?」

 ――聞きなれた、声がした。


 ビックリして振り向くと、今まで頭の中でぐちゃぐちゃしていたことの張本人が、そこにいた。
 セミロングの髪。小柄な体。白とピンクの、春めいた洋服。
「――ユキ」
「うん」
 そいつは――ユキは、何となく驚いた様子で頷いた。
 ユキよりびびってたのは、たぶん俺のほうだけど。
「てか、ダンナ、何してるの?」
「……いや、これから、駅行く、から」
 ダンナ、と俺のことをあだ名でよんだユキに、半分しどろもどろになりながら答える。
 制服姿じゃない状態でユキと会うのは、なんだかすごく奇妙だった。お互いもう、あの高校の制服を着ることはないんだけれど。
 ユキは春風に髪をなびかせながら小首をかしげた。
「駅? どっか遊びに行くの?」
「いや」
 とっさに首をふって、それから息を一瞬とめた。
 偶然? 必然? よく判らんが――
 今、ここでユキと会えたことは、たぶん何らかの意味があるはずだ。
「――引越し、するんだ。だから、新幹線のりに行く」
 その言葉に、一瞬ユキの目が見開かれた。それからすぐ、笑顔になる。
 その顔が少しだけ寂しそうなのは――俺の、気のせい、か?
「一人暮らし? ダンナにできんのー? かなり壮絶な部屋になりそう」
「やかましいわいユキちゃん」
 ぺしっと軽く頭を叩くと、ユキはけらけらと笑った。
 その笑顔が、あの日を鮮やかに思い出させて。
 ――俺は心の中でぎゅっと拳をにぎった。
 偶然でもたまたまでもなんでもいい。
 ここでユキに会えたことは、何らかの意味がある。
 この重い足取りのまま、新しい土地へ行きたく――ない。
「ユキに会えてよかった」
「え?」
 けらけら笑っていたユキの笑顔が、一瞬とまった。
 すうっとひとつ深呼吸すると、肺いっぱいに花の香りを含んだ風が入ってくる。
「――逢いたかった。言いたいことが、あって」
 道路脇の雪柳が、風にさわさわと白い花を揺らした。
 春先の陽射しの中、俺を見上げるユキの茶色い瞳が、なんだか温かかった。

「俺、好きだったんだ。ずっと。ユキのこと」

 ――言った。
 言ったあとで、何となく心の中で苦笑する。
 こんな簡単な事、だったのか? 悩んでいたのがあほらしい。
 ユキの顔が桜の花びらみたいにうすく染まって、すぐに怒ったみたいな表情になった。
「……ずるい」
「あ?」
 唐突な言葉に思わず声をあげると、そのとたんユキの蹴りが俺の腹に決まった。
「げはっ!?」
「ずるい! ダンナのばか!」
 声をあげたユキは、そのまま小さな声でいった。
「――あたしが、言おうと思って、来たのに。先に言うの、ずるい」
「……」
 ――バカ、か? 俺ら。
「くっ……」
 思わず笑いがこみ上げてきて、俺は声をあげて笑った。
 バカだ。俺ら、二人してバカだ。
 こんな簡単な事、だったのに。
 見るとユキも、ほっとしたように笑っている。
「バカはお互い様ですよ、ユキちゃん」
「ダンナと一緒にすんな」
 減らず口を叩くユキの手を、何も言わずに握ってやった。
 少しだけ冷えて、それでもやっぱりあたたかい体温が心地いい。
 一瞬口をつぐんだユキに、意地悪く笑いかけてやる。
「一緒だろ?」
「……るっさい」
「まぁ、うるさくていいから。――駅まで、一緒に行ってくれる?」
 ユキは何も言わず、小さく頷いた。
 春の陽射しが、背中にあたたかい。
「――雪柳、綺麗だね」
 ぽそっと呟いたユキの言葉に、俺は思わずまた笑った。
「――俺ら?」
「ちがう!」
「だってお前、ユキだし」
 俺は柳慎吾だし。
「……ダンナ、柳だしね」
 雪柳があきれたように春風に笑った。
 駅までの距離は、あと少し。
 指先から伝わるユキのぬくもりが、春の陽射しのように思えた。


 雪柳が春風に揺れる駅までの道。
 この光景を、ずっと覚えていよう。
 桜のようにほんのり頬を染めたユキの横顔を。
 指先から伝わるユキのぬくもりを。


 それさえ、忘れずにいたら。
 この映像を、忘れずにいられたら。


 どんなに距離が離れていても。
 きっと俺たちはずっと、つながっていられるから。


――Fin.


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テーマは「ぬくもり」 お題は「体温」「距離」「水」「花弁」「指先」から任意選択で四つ以上使用。
一応全部使用。