このおっさんは、魔法使いだ。



「お前も難儀な男に惚れたよなぁ、おい」
 コトがすんでからベッドの上で身を起こし、奴は煙草を手に取った。ジッポーに小さな炎が灯って、エアコンの風に乗って煙がこっちまで流れてくる。マルボロ。マルボロの匂いはあんまり好きじゃない。それをいうと奴は、お子様だなと笑う。じゃあ、お子様に手を出してるあんたは何なんだ。このロリコンめ。じゃあそのおっさんに抱かれてるあたしは何なんだ。ジジ専か。屈辱だ。
「別に惚れてない」
「へぇ?」
 拗ねたようなあたしの言葉に、奴は低く笑いながら煙草を唇から放す。
 ぎし、とベッドがなった。奴の右手が、後頭部に回される。
 苦い、キス。
 マルボロは嫌いだ。苦いから。優しさなんてカケラもない、身を焦がしそうな乱暴なキス。このおっさんめ。胸中で毒づく。このおっさんめ。息が詰まって、何も考えられなくなる。酸欠か。苦しい、と思ったときにタイミングよく唇がはなされる。あたしはそのままベッドに横たわって息を吐く。このおっさんめ。もう一度、今度は声に出して呟く。
 ホテル選びのセンスはいい。ベッドでかいし、ふわふわだ。照明がいっぱい変えられたから、コトが始まる前にいじくり倒して遊びまくった。風呂もでかい。風呂も照明変えられた。懲りすぎ。女性用の替えの下着が用意してあったのがすげえと思ったこのホテル。だが、AVがやたらチャンネル多いのと、おっさん大好きなおもちゃが無駄に多いのと、何回やらす気だと問い詰めたくなる四個もあるゴムは何事だとも思う。このおっさんめ。もう一回呟いた。
「おっさんおっさん、うるせぇな。亜季は」
「だっておっさんじゃん。自覚しろ、三十四歳」
「気持ちよかったろ? そいつはあれだ。年の功だ」
 そりゃ、奥さんいるんだろ。あんた。奥さんと何回やったか知らんが、それ以外にも絶対こなしてるだろ、あんた。あたしはぴちぴちの初々しい二十二歳だ。テクを比べるな。経験数を比べるな。
「大体俺のどこがおっさんだよ?」
「フルチン。パンツはけ馬鹿」
「いいじゃねえか。お前しか見てねえし。もっと見る?」
「そういうところがおっさんだ!」
 枕を投げつけると、おっさんは笑う。ああ、何やってんだ、あたし。いや、ナニしたんだけどさ。
「惚れてないの? 俺のこと」
 おっさんは片頬だけでにやっと笑って、私の髪をひと房掴む。おっさんは、策士でもある。知ってるんだ。煙の匂いが髪につくことを、あたしが嫌ってることを。だからわざとそうする。何故ってだって、匂いにおっさんが付きまとうから。離れた後でも付きまとうから。
 おっさんは、ずるい。
 三十四歳の癖に、外見はそう見えない。最初から騙された。絶対若返りの魔法とか使ってるんだ、こいつ。せいぜい、二十代後半。身長高いし、腹だって腹筋しっかりついてるし、服のセンスも悪くない。何より顔がかっこいい。顔? あたしってメンクイか。そうかも。
「亜季」
「るっさい、おっさん。黙れ、おっさん」
「俺は亜季のこと好きだぞ?」
 ……卑怯だ。
 何にも言えなくなって、あたしはシーツの海に潜る。ぶくぶくぶく。このまま泡になって溶けてしまえば、きっと何にも考えなくてよくてラクだ。人魚姫、あたしはちょっとあんたがうらやましい。だってそうじゃん? どうせ叶わない恋ならば、消えてしまったほうがラク。だけどうっかりしたことにあたし人間。消えらんない。自殺はそもそも眼中にない。あたし馬鹿だけど、そこまで頭悪くない。
 何やってるんだろうって思う。
 不毛も不毛。さらに不毛。だってそうじゃん? おっさんは、三十四の妻子もち。ふざけんなあたし。何やってんだあたし。不倫だぞこら。
「亜季」
 声とともに腕が伸びてきた。シーツの中で、抱きしめられる。
 ふざけんなあたし。泣くなあたし。何であたしが泣くんだよ。泣きたいのはたぶん、おっさんの奥さん。おっさんの馬鹿。あたしなんか、相手にするな。判ってるのに跳ね除けられない。腕の中が気持ちいいと感じてしまう。
「亜季」
 耳元で、囁かれた。二の腕があわ立つ。苦しくて、優しくて、悔しくて、気持ちよくて。
 おっさんはさ、いつも言葉はあんまり言わない。好きだなんて、ふざけてでしか言わない。でも、名前は呼んでくれる。亜季って。言葉なんかさして重要じゃないって、判る。あたしはおっさんの声で囁かれるあたしの名前が、悲しいくらい好きだ。
「亜季。俺ら、間違ってるのかな」
「すげえ間違い。バリ間違い。最悪」
「何でかな」
 おっさんの抱きしめてくる腕が痛い。やばい、あたし、泣く。顔を伏せて、おっさんの裸の胸に寄りかかる。
 間違いだ。こんなの。あたりまえ。だって、年齢が違いすぎる。三十四と二十二歳。だって、立場がまずすぎる。大学講師と大学生。だっておっさんは、妻子もち。
「亜季、俺、やばい」
「おっさんの馬鹿。あんたが言うな。馬鹿」
「お前もっと早く生まれてろよ。んで、もっと早く俺と会ってろよ」
「無理。馬鹿」
 そうできたら、どんなに良かったんだろうって思う。でもどうしようもないんだ。だってそうだろ? あたしは人魚姫と同じ。どうしようもない壁が最初からある。
「魔法使いでも現れてくんねぇかな」
「時間、戻して?」
「そう。亜季が、早く俺の前に現れてくれるようにすんの」
 おっさんの言葉に、あたしは笑ってた。シーツの中に、くすくすと笑いが溶けていく。
「無理だよおっさん。だって、おっさんのが魔法使いだもん」
「は? 俺?」
「そだよ。何度も別れなきゃって思ったのに、あたし、おっさんに会うとずるずる抱かれてる」
「チャームの魔法でもかけたかな、俺」
 笑いながらおっさんが、もう一回キスをする。苦い乱暴なキス。それがとても心地良い。
 駄目だなって思うんだ。
 だけど、切れない苦しい関係。いいんだ。今は、このままで。だっておっさん、知らないだろ。あたし、大学卒業したら、実家に帰るんだ。ホントは大学院まで行こうかって考えたこともあったけど、やっぱりやめた。おっさんには内緒で、おっさんの前から消えてやる。そしたらおっさん、どう思うかな。考えたけど、苦しくなって、だからあたしは考えない。だからあたしは内緒にするよ。あと二週間なんて、ねぇおっさん、信じられる?
「亜季」
 その名前が好きだよ、おっさん。その声が好き。その手が好き。そのキスが好き。抱いてくれる夜が好き。全部好き。全部全部愛してる。
 馬鹿みたいな魔法使いのおっさんを、あたしはとても、愛してる。



 ――だけど、ねぇ、知ってた? おっさん。
 人魚姫の魔法使いはね、とってもとっても悪い奴。
 人魚姫から全部を奪って、にっこり笑う嫌な奴。
 おっさんは魔法使いだから、すごくすごく嫌な奴。
 だってあたしから全部を奪っていくんだから。



 だからさよなら、魔法使い。
 だからさよなら、大好きな人。


――Fin.

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お題バトル参戦作品。
悲恋縛り テーマ:魔法 お題:炎 風 手 言葉 学院から任意で四つ選択。全使用。 
制限時間一時間半。