ほら。風鈴の音がする。

 ――ほら。
 ちりん、ちりんと、風鈴が笑うように揺れている。

 空が青い理由を、幼い頃父に訊ねた事がある。無邪気な問いかけに父は困った顔をしながら、図鑑を引っ張り出してきて教えてくれた。そんな父の姿に憧れを抱いて、結局訊ねた問いの答えよりもそっちのほうに気がとられたことを覚えている。その父はもういない。父は私が幼い頃に他界してしまっていて、今も記憶にあるのはおぼろげな輪郭だけだ。垂れた目じり。撫でてくれた大きな手。そして、父が教えてくれた空の青さ。この、八月の空の青さ。
「歩美?」
 呼びかけにふと我に返って顔を上げる。夏の陽射しから手でひさしをつくって目をかばう。僅かに影が落ちた向こうからこちらを見つめて微笑んでくる彼の姿。霊園の石畳の階段をゆっくりと登って隣に並ぶと手をとられた。少しだけ汗をかいた、骨張った大きな左手。指を絡めて握り、歩き出す。反対の手に持った花がかすかな風に揺れた。
 父の十四回忌。毎年のことではあるけれど、彼と来るのは初めてだった。婚姻を結んで正式に夫婦になり、はじめて名字が違う状態で私は父の下を訪れる。
 ゆっくりと踏みしめて進むこの石畳の階段にまつわる記憶は、けれど彼は知らない。
「ああ、見て歩美。すげぇ飛行機雲」
 先ほどの私と同じように手でひさしを作りながら彼は空を示す。青の中に一直線に延びた純白の線。霊園の中だというのに、どこからかちりんと風鈴の音が風にのってやってくる。蝉時雨を割る涼やかな音は、かつての記憶を呼び覚ます。
 彼が知らない、あの頃の記憶。私がまだ、この霊園に一人で訪れていた頃の記憶を。





「ほら、見てみなさいよ歩美。飛行機雲」
 先輩は夏休みだというのに学校指定のセーラー服姿だった。そのリボンを風に揺らしながら空を見上げている。その声はまるで風鈴の音のように涼やかで、この夏の陽射しの中でも微塵も暑さを覚えていないようだった。私とは違う次元に生きているのだと、当時私は思っていた。だから、彼女は暑さも寒さも覚えないのだと。
 そう思っていたのには理由がある。私にとって彼女は――同じ風紀委員だった先輩は実に奇異な存在だったからだ。
 まず何より、とても美しかった。
 風紀委員だというのに、校則を無視したその長く伸ばした髪は艶やかな黒で、まるで日本人形のように真っ直ぐで美しかった。顔立ちも人形のようだった。切れ長の大きな目に、長い睫毛。色素から見放されたような白い肌に美しく整った鼻梁。唇は桜の花びらのように艶やかでそれでいて柔らかく可愛らしい。このまま夜までこの霊園で佇んでいれば、何人もの人が彼女を幽霊の類だと勘違いするであろう。人間離れした美しさだった。俗世の気配が彼女からは微塵も感じられなかったのだ。
 そして、何よりもその考え、生き方が当時の私とは根本的に違っていたのだ。
「先輩。貴女だったんですね?」
 黒一色のワンピース姿で、私は父に線香をあげた手をきゅっと握り締めた。背後に立つ先輩の気配が微かに笑みを浮かべたのを確かに感じて振り返る。怖さすら覚えそうな美しい笑みがそこにある。
「なぁに?」
「春日くんに……あんなこといったの、です」
「ああ」
 何だそんなことかとでも言うように、先輩は笑みを深くする。
 当時私が好きだった春日くんは同級生で、特に目立ったところがあるわけではない子ではあったが、とびきり優しい少年だった。ふいに夕立に降られた私に、照れくさそうに傘を差し出してくれたのがきっかけだった。私たちは徐々に惹かれあい、告白はしていないまでも互いに意識しあっていることは誰もがわかっていた。
 しかし先輩は、その私たちの淡い恋を断ち切ったのだ。
 乙部先輩が、歩美は春日のことは遊びにしか思ってないと――そんな噂を流していると、同級生から聞いた。その噂が耳に入った頃には、春日くんは私を避けるようになっていた。
 春日くんは、そう、どことなく父に似ていたのだ。その目じりが。その困ったような笑い方が。
「だって、だめよ、歩美」
 先輩は邪気のない笑みを浮かべて、私の頬を撫でる。
「貴女は、私のものなんですから。男の手なんかに、渡らせないわ」
 先輩は――そう言って美しく微笑む。
「汚らわしいじゃない?」
 先輩の唇が私の唇をふさぐ。父の墓石の前で。その行為を、先輩は汚らわしいとは思っていないのだろう。悔しさに涙が零れてきても、先輩は微笑んでいるだけだった。
「私が嫌い? 歩美」
「……嫌いです」
「じゃあ、口付けやめたほうがいい?」
 私は答えられなかった。
 先輩の口付けを拒めないのは、先輩が私を必要としてくれていることを知っていたからだ。父が亡くなって以来、誰も本当に私を必要としてくれる人はいなかった。ただ一人、先輩をのぞいて。
 彼女の愛は歪んでいたはずだ。同性にのみ向けられる純粋な愛。独占欲もひどいものだった。だけれど。
 愛されていると感じてしまえば、それを拒むほどの力は私にはなかったのだ。
 私の全てを奪っていく先輩をとても憎んではいた。だけど同時に、私は恐らく幼いながら愛してもいたのだ。
 翌年も、その翌年も、ずっと。
 父の命日には、父の墓石の前で、私は彼女と口付けを交わしていた。
 彼女が唐突に命を断った、四年前まで。


 ◆


 美しすぎる先輩はきっと、風鈴のように脆く、なにかのきっかけで割れてしまったのだろう。
 それがなにかも、先輩は教えてはくれず。
 ただ時が断てば消えてなくなるあの飛行機雲のように、それはまるで淡い幻覚だったとでも言わんばかりにあっけなく、私を置き去りにして消えた。


 ◆


 石畳の階段を歩めば、あの頃の記憶が蘇る。
 隣に立つ彼が知らない、私の記憶。
 先輩。
 今年は私、父の墓石の前で、彼と口付けを交わしましょう。
 あなたはきっと、怒るでしょうから。


 ――ほら。
 ちりん、ちりんと、風鈴が笑うように揺れている。


Fin. 

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お題バトル参戦作品。テーマは『八月の空を思う愛憎』(笑)。テーマは『夕立』『蝉』『夏休み』『飛行機雲』『風鈴』から任意選択四つ以上で全使用。制限時間は初の45分。