貴女を、手に入れたかったのです。


 乙部遥――おとべ はるか。
 貴女の名を呟いて、私はそっと目を閉じました。瞳を閉じた後の薄闇の向こう、紅く焼けた夕焼けがゆらゆらと、まるで水面に漂う花弁のように揺れています。自室の中、耳朶に触れるのはグノーのアヴェ・マリアです。
 水面の花弁を引き千切り、私はそっと瞼を持ち上げます。
 アヴェ・マリア。
 その祈りは、今は貴女にのみ捧げられております。
 ああ、私は今も、この瞬間でさえも、貴女を欲してやまないのです。
 鋭く、暗く、美しい貴女を。


 ◇


「綺麗でしょう?」
 貴女とはじめて出逢ったのは、まだ雪も溶け切らぬ三月半ば。桜の蕾もまだ固く、春を焦がれて天を仰ぐ日のことでした。私も貴女も、まだ高校生でしたね。
 貴女は長く艶やかな黒髪を凍空の下惜しげもなく靡かせて、さながらその姿は精霊の如く美しくあったのです。
 貴女の瞳の先には、ひとりの無垢な少女がいました。貴女と、そして私と同じ制服を身に纏っているというのに、その姿はとても幼く、そして穢れなくありました。
 無垢に、ただ、純に友と笑いあうその少女を、貴女はその鋭利な、それでいて包み込むような愛しさの篭った眼差しで見つめていたのです。
 嗚呼、恋をしているのだと。
 私はひと目で見抜いてしまいました。


 ◇


 私は貴女と関係を持つようになりました。ええ、一方的な好意であったことは否めません。それでも、貴女が時折戯れにでも、私と唇を重ね合わせてくれるとき、私の心がどれほど高鳴り、そして躍ったことか。貴女はきっとご存じないでしょう。
 貴女にとって、私はどういう存在だったのでしょうか。いいえ、他者が必要とするような口に出して説明しなければならないような存在定義は、関係定義は、私たちには不必要ですね。貴女は貴女であの無垢な少女を愛しておりました。そして、私は私で、貴女を愛しておりました。それで、良かったのです。
 ええ、あの日までは。


 ◇


 夏でした。夕暮れ、突如として空は灰色に染まり、大粒の雨が降り出しました。私は今まさに帰宅しようとしていたところでしたので、どうしたものかと音楽室の窓から外を眺め、小さくひとつため息を零しました。貴女はそんな中、ふいに音楽室へと足を踏み入れていらっしゃったのです。
「あら、まだいたの?」
 貴女は私の姿を見とめ、そして微笑み、ピアノへと足を向けました。また貴女の、美しい指から紡がれるアヴェ・マリアが聴けるのかと、私は楽しみにしたものです。けれど貴女の足は、ピアノへと辿り着く前に止まってしまいました。そして貴女の視線は、窓の外に注がれていたのです。
「遥さん?」
 私は貴女の名を呼びました。貴女は、その事には気付いていなかったのでしょうね。ただじっと黙したまま、窓の外を眺めていらっしゃいました。いいえ、眺めていたなどと、穏やかな言葉ではその様は言い表せはしないでしょう。射抜くように、切り裂くように、痛みすら伴いそうな眼差しで、貴女は窓の下を見つめていたのです。
 何事かと、私が心配になったのは言うまでもありません。けれど貴女に問いかけるのも憚れて、私はそっと貴女の横に並び、そして窓の外を見たのです。
 嗚呼――
 いつかのように、私は直ぐに理解してしまいました。
 窓の下、校門へと向かう傘がひとつ。色気もないただの紺色の傘でしたが、それを差しているのは一組の男女でありました。
 少年のほうには、私は見覚えがありませんでした。けれど、少女のほうは判りました。
 貴女の愛しているあの無垢な少女――あの子だったのです。
 幼い、幼い、もしかしたら恋とも呼べないような、ただの友人関係だったのかもしれません。けれどそんなことは、貴女にはどうでも良いことだったのですね。彼女たちの姿が校門から消えると、貴女は優雅な動きでピアノへと向かわれました。
 紡ぎだされたものは、いつものアヴェ・マリアでは御座いませんでした。
 フランソワ・クープランの小さな風車。軽妙で速いその音を、貴女は無表情で弾かれました。けれど時折挟まれる低いキーに、どこか荒れた旋律を感じたのです。私はその音を、ただ静かに聴きました。
 弾き終え、貴女はそっと息を吐かれましたね。貴女の嘆息など、決して眼にすることがないと思っていましたから、私はとても驚きました。
 それから、貴女は微笑みました。おぞましいほどの、美しい微笑でした。
「ねぇ、私に協力してくれるかしら?」
 暗色に煌く、おぞましいほどの微笑を湛え、貴女は告げられました。
「あの子を、手に入れたいのよ」


 ◇


 ねぇ、遥さん。貴女は気付いていらっしゃらなかったでしょう?
 貴女があの無垢な少女へ向けた、愛情という名の醜い刃を、私がどんな想いで見つめていたか。
 ねぇ、遥さん。貴女は気付いていらっしゃらなかったでしょう?
 私が硝子のような貴女へ向けた、愛情という名の醜い刃を、いとおしく研ぎ始めていたことを。


 ◇


 私が貴女に頼まれてしたことは、それはもう陳腐で単純なことでした。
 ただ、噂をするだけです。
 貴女の大切なあの子を貶めるような噂を、そっと流しただけでした。貴女の望みも、彼女のことに関してはとても陳腐だったのですね。そんなことがとても、愛しく思えました。
 あの子とひとつの傘で帰路についたあの少年――
 彼と、貴女の愛しいあの子が幼い愛を育もうとしていたころの事です。
 幼い恋心は、陳腐な噂で曖昧になり、貴女の愛しいあの子は、いつの間にか痛みに耐えるような表情を見せることが多くなり――そして、あの小さな恋の物語は幕を閉じたのです。
 その時貴女が見せた禍々しくも美しい微笑は、私を生涯捉えて離さないことでしょう。


 ◇


 そして、貴女はあの子を手に入れました。
 けれど、ねぇ、遥さん。
 私も貴女を、手に入れたかったのです。


 ◇


「歩美さんに伝えてくださる?」
 貴女の愛しいあの子へと、私は始めて近づきました。いいえ、あの子は私など知らないままでしょう。私は正確には、あの子の同級生へとただ伝言を頼んだだけです。
 あの子はとても無垢でした。疑うことなど知らない、純粋な少女でした。乙部遥という美しくも禍々しい存在に好かれ、それを拒むことも出来ずに自分を持て余す、そんな少女でしたね。
 まだ幼さを残すあの子の同級生へ、私はそっと囁きました。
「あの噂を流したのは、遥さんなの」
 ――その下級生は、彼女に確かに伝えて下さりました。


 ◇


 数日後、蝉時雨の中、貴女は私の元を訪れました。
 疲れたような微笑を浮かべ、私にそっと囁きました。
「ばれちゃったわ」
 ええ。だって私がばらしたのですもの。
 そんなことはおくびにも出さず、私は悲しむように目を伏せました。ねぇ、遥さん。貴女は普段なら、こんな陳腐な芝居など見抜かれたことでしょうね。けれど貴女は、ただひとつ、あの子のことに関してだけは、美しく、けれど俗世的な、ただの女となられたのです。私の愛しい、貴女ではなかったのです。
 そして私は、微笑みました。貴女の頬に口付けを寄せ、静かに微笑み、告げたのです。
 それは残酷な、私のとっておきの刃。

「歩美さんはきっと、貴女を嫌ってしまいますわね」

 その言葉に、貴女が何を想ったのかは知れません。
 けれど貴女は、いつものようにゆっくりと微笑まれました。
 美しく、禍々しく、鈍く、きらびやかに――
 極上の笑みを、浮かべられました。


 そうです。遥さん。
 私も貴女を、手に入れたのです。


 ◇


 そして、グノーのアヴェ・マリアが流れます。
 貴女がいつも好んで弾いていらっしゃったピアノ曲。
 けれどきっともう、貴女の指から紡がれることはないのでしょう。
 あの日から、それでも貴女はあの子を愛し続けました。愛するということは、罪です。罪悪は、いつか貴女を重く絡めていきました。そう。貴女が壊れてしまうまでに。
 貴女は、きっともうここには戻られないでしょうね。
 極上の笑みを切り取った私の刃は、今も鈍く光っており、けれど堪らない愛しさが胸を満たしています。
 貴女はとても、美しかった。総てに置いてそうですが、限度を超えたものというものはとても儚いものなのです。それは硝子細工のように、いつか壊れてしまうものなのです。
 私は微笑み、手元の手紙を見つめました。今朝方、郵便受けに届いていたものです。
 貴女の流麗な文字が、たった一言、綴られています。

 さよなら、と。

 ――遥さん。貴女はもう、私の元にも、あの子の元にも戻られないのでしょうね。
 儚く割れて、散ってしまわれたのでしょうから。
 私はそれを確かめる術など持ちません。であるからして、こうして音に浸りましょう。
 貴女の紡いだ、グノーのアヴェ・マリアに。


 聖なるマリア 神の御母
 罪人なる我らのために祈りたまえ
 今も 我らの死の時も


 ――Fin.

Back