あした、シュークリーム日和。 第四話


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 早歩きで、家まで。なんでもない風を装って、リビングを通り抜けて二階へ駆け上がる。自分の部屋。鍵を閉めて、鞄を放り投げた。ばさっと、閉めていなかった口から教科書やノートが飛び出した。
 息を、吐く。
 頭の中が熱くって、ぐらぐらしていた。クーラーの電源を入れて、苛立ち紛れに温度を下げる。寒いほどの風が吐き出される下に立つ。
 よく、判らない。
 あたしは何に苛立っているの。
 あたしはどうして泣きたいの。
 あたしは誰がイヤなんだろう。
 ゆっくり深呼吸したいのに、息は胸の上だけを何度も行き過ぎる。その度に顔が熱くなって、あたしはきゅっと歯を食いしばった。
 イヤなのはなんだろう? 水浸しの机? ――イエス。だって面倒じゃない。委員長? ――それもイエス。だって、同情されている気がするから。神さま? ――もちろんイエスだ。いもしないくせにいるふりをして、そのくせ何もしないイヤなヤツだ。じゃあ。
 奏人は?
 ――イエス。なんだか、あたしの総てを見透かしていそうで、気持ち悪いじゃない。
 奏人は知らないはずだ。
 水浸しの机も、耳障りな笑い声も、悪意のメモも、押し付けられる重荷も、奏人は知らない。知らないはずなのに、どうして、あんなことが言えるの?

『ゆずちゃんは、なにか、助けて貰いたいことがあるの?』

 耳の中で、あいつの声がぐるぐるリフレインする。
 ――ああ、そうか。
 ふと、理解った。
 あたし、あたしが一番、嫌いなんだ。
 理解ったとたん、目の前が暗くなる。何もかも投げ出して、どこかに行きたかった。
 でも、明日も学校があった。あたしは、逃げることは出来なかった。
 だって、逃げる必要があるような、そんな大げさなことじゃないはずだから。
 あたしはそう、あたしに、言い聞かせていたから。



 次の日学校に行くと、今度は委員長の机がなくなっていた。
 ――ほら、ね。
 心の中で呟く。
 ほら、こうなった。だから、あたしになんて関わらなきゃ良かったのに。
 隣で立ち尽くしている委員長の背を軽くたたいて、あたしは軽い声を上げた。
「いんちょ、あたしの席座ってなよ」
「え……」
「机、もってくるから」
 ひらっと手を振って、青ざめた顔の委員長を置いてあたしは教室を出た。ニヤニヤした視線が降りかかっているのは判る。だけど、それが何になる?
 あたしは傷つかない。傷ついたりなんてしないんだ。
 教室を出て、隣の空き教室へ。空き教室のクセに机がいっぱい置いたままだから、ひとつくらいいいだろうと思ったんだけど、なんのことはない、委員長の机っぽいのがそのままそこに置いてあった。
「芸のないことで」
 鼻を鳴らして呟いて、机を持ち上げる。教室に運ぶと、委員長はあたしの机のところにはいないで、どういうわけか朝教室に入ったときの場所のまま立ち尽くしていた。
「いんちょ、いんちょ、ちょい邪魔」
「え、あ……」
「これ、あんたのでしょ?」
 委員長が戸惑った様子で頷く。ちょっとだけ、お愛想で笑ってみせて、あたしはそのまま委員長の机をもともとの場所に置いた。あとは椅子か。軽く肩をならして、もう一度教室を出て行く。椅子を持って、さて帰ろうかとしたとき、空き教室の入り口に委員長が立っていた。
「どしたの」
「……もちます」
「いいよ。委員長なんかほそっこいし、折れたら困る」
 隣を通り過ぎようとしたら、委員長がまた、シャツを引っ張ってきた。
「ゆ、ゆずりは、ちゃん」
「うん?」
「わたし、なれてるつもりだったんです」
 ――唐突なセリフは、この子の中ではたぶんイロイロつながっているんだろう。そういう子っている。自分の中では全部つながった上で話してるんだけど、途中経過がこっちからは見えなくて、そのせいで突飛な発言に思われる子。たぶん、委員長はそういうタイプだ。実のところ、あたしもタイプとしては近かったりする。
「委員長さ」
「……」
 俯いたままの委員長の意識を何とかこっちに向けさせたくて、あたしはハァと息を吐いた。
「――遥」
 ぱっと、委員長が顔を上げた。目を丸くしてる。
「その話は、今することじゃない」
「え……」
「今するのは、なんでもないふり。それから、あたしから離れること」
「でも」
「いいから。そしたら、放課後なら話付き合うから」
 眼鏡の奥。委員長の黒い目が揺らいだ。それから小さく頷いて、あたしのシャツから手を放した。二人連れ立って、教室に戻る。椅子を置いたら、あたしは自分の机に向かって座る。委員長はそのまま、あたしが運んだ椅子に座った。
 それきりだった。
 その日は、あたしたちはお弁当も別々に広げた。一日前に、戻っただけだった。



「わたし、ずっといじめられっこだったんです」
 放課後。誰もいなくなった教室で、ぽつりと委員長がこぼした。
 誰もいなくなるまで、あたしは意外と穴場の進路資料室で、委員長は図書室で、それぞれ時間を潰したせいで、夏場だというのに陽はすっかり傾き始めていた。
「うん。それで?」
 自分の机の上に座って、あたしは窓の外を見ながら相槌を打つ。
 オレンジ色の光が、藍色の空と交じり合っていて、きれいだ。田んぼが見たいな、とふと思った。田舎なのは嫌いだけど、この時期のこの時間帯、水の張った田んぼに映りこむ夕陽は本当にきれいで、好きだから。
「おどおどしてて、うっとうしいって言われてて」
 委員長がおどおどしてるのは確かだ。でもおどおどしてるからって、それを攻撃対象にするのはただのバカだ。
「萎縮、しやすいんです。たぶん。小さなことでも、極端に怖くなっちゃって、言葉が出なくなっちゃって。今朝もそう。あんなの、慣れてるはずなのに、何も出来なかった」
「べつに」
「え?」
「別にいいんじゃん? 何も出来なくても。何が出来るわけでもないでしょ、あんな場面じゃさ」
 ボンヤリ呟く。「でも」と、上ずった言葉がかぶさった。
「でも、ゆずりはちゃんは、すぐ動けてた」
「うーん。あたしは、ね」
「わたしもそうなりたかった」
 不意に声が近く聞こえて、あたしは視線を窓から外す。私のすぐ隣に、委員長が立っていた。
 白い頬が、夕陽に照らされて真っ赤になっている。
「どんなときも、自分を崩さずいれるようになりたかった。真正面から受け止めて、それでも立っていられるような人になりたかった。わたしにとって、ゆずりはちゃんは憧れだった」
 憧れ――
 突拍子もない単語が耳の中に反響する。
 恐らく委員長は、この突拍子のない言葉さえ真摯な気持ちで告げているんだろう。だけど、あたしにとってはただ突拍子もなく、滑稽でしかない、単語だった。
 どんなときも自分を崩さず。真正面から受け止めて、それでも立っている。
 憧れ、か。
「ふふっ」
 思わず笑い声が漏れた。それはすごく乾いた、他人事じみた笑い声だった。
「ずいぶん買いかぶられちゃったなぁ、これは」
「……ゆずりはちゃんは、憧れだった。だから、近づきたくて」
「遥さ」
 名前を呼べば委員長は一瞬止まる。それは今朝実証済みだった。そんなちいさな小細工までして、あたしは委員長の言葉を遮った。
「また、いじめられたい?」
 ざっと風が教室の中に飛び込んできた。
 カーテンが揺れて、誰かの机にかけてあったバッグが音を立てた。揺れる委員長の前髪と、黒瞳を見返して、あたしはゆっくり、もう一度、残酷な言葉を突き立てていた。
「またいじめられたいの?」
 夕陽の中でもはっきり判るほど、委員長の顔は青ざめていた。
「せっかく、引っ越したんだ。ここでは、あんたがいじめられっこだったなんて知ってるヤツいないでしょ。そんな場所まで来て、それなのに高校三年間、またいじめられたい? 棒に振りたい?」
「ゆず」
「あたしに関わるってのはそういうことだよ。あんたは自分から、またいじめられる道を進んでる。選んで、進んでるんだ。判ってる?」
 委員長は頷かない。硬直した表情のまま、立ち尽くしている。
「もし、それが判るなら、もう一度だけ言う。あたしには関わらないで。友達だとか、憧れだとか、そういう上辺の言葉は呑み込んで。あたしはそういうの、嫌いなんだ」
「上辺じゃ……」
「それから」
 委員長の言葉を遮って、あたしは机から飛び降りた。鞄を引っつかんで、扉へ向かう。
「自分のこと、それだけ分析できてりゃ大したもんだよ。あたしにさえ関わらなきゃ、上手くやってけるよ」
 振り向いて、笑ってみせた。
 ちゃんと笑えていたと、思いたい。
「だから、これでおしまい。バイバイ、遥」
 教室を出て、歩いていく。廊下を歩くスピードは、いつもより若干速かった。ううん。違う。気づいたら小走りになっていて、もう一度気づいたとき、あたしは校門から逃げるように走っていた。息が弾みかけたあたりで、ちょうどバス停にたどり着いて、都合よくやってきた混雑したバスに乗り込んだ。
 なんだかちょっとだけ、吐き気がした。


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