バンボリーナは外を見ていた。耳を澄ませば、街から風に乗って華やかな音楽が流れてくる。バンボリーナは、自分の髪が風と揺れるのが、なんだかその音楽に合わせて踊っているように思えた。
「ねぇ、ラウラ。とても楽しそうだわ」
「今日は、謝肉祭カルネヴァーレですから」
 侍女のラウラは、彼女自身も風に髪をなびかせながら短く答えた。答えながらもてきぱきと、茶の準備を進めている。
「ねぇラウラ。きっととても華やかなのよね」
「サナレッシアの謝肉祭は、近隣諸国の中でも抜きん出て美しい祭りですから」
「ええ。何度も何度も読んだわ」
 ラウラの緑玉の瞳を見つめて、バンボリーナは、きゅっと胸元で本を抱え込む。
 開け放した窓から流れこむ風が、バンボリーナの檸檬色のドレスの裾を揺らしていく。
「ねぇ、ラウラ。行ってみたいわ。大丈夫よ、きっと。皆仮面をつけているんですって! お父様にもバレやしないわ」
「無理です」
 侍女のラウラは、緑玉の瞳をまっすぐバンボリーナに向けて言った。
「お嬢様、ご自愛ください。貴女がそんな様子では、旦那様も心穏やかでいられません」
 ラウラの言葉に、バンボリーナはゆるく微笑んだ。
 ラウラが心配しているのはよく判っている。生まれてすぐ、医師に告げられた自分の身体の弱さは、十五まで生きてきたバンボリーナ自身が一番理解している。ほんの少し、走っただけで、あるいはいつもと違う行動をするだけで、自分の脆弱な心臓は簡単に悲鳴を上げる。心臓だけではない。食べるものも選ばざるをえないし、動物にさえ触れられない。叶わないことづくしの中、気がつくと外にすら出なくなっていた。父に与えられたこの棟の中で、全てがすんでしまうように――いつしか、そんなふうになっていた。
 どんなに望んでも、自分の身体では外にはいけない。美しく華やかな謝肉祭も、貴族たちの社交会も、それどころか普段のサナレッシアの街並みでさえも、この目で見ることは叶わないのだ。
 バンボリーナは顔を上げた。ラウラから目をそらし、窓を見やる。乳白色の壁の中、ぽかんと水色が浮かんでいた。
 ――茶色の枠で四角く区切られた空は、嘲笑うかのようにいつだってそこにある。バンボリーナは瑠璃の瞳で空を見上げ――その時だった。
「きゃああああああああっ!」
 耳を劈くような悲鳴が、階下から聞こえてきた。「ひっ」と一瞬息を呑み、バンボリーナはラウラと顔を見合わせる。声の主は恐らく、城で多数雇っている使用人たちであろうが、先の悲鳴から後もひっきりなしに騒ぎ続けている。普段は静かなラウラの顔にも、さすがに驚愕が浮かんでいた。しかしすぐにラウラは、身を乗り出して外を見下ろした。そして、ばっと勢い良く振り返る。
「猫でございます、お嬢様」
「ね……ねこ?」
「ええ。白い猫でございます。いえ、犬や兎、馬もいるようです。何十……いえ、何百かもしれません。城門を抜けてきたのでしょうか」
「……ラウラ、どうかしたの。大丈夫?」
「私は正気でございます。お嬢様に心配されるほど落ちぶれていませんわ」
 ラウラの物言いに多少気になる部分はあったものの、バンボリーナはそれよりも現状が気になっていた。ゆるりと、首を傾げる。
「お城に、それほど動物はいたかしら」
「今の今までいませんでした。貴女のために」
 バンボリーナは、動物に触れるとくしゃみが止まらなくなる。あまりにひどい時は寝込んでしまうことすらあるのだ。父であるヴァレンティノ伯爵は、娘のために城に動物などいれなかった。
「お嬢様は決してここからお出にならないように。私が見てきます」
 言うなり、ラウラは扉を開けて出ていってしまった。部屋にぽつねんと残され、バンボリーナはどうしたものかと考えあぐねる。それから、いそいそと外の様子を見ようかと窓に近づき――そして。
「ひゃっ……ぷっ」
 もれかけた声が塞がれた。手だ。窓から、手が伸びてきた。窓枠の下のほうだろうか。身体は見えない。バンボリーナは瑠璃の目をいっぱいに開いて、固まるしか出来なかった。
「声は出さないで。いいね?」
 静かな男性の声だ。こくこく、とバンボリーナは頷いた。ほんの数秒の間をおいてから、そっと手が離された。思わず、はっと息を吐いた。
「チャオ、バンボリーナ」
 声とともに、ひょこっと少年が顔を出した。黒髪の、すっきりとした顔立ちの少年だ。バンボリーナは、ひと目で彼が異国人だと判った。バンボリーナと同世代くらいだろうが、幼くも見える。外の木に掴まっているのだろうか――この部屋の窓から、まさか少年が顔を出すなどとは想像もしたことがない。バンボリーナは唇を開きかけ、はっとすぐに噤む。少年がぱちくり、と目を瞬いてから、ああ、と破顔した。
「ごめん。喋っていいよ」
「あ。貴方はお猿さんですの!?」
「……は?」
 バンボリーナの言葉に、今度は少年が固まった。艶かしい夜のような瞳に困惑の色を浮かべ、片方の手で少年は自らのこめかみをぐっと押し込んでいる。
「……君は、ヴァレンティノ伯爵家のバンボリーナ、であってるよね?」
「皆さまそうおっしゃいますわ」
「……で、何故俺が猿に思えたのかな?」
「わたくし、本を読むのが好きですの」
「だ、ろうね」
 少年は短く頷いた。彼の目には、バンボリーナの後ろ、壁いっぱいにある書物が収められた棚が見えていた。書庫か図書館かと言いたくなるほどではある。これで本好きでなければただの詐欺だ。
「ええ。ですからわたくし、知っていましてよ。そんなふうに木にお登りになって現れるのは、お猿さんか」
 バンボリーナはほんの僅かに上気した頬で、にこり、と微笑んだ。
「王子さまでいらっしゃいますわ」
 ふっ、と、少年が口元を歪めた。白い歯がわずかに覗く笑みで、木の枝を掴む手とは反対側の――先ほど、バンボリーナの口をふさいだ手をすっと差し出した。
 いつも、忌々しく外界とを区切る茶色の窓枠の向こうから差し伸べられた手を、バンボリーナは静かに見つめ返す。それから、おずおずとその手に自らの細い手を重ねた。ぎゅっと、力強く握られる。
「残念ながら、俺は人間だし王子でもない。ま、動物を放ったのは俺だけど、猿は入れなかった。――俺はね」
 少年はぐいっと、その手を引っ張った。バンボリーナの髪が、ふわりと風をはらんで揺れた。
「ただの盗人さ。バンボリーナ、君を頂きに来た」

 空へ。
 一瞬、バンボリーナは自分が飛んでいるのかと錯覚した。視界一面の青に、思わず目が眩んだ。
「大丈夫だよ、バンボリーナ。ほら、ご覧」
 バンボリーナを抱きかかえたまま、少年は軽やかに跳んでいた。木から木へ。そして、屋根から屋根へ。華奢に見える腕だが、しっかりと筋肉はついている。その腕の中で抱えられている限り、落ちることはないだろうとバンボリーナは思った。
 それでも多少は怖い。きゅっと、少年の服を握りながらバンボリーナは視線を下へと落とした。使用人たちがわらわらと、無数の動物たちと追いかけっこをしている。
「さて。ちょっと一休みだ」
 城の尖塔近くで、少年は足を止めた。そっと、降ろされる。丁寧に補助をしてくれたので、バンボリーナの履いている華奢なヒールの靴でも立つことが出来た。
「座って」
 椅子もないようなところでどう座ればいいのか一瞬戸惑ったが、隣で少年が無造作に座るのを真似て何とか腰を下ろした。
 ひゅっ、と喉が鳴った。うっすらと顔を歪めて、バンボリーナは喉に手を当てた。少し、無茶だったようだ。
「あ……ごめん。大丈夫?」
 少年が慌てたように背に手を伸ばしてきた。おどおどと、さすってくる。苦笑しながら、バンボリーナは頷いた。
「……大丈夫ですわ。ひどくはありませんもの。少し、整えれば戻りますわ」
「ごめん」
「気になさらないで」
 言って、バンボリーナは頭の中で数を数え始めた。こうしていくつか数えて時が経てば、収まる。苦しさをやり過ごす術だ。いくつか数えたとき、いつも通り苦しさは通りすぎていった。ふっと息を吐いて、バンボリーナは笑みを作った。
「ねぇ。貴方のお名前を教えてくださる?」
「俺? そうだな。――ムーア。知ってる?」
「……ムーア」
 反復して、次の瞬間バンボリーナはぼふっと自らの口を覆っていた。そうでないと驚きの声が大きく漏れそうだったのだ。なんとか第一声を呑み込んでから、目一杯の低い声を出す。
「ム、ムーアって……怪盗ムーア、ですの!?」
 にっと、少年が笑った。バンボリーナは驚きの目で、少年を見つめる。少し長めの黒髪に、吸い込まれそうな黒瞳。身長はそれなりにありそうだが、威圧感は殆ど無い。身を包む黒一色の装束が、彼の身体を引き締めてしなやかに見せているせいかもしれなかった。
 怪盗ムーア。近頃、サナレッシアの若い女性たちの間で流行っている本の主人公だ。絵画や宝石といった美術品を次々と盗み、颯爽と消えて行く怪盗。鼻持ちならない富豪から盗み、優しく謙虚な貧しい人々へと渡していく義賊のため、人気は高い。
「あれは、お話ではなかったんですの?」
「お話が現実を描いていても悪くはないだろう? ――さ。バンボリーナ」
 彼は肩にかけていた袋から何かを取り出し、バンボリーナに手渡した。手渡されたものを見て、バンボリーナはまた、首を傾げてしまう。それは白い陶器の面だった。
「あの、これは?」
「仮面さ。今日はサナレッシアの謝肉祭だ。行かないという選択肢はないだろう?」
 謝肉祭。その響きに、バンボリーナはぱっと顔を街へと向けた。尖塔近くからだと、街の様子がよく見えた。
 アゼス海の真珠とも呼ばれるサナレッシアは、水に浮かぶ街だ。縦横無尽に水路が走り、花が満ち溢れている。赤茶けた屋根が規則正しく並ぶ様も、その間を走る水路のきらめきも、豆粒のように行き交う色鮮やかな人々の姿もよく見えた。相変わらず風は音を運んできていて、聞いているだけでわくわくと胸が踊りだす。
「行きたい、です。でも」
「でも、何? あー、俺が信用ならない? そりゃそっか」
「いいえ」
 バンボリーナははっきりと首を横に振った。
「わたくし、人を見る目はあるつもりですの」
「へぇ? どうして?」
 からかうように、怪盗ムーアを名乗る少年は肩をすくめた。
「だって、ラウラを見つけたのはわたくしですのよ」
「ラウラ?」
「わたくしの侍女です。とても綺麗な、緑玉の瞳をしているんですのよ」
 誇らしげにバンボリーナは微笑んだ。まだ幼い頃だ。外に出たくて、でも出られなくて、雨の降りしきる景色をいつも通り忌々しげに、あの茶色の枠に肘をついて見下ろしていた日。城の外、ひとりで雨に濡れたまま佇む少女を見つけたのだ。同い年くらいのその少女が濡れそぼった顔を上げたとき、緑玉の目が視界いっぱいに飛び込んできた。何か、大切なモノだと直感的に理解した。父に頼み、無理やり彼女を城へと上げた。そして侍女になったのが、今のラウラだ。ラウラという名前も、父と一緒に考え与えたものだ。その緑玉の目が、月桂樹の美しい葉に似ているように思えたから。
 話している間、少年は静かに聞いていた。バンボリーナはにっこりと、微笑む。
「わたくしは貴方を信じるつもりは有りますの。けれど、ラウラに叱られてしまうわ」
「後で謝ればいいさ」
「許してくれるかしら」
「友達なんだろ? ちょっとぐらい喧嘩するのも一興だよ」
 さあ、と仮面を付けられた。白い仮面の下、戸惑いながらも笑みがこぼれてしまう。
「ええ。友達ですの」
「じゃあ、大丈夫さ。行こう、バンボリーナ」

 ヒヤシンス通りハイアシンス・カッレには溢れかえるほどの人がいた。どの人も思い思いに着飾っている。赤や橙、青に黒、黄色――ドレスは色鮮やかだし、フリルもレースもふんだんに使われている。それどころか、今時流行らないであろう羽飾りまでつけている人もいたし、ドレスの型も、流行らない昔ながらのデザインもある。それもまた、変装のひとつなのだろう。男性も、お昼間なのに燕尾服を着ていたり、あるいはどこかの民族衣装を身に着けている人もいる。ただ、どの人も皆仮面をつけていて顔は見えない。
「面白いですわ! ムーア。たくさん人がいらっしゃいます!」
「そうだね、バンボリーナ。ところで、その呼び方はやめようか?」
「どうしてですの?」
「バレても面倒だからね。ケイって呼んで」
「ケイ?」
「本名だよ」
 少年――ケイは、するすると人ごみを抜けていく。当然、バンボリーナは歩き慣れてなどいない。わたわたとその場でほとんど足踏みしてしまう。すぐに気づいたケイが振り返り、手を差し伸べてくれた。
「お手をどうぞ、バンボリーナ」
 少しだけ戸惑って、バンボリーナはその手を握った。
「チャーオ、セニョリーナ! トマトの揚げピッツァだよ、どうだい!」
「お花はいかがかな?」
「素敵な素敵な音楽を!」
 次々と声をかけられ、物を差し出され、音楽が降ってくる。街路には咲いたばかりの春の花が彩り鮮やかに風に揺れ、すぐ傍の薔薇の水路カナーレ・ローザ路からは、渡し舟ゴンドラに乗った陽気なゴンドリエーレたちが歌の贈り物をしてくれる。
 そのどの様子も、仮面という一種異様な姿が、風景の中で見事に調和しているのだ。
 これが、サナレッシアの謝肉祭――
 右も左も上も下も、賑やかで騒々しい。あちこちで歓声が上がり、花が散り、めまぐるしい。バンボリーナはせわしなくあちらこちらと見渡しながら、仮面の下から瑠璃の目をきょろきょろと回していた。
「甘い匂いがしますわ、ケイ」
「菓子を焼いているようだね。食べる?」
「……まぁっ、なんて香ばしいのかしら!」
「ふ、ふふっ」
 不意にケイが、仮面の下で笑った。すっと仮面を持ち上げて、バンボリーナに笑みを向けてくる。
「君は子どもみたいにはしゃぐ」
「だって、はじめてですもの」
 少しばかり照れながら、唇をつきだしてしまう。仮面でケイからは見えないだろうが、気配は判ってしまったらしい。くしゃり、と頭をなでられる。
「ごめん。でもま、少しはしゃぎ過ぎかな。休憩しよう」
「どちらでですの?」
 この街なかでは、ヒヤシンス通りを抜けても騒がしさは変わらない。一向に気は休まらないだろう。
「すこし先に丘がある。そこは静かだよ」

 手を引かれて連れてこられたのは、古い教会の建つ丘だった。いつしか空は夕焼けへと色を変え始めていて、見下ろす街並みは赤くきらきらと輝いている。視界を少しでも遮られたくなくて、バンボリーナは剥ぎ取るように仮面を脱いだ。
 水路は赤く染まり、家々はその水路に照らされている。赤い水格子模様が、ゆらゆらと燃えるように見えた。
「綺麗」
 ぽつりと、バンボリーナの唇から言葉が漏れた。同時に、そっと頬を雫が伝っていく。
 手の甲で涙を拭い、バンボリーナは教会のそばで佇む少年を振り返った。ふんわりと、微笑む。
「ねぇ、ケイ。先程からわたくし、手が痒くて仕方ありませんのよ」
「さっきの菓子? それともピッツァ?」
「どちらかは判りませんわ。でも、きっと合わなかったのでしょうね」
 バンボリーナの手の甲には幾つかの赤い斑点が浮かんでいた。
「それに、喉もひゅうひゅうしますし、胸も痛いくらい速く打っていますの。足だって痛いですし、頭もくらくらしますわ」
「うん」
「でも、楽しいんですの」
 バンボリーナは無邪気な笑みを見せた。
「大人しくなんてしていられませんでしたわ。走り出したくて仕方ないんですもの!」
「そう。良かった」
「――まったく、良くありません」
 第三者の声は、教会の裏から聞こえてきた。ケイが肩をすくめながら振り返る先に、少女はいた。栗色の髪をなびかせた、緑玉の瞳の少女。紺の長いスカートの足元に、何故か一匹の白猫がまとわりついていた。
「――まぁ、ラウラ!」
「ようやく見つけました、お嬢様。はしゃぎまくる陽色の髪のバンボリーナは見なかったか、と問いかければ皆答えてくれたので、見つけやすかったですけどね」
 不機嫌そうに、ラウラは鼻を鳴らした。
「帰りますよ、お嬢様。旦那様に気づかれてしまいます」
「え……」
 ――帰る。そんな当たり前の言葉が、何故だか胸に引っかかった。バンボリーナはぱちくりと瞬きし、ゆっくりとケイに目を向けた。
 ケイはすうとしゃがみこみ、傍の猫を抱き寄せる。白い猫はにゃあ、と小さく鳴いた。
「星の音を聞いたことがある?」
 ケイがすっと指を真上に伸ばした。天はまだ赤と藍の交じり合う色をしていたが、輝きの強い星はもう見え始めている。
「何もない、ただただ広いだけの地で空を見上げると、星に抱かれているような気分になる。そうして耳を澄ますと、わずかにシャラシャラと擦れる音がする。それが、星の音だ」
「ケイ……?」
「一面の砂の地を見たことがある? 青い海は? 眼下に広がる雲海から登ってくる朝日を見たことは? もう何のために作られたのか誰も知らない、遠い昔の石の建物を見たことはある? 風が吹く度に、何かの鳴き声のような音がするんだ」
 ケイの口から次々と語られるそれは、バンボリーナは知識として知っていた。けれど、違うのだろう。こちらにまっすぐ向けられている漆黒の瞳は、かつてその景色を確かに映してきたのだろうと思えた。
「君は今日、はじめてサナレッシアの謝肉祭を見た。けれど、普段のサナレッシアの穏やかで楽しい街並みさえ、知らないのだろう?」
「ケイ、わたくしは」
「諦めて、城の中で死ぬまで過ごすのも簡単だろう。でもそれでいいの? 何も知らないで、何も見ないで、すぐそばの世界さえ知らないまま死んでいく。それでいいの?」
 強くなっていく口調に、心臓がどくどくと速まり始めた。ラウラが、きゅっと手を握ってくる。白猫を抱いたケイが、口元に笑みを浮かべ――告げた。
「いつまで、ヴァレンティノ伯爵の可愛いお人形バンボリーナでいるつもり?」
「わっ……わたくしは、バンボリーナではありませんっ!」
 咄嗟に、叫びが口をついていた。その大音声を発したのが自分だと、バンボリーナは一瞬気づけなかった。額に汗が滲んでいることにすら驚いて、口を二度、三度とぱくぱくしてしまう。ラウラが、緑玉の目をいっぱいに開いて、バンボリーナを見上げていた。ふと、泣きたくなった。泣きたくなるとき、バンボリーナはいつも笑っていた。だから今日も笑おうとして――笑おうと、して。
「……お嬢様」
 すっと、ラウラが背を撫でてきた。唇を噛み締める。いくつもいくつも、バンボリーナの頬を透明な雫が零れていく。
「ずっと、ずっと我慢してきたんですの。だって、この身体が無茶が利かないのは、お医者様よりわたくしが一番判っていますわ。お父様が必死に、この年まで生かして下さったんですもの。それを、わたくしが無碍になんて出来ませんわ」
 ケイは何も言わない。それが何だか腹立たしく思えて、バンボリーナは睨みつけるようにケイを見据えた。
「どうして、わたくしを外に連れ出したの? 気まぐれでしたの? ムーアだなんておっしゃって! 知らなければ――」
「知らなければ良かった?」
 すっと、静かな声でケイが言った。
「知らなければ良かった。そうかな。知らなければ、本当の美しさを目にしなければ、君はただあの枠の向こうから憧れだけを抱いていられたのだろうか。バンボリーナでいられたんだろうか? しかしそれが、幸せかい?」
 バンボリーナは自身の耳の奥で、何かが鳴っていることに気がついた。そしてそれが、今日一日聴き続けた謝肉祭の華やかな音楽だと気がついた。この音でさえ、自分は今まできちんと聴いたこともなかった。
「俺は単なる盗人さ。最初に言っただろう? 君を連れ出したのは、それが仕事だから。俺は絵画や宝石を盗むのが殆どだけど、そこに篭められた意味がある。開放だよ」
「開放」
 ――と、怪訝に呟いたのはラウラだ。ケイはくすりと笑った。
「そしてこれは、君の鎖を解く呪文だ。君はどうしたい。君は何を望む。――君の本当の名は?」
「わたくしは」
 風が吹いた。視界いっぱいに揺らめく夕陽は、いつしかサナレッシアの街並みの向こう、山裾へと沈んでいた。残り香のような薄紅が、雲を染めている。
「わたくしは、外に出たい。わたくしはバンボリーナではありませんの。わたくしの名は」
 すっと、彼女は息を吸った。いつからか、揶揄されるように呼ばれ始めた仮りそめの名は、最初の頃は否定もしていたがそのうち、諦めるようになっていた。可愛いお人形さんバンボリーナは、伯爵の手の中で生まれ、そして朽ちていく。そう言われても、何も感じなくなっていて、もう久しく、本当の名前なんて考えていなかった。けれど。
「わたくしは、フェリーチェ。幸せ、という名ですわ。わたくしのフェリーチェは、外に出ることですの」
 にゃあ、とケイが抱いている白猫が鳴いた。とっ、とケイの腕から飛び降りて、バンボリーナ――否、フェリーチェの檸檬色のドレスに頭をすり寄せる。とたん、鼻がむずむずとしてくしゃみが漏れたが、フェリーチェはそれが何だか楽しくて仕方なかった。
 顔を上げる。先ほどまでうっすらと白く浮かんでいた月が、黄金色に輝き始めていた。どれだけ目を動かしても、空は一度に視界に入らない。フェリーチェにはそれがたまらなく心地良く感じた。
「お嬢様」
 ラウラの呼びかけに、フェリーチェは静かな笑みをたたえたまま彼女を見据えた。
「ごめんなさい、ラウラ。行かせてちょうだい。お父様を、わたくしは裏切ることになってしまうけれど、でもね、無理やりバンボリーナのまま長く生きても仕方ないって、考えてしまったのよ」
「あら。お嬢様は相変わらず早とちりがお得意なのですね」
「……え?」
 しれっとした無表情のまま、ラウラは軽く首を傾げた。
「何を驚いてらっしゃるのです? 私もお伴します。それだけですよ」
「な、何を言うのラウラ! そんなことをしたら、貴方まで――」
「旦那様は、孤児を城に上げるという無茶をしてくださって感謝しています。でも私のその感謝は、何よりもお嬢様、貴女に一番に向けられているんですよ」
 ラウラは、緑玉の瞳をすうっと細めて、微笑んだ。
「お伴します、お嬢様。それに」
「……それ、に?」
「貴女と旦那様は、私にとんでもない名前を下さった事をご自覚されたほうがいいです」
 その言葉に、それまで静観していたはずのケイが吹き出した。きょとんとするフェリーチェに、ケイは笑いをこらえながら告げた。
「月桂樹の花言葉は、裏切り、か」
「え……ええ!?」
「ご心配なく。この月桂樹ラウラは、お嬢様だけは裏切りませんわ」
 涼しい顔でラウラは言い、フェリーチェの手を握った。
「お嬢様。どこまでもお伴します」
「星の海も、虹の橋も、見たいもの、食べたいもの、聴きたいもの、感じたいもの、全ての幸せフェリーチェは、君自身が選べる。これからはね」
 ラウラの言葉に、ケイの声に、フェリーチェは満面の笑みを浮かべた。すうと、白い手を空へと掲げる。
「――はい」
 茶色の枠に遮られない空は、どこまでも、どこまでも続いていた。

 ――フェリーチェ・ヴァレンティノ。陽色の髪に、瑠璃の瞳の美しい姫君は、生まれつき身体が弱かったと言う。その美しい容姿に、いつしかバンボリーナという愛称が付けられた。鮮やかな月桂樹の下で微笑むこの少女の絵は、美しき姫君の生前の姿である。
 プレートに刻まれた細かな文字を、ケイは指でなぞって黙読した。ゆっくりと顔を上げる。無機質な壁に、茶色の額縁に囲われた一枚の絵が飾ってある。そこには、月桂樹の下で微笑む幼き姫の姿が描かれていた。
 ――かつては。
 今そこにあるのは、ただ美しい庭園の風景だ。月桂樹も姫君も、その絵の中には存在しなかった。
「これで、良かったのですか?」
 ケイの静かな問いかけは、彼の背後にいたひとりの老人に向けられていた。ケイは白猫を抱いたまま振り返った。白髪の老人は、車椅子に座ったまま静かに微笑んでいる。その目元のやわらかさに、先程まで絵の中にあった少女の色を確かに感じ取り、ケイは短く嘆息した。
「このあと『彼女』がどうなるのか、いつまで『生きて』いけるのか。俺は判りません」
「かまわないんだ。ありがとう」
 老人は感謝の言葉を口にして、すっとケイの傍に寄った。老いた手で、額縁に触れる。
「娘は結局、最期まで城の中で過ごしたんだ」
「はい」
「娘のためだと思っていたんだ。あの頃は」
「後悔されてますか」
 ケイの言葉に、老人は曖昧に微笑んだ。少女と同じ瑠璃の瞳が懐かしげに細まる。
「君を呼んで良かった。美術品の『声』を聞く男など、最初は半信半疑だったがな」
「俺は、声を聞いて少し手伝いが出来るだけです。この」
 コツン、とケイは茶色の額縁を示す。
「枠の向こうへと手を伸ばしていたのは、彼女自身です。そして、その先を選んだのも、また、彼女です」
 老人は静かに目を伏せた。にゃあ、と足元に下りた猫が鳴く。ケイはゆっくりと、老人の車椅子を押して、誰もいなくなった絵に背を向けて歩き出した。もう少しだけ、早く逢えたなら。胸中にだけ、その想いを閉じ込めて、彼は小さな声で囁いた。
「さようなら、バンボリーナ。君に最大のフェリーチェがあらんことを」

――Fin.


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