世界はいつだって残酷だ。
 あたしたちの些細な悩みも希望も切望も、愛も歓びも友情も、世界は知ったこっちゃないよって素振りであっさりと切り捨ててしまう。切り捨てられて、世界を恨んでも、あたしたちは結局世界の手の中で生きていくしかない。ああ、なんかあったよね、そういう話。孫悟空だっけ。お釈迦様の手のひらを飛んで飛んで飛んで、飛び出したって手のひらの上。それと同じ。
 世界はいつだって残酷で、あたしたちはいつも世界を恨んでいて、それでも、世界に抱かれている。
 世界はいつだって、残酷だ。
 だからあたしは、この世界が大好きなのだ。


 ◇


「終末の日まで、あと十日となりました。皆さん、こんばんは。夕方のニュースです。まず始めに――」

 空々しい笑顔でニュースキャスターのお姉さんが喋り始める午後六時。あたしは誰もいない教室にひとりだった。
 ニュースの内容に興味はない。ごめんねキャスターのお姉さん。口内で小さくつぶやいて、あたしは教室の隅にあるテレビの電源をぱちんと落とした。聞きたかったのはニュースじゃない。終末の日までのカウント・ダウン。
 終末の日まで、後十日となりました。
 内耳に残る無機質な声を振り返る。後十日になりました。あと、とおかに、なりました。
 最後の日まで、もうそれだけしか残ってないんだ。
 一階の自動販売機で買ってきたオレンジジュースをくいっと飲み干す。のどの奥を通っていく、冷たさと、酸味と、砂糖の甘味。あたしはいつだってオレンジジュースばかりだけど、でもどうなのかな。世界が終わる日まで後十日。なんだかこれだけで終わるのはもったいない気がする。別のもの、飲んでもいいのかなぁ。でも青汁とか飲む勇気はあたしにはないしなぁ。それだったら、後十日、好きなだけオレンジジュース飲んだほうが、幸せに最後を迎えられそうだよね。
 教室には、あたしの影だけが伸びている。夕方六時。キャスターのお姉さんはこんばんはと言ったけれど、五月も半ばをすぎたこの時期、窓の外はまだ夕暮れにもなっていない。少しだけ傾いた太陽が、面倒くさそうにゆっくりゆっくりオレンジ色の光に体を変えていこうとしている、そんな最中だ。西館の端にある教室は、たっぷり太陽を浴びている。窓が大きいからね、この教室。普段は騒がしくて開放的だけど、独りきりの教室は、解放的というよりも空虚的。でもそれが、気持ちいい。風と、鳥と、遠くの生徒のざわめき。その中で唯一機械的なチッ、チッ、と一定のリズムを刻む時計の音が、アクセントになって耳に優しい。
 後、十日かあ。
 ずるずると机に突っ伏した。夏服にはまだ着替えてないけれど、長袖のシャツはめくってある。今日は気温、あがったなぁ。お昼はホントに暑かった。まだ初夏なのに、太陽さんてばちょっと頑張りすぎじゃないのかなぁ。ま、後十日だから、張り切っているのかもしれない。許してあげてもイイかもね。
 クラスメイトはみんな、とっとと帰ってしまった。クラブもほとんどやってないみたいだ。あたしは帰宅部だからやっててもやってなくても同じだけど。「終末の日」が発表されてから、ぱったり学校に来なくなった友達もいる。ずっと家族といたいんだって。あるいは彼氏と。いちゃつけるだけいちゃつけばいいんじゃない。ま、子供は残せないけどね。十日じゃどうしようもない。
 ぷぅと息を吐いて顔を上げたら、オレンジ色の光が目を射抜いて来た。眩しい。世界がまだ生きている証拠。
 と、いきなりがらっと音がした。教室の前の扉。見知った男子がそこにいた。日焼けした顔、ツンツンの髪。背はあたしよりは随分高い。顔だけを上げた状態で、あたしはひらっと手を振った。
「やーほー、三浦。どーしたのー?」
「プリント忘れたから取りに来たんだよ。お前こそ何してんの?」
 三浦はがすがす教室に入ってきながら、窓際の席でボケッとしているあたしに声をかけてくる。
「んー? だらだらんぐ?」
「ing系かよ」
「だよ。進行形ー。だらだらー。気持ちいいよ、やる?」
「やらん。馬鹿馬鹿しい」
 三浦はしかめっ面で首を振る。ちぇっ、せっかく誘ってやったのに。
 自分の机の中から理科のプリントを引っ張り出している三浦を見ながら、だらだらんぐなあたしは首をかしげた。
「何やってんの?」
「プリント出してんの。持って帰るの。見て判らんか」
「判るけど。そうじゃなくて、何やってんの? 意味あるの?」
「あるだろが。あした理科の小テストだぞ、お前」
 呆れた様な三浦の口調に、あたしはすっと表情が消えていくのを感じた。今まで浮かんでいただるだるのだらだらの、緩んだ表情が抜けていく。
 残酷なほどに優しい世界の夕陽を浴びながら、あたしは身を起こした。教室の埃が、きらきら、季節外れの雪みたいに揺れている。
「あと、十日なのに?」
 自分でもびっくりするくらい、平坦な声がでた。感情なんて欠片も入ってないみたいな、硬くて冷たい声がでた。教室の中にしんと響いて、時計の音が耳に障った。
 三浦の顔からも、表情が消えていくのが判る。その目は、禁句だぞとでも言うように、言うんじゃないとでも言うように、あたしに向けて暗い視線を落として来たけれど、そんなことは気にならなかった。
 三年目だ。あたしは一年生のときから三浦とずっと同じクラスで、三浦の目をずっと見てきたよ。いつもどこか呆れたような、大人ぶった目をしてた。でもその奥にはいつだって好奇心が覗いていた。三浦のその目が、あたしは好きだった。今みたいな暗い目なんて、一度もしたことがなかったでしょう。ねぇ、そうだよね、三浦。
「あと、十日なのに?」
 三浦は光を吸い込みそうな闇の目で、静かにあたしを見返してきている。闇はあたしの姿をくっきりくっきり、映している。無表情な闇の中に、無表情のあたしの姿。
「世界が終わる日まで、あと十日なのに。明日の小テストに、何の意味があるの?」
 最後の日まで、あと十日。終末の日まで、あと十日。
 さよならの日まで、あと十日。
 あたしは十五歳になることもなく、六月の空を見る前に世界と一緒に消えるんだ。
 さよならを告げる世界さえ、その時はもうなくなるのだ。
 世界は残酷だ。
 あたしたちは、皆一緒に最後を迎えるんだから。
 世界は優しい。
 あたしたちは、独りで最後を迎えることはないんだから。


 ◇


 まぁね、正直に言えば、別に死んだっていいと思う。
 自殺は馬鹿馬鹿しいからしないけど、ずるずるずるずる生き続けて、化石みたいな、出がらしみたいなババアになって死ぬよりは、十四歳でぱっと死んじゃったほうがずっと綺麗だし。
 でも、世界の都合で勝手に決められて、抗えないってのはちょっとむかつく。そう、ちょっとむかつく。その程度だ。その程度でしか、ない。
 三浦はすっと肩を落とした。ため息でもついたらしい。夕暮れが世界を包み始めている。この場合の世界って、つまりあたしと三浦と教室だけ。頑張ってもせいぜい学校全体だ。あたしたちの世界は狭い。だけど終わる世界は、広いんだ。抗っても抗っても、あたしたちはどうしようもない。世界はお釈迦様の手のひらで、あたしたちは孫悟空。しょせん人間だってサルと遺伝子ほとんど同じだしね。
「あすみ」
「なぁに?」
 珍しいな、三浦があたしを名前で呼ぶの。時々ふざけて呼ばれることはあったけど、普段はほとんど名字ばかりなのに。真剣な声で名前を呼ばれたのは、たぶん、初めて。ちょっとだけドキッとした。
「悲しくないの、お前?」
「なんで?」
「平気そうな顔してるから」
「じゃ、なくて。なんで、悲しいの? あたしそっちのが判んない」
 あたしの言葉に、三浦は小さく微笑んだ。泣き出しそうな笑顔。見たくないなぁ、こういうの。あんまり似合わないんだもん。
 時計の針はちくたくちくたく、時間を刻んでいる。終わりのときまで、ちくたくちくたく。おじいさんが死んだときみたいに、ちくたくちくたく、刻み続けるんだろう。
「だって、いやじゃん。死ぬんだぜ、俺たち」
「仕方なくない?」
 あたしの言葉に、三浦の顔がきゅっと引きつる。あたしはそれを見て、笑う。けらけら、教室に声が響く。
「変な顔」
「うるせ」
「だってさ、仕方ないことは仕方ないよ。それに死ぬってのは、正確じゃないよ。終わるんだよ」
「一緒だろ」
「違うよ、全然違う」
 あたしは立ち上がった。上履きがきゅっと音を立てる。三浦は机に座って、夕暮れの空を見ていた。その隣に立つと、変に胸が痛くなる。三浦が笑ってあたしの頭に手を置いた。
「どう違うんだよ」
「終わるってのは、全部消えるんだから。全部終わるんだから。さよならなのに、さよならを告げる相手がいないの」
「うん」
「死ぬんだけど、死んだって認識する世界はもうないんだよ。終わるって、そういうこと。悲しくはないよ。だって終わるんだから。一緒に終わるんだから、誰かの死を認識しなくてすむよ」
 こういうことを伝えるの、あたしはとてもヘタクソだ。上手く言えない。だけど、三浦は笑ってくれた。判ってくれた。アライグマみたいな目を細めて、あたしの頭をぽんぽん叩く。
「だから、悲しくない?」
「うん。あのね、三浦」
「なに?」
 首を傾げる三浦を見上げて、あたしはきゅっと一瞬唇を結んだ。それからゆっくり息を吐いて、夕暮れの教室の中にだけ響くくらいの声で、言った。
「一緒にいてね」
「十日後?」
「うん。最後のとき」
「あすみがそうしたいって言うなら、別にいいよ」
「うん。あのね、三浦」
「なに?」
 一年生のときも、二年生のときも、三年に上がった今年も、あたしたちはいつも、こんな調子で会話していた。これからがあるなら、これからもそうだろうけれど、あたしたちのこれからは十日後でぷっちり途切れてしまう。
「あのね、三浦。好きだよ」
「うん」
「三浦は?」
「どっちでもない。一緒にいてもいいかな、って思うくらいには好きだけど」
「うん。ありがと」
 ほっとして、あたしは笑う。好きだなんて言われたら、未練がましくて世界を恨んでしまったことだろうから。
 でも、何もかも全部、あと十日。
「ねぇ三浦」
「ん?」
「えっちしようよ。セックス」
「はぁ?」
 あたしの言葉に、三浦が大げさな声を上げる。あたしはそれを見て、また笑う。
「だってあたし、処女だもん。死ぬ前に、やってみたいじゃん」
「エロ助め」
「いいもーん。あと十日だもーん」
 べっと舌を出したら、三浦に頭を殴られた。こつっとやられて顔を顰めたら、その瞬間唇を塞がれた。唇を塞いでいるのは唇で、つまり三浦の唇で、要するにあたしたちはキスをしていた。目を閉じると、瞼の裏の世界はきらきらと赤と青と黄色の斑点を浮かべていた。
「ま、いっか」
 唇をはなした後、三浦がそう言って肩をすくめた。手を差し伸べられて、あたしは三浦の硬い手に自分の手を重ねる。
「帰ろっか、あすみ」
「うん」
 教室を後にする。三浦はプリントを持っていなかった。あたしたちは手ぶらで、教室を後にする。もう二度と、そう、最後の日までたぶん、この場所には訪れない。

 ◇

 世界は残酷だ。だけど残酷だから優しい。そんな世界を、あたしは結局やっぱり好きで、世界の中で生きているのが心地よいと思ってしまう。心地良い世界が、あたしたちに心中を望むなら、受け入れてあげてもいいんじゃないかなって思うんだ。
 全てはあと十日で終わる。




「ねぇ、三浦」
「なに?」
「鴨川シーワールド行きたい」
「あ。いいね。俺も行きたい」
「あと、ディズニーランド」
「混んでそうだよなぁ」




 大人たちは、カウント・ダウンだけきっちりやって、そのくせ「終わり」を避けるように、十日後をタブー視している。
 あと十日しかないから。
 あと十日で全てが終わるから。





「あのね、三浦」
「なに?」
「十日あったら、人の気持ちって変わるかな」
「変わるんじゃない?」




 十日後には全てが終わる。世界は目覚めない眠りについてしまう。
 十日しかない。
 でも、あたしたちは知っている。


 十日、あるんだってことを。


 十日のうちに、何が出来るだろう。
 キスはした。セックスもたぶん、するだろう。三浦の気持ちを「好き」にもってくることも、出来るかも知れない。他にもいっぱい、出来ることがある。
 大人たちは、十日を甘く見ている。
 十日あればたいがいのことが出来ちゃう。
 あたしたちの世界では、充分すぎる時間だ。




「あのね、三浦」
「なに?」
「十日間、目一杯、楽しもうね」
「うん。あすみがいるなら、楽しいと思うよ」




 三浦と手をつないで校門をくぐる。オレンジ色から藍色へ、世界は移り変わっていく。
 きゅっと握り合った手が優しい。
 あたしはスキップをしてみた。小学生のころ以来だ、こんなにワクワクしているの。
 世界が終わる日まで、あと十日。
 終末の日まで、あと十日。




 さあ、終わりを始めよう。
 十日間の、最高を、あたしたちは今、始めよう。


――Fin.

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