春雨の海



 安いビニール傘に跳ねる、雨音が好きだ。
 芽吹き始めている若草も、咲き始めた桜も、少しばかり雨の衣を纏っている。
「おつかれ、またね」
「うん、ばいばい」
 駅に向かって早足でかけていく友人たちを見送って、私は空を見上げる。
 雨は好きだ。雨が降る直前の空気の匂いも、こうやって包まれる雨音も好きだ。
 だから、私はゆっくり歩く。
 雨が好きだから、ゆっくり歩くんだ。それ以上の意味はない。
 腕時計に視線を落とすと、時刻は七時を回っていた。それでもまだ闇は落ちず、色温度の高い、青染めの街並みが広がっている。
 駅に向かう足を止めた。少しだけ、立ち止まった。ぱらぱらと、雨音が包み込んでくる。
 漏れかかるため息を飲み込んで、向かう方向を変えた。駅から徒歩で五分の海へ行こう。
 雨に抱かれて、海へ行こう。
 水音が好きだ。何故かは判らない。母親の体内にいたころの、あの音を思い返しているのかもしれない。記憶にもない、どこか深いところで。
 水が好きだから、私は海へ向かう。
 それ以上の意味はない。






 絶え間なく水面をたたきつける雨粒は、喜んでいるのだろうか。
 一度は離れ離れになって、違う人生を歩んできた水同士が、また海で巡り会えて、喜んでいるのだろうか。
 目を閉じて、水音に耳を済ませる。
 安らぐ気がした。





「やっぱりここに居た」




 

 後からの声に、私は振り返らない。ただ目を開けて、海を見た。
 雨粒とともに、波に跳ねた雫は踊っている。
「ごめんな」
 すぐ傍で声がした。振り返ってなんてやらない。
 私は雨が好きだからゆっくり歩いて、水が好きだから海へきた。それだけのことだから。
 傘をにぎっている手とは逆の手に、暖かい違和感を覚えた。
 手を握られた。
 雨粒が傘を叩く音が好きだ。
 泣きそうなぐらいに、その音が好きだ。
 私ははじめて隣を見上げた。
 見上げる角度も、動作も、体が覚えている。
 困ったような笑顔。
 私は視線を海へと合わせた。


 巡り会えた水同士は、楽しげに踊っている。


 出来るなら、この頬を伝っていく馬鹿な雫も、一緒に躍らせてあげたかった。









「ねぇ」
「ん?」
「雨粒と海って、巡り会えて喜んでるかな」
「なにそれ?」
「どう思う?」







「とりあえず俺は、今、嬉しい」









 私は、安いビニール傘に跳ねる、雨音が好きだ。
 私は、水音が好きだ。
 私は、海が好きだ。
 
 それから、私は多分、この馬鹿な男も好きなんだろう。


――Fin