しゃぼんの子どもたち



「例えばこの世界が終わることになったとき、全てはゼロになるんだと思う?」
 ユウくんはいつものベーコンパンを齧りながら、神妙な顔で言った。寝癖のついた前髪が、ひょこんと右に跳ねている。
 あたしはその前髪を見つめながら、同じくベーコンパンに齧りつく。
 タザニー孔から配給されているマジロ豚のベーコンは、程よい脂が噛んだ瞬間に口の中に一気に広がる。それを軽く焼いてママ――本当のママじゃなくて、あたしたちみんなのママだ――お手製のほんのり甘い白パンに挟んで食べるのが、定番の朝食だった。
「ルナ、聞いてる?」
「聞いてるー」
 頬張りながら頷く。ユウくんはそれでもちょっと不機嫌そうに鼻を鳴らすと、指についた油をぺろっと舐めてから窓の外に目をやった。
「ゼロになるか、それともゼロすらないのか。気になるんだよね」
 窓――といっても、本物の窓があるわけじゃない。ただ、本物と同じ役割は果たしてくれている。ここ、レニアナ孔の上に取り付けられた管制カメラの一般向け映像を随時流してくれているから。
 あたしたちが窓としているのは、その映像を映すモニタのことだ。
 窓には、七色に揺れる空が映っている。朝だから、ちょっと青が強い。まぁこの空の色っていうのは、便宜上外殻に映している色ではあるのだけど。
「いい天気だよ、ユウくん」
「まぁな」
「終わらないよ、たぶん」
「どうかな」
 すっかり冷めてぬるくなった紅茶をくいっと飲み干すと、ユウくんは立ち上がった。そのまま、食堂を出て行く。ユウくんの青みがかった短髪が、ふわふわ揺れながら遠ざかっていく。
「まーた、ややこしい哲学モードだね、あいつは」
「ゼロとゼロですらない状態、かー。数学なのかなー」
 ユウくんの姿が見えなくなってから、お隣に座っていたレオくんとマホロが呟いた。
 マホロの兎みたいな二つ結びの髪が、首を傾げる動作とともにぴょこんと動く。マホロはあたしの一番の親友で、レオくんはそのパートナーだ。ちょっと色の薄い長めの髪に、カッコつけ気味な動作がわりとすんなり似合ってる。
「……ルナちゃん、落ち着いて食べなよ」
「ふぁい」
 レオくんが困ったように言う。パンの残りを無理やり紅茶で流し込みながら頷いた。本当はごはんの時間はゆっくり味わいたいのだけど、そうもいかない。
 かちゃんとティーカップを置いて、あたしは立ち上がった。
「じゃあ、行ってきますー」
「大変だねぇ、ルナ」
 マホロが苦笑した。いってらっしゃい、とひらひら手を降ってくれる。
「パートナーだもん」
「はいはい。授業には間に合うようにねー」
「うん、頑張るー」
 ごちそうさまでした! って言って、あたしは走りだした。食堂を抜けて、いつもの場所へ。
 制服のスカートの裾がくるん、と揺れる。埃ひとつない無機質な廊下を進んで、ずっと先へ。
 孔内施設の一番先端。他の場所よりちょっとだけ、孔の外に近い場所。そこにユウくんは絶対いるから。
 ぷしゅっ、と音を立てて扉が開くと、そこはそれまでの無機質な廊下とは違っていた。
 草が生い茂り、青空と陽射しの柔らかさが広がっている。お花も咲いているし、蝶だって飛んでいる。鼻の奥に、土と緑の香りすら届く。まぁ、全部作り物だけれど。
 その草原の奥、一本の大きな樹の下にユウくんが立っていた。ふうと息を吐いて、あたしはその背中に声をかける。
「ユウくん」
「ルナ、おいで」
 ユウくんに言われて、あたしはその側によっていく。あたしが近づくと、ユウくんはそっと手もとのリモコンを弄った。一瞬にして景色が溶けて真っ暗になる。もう一度、ちいさなぴっという音。次の瞬間、あたしたちは宇宙に立っていた。映像を切り替えたんだ。
 ユウくんは、この映像が好きだ。あたしはちょっと、足元がフワフワする感じがして好きじゃないんだけど。
「ルナ、あれ」
 ユウくんは映像の中の真ん中にある青い星を指さした。あたしたち人類の故郷の星。大量に覆われたスペース・デブリのせいでまったく近寄れそうには見えないけれど。
「あっち」
 ユウくんの細い指がすうっと動いて月に向かった。そのままユウくんはにまっと意地の悪い笑みを浮かべた。指をとんとん、と下に向けて「ここ」っていう。当たり前のことを言われても、どうしていいか判んない。判んないから、こくんと頷いた。ユウくんはちょっとつまらなそうな顔をして、そのまま映像を月に寄せた。
 月にあいた幾つものクレーターに、ふわふわ揺れる虹色が見えている。そこが、あたしたちのいる孔内施設。しゃぼんシェルター、とかとも言われる。外殻が虹色で、丸いからだ。
 虹色なのは、光の屈折がどうとか、外部の放射線がどうとか、なんかいろいろ難しい理由があるらしい。ただ、中から外が見えるわけじゃない。
 しゃぼん玉の中から、しゃぼん玉の外は見えない。それはものの道理、ってやつ、らしい。
「きっと、すぐに壊れるよ」
 ユウくんのいつもの持論だ。
「壊れないよ。だってずっと壊れてないもの」
「ずっとっていつからだよ」
「判んない。でもユウくんとあたしが生まれてからはずっとだよ」
 しゃぼんシェルターは、いつから出来たのか明確には判らない。というか、あたしたちには教えられていない。大人たちは授業でも、このシェルターのなりたちについて口を閉ざしてしまうから。
「だってさ、ルナ」
 ユウくんは言う。
「壊れないしゃぼん玉なんて、見たことないでしょ?」
 ――そう言われてしまうと、そうだね、としかいえない。
 そうだね、ってあたしは言って、そのままユウくんの隣で宇宙遊泳し続ける。
 だって今はそれしか、出来ないから。



 突然、警告音が鳴り響いた。
『デブリ接近中。警告レベルB。衝撃体勢をとれるよう準備願います。最接近予定時刻イチゴーマルマル。現在の計算では衝突の恐れはありません。デブリの大きさはレベルCマイナス。接近時の衝撃は大きいものと予想されます。繰り返します。デブリ接近中。警告レベルB――』
 無機質な音声が繰り返される。授業中だったから、みんなは一度手を止めた。先生も困ったようにスピーカーに目をやって、時計に目をやって、それから肩をすくめた。
 接近予定時間はまだ先だから、授業を続けることを選んだみたいだ。
 ちょっとだけ授業中断の期待があったあたしたちの間では、静かなため息が伝染していく。
 先生は気付かないまま、物語の中の誰かの思いを語り始める。
「つまんないのー。中止じゃないんだ」
 ぷすっと息を吹いて隣の席のマホロが呟いた。
「まあ、ちょっと大きいかなってくらいだしね」
 デブリの接近は珍しくない。
 大人たちはちょっとした地震みたいなものね、という。本当の地震はあたしたちは知らない。しゃぼんシェルターは、フロート構造になっている、らしくって、地面からの振動は受けないから。
「ユウくん、大丈夫?」
「判んない」
 ――まあたぶん、大丈夫じゃないけど。
 あたしは心のなかで呟いた。と、その瞬間、廊下を誰かが走っていく気配と、それを止める大人の声が聞こえてきた。
「ユウくんだねー」
「……だねー」
 ぐったり、してしまう。先生が苦笑したまま廊下を見て、それからあたしに声をかける。
「ルナ」
「はーい」
 行って来いってことだ。
 仕方ない。だってパートナーだもん。
 あたしは立ち上がってユウくんの後を追いかけるために教室を出る。
 廊下に出たその時、だった。

 ――ゴウンッ!

 はじけるような轟音とともに、あたしは壁に叩きつけられていた。
 白い壁と白い天井、それからやっぱり白い床。どっちが上でどっちが下か何がなんだか判んない感覚に、くらくらする。
 ビーンッて、空気が揺すられたあとの反響音が響いていた。それが耳鳴りみたいなものだって気づいて少しした時、教室から悲鳴が上がっているのが聞こえた。
 ふるふるっと頭をふって顔を上げる。
 また、ビーッビーッと警告音が鳴っている。いつもの無機質な声もする。
『デブリ接近中。警告レベルB。衝撃体勢をとれるよう準備願います。最接近予定時刻イチゴーマルマル。現在の計算では衝突の恐れはありません――』
 嘘つき。
 口の中で毒づいて、あたしはふらふら立ち上がった。
 ユウくん、探さなきゃ。



 レニアナ孔は、教育特区の孔だ。ここが作られた時、ちょっとした揉め事もあったって先生たちから聞いたことがある。タザニー孔やマシェル孔、他の孔から選ばれた人たちから更に選ばれて生まれた、頭のいい、あるいは運動神経のいい子どもたち。二歳の時に選別されて、ここに連れてこられる。ここでは、いろんなことが特別、らしい。らしいってのはあたしたちはここしかしらないから、だけどね。
 親はいない。ここにいるのは先生たちが数人だけ。他の大人たちはいないんだ。
 そして、五歳の時にパートナーを決められる。
 性格の相性とか、遺伝子上のいろいろとかを考慮されたパートナー。そして、特別な子どもたちは特別な大人になって、さらに特別な子どもを産まなきゃいけない。
 ユウくんは、あたしのパートナーだ。だからこんなとき、大人たちはあたしにその役割を押し付ける。
 警告音の中、あたしはいつもの場所へ進んでいく。何度もぐらぐら揺れるから、思うように進めない。
「ユウくん!」
 大声を上げて、あたしはいつもの扉を開いた。ユウくんはちょっと驚いた顔をして振り向く。
「ルナ、危ないよ」
「ユウくんこそ」
 よたよたしながら近づくと、ユウくんはあたしの腕を支えてくれた。小さく、笑う。
「ルナは無茶するな」
「ユウくんのせいだよ」
 ちょっとだけ頬を膨らませると、ユウくんはくしゃっと頭をなでてくれた。
「ごめん」
「いいよ。ね、かえろ。デブリ、あたったみたい。みんなたぶん、避難室にいるよ」
「孔に穴があくのかなー」
「ユウくん」
 不謹慎だよ。と叱ってみせる。ちょっとバツが悪そうに、ユウくんが笑う。
「ちょっとだけ」
 また、手元のリモコンを操作する。宇宙は草原になって、海辺になって、それから――
 外部モニタの映像に切り替わる。
「――え?」
 思わず、声が漏れた。外部モニタが映すのは、ゆらめく七色の空だと思っていた。
 でも、違った。
 七色は、消えていた。ぽかんと口を開けているのは真っ暗な夜。
「これ……」
 ううん、違う。全部消えたわけじゃない。硝子が割れたみたいに、七色が一部消えているだけで――
 だんっ! と地面を叩くような音が聞こえた。
 はっとして振り向くと、ユウくんがまた走りだしていた。
「ユウくん!」
 声を上げる。
 まずいな、まずいな、って心のなかに警鐘がなる。だってあたしは知っていた。ユウくんが、終わりたがっていること。
 ここから、飛び出したがっていること。
 孔と孔を結ぶ主要ロードをいけば、この孔からは飛び出せる。でも、そういうことじゃない。
 ユウくんは、しゃぼんの世界をも飛び出したがっている。そこにあるのが、死の世界でも。
 そこに、行きたがっている。
「ユウくん、待ってよ!」
 声は届かない。パートナーっていったって、決められただけのパートナー。ユウくんにとってはどうでもいい存在なんだから。
 どん、どんっ、と、その間にもデブリ地震の振動が襲ってくる。おっきなデブリは小さな破片をまとっていることが多いから、そのせいだろう。
 ふらふらしながら外に出ると、悲鳴みたいな声がした。
「ルナ、だいじょぶ!?」
 マホロだ。レオくんもいっしょだ。
「ユウくんみた?」
 レオくんはちょっと伸びた髪をクシャッとかきあげて天井を仰いだ。
「あー、あいつはまた、もう」
「さっき走ってったよ、一目散、どこ行くのかな」
「判んない……」
「ルナちゃんも大変だな」
 レオくんが苦笑する。それから、ちょっと困った顔で、
「――どうしてもってなら、パートナー変更届申請したら?」
「それはないよ」
 くすっと、あたしは笑った。パートナー変更届は、おとなになるまでの間に一度だけ、申請することを許されている。ただし、どちらの合意もいるし、申請したところで別の申請者がいないとスワップ出来ないから、受理されることは少ない。それに受理されてスワップした相手が、今よりいいとも限らない。それでも、時々出す人がいる。
 たしかに、パートナー変更届を出すことはできるけど、あたしはそれを望んだことはない。
 ユウくんは、知らない。
 あたしがどんなに、ユウくんに感謝してるか。
 あたしは絶対、パートナー変更届を出すことはないんだ。
「ユウのやつ、ルナちゃんのこと全然見てないもんな。自分勝手」
「そんなことないよ」
 ちょっと困って、あたしは言った。
「ユウくんはきっと、外を知りたいだけなんだよ」



 シェルター中を探しまわって、でも全然見つからなくて、警告のあったイチゴーマルマルのデブリは結局接近すらしなくって。
 ぐったりしたあたしが部屋に戻った時、ユウくんったらすでにそこにいた。
 窓の外を、眺めてた。
「みっけた」
「うん、ごめん」
「探したんだよ」
「うん、ごめん」
 気のない返事。食い入るように、外を見ている。
「割れてる?」
「割れてないんだ」
 くるっと、ユウくんが振り返ってきた。
「割れてないんだ。おかしくない?」
 ユウくんの言葉に、あたしはちょっと笑ってしまった。仕方ないよ、っていう。
「ここがそういうところなのは、みんな知ってるもの」
「だったら徹底すればいいんだ。あんなふうに、モニタ映像を漏らすんじゃなくて」
「徹底したユートピアにしたらいいの?」
「やるならとことん、だろ。中途半端なんだよ」
「だから気になる?」
「ルナは気にならないの?」
 ユウくんはいつになく声を荒らげた。
「本当のことは教えない先生、決められたパートナーに、嘘っぱちの窓、空、景色。全部嘘。全部ぜーんぶ、嘘! 本当にここがレニアナ孔って名前の月のクレーターにあるのか、そのシェルターなのか、本当は判らないじゃないか!」
 そっからかー。
 あたしはくてんと首を傾げてしまう。
「そっから疑ってたら、なんにも判んないよ。さっき見た映像だって、それこそ嘘かもしれないじゃない。ユウくんはそれは、本当だって言いたいんでしょ?」
「……そうだけどさ」
「真実(ほんとう)なんてないかもしれないけど、それでいいじゃない」
 これは、魔法の言葉。
 ユウくんが気まずそうに笑う、魔法の言葉。
「まだそれ、覚えてるんだ」
「うん。でもその中にある僕たちは、本物で――」
「わー、こら、やめろ」
「むぐ」
 口をふさがれる。ユウくん、顔、まっかだ。
「言わなくていいから」
 こくん。頷いた。
 あたしは知ってる。ユウくんはあたしを見ていないわけじゃない。ちゃんと、見てくれている。
 ユウくんは、すごいんだ。
 この、嘘みたいなまどろみがたゆたう世界で、ちゃんと終わりを考えられるすごい人。
「あたし、ユウくんが本物だってのは知ってるよ。だからさ」
 そっと、ユウくんの手をにぎる。
「ユウくんが外に出たいって言うなら、いいと思うよ」
「――何が起きるか判んないよ?」
「知ってる」
「どっかーんってなるかもよ?」
「かもね?」
「いいの?」
 問われて、笑った。
「パートナーだもん」

 ◇

 ユウくんとふたり、みんなが寝静まったシェルターを歩いていく。
 静かに静かにこっそりと。
 いつものあの場所からちょっと外れた場所に、先生たちだけが出入り出来る扉がある。ユウくんはそこに行きたい、と言った。
 そこにはきっと、何かがある、と言った。
 根拠なんてなかったけど、あたしたちはそこに向かった。
 扉のカードキーは、ユウくんが持っていた。
 ……なんでかは、聞かないほうがよさそうだなーって思った。
 ぴぴっと音がなって、扉が開いた。
 二人で顔を見合わせ、頷く。
 自然と、手をつないでいた。ユウくんの手、いつのまにか、大きくなっている。なんだかちょっとだけ、ほこらしい気分だ。
 いいでしょ。あたしのパートナー、ステキでしょう、って。
 足を踏み出した。
 声がした。先生たちの声。でも、あたしもユウくんも手をつないだまま、周りなんて見なかった。まっすぐ、まっすぐ、前を向いて歩いていく。
「――やめなさい!」
 声がした。すぐ近く。気づいた時には、ユウくんはその場に転がっていてあたしも尻餅をついていた。でも、手は離さない。
 ユウくんがぱちくり、目を瞬いた。
 先生は細い顎を尖らせて、目を三角にして怒っていた。
 でもなにより、その格好がおかしかった。おかしい。だってそんな、ごつごつした服、はじめて見たもの。それに、おかしなヘルメットまでつけている。
「先生、変な格好」
 ぷっと、ユウくんが吹き出した。
「バカを言っているんじゃない!」
 ヘルメット越しに怒鳴った先生の言葉とともに、しゅこーって、何かが吐き出される。それがおかしくって、あたしとユウくんは思わず笑い転げてた。
「へんなのー!」
「ここに入るには、これが必要だ、外殻が――」
「しゃぼん玉は割れるんだよ、先生」
 ユウくんが、笑いを引っ込めてそう言った。先生はしゃっくりを飲み込んだみたいな音を立てて、呆然としている。
 ユウくんは笑ってあたしを見た。あたしはぐいっとユウくんをひっぱりあげる。
 また、歩き出す。
 今度は誰も止めなかった。あたしたちは並んで、人が多いところへ進んでいく。また、扉。それから、また、扉。
 扉、扉――
 いくつもの扉のあと、今までと違う形の大きな扉の前に出た。
 両開きの、大昔のゲームに出てきたみたいな大きな、大きな、扉だった。
「いくの?」
 背後で声がした。びっくりして振り返る。
 だって、聞き慣れた声だったから。
「マホロ」
 兎の髪をしたマホロが、レオくんといっしょにいた。
 マホロはいつものイタズラ好きっぽい瞳とは違って、真剣な顔をしていた。扉を見て、あたし達を見て、なんだか大人みたいな顔で微笑む。
「その先いったら、帰ってこれないよ。死んじゃうかも」
「マホロ、ここ、知ってたの?」
「わたし、ルナよりおてんばだからねー」
 へへっ、てマホロが笑う。
「でも、行けなかった」
 少し寂しそうに、彼女は言った。レオくんを見上げる。
「行きたかったけど、それよりたぶん、生きていたかった」
「……そっか」
「うん。わたしは、そうだった。だからまだ、ここにいるよ」
「ルナちゃんもユウも、行くの?」
 レオくんが、似合わない神妙な顔でそう聞いた。あたしたちは躊躇わなかった。
 こくん。
 頷いた。
「そっか。じゃあ仕方ないね」
 レオくんがくすっと笑う。きっとレオくんもマホロも、あたしたちのこと判ってくれてる。
 マホロが一回、ぎゅってあたしを抱きしめた。あったかい。すぐに離れて、いつものきししって笑い方をした。
「んじゃ、ばいばい、ルナ」
「うん、ばいばい、マホロ。レオくん」
 手を振る。
 ふたりは少しだけ困ったような笑い方のまま、そのまま、扉を戻っていった。
 止めないでいてくれた。ありがたかった。でも、きっと思いは同じ。しゃぼんの中のあたしたちは、割れたしゃぼん玉をやっぱり見たいのだ。出来るかどうかは別にしても。
 だからきっと、見逃してくれたんだ。
 あたしとユウくんは顔を見合わせる。
 そっと、扉に手をかけた。
「せーのっ!」
 ゆっくりと押していく。ごご……と、大きな音を立てて、扉が開いていく。

 そして――

 世界は、とても、眩しくて。
 ぱちんと、音を立てて、消えた。



『なあ、いつまで泣いてんの』
 五歳になったあの年。みんなが一斉に呼ばれて、パートナーが決められた。
 仲良しだった子たちもいたし、それまでほとんど話したことがない子もいた。パートナーは、大人たちが勝手に決めた。
 あたしの前に現れたパートナーはユウくんだった。
 他の男の子たちよりちょっとだけ大人びて見えて、なんだか少し、こわかった。
『なあ、なんで泣いてんの』
『だって、ヤなの』
 何が嫌なのか、あたしには説明できなかった。ただ、その頃のあたしは、この世界が嫌だった。なんだか全部が嫌で嫌で仕方なかった。
 あたしはまだ、言葉をちゃんと人に届ける術を知らなくて、泣いて、喚いて、黙りこんで、そんなこんなで、結局丸一日はかかっちゃったと思う。
『こんなの、ヤなの』
『何が、嫌なの』
『判んない。でも、ホントじゃないみたいでヤなの』
 あたしの拙い言葉に、ユウくんはぱちくり、目を瞬かせた。
『なあ、ルナ。本当のことってなんだ?』
『え――?』
 それまで泣きじゃくって下を向いていたあたしは、その声に顔をあげていた。
 ユウくんは、まっすぐ、まっすぐ、あたしを見ていた。
 どきん、とした。
 そして思ったんだ。
 ああ、この人は、ちゃんとあたしと向き合ってくれているって。
 あたしとちゃんと向き合って言葉をかわしてくれているって。
 難しい言葉は、その時は判らなかったけど、きっとその頃のあたしにとって、こうして対話してくれる誰かがとても嬉しかったんだ。
 ユウくんは、小さな手であたしの頭を撫でてくれた。
『何が本当か判んないけど、でも、いいじゃん。真実(ほんとう)なんてないかもしれないけど、それでいいじゃん』

 ユウくんは、言ってくれた。
 あたしとちゃんと向き合って、言ってくれた。

『偽物ばっかりかもしれないけど、でも、その中にある僕たちは、本物だろ。本物で――』


 本物は、ずっと、変わらないものだろう?


――fin.


Tweet