人には、向いた職業とそうでない職業があると思う。
 アルバイトであれなんであれ。
 人嫌いにティッシュ配りはさせられないだろうし、不器用な人間にハンダ付けはやらせないほうがいい。
 まぁようするに、僕が言いたいのはひとつなんだけど。
 断言しよう。
 僕の先生は、『先生』には向いていない。


いつかドレスが似合うまで


「だいたいなぁ、祐治。お前の人生の中で、竹取の翁の占めるウェイトはどれくらいだ? 役立つことか? それでお前の人生が変わるか?」
 真面目な顔で、先生は赤ペンを振りながらそんな事をいってきた。半ば以上無視したい気持ちで、僕はシャーペンの頭を二度クリックしながら呟く。
「とりあえず、受験までの数ヶ月は役立つよ。どうでもいいから、早く採点してよ」
 先生は一度むっとした顔を見せた後、それでも一応は赤ペンを握りなおし、解答用紙と解答集に向き直った。けれどそのまま相変わらずの口調で言ってくる。
「あのなぁ、祐治。言っておいてやるよ。一生とは生まれてから死ぬまでの全ての期間を指すんだぞ? お前の一生の中で、竹取の翁の占めるウェイトの小ささと言ったらお前、赤ん坊のあそこなみだぞ? わかってんのか?」
「そんな微妙な哲学、下ネタ交えて説かれたところで成績が上がるわけじゃないんだから。早く。採点。とっとと。口じゃなくて手を動かして」
 僕の先生――家庭教師の加奈子先生は、常にこの調子だ。妙な頭のまわし方をする人で、確か大学四年の二十二歳。
 身長は僕より高い。手足は長いから、モデル体型といってあげたいところだけど、むしろ背の高い小学生。おしゃれぐらいしようよ、とは思うんだけど、言ったところで効果はなし。今日も今日とて適当なトレーナーとジーンズに身を包んでいる。
 胸はないし、何を間違ったんだか、といいたいくらい短いベリーショートのヘアスタイル。凹凸のはっきりした顔立ちは、まぁ綺麗じゃないとはいえないけれど。
 それにしても口調はこれだわ、頭は悪いわ――とことん『先生』には向いていない人だ。
「……ったく。お前って可愛げがないよなー」
「十五歳男子に可愛げを求めるほうが間違ってるんだよ。で、採点は?」
「できたよ。七十二点。先週から七点アップ。オメデトウ」
「……どうも」
 デスクを滑って渡された解答用紙に目を落とし、僕は曖昧な表情で頷いた。七十二点。超微妙。
「なんだよ、その不服そうな顔は」
「別に。七点しか上がってないのか、って」
「お前、国語は苦手だもんなぁ。さっきやった数学は八十六点だろ? 合わせれば合格点こえまくりじゃんよ。いいじゃん七十二点。充分充分」
 嬉しくない。
 僕の志望校は公立高校で、第八学区の中では一番レベルが高い。一緒に受験するクラスの女子――香川って名前なんだけど――彼女は、中間テスト、五教科合わせて四百六十点いっていたらしい。ありえないし。普通に。全教科九十点以上って鬼かよ。
 それくらいが合格ライン、ってことらしい。僕たちのいっこ上の先輩が、やたらに頭がよすぎて、志望校のレベルを上げまくってくれたらしい。むかつくことに。
 ……合格できるのかな、これで。本当に。
「祐治ー? どうしたんだよ。大丈夫だって、まだ時間はあるだろうが。公立の受験は三月だろ? あたしがついてんだから大丈夫だよ」
「家庭教師変えたほうがいいのかなぁ……」
「てめぇ。祐治。人が慰めてやってんのに!」
「冗談だよ。先生国語は得意だもんね。お願いします」
 ――国語は、っていうか、国語と社会のみは、っていうか。ちなみに先生は、まれに九九を間違えるレベルで数学は――というか算数か――やばい。家庭教師として、大きく間違っている。
「はいよ。で、とりあえずやるか。答えなおし。いっかいやってみ。わかんなかったら、もう一回教える」
 先生に言われ、ぼくは小さな嘆息と共に問題に取り掛かった。
 ――ええい。修飾語なんてわかるか。


「ん。せーかい。おつかれさーん」
「……疲れた」
 心底ぐったりと、僕はうな垂れた。勉強机に突っ伏す。つけっぱなしで数時間たったせいか、デスクライトが暑いのなんのって。腕を伸ばして、ライトを消す。暖色のライトが消えたせいで、白い蛍光灯が眩しかった。
 六畳の小さな部屋。ベッドと机と本棚とクロゼット。テレビとMDコンポだけはあるけれど、プレステ2その他は封印中。白い壁に貼られた、四ヶ月前のゲーム雑誌の付録ポスターが切ないのなんのって。新作出たよこのゲーム。やりたいよ、早く。ああもう、受験早く終わって欲しい。
「がんばれがんばれ。合格したら、なんか祝ってやるから」
「じゃあゲーム買って」
「合格したらな」
 それが一番の難題なんだけど。勉強机に突っ伏したまま、少し顔を上げる。先生はけらけらと笑いながら、僕の頭をたたいた。
「今日はもうおしまい。――パパさんは?」
「お父さんは、今日も夜中に帰ってくるよ。出て行くときまた悔しがってたし」
 ちなみに母は最初からいない。――ていうか、僕が小学校のときに離婚してるからなんだけど。おかげでこの家、父一人息子一人のむさくるしさ。普通、家庭教師っていったら男の生徒には男の先生がつくものなんだけど、あえて女性を指定したつわものが僕のお父さんだ。曰く『花が欲しかったから』。我が父ながら、いろいろ間違っていると思う。
 この『花』こんなだしな。
「それで、先生。今日はこの後飲み会とかないの?」
「ないよ」
「じゃ、食べてく? 晩御飯」
 僕がそう言うと、先生はにんまりと笑った。待ってました、といわんばかりに。
 ……別に家庭教師の仕事って、まかないはついてないはずなんだけどなぁ。
 僕はよくこうやって、先生と晩御飯を一緒にする。ちなみに作るのはもちろん僕なんだけれど。どうせ一人分も二人分も変わらないし、一人でもそもそとバラエティー番組に内心突っ込みを入れながら食べるよりも、誰かと一緒のほうが楽しいし。
「先生、何がいい?」
「からあげ!」
「鶏肉ない」
 即答に切り返す。先生の好物はからあげ、とんかつ、てんぷら。どうでもいいが胸焼けしそうなメニューばっかりだ。というか、子供の好物みたいだ。
 先生と二人キッチンへ移動して、晩御飯作りを開始する。
 ――ちなみにその日のメニューは、スープパスタになった。


「いいよなぁ、お前。美味しすぎるよなぁ。わけやがれこのやろう」
「何がだよ……」
 放課後の教室、掃除をしながら友達の哲也が言った言葉に、僕は深く深くため息を漏らした。
「何がって、今日あれだろ? 魅惑の家庭教師の日だろ?」
「何が魅惑なんだよ」
 哲也は箒で大雑把にゴミを掃きながら、笑ってきた。
「いいじゃん。うーらやーましーい。祐治くんと加奈子先生の秘密のお勉強! いやーん。てっちゃんたっちゃいそう」
「死んで来い」
 吐きすてて、哲也の頭を塵取りで殴っておく。がんっと。
「いってぇー!」
 うん。なかなかいい音がした。うずくまってうめいている哲也に、クラスの女子数人が『佐藤邪魔!』と声をかけている。誰も助けもしない。日ごろの行いのせいだ馬鹿者め。
「え、ねぇねぇ。森田くん。佐藤の言ってたのって、マジ?」
 クラスメイトの女子がそう声をかけてきた。
 ――クラスメイトの女子、って言い方も、あれか。実は元カノだ。香川裕美。ショートボブの、背の小さい、まぁ、見た目は可愛い女子。なんとなく付き合って、なんとなく別れた。二ヶ月前、かな。香川と付き合っていたのは。
 付き合っていたって言ったって、キスまでしかしてないけどさ。
 香川は短く結んである制服のリボンタイを弄りながら笑っている。付き合って別れても、この関係でいられるのは楽だよな。香川の後の元カノは、未だに目もあわせてくれないし。……ちなみに今はフリー。
「……あのさ香川。哲也の言ってたのって、何」
「魅惑の家庭教師ー!」
「前半カットの勢いで」
「あ。ひど」
 香川はけらけらとひとしきり笑った後、一瞬言葉を切った。
「あのさ、森田くん、今、フリー?」
「……うん。そうだけど?」
 答えると、少し躊躇いがちに香川は視線をさまよわせた。……あー。なんかすごくこの後の言葉が想像つく。
「元に戻ったりとか、考えない?」
 ……やっぱりな。
 内心でだけ、ため息をついた。どうも僕は、こういう類の言葉を吐かれることが多い。別れた後も友達でいようとするから悪いのかもしれないけど。別れた時点で、恋愛感情なんてすでにない相手にそんな事を言われても――どうしようも、ないんだけど。
 騒がしい教室の中で、聞き取れたのは僕だけだったんだろう。香川もそれを踏まえた上で、はなしているはずだし。一応、聞かれたとしても言い訳できる程度の言葉を選んでいるとはいえ、こんな場所で話すなんて、とは思う。
 塵取りはさっき哲也の頭に振り下ろした後、その場においてきてしまった。手持ち無沙汰になって、詰襟の金具をひとつ外した。ゆるく首を回して、小声で言う。
「……ごめん」
「……そっかー。やっぱりかー。ははは、ごめんごめん。しつこいよね、あたし」
 うん。
 思ったけど、さすがに頷くことはなく、僕は曖昧に笑ってみせた。
 笑いながら去って行く香川の背中。リズミカルに左右に揺れる紺のスカート。それを見ながら――ほんの少し、罪悪感を感じた。


 今は昔竹取の翁と言ふ者ありけり。野山にまぢりて竹をとりつつよろづのことに使いけり。名をばさぬきのみやつことなむいいけ――
 ……やめだ。
 嘆息と共に、僕は教科書を放り出した。もういいよ、勝手にしててよ竹取の翁。かぐや姫は月に帰ってめでたしめでたしだろ。もういいよどうでも。
 一人でも充分手狭なはずの六畳の自室。勉強机の上、僕はいつものように伸びていた。煌々と明るいデスクライトがうざったくて、腕を伸ばしてきる。勉強をする気に全くなれなかった。
 理由はどう、とでもないし、どう理由づけたところで答えになるとも思えないし。
 ――結局、中途半端な人間なんだろうな、僕は。
 顔、普通。身長、中背。成績、そこそこ。運動、そこそこ。友達の数、普通。親友の数、ひとり。付き合った女子の数、三人。寝たの、ひとり。何から何まで普通でありきたりで中途半端。とびぬけて良いものも、とびぬけて悪いものももっていない。良くも悪くも普通。
 軽くまぶたを閉じる。完全な暗闇なんてものにはならないけれど、それでも少しばかり落ち着く。頬に当たる硬くて冷たい感触。まぶたの裏に、ちらつく影。――左右に揺れる紺のスカート。香川の後姿。
 さっきの中途半端リストにもうひとつ追加しておこう。態度。
 態度も中途半端なんだ。だからたぶん――傷つけた。
 香川につりあうような男じゃないってのは、わかってる。香川は、もてるし。頭もいいし。運動はペケだけど、だからってそれが香川の評価を落とすようなもんじゃないし。実際、なんとなく付き合ってなんとなく別れて、取り立てて意味があったわけじゃないけれど、別れたことに無理やり意味をつけるとしたら――たぶん、僕が香川についていけなかった、それだけ。
 それに、付き合ってはいたけれど……本気で好きだったかどうかっていわれれると、これもまた微妙。どこまでも微妙で中途半端な人間だなって思う。
 いっそのこと――先生みたいだったらいいのにな、と思う。
 可も不可もありまくる人だ。背は高い。胸はない。顔は綺麗。言葉は汚い。国語は出来る。算数すら出来ない。変な哲学を説く。九九は解けない。
 馬鹿だと思うし、『先生』としては尊敬できる人間ではないかもしれないけれど、でも僕には、少しばかりの憧れだ。ああいう風ならいいのに、と思う。
 思考が、ぐるぐると回る。何度目かのため息をついて、僕は顔を上げた。時計の針は六時を少しすぎている。
 ……先生、遅刻だしな。こんな時に限って。
 椅子から立ち上がる。なんとなく、だけど――早く来て欲しかった。あの小学生男子すら顔負けのベリーショートの髪型と、凹凸のはっきりした顔立ちに会いたかった。意味もなく説かれる、深いんだか浅いんだか判らない先生哲学が聞きたかった。
 そう思っているうちに、僕は部屋を出て、リビングとキッチンを横切り、玄関の前まで来ていた。
 ……なにやってんだか。
 思わず苦笑する。こんなところまで来た所で、先生が早く来る訳でもないのに。
 ……戻ろう、と僕はきびすを返した。その時だった。

 ピンポーン

 唐突に響いたチャイムに、僕は思わずどきりと足を止めた。振り返る。
「祐治ー、ごめん。遅くなった。おまちかねーの加奈子先生ご到着だよー」
 馬鹿だ。馬鹿がやってきた。
 なんと言うか、狙ったようなタイミングだなぁ……そんな事を思いつつ、チェーンと鍵を外して、玄関のドアをあける。そして……
 僕は絶句した。

 刈り過ぎとしか思えない、ベリー・ショート。凹凸のはっきりした顔立ち。
 細い体を包む――ピンクのひらひら。

「……」
「……えへっ」

 しばらく、お互いにじっと目線を交し合い――僕はまぶたを閉じ、三秒数えてから目を開けた。今度はゆっくり下から見上げる。
 ヒールのついたミュールにストッキング。がりがりの体に薄いピンクの生地のひらひらとした洋服。
「……」
 そのあたりを我慢して、さらに視線を上げる。やたら少女っぽい洋服の上に乗っているのは、小学生男子のようなベリー・ショートの髪形をした、男勝りな顔立ちだ。
「……」
 再びまぶたが、今度は我知らず落ちていた。半眼になったまま、告げる。
「どなたさまでしょうか」
「てめぇ!」
 ピンクのひらひらを身につけたその人は、声を荒げた。
 ……加奈子先生。
「……なんって格好してるの。先生……」
「ド・レ・スよーん。似合う?」
「……あれだよね。馬子にも衣装って言葉あるけどさ」
「……てめぇ」
「馬子に似合っても先生には似合わないものって、あるんだね。なんというか、人類史上まれにみる似合わなさだと思うよ、僕。ちょっと世界に対してショックを受けてみた、今」
「はったおすぞ祐治!?」
 事実なのにはったおされる筋合いはない。僕はため息をつきながら、体をずらした。
「とりあえず、入ってよ。近所の人に見られたら、末代まで噂される。そんな恥、嫌だから」
「……絞め殺すぞお前……」
 うめきながら、先生は家にあがった。


「……で? ホントに、何を間違ったの。その格好。いっとくけど、この家新種のイメクラとか経営してないからね?」
「……お前、とことん容赦ないよな……」
 リビングに入り、お茶を出しながらそう言うと、先生は少し赤面した顔で言ってきた。赤面しているってことは、まぁ、似合わない自覚はあるのかもしれない。
 いやもう、なんというか。本当に似合わないんだ、これが。体型が体型だから、もう少しシャープなドレスならクールなイメージで似合ったかもしれないんだけど、この……なんというか……絵本のお姫様ドレスを少しばかりスケールダウンさせたような洋服は、ありえないくらい似合っていない。
 いっそ感心する。何を思ってこれを選んだ。
 先生は、出したお茶にちびちびと口をつけながら、
「……しゃーねーじゃん。友達の結婚式だったんだもん。時間なくて、直で来たし。着替える暇もなくてさ」
「……はぁ?」
 思わず僕は素っ頓狂な声をあげていた。先生の向かいの椅子をひき、座りながら、
「友達の結婚式ぃ? その格好で出たの? 嫌がらせ? 相当嫌いなの、その友達?」
「……軒先からぶら下げるぞ」
「ぶら下げられても、あいにく僕はてるてる坊主じゃないから天気回復は出来ないよ。てーか。本気で選んで、それ?」
 告げると、先生はテーブルに突っ伏した。わぁわぁと子供のような嘘泣きをはじめる。
「頑張って選んだのにー! 昔憧れたお姫様ドレスなのにー!」
 憧れないでくれ。
「しかも結婚式の二次会すっ飛ばしてまで、急いでやってきた先生に対して、祐治容赦ないー! うわぁんっ!」
「……うるさいなぁ」
 軽くため息をつく。
「……って、あれ?」
 ドレスに麻痺した脳が、ようやっと動き出して、僕は疑問の声をあげた。
「先生さあ、何でわざわざ今日用事はいってたのに、こっちのバイトまで入れたの?」
 友達の結婚式があるなら、普通は休むだろう。
「……忘れてた」
 馬鹿だった。知ってたけど。
 ……これに一瞬でも憧れた自分が、情けない。ああもう、情けない。
 とりあえず、反面教師としよう。普通でいいよ、もう普通で。勉強して、志望校目指そう。こうならないために。うん。
 なんだかいろいろ諦めて、僕は立ち上がった。
「その格好でいーから。仕事して仕事。遅刻だし。竹取の翁はもうすっ飛ばしていこう。先生、立ってよ」
「……」
 突っ伏したまま動かない。拗ねたのかなぁ……。
 僕は頭をかきながら、歩き出す。
「先行っとくよ?」
「……っく」
 ……え?
 聞こえた声に、思わず立ち止まる。振り返ってみるが、先生は相変わらず突っ伏したままで――その、薄い肩が震えていた。
「……せん、せ?」
 さあっと血の気がひいていくのが判った。まさか――本当に、泣いてる?
「ぃっく……」
「……ちょ、ちょっとまってよ!」
 本気で泣かせるつもりなんてなかったからね僕は本当に! 慌てて近づいて、隣に座って覗き込む。
「先生? マジ泣き?」
「……ふぇ……」
 マジ泣きだった。軽く混乱する。いつもだったらこれくらいの言い合いは、先生だって楽しんでるはずだ。なんでいきなり泣く? 僕そんなにひどいこといった? ドレスのせいもあるの!? よくわかんないんだけど本当に!
「先生、ちょっと、ホントに、ごめん。あの、そんなきついこといったつもりないんだけど。えーっと、に、似合うし。うん。似合う」
 先生の肩をつかんで揺さぶりながらまくし立てる。
「ちが……ごめ……」
 先生は、顔を抑えながらふるふると首を振った。何が、違う? そんなにぼろぼろ涙こぼして何が違うって言うの?
「先生!」
 肩をもう一度強く揺さぶる。その拍子にひじがあたって、くんだばかりのお茶が入った湯のみがことんと倒れた。ぱたぱたっと床に落ちる雫。緑茶の香りが鼻をついた。
「……ごめん。祐治。泣くつもりなんて、なかった、んだ……けど」
「……嘘泣きしたら、ホントに出ちゃった?」
 こくん、と先生が頷いた。なんとなく、それは理解できる。そういう経験、僕にもある。
「先生。あんま泣くと、涙の染みドレスにつくよ?」
「貸しドレスだから別にいい……」
「いや、良くないと思うけど……っていうか。その。本当に、ごめん……」
 軽く頭を下げると、先生は泣き顔にほんの少し、苦笑を浮かべた。
「似合わないのは知ってるし、これは祐治のせいじゃねえよ。……こっちこそ、ごめん。……すぐ、仕事する」
「いらない」
 反射的に、僕はそう言っていた。言ってから、自分でも何を口走ったんだろうと一瞬思ったけれど――反射的に口をついた言葉には、まぁ、偽りはないはずだ。
「そんなんで、勉強教えてもらっても、身につかないよ。気になるじゃん」
 こぼれた緑茶の香りが広がるリビングで、僕は先生の顔をもう一度覗き込んでいった。
「……なんか、あったの?」
 沈黙は、たぶん結構長かった。かち、かち、と時計の音。窓の外から、近くの小学校のチャイムが聞こえてきて。それでも先生は何も言わずに俯いていた。
 手持ち無沙汰になって、僕はテーブルと床をふいた。
「……友達の」
 ふいに、先生のかすれた声がした。床をふいていた手を止め、雑巾を手近な場所に放り出して、蛇口をひねって手を洗った。
「……友達の、何?」
 手をふきながら、先生の隣に座る。先生は、少し躊躇いがちに口を開いた。
「……友達の結婚式、って言ったじゃん。あれ。……半分、嘘」
「嘘?」
 よく判らなくて首をかしげると、先生は少しだけ微笑んだ目を向けてきた。
「……花嫁のほうは、あたしの親友。花婿は……元カレ、だったんだ」

 意味もなく――どきん、ってした。
 とっさに何故か思い浮かんだ香川の姿を振り払う。
 それと、これは、関係ないんだから。

「……元カレ」
「そ。――まだ、好きだったんだ。実は」
 先生はそう言って、目を細めた。小学生みたいな顔立ちが、それだけで、年相応の女の人の顔に見える。
 ……好き、か。
 やっぱり、よく判らないのかもしれない。そんなふうに、誰かを本当に好きになったことなんて、僕にはないのかもしれない。情けないな、とは思うけど。
「……好きだけじゃ、どうしようもないことって、あるよな。判ってたつもりだったけど。……なんか、すんげぇ現実見せられた気分で」
 ぽつり、と先生は呟いた。少し陰になった横顔が――きれいだって、思った。
「……あたし」
 ピンクのひらひらをなでながら、先生は言葉を漏らす。
「小学生体型って良く言われる。がりがりで、胸もなくて、うすっぺらいだろ。あき……その、親友の花嫁のほうな。そいつ、すげぇ可愛いんだ。マジで。ちょっとふっくらしてるけど、きれいなんだ。ウェディングドレス、すげぇ似合ってた。頭もいいし、優しいし、ほんと、すげぇいい奴で」
 声がかすれてきて、先生はそこで口を一度閉じた。僕は何も言えずに、ただ先生を見ていた。
「……くやしい。あいつが、あきを選んだのって、すげぇ判る。あきみたいになりたいって、そう思ったけど。そう思って、こんなの、選んだんだけど。……結局似合わないって、判るし。女として、あたしは魅力、ねえんだよ」
 すっと、先生は目を閉じた。ピンクのドレスを一度なでて、手をおく。蛍光灯のあかりが、先生の顔に長いまつげの影を落としていた。
「……あたし、お前も羨ましいよ。祐治」
「……え?」
 急に言った先生の言葉に、僕はぱちくりと目を瞬かせた。
 ……僕が、羨ましい?
「……なに、いってんの? 人に羨ましがられるほど価値ある人間じゃないよ、僕」
「馬鹿。だってお前は、頭だってそこそこいいし、あたしみたいにあっちこっち欠けてがたがたしてる人間じゃないじゃん。……羨ましい、よ」
 普通だって、こと、かな。
 中途半端で、僕は何も良い所も悪い所ももっていない、どうしようもない、人間なのに。
 それが、羨ましいって?
「僕は……そんなこと、思ってもらえるほどの人間じゃないよ。中途半端で、ありきたりな人間なだけ」
「あんたは、そう言っても。あたしみたいにがたがたの人間から見ると、羨ましく見えるんだよ」
 先生はそう言って、ほんの少しだけ笑った。
「……あたしみたいに、だれからも好かれない奴は、だれにでも好かれるあんたが羨ましいって思うんだ」
 ……違う。それは、ただ、八方美人なだけだ。
 僕は――先生が、羨ましい。先生みたいになりたいって、思うのに。
「……僕は」
 少し、勇気が要った。脳裏にちらつく香川の影を振り払って、僕は先生の手を握った。少し冷たくて、かたかったけど、細くて長い指が心地よかった。
「祐治……?」
 先生は、香川みたいにパーフェクトじゃない。こんな大人なのに、僕の前で泣いて愚痴る。確かに、がたがたの未完成の、人間。
 でも、だからこそ。
「僕は。……僕は、先生のこと、好きだよ?」
 がたがたで、欠けまくってて、でも良い所もちゃんとあって。真っ直ぐで、子供っぽくて、でもおとなの目をちゃんとしてて。
 僕に対して、飾らないで真っ直ぐに付き合ってくれる。
 そんな先生が、僕は、好きだって――

「ゆう、じ……?」

 かすれた先生の声が、すこし近く聞こえた。
 ほとんど、無意識のうちに、僕は先生の頭を抱き寄せていた。
 微かに触れた唇は、ほんの少し涙で湿っていて、ほんの少し、緑茶の香りがした。


「えぐっ。えぐうっ。祐治の馬鹿やろうーぅ」
「……だから。ごめんって……」
 テーブルにかじりつくように、先生はぐずぐず泣いていた。
 なんというか。……発作的に、って言うと聞こえ悪いけど、まぁ、そんな感じで、キスしちゃったけど。
 ……先生、ファースト・キスだったらしい。
「ファースト・キスー……生徒に奪われるなんてぇぇぇぇ……」
「……ごめんってば。……大体その年で、ファースト・キスって言うのが信じられないよ僕は」
 確か二十二。……希少人種。
「お前のがおかしーんだよっ! 十五でほいほいキッ……キス……なんてしやがって! あたしはあんたの将来が心配だよ!」
 おかしい……?
「まわり、みんなこんなもんだけど……」
「最近の中坊なんて大っ嫌いだあー!」
 先生はさらに喚いた。うるさいし……
 とりあえず、まぁ、軽い罪悪感はあるわけで。
 しばらく泣かせておいたほうが楽だろうと、僕は支度に取り掛かった。
 冷凍庫をあけて、取り出した鶏肉を電子レンジに放り込む。揚げ物用の鍋を引っ張り出して、たぷたぷと黄色いあぶらを注ぐ。
 食品ストッカーからから揚げ粉を出して、ビニール袋に入れる。
 解凍できた鶏肉を、一口大に切って、から揚げ粉の中に放り込む。
 口を閉めて、振る。
 ぱふぱふぱふぱふ……
「……なに、やってんの。祐治?」
「晩御飯のしたく。からあげ」
「からあげっ!」
 先生が現金にも顔をほころばせた。……子供だ。子供がいる。
 買っておいてよかったなぁ、鶏肉。機嫌取りにつかえるなんてなぁ。
 先生は似合わないドレスを引き摺って、こっちまでやってきた。
 ぷくぷくと小さなあわが、だんだん大きくなっていく。あぶらが温まるまで、もう少し。
 先生は……なんだかやたら熱心に見ている。
「……楽しい?」
「いやなんか、おもしろくねーか? あたし、食うのも好きだけど、見るのも好きだ。あぶら関係」
「そんな希少な趣味、そのあたりに捨ててきて」
 変な人だ。
 まんべんなくから揚げ粉を塗した鶏肉を、あぶらの中に放り込む。
 じゅうっと小気味良い音。
 はねるあぶら。徐々に色づいていく鶏肉。
 じゅうじゅうじゅう……
 いい香りが漂い始めて、リビングにあぶらのはねる音が満ちる。
 あがってきたから揚げを、キッチンペーパーの上に置いていく。
 うん、いいかんじだ。
 それをじっと見ていた先生に、僕は見上げて笑いかける。
「……泣き止んだ?」
「泣き止んだけど、許したわけじゃないからなふぐっ!?」
 喚きかけた先生の口に、僕はあがったばかりのから揚げを放り込んだ。
「あふーいー! ふいいいっ!?」
「おいし?」
「あふい!」
 美味しいらしい。うん。
 僕は笑いながら、自分の分もつまみ食い。ほんの少しかじると、さくっとした外側と、中の熱い汁が口の中で溶け合った。うん、美味しい。
「あふっ……熱いだろー!」
 先生が上から頭を殴ってきた。ドレスのすそが、僕のズボンに触れる。
 ほんの少しくすぐったくて、心地よい。
「先生さ」
 僕は笑いながら言った。
「いつか、そのドレスが似合うようになったらさ」
 先生の目がきょとんと見開かれる。
「今度はちゃんと手順踏んで、キスしたげる。さっき言ったの、嘘じゃないから」
 コンロの火を切って、笑いながら見上げると、先生の顔はまるであぶらの中にでも突っ込まれたかのように赤くなっていた。
「……お望みとあれば、それ以上でもいいけど? あ、僕一人しか寝てないから、そんな上手くないかも知れないけど。まぁ、大丈夫か。先生がドレス似合うようになるまで、まだだいぶありそうだしね」
「……祐治ー!」
 先生は声を荒げて、手を振り上げた。
 ふわり、とピンクのドレスが揺れる。
 僕は笑いながら逃げた。


 こういうのも、悪くないな、なんて思いながら。





――Fin