あした、シュークリーム日和。 第六話


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 奏人に手を引かれたまま。気づくとあたしはいつもの場所に来ていた。緑の匂いが、苦しいくらい充満していた。いつもの岩場に座って、風を感じる。上履きは、当然、汚れていた。
 何を言えばいいんだろう。奏人に、あたし、何を言えばいいの?
 判らなくて、あたしは黙りこくったままだった。
 風が鳴る。ふいに、奏人が立ち上がった。視線をそっと上げる。奏人は靴を脱いでいた。それから靴下も――って、ええ?
「か、かなと何してるの」
「え?」
 制服のズボンの裾を何度か折って、奏人はにこっと笑いかけてきた。そのまま、川の中へ入っていく。バシャバシャッ、と音がした。
「奏人!」
「キモチいいよ。おいでよ、ゆずちゃん」
 ビックリしているあたしを余所に、本当にキモチよさそうに奏人が笑った。笑って、あたしに手を差し伸べてきた。水がキラキラと反射している。
 お、おいでよったって。あんた。
 戸惑ってるあたしに、奏人はもう一度、明るい声を上げる。
「ゆずちゃん」
 ……ええい。いいや、もう。なんでも。
 半ば自棄になったあたしは、その場で上履きを脱いだ。靴下も。足の裏に、ごつごつした小石があたってちょっと痛かった。おかげでよたよた歩きになったけど、なんとか川辺へ辿り着く。それから奏人の手に、自分の手を重ねて、そっと流れる水に足を入れた。
「つめた」
 キュッと突き刺すような冷たさが熱を奪い取っていく。それはまるで、あたしの真ん中を通って、ずっとずっと熱を持っていた頭まで冷やしていくみたいだった。
 冷たかった。
 キモチよかった。
 ただ、それだけなのに。
 ――視界が、揺らいでいた。景色が歪んで、零れ落ちていった。
 何でだろう。あたし、泣いてる。
「ゆずちゃん」
 あたしの手を握ったまま、水に足を浸したまま、奏人がやさしく笑う。
「ゆずちゃん、あのね。僕、小さいときからトロくって、みんなに置いてかれることが多くって、そんな自分がずっとキライで、誰か僕をフツーにしてよっていっつも思ってたんだ」
 唐突な――唐突な奏人のセリフに、あたしは何も言えなかった。
「ゆずちゃんは、でも、いつも待っててくれた。遅いよ奏人、って言いながら、でも振り返ってくれてた。みんな僕を見ていないのに、ゆずちゃんは僕を見ててくれた」
 言葉に、情景が蘇ってきた。そうだ、この場所。小学校の頃は、近所の子たちと、遊んでいた。今みたいに、川に足つっこんで、遊んでいた。ほとんど男子で、あたしは何とかついていけて、でも、奏人は遅かった。靴を脱ぐのも、走るのも遅くて。あたし、何度も振り返った。ちょっとイライラしながら、振り返ってた。奏人、遅いよ。ついておいでよ、奏人。いつもいつも、言っていた。
 そうだ。
 その景色の中は、あたしと奏人だけじゃなくて、もっと賑やかだった。ちいさな……ちいさくて、かわいらしい『神さま』たちが、あたしたちの周りにいた。奏人が転ぶとめそめそしていた水神さまは、水色の髪のちいさな女の子だった。ちょっとだけ離れた場所で、いつもニコニコしていた天狗が、森神さま。
 どうして。
 涙が零れるのとおなじスピードで、あのときの景色が、蘇ってくる。
 夢のはずなのに。子供が作り出した幻影のはずなのに、とっても、色鮮やかで――
「ゆずちゃん」
 ぎゅっと、強く、手を握られる。あの日からは考えられない、力強い手で。
「あの時から、僕はずっとゆずちゃんを見ていたいって思ったんだ。神さまにはなれないけど、ゆずちゃんだけは見ていたいって思ってた。今も、思ってる。僕はずっと、完全無欠に、ゆずちゃんの味方だよ」
 なにがあっても、と、奏人は続けた。
「だから。……もしよかったら、話してみて」



 あたしの言葉は、たぶんすごく拙かった。しゃくりあげたり、話があっちこっちとんだりしてた。聞きづらかったと思う。でも、奏人は全部聞いてくれて、聞いた上で頷いてくれた。
「ゆずちゃんは、その、委員長が心配なんだね」
 少し迷ってから、あたしはこく、と小さく頷いた。
「たぶん、あたしのせいだ」
 遥は、あたしと向き合いたいと思ってくれていたはずだ。でもあたしは、それを跳ね除けた。好意を無碍に扱ったんだ。あたしだって判るはずだったのに。こういう状況のとき。誰かに敵意を向けられているとき、誰かに好意を示すのは難しい。怖い。判ってる。判ってたはずなのに。きっと、怖いなかで向けてくれた好意を、あたしは、跳ね除けた。
「ゆずちゃんのせいとは限らないよ。だから、探しに行こう」
 顔を上げると、奏人はハンドタオルで足を拭いて、素足のままスニーカーに足を突っ込んでいた。
「探す、って」
 慌ててあたしも足を拭き、靴下と上履きをはく。
「そりゃ、遥この辺とは言ってたけど、家も知らないし、あたし仲良くないから心当たりもないのに」
「大丈夫。僕らには味方がいる」
 にこっと、微笑んで。奏人は腕を空へ伸ばした。ざわざわ、と葉っぱの音がひろがる。
「判る、ゆずちゃん?」
 問われた瞬間、トクン、と身体の真ん中が音を立てた。
 森のざわめき。足を浸した水の冷たさ。木漏れ日。セミの声。緑の匂い。それら総てが、まるで声を上げているみたいに思えた。
「かみ……さま」
 消えかけのろうそくみたいな、ゆらゆらした声だった。でも、奏人は頷いた。聞き取ってくれた。
「そう。教えてくれるよ。僕らのことずっと見てるから」
 トクン。身体の真ん中で、また音がする。
 神さま。浮かんでくる、ちいさな頃の情景。鮮やかで騒がしかったあの頃の景色。そこにいた『何か』たち。見るってなんだろう。どういうことだろう。誰でも出来るよね、ただ見るだけなんて。でも、違う。何となく判った。違うんだ、きっと。
 ただ、視線で追うだけじゃない。ふと、気づく。先生。母さん。ああ、そうだ。隠してたつもりでも、ふたりはあたしの何かを見抜いてた。
 奏人だって。
 もしそうなら、同じように『見て』いるなら。見ている存在が、いるなら。それはどれだけ、心強いことなんだろう。もし。もし。もし――そうなら。
「しんじたい」
 言葉が漏れていた。いつの間にか握り締めていた手が痛かった。あたしは、何もいない空間に向かって呟いていた。
「しんじたいよ」
 あのちいさな存在たちが、いつも、見ていてくれているのなら。何もしてくれなくたっていい。だけど、あたしを見てくれているのなら。そしたら、どんな悪意が向けられたって、どれだけ周りが暗い空気で満ちていたって、あたしは、独りじゃないことになる――
「しんじたいよ、神さま――!」
 その時だった。制服のスカートが、ちいさな重りをぶら下げたみたいに引っ張られた。
「え?」
 びっくりして視線をやり――
「なっ、きゃっ……うわっ!」
 おかしな叫び声を上げて、あたしはその場でしりもちをついていた。
「ゆずちゃん! 大丈夫!?」
「かかか、奏人! な、なんかちっちゃいのが! 水色の虫――」
 あたしは続く言葉をしゃっくりみたいに呑みこんだ。
 違う。虫じゃない。
 あたしのスカートにぶら下がったもの。虫じゃない。手のひらにのりそうなくらいの、ちいさな女の子。着物姿の、水色の髪をした――
「水神……さま」
 水色の髪のちいさな女の子は、あたしの声ににこりと微笑んだ。
 トクン。また、身体の真ん中が音を立てる。トクン、トクン。生きているって音を立てる。
「ゆずちゃん、見えるの?」
 しゃがみこんだ奏人が、あたしに手を差し伸べる。あたしは奏人の手に自分の手を重ねながら、ただ小さく頷いた。ゆっくり立ち上がって、呟く。
「水神さま……遥のこと、判る?」
 こくんっ、と勢い良くちいさな女の子は頷いた。
「どこにいるか、判る?」
 こくん。また、頷いてくれる。
「おしえて」
 たっ、と女の子が駆け出した。数歩駆け出して、あたしたちへと振り返る。風が吹いた。茂みがざざっと音を立てた。息を呑む。茂みの影から、ちいさな天狗が出てきた。猫のような、狐のような……でも、動物じゃないって判る不思議な生き物も。ちいさな存在たちが、あちらこちらから顔をのぞかせている。
 ああ――
 いた。いてくれた。いつだってほんとは、いてくれたんだ。あたしがただ、目を塞いでいただけで。
 ぱたぱた、と水神さまが手を振った。おいでおいでをするように。
 奏人を見上げる。奏人は、いつもどおりの優しい顔で、目を細めて笑っていた。大丈夫だって、思った。
「ついていこう、ゆずちゃん」
 森の中に、風に乗って小学校のチャイムが響いてきた。夕方五時を示す、懐かしい音だった。


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