何かがが割れたみたいだった。
 弾ける水音と同時に目が覚めた。
「え……」
 訳が判らず瞬きをする。こめかみからつつ、と水が滴り落ちてきた。慌てて拭おうとして、でも、拭おうとしたその手すら濡れていることに気が付く。
「え、なに……」
 喉が震える。わたしは呆然としたまま自分の姿を見下ろした。細い肩紐と飾り気のない真っ白なワンピース。靴も靴下も履いていなくて素足が木の床を踏みしめている。でも、それよりずっと気になることがひとつ。
 わたし、なんでこんなにびしょ濡れなの?
「やあ、いらっしゃい」
 低い、男の人の声。
 慌てて顔を上げて、そこでわたしはようやく気が付いた。
 ――ここ、どこ?
 まるで小さなカフェのようだ。不思議とあたたかい雰囲気の場所で、壁も床も、木材で覆われている。同じく木材で出来たテーブル席は二つだけ。ここ自体も広くはなく、いくつかある観葉植物が少し窮屈そうに見えるほどだ。その観葉植物の緑の影にカウンターがあるけれど、そこも四人も座れないかもしれないくらいの小ささ。そのカウンターの向こうに、男性が一人立っていた。
 すらりとした長身。少しだけ癖のある黒髪。すっきりした細面の顔立ちは驚くほど整っていた。鼻も目も、彫刻のような造形で一分の隙もない。けれど、口角が上がっているので怖さは感じられなかった。スーツ、なのかな? 蝶ネクタイをしていて、まるでバーテンダーみたいだ。声をかけてきたのはこの人らしい。
「あの……」
「あ、大丈夫大丈夫。僕全然あやしくないからね」
 美しい顔の男性は、藍色の瞳をにっこり細めながら軽く言ってのける。
 ……すごい。ここまであやしいひと、珍しいかもしれない。
「それより、君ずぶ濡れだね。寒くない?」
「え……あ」
 指摘されて初めて気が付いたみたいに、体がぶるりと震えた。鼻がむずむずっとして、くしゃみが漏れる。
「……うー……」
「ははっ、大丈夫? ちょっと待ってね。アンリ。アーンリ! タオル持ってきてー」
 彼が、カウンターの奥へ声を張り上げた。
 アンリ?
 とわたしが疑問に思う間もなく、カウンターの向こうからひょこ、と顔が覗いた。
 十四、五歳くらいの女の子だ。丸くカットされた薄い紅茶色の髪に、クラシカルな緑色のチェック柄ワンピース。彼女は大きな目を二度、三度瞬いて、すたすたとこちらに歩み寄ってきた。
「ずいぶんびしょ濡れでいらっしゃいますね。はい、タオルです。お拭きになってください」
 ぼふ、と大判タオルを渡された。ふわふわとしていて、ほんのりとしゃぼんの香りが漂ってくる。
「あ、ありがと……」
 頭からタオルをかぶる。何がなんだか判らないけれど、濡れたままはつらいのでタオルは素直にありがたい。
「それで」
 女の子――アンリちゃんが、首を傾げた。
「今日は何の御用です?」
「え?」
「お客様でしょう?」
「……え?」
 お客、様?
 意味が判らなくて、ぽかんとしてしまう。助けを求めるようにカウンターに目をやると、さっきの男の人がにっこりしていた。
「ようこそ。ここは終わり屋です。僕はマスターの影法師。そっちの子は助手のアンリ。それで」
 ――おわりや? 影法師? 助手?
 唐突な単語に理解が追いつく前に、彼は続けた。
「ずぶ濡れレディ。君のお名前は?」
 なま……え?
 問われて、わたし、マスターさんと、助手さんとを交互に見つめて。
 呆然とする頭で、わたしは呟くしかなかった。
「あの……」
 絶望的な言葉を。
「わたし……って、誰、ですか……ね?」

「ま、よくあることだね」
 トトトトト……と、小気味良い音を立てながら紅茶がカップに注がれていく。ふわっとやわらかい香りが湯気とともに立ち上がった。
 マスターさんは、慣れた手つきで紅茶を注いでくれる。カウンターに座った私は、回らない頭のまま、その仕草を見つめるしか出来なかった。
「ミルクと砂糖は?」
「あ……い、いただきます」
「うん。この茶葉にはそれが良く合うよ」
「クッキー、食べます?」
「あ。……ありがとう」
 アンリちゃんが無造作に頷く。差し出されたクッキーを摘むと、小麦粉と砂糖と卵……だけかな、っていうくらいシンプルな味だ。ほっとする。
「はい、こちらもどうぞ」
 マスターがミルクと砂糖を入れてかき混ぜた紅茶を差し出してくれた。あたたかい湯気と香りに目を細めてカップにと口をつける。深みのある、でも渋みはないまろやかな甘さが口の中をくすぐっていく。
 じんわりと、体の真ん中があたたかくなった。
「……おいしい」
「それは良かった」
 マスターさんがにっこりした。……ずっとにっこりし続けている気もする、けど。
「甘いものもおいしいものも、心の栄養だよ。特にこんなときはね」
「あの……」
 紅茶のカップを両手のひらで包む。熱がじんわり、染みこんでくる。
「わたし、どうしてこんな濡れて……っていうか、あの、ここはどこで……わたし……」
「焦らない焦らない」
 タオルのかかった頭の上にぽすん、と手を置かれた。
「ここは終わり屋。焦らなくて大丈夫だよ。ゆっくりしていきなさい」
「影法師」
 アンリちゃんが、静かな声を出した。
「別の方が来られましたよ」
「さすが満月だね。忙しい日だ」
 カランと音が鳴る。店のドアにつけられている鐘の音だ。つられて顔を向けると、ちいさな黄色い姿が目に入った。
 ……鳥、だ。鮮やかな黄色い体に、羽根の一部分だけ赤が混じっている小鳥。
 ちいさな鳥が、とってとってと歩いてくる。
「ヤア ヤア。コチら ダナァ? オワリヤ ト言うノ ダナァ?」
 しわがれた声で、鳥が鳴く。
「ええ。そうです。いらっしゃいませ」
 アンリちゃんがしゃがみこんで、鳥に挨拶した。
 鳥って……しゃべるもの……だったっけ……。
「ヤア ヤア。ナかなカ 大変 ナ 場所にアるンダナァ」
「すいません。影法師の趣味です」
「おいこらアンリ」
 マスターさんが苦笑した。よいしょ、と声を上げながら立ち上がり、カウンターから出る。わたしの頭にぽんと一度手を置いて、それから鳥の前までいくと恭しく頭を下げた。
「ようこそ、終わり屋へ。僕はマスターの影法師。あなたは?」
「ヤア ヤア。ワッシ ハ カナリア ダナァ」
「おや、そうでしたか。まま、とりあえずこっちへ。ミルクでもいかが?」
「ヤア ヤア。頂キたいンダナァ」
「うん。アン――」
「判ってます」
 アンリちゃんが、マスターさんを遮って言うと、そのまますたすたとカウンターの中に戻ってくる。それから戸棚を開けて、とっても小さな……まるでおままごと用みたいな可愛らしいカップを出して、あたためたミルクを注ぐ。てきぱきとした仕草に、少し憧れさえ抱いてしまう。
 わたしの視線に気づいたのか、アンリちゃんがすっと顔を上げた。
「申し訳ありません。騒がしくて」
「あ。いえ」
「順番が前後してしまうのですが、あちらの金糸雀様を先に進めてもよろしいですか?」
「えっと」
「終わりについてです」
 ――終わりについてです。
 かちゃ、と紅茶のカップが音をたてた。驚いて手元を見下ろすと、わたしの指先が震えている。どうして。きゅ、と力を込めた。震えが少しだけ収まる。
「終わり……って、何ですか」
「それは、あたしからはなんとも。影法師の仕事ですから」
 アンリちゃんがマスターさんへ視線をうつす。マスターさんは鳥を手のひらへ乗せて、わたしのすぐ隣へ腰を下ろすところだった。目が合う。マスターはにっこり微笑む。鳥が、マスターさんの手のひらから飛び降りて、カウンターに乗った。
「ヤア ヤア。レディ。君モ オ客さマ ダナァ?」
 ガラガラの声で、鳥が言う。一筋だけ赤が混じった黄色い羽根をパタパタさせて。
「あ。そう……みたいです」
 曖昧に頷くと、満足そうに鳥……カナリアさんは、こくんこくんこくんと何度も頷いた。
 そのカナリアさんの前に、アンリちゃんがカップを差し出す。カップにカナリアさんはくちばしをつっこんで、ぴちゃぴちゃと音を立てて飲んだ。
「オイシいナァ。おいシイ。オイしイ ハ イイこトダナァ」
「そうですね」
「コこに 来ルこト モ イイコト ダナァ。イいコトダ」
「そう、ですか?」
「ダナァ。ワッシノ話 聞イてくレル カナァ」
 カナリアさんが、小さな目をぱちぱちと瞬いた。なんだかそれがおかしくて、わたしはこっくり頷いていた。
 ガラガラの声のカナリアさんは、何度かけほんけほんと咳き込みながら話し始めた。
 カナリアさんは歌唄い、だったらしい。
 街から街へ。国から国へ。世界から世界へ。――なんて。これはどこまで本当か判らないけれど。
 渡り歩いては歌を唄っていたんだと言う。しわがれた声で、ピチチッと笑いながら語っていた。
 来る日も来る日も、朝から晩まで歌い続けて、沢山の人や物と出逢ったんだそうだ。
「ワッシハ イッツモ 唄っテたんダナァ。カァワイイ子 モ イッぱい 逢っタんダナァ」
「そのようだね」
 くすりと笑って、マスターさんが手の中で何かをくるりと回した。
 ……人形? ちいさな指人形だ。いつの間に手にしていたのか、可愛らしい女の子型の指人形を、マスターさんは手にしていた。
 カナリアさんが、ピチチッ、と大きく鳴いた。
「アア アア。ソれダナァ。その子ダナァ」
「はい、どうぞ」
 マスターが指人形を差し出した。カナリアさんはしわがれた声でピチチ、ピチチと口ずさむと、まるでキスをするかのように人形をその小さなくちばしでつついた。それからチュピッ、と鳴いて顔を上げる。
「他ニモ あルんダナァ?」
「ええ、もちろん。ほら」
 マスターさんが得意気に微笑みながら、店の中をさっと示した。つられて目をやって、わたし、思わず息を呑んでいた。
「え……」
 お店の中は気が付くと、色とりどり、小さな雑貨で溢れていた。古いオルゴール。真新しい万年筆。フクロウの剥製に大きな旅行かばん。虹色に輝くグラスに、弦の切れたハープ、片方だけのソックスまで。
「嘘……いつの間に……?」
 いつの間に、こんなに。さっきまでだって、お店の中にあったのは観葉植物くらいで――
「今ですよ」
 静かな声が、わたしに語りかけてきた。アンリちゃんだ。
「今です。影法師が映し出しているだけ」
「アア 懐カしいンダナァ 懐かしイ!」
 ピーチチチチッとカナリアさんが大きく鳴いた。ナツカシイ、ナツカシイ、と鳴きながら、とてっとてっと、あっちへこっちへ飛び回る。
「コノ オルゴール! ワッシ ニ 似てイルと 言わレたンダナァ! コッちノ 星ノカケらハ トテモ イイ所ダったナァ!」
 ――どきん、と。
 不意に、胸が飛び跳ねた。
 カナリアさんが、次から次へと、モノにくちづけするたびに。
 胸がどきどきして、それからきゅうっと縮こまる。
「……ずぶ濡れさん?」
 アンリちゃんの声に、ちいさく頭を振った。だいじょうぶ。なんともない。言いたかったけれど、言えなかった。
「ア」
 カナリアさんが、一瞬動きを止めた。小さな小さな目をぱちくりと瞬いて。それからすっと、目を細めて。ぱたた、と羽根をはためかせて。
 一筋だけ赤いところのある黄色い羽根でふんわり飛び上がると、弦の切れたハープのもとへ降り立ち――

「……っ、だめえっ!」

 叫んでいた。わたしは胸元で手を握りしめて、大きく大きく、叫んでいた。
 はっ……と短く吐息が漏れる。
 皆がわたしを見ていた。マスターさんも、アンリちゃんも。……カナリアも。
 胸が、痛い。
 きしきしと、音を立てて痛んでいる。まるで。まるで、そう。
 何かが、切れたみたいに。
 世界が滲んでいく。目に見える全てがゆらゆら揺れて、零れていく。どうして。どうして。自問する声に、別のわたしの声が答える。
 だって、わたし、もう思い出したんでしょう?
 ――金糸雀に捨てられた事、思い出したんでしょう?
「アア アア。そウダナァ。ソノ 姿 ソうダナァ」
「やめて」
 カナリアを遮って、低い声でわたしは言う。
 泣きながら、怒りながら、わたしは笑った。
「すてたくせに」
 言うと同時に、わたしは走りだしていた。
 行くあてがあったわけじゃない。どうしたいか、理由があったわけでもない。ただ、その場にいたくなかったんだ。
 深い緑色のお店の扉。真鍮の取っ手を思いっきり押す。カラカランッ、と鐘が鳴った。
「――あ、だめです!」
 アンリちゃんの声を振りきって。
 わたしは外へ飛び出した。

 つまさきは何にも触れなかった。
 踏み出した足の先には何もなかった。かくんと膝が折れて転びそうになった時、右肩が抜けそうな痛みを感じた。
「おっと。危ない危ない」
 軽い声がして、支えられたということを理解した。顔が熱くなる。ゆっくり視線を上げると、またあのにっこりした笑顔があった。
「大丈夫? 良かった、間に合って」
「あ……」
 すみませんと言うべきなのか、ありがとうございますと言うべきなのか判らなくて、言葉が喉でぶつかって出てこなかった。マスターさんは、わたしの手を握り直すと、反対の手でぽすん、と頭を撫でた。
「勝手に出て行かないで。ここは、僕でも見失うと見つけられないから」
 マスターさんの口ぶりはどこか硬かった。少し、怖くなる。恐る恐るあたりを見渡して、なんとなく、判った。
 その場所は何もないところだった。ううん、ちょっと正しくない。夜の闇のような、海の底のような、そんなゆらゆらとした空間が広がっていて、その中にさっきまで見ていたような色々なものが漂っている。
「ここ、は」
「終わり屋の外。僕らは心の海なんて言ってるけどね。実際は何か僕らも判らない。ただここにあるのは……いるのは、行き場を探している何かたちだ」
 その瞬間、さっと視界が茜色に染まった。それは一瞬だけだった。視界を茜色一色に染めたのは、すぐそこをゆったりと渡っていく大きな大きな金魚らしかった。
「……おっきい」
「ま、目で見るものの大きさや形は、ここでは何も正しくはないから」
 くすりと、マスターさんが微笑んだ。
 それから、わたしの目を真っ直ぐ見つめてこう言った。
「戻りたくない?」
「……だって」
「金糸雀か」
 頷きもせず、わたしは黙りこくる。それをマスターさんは肯定と受け取ったらしかった。わたしの手を握ったまま、一歩、足を踏み出す。慌ててついていくと、今度は視界が真っ青に染まった。
 真夏の空の色。吹きつけた潮の匂いに息を止めたら、今度は甘い色の花びらが降って来た。視界がぐるぐると変わる。目が回りそう。隣に立つマスターさんの腕を握りしめてしまう。彼は反対の手でそっと、空中を撫でた。
「あ……!」
 空中に踊っていた花びらが、五線譜のように並んでいく。もう一度。マスターさんが、空を撫でる。そうしたら、もうそこは、何もない空間じゃなかった。
 何千、何億回も踏まれ続けたせいですり減っている色煉瓦の歩道。少しぼこぼことした白い漆喰の壁の家々が幾重にも重なるように連なっていて、そのどれもがお揃いのような赤茶けた丸い屋根をかぶっている。まるで絵本みたいな町並み。夢みたいな世界。だけどここは。わたしにとっては。
 とっても、懐かしい場所だった。
「そこの、角が定位置だったの」
「そう」
 わたしの唐突な言葉にも、マスターさんは驚かなかった。
「いつも、一緒だった。それなのに金糸雀は、わたしを捨てたの」
「そのようだね」
 無造作に頷いて、マスターさんはその景色の中の一軒の家へ歩み寄った。扉に手をかける。
「でも彼は、終わり屋に来た。この心の海の中で僕の店を見つけ出したんだ。そして、君もまた」
 扉が開かれる。
 マスターさんの声が体の真ん中を走り抜けていった。
「ようこそ、終わり屋へ。僕は影法師。終わりの影を映す者」

 ガツッ!
 誰かの放った石粒が、金糸雀の金色の頭に当たって跳ねた。
 金糸雀!
 わたしは叫んだ。金糸雀は、細い節の目立つ指で頭を抑えた。少し、前かがみになってうめき声を漏らす。金糸雀! もう一度呼びかけると、金糸雀は薄い唇を開いていつもの透き通った声で大丈夫と呟いた。嘘。だって頭から、赤いものが流れている。
 汚い笑い声が弾ける。言葉が刃物のように、突き刺さってくる。
 今どき流行らないんだよ、歌唄いなんて。
 古臭い男だね。
 ああ、なんて汚い言葉なんだろう。ひとが紡ぐ言葉なのに。ひとが紡ぐ音なのに。どうして。金糸雀が紡ぐ音は、言葉はとても綺麗なのに。金糸雀と同じひとから紡がれる言葉だというのに、この言葉はどうしてこんなに汚くて、醜いのだろう。
 金糸雀はそれでも怒らない。いつもそう。おどけたふりをして、するりと汚い言葉をくぐり抜ける。
 それじゃ、一曲聞いてもらうかなぁ。うっすら流れていた血を拭って金糸雀が言う。わたしをそっと、撫でながら。さあ、付き合っておくれ。わたしはそう言われると拒むことなんて出来なかった。
 金糸雀のために、わたしはずっと音を紡いできたのだから。金糸雀の手で音を奏でてきたのだから。
 体が震える。空気を震わす。世界を、渡っていく。
 金糸雀の喉が鳴る。わたしを包んで広がっていく。声と音が混じりあう。その瞬間瞬間が、たまらなく気持ち良かった。その時があれば、どんな汚い言葉の中でも、わたしたちは清らでいられた。
 金糸雀の歌と、わたしの音色があれば世界は姿を変える。遠い昔の命がけの愛の場へ。思いと思いがぶつかった戦の場へ。めくるめく物語の世界へ飛んでいける。その力があった。
 それなのに。
 別れの歌の最中、金糸雀の手がわたしから離れた。
 ――え?
 支えを失ったわたしの体は、色煉瓦の地面へと倒れこむ。衝撃と痛みが襲ってきて、わたしはただ倒れただけじゃないと気づく。誰かに、蹴られたのか。
 やめろ!
 金糸雀の声が聞こえた。いつもと違う切羽詰まった声だった。
 やめろ、やめろ!
 金糸雀が叫んでいる。叫びながら、どこかへ連れて行かれようとしていた。遠ざかっていく金糸雀の姿にわたしも叫んでいた。ひとにはきっと聴こえない。でも金糸雀には届いたはず。だけどわたしはひとみたいに、手を伸ばすことも追いすがることも出来なかった。
 金糸雀。金糸雀。金糸雀。
 いとしい名前を繰り返す。ただ地面に横たわったまま、傷ついた体のまま、繰り返し呼んだ。
 体が裂けたみたいに痛い。これは物理的な痛みだろうか。それとも。
 いつまでも、わたしは待った。待って名を呼びつづけた。夜が来て、朝が来て、また夜が来て。秋が来て冬が来て、また春が来て。
 それでも金糸雀は帰ってこない。
 ――どうして?
 うすぼんやりとした、凪いだ水面のような心の中に、問いかけだけが残っていく。
 がつっと、また体に衝撃が走った。また誰かに蹴られたようだった。
 何だこの汚い楽器。
 ハープか? 誰かが捨てたんじゃないの?
 ――捨てた?
 その言葉がぽつんと水面を揺らした。波が広がっていくのと同時に、なんとなく、判った。
 そっか。今、判った。
 金糸雀が呼んでもこないのは、わたしを捨てたからなんだ。
 わたしが、捨てられたからなんだ。。
 言葉が水になった。わたしを叩きつけた言葉はそのまま雨滴となって空から降り注いできた。水は嫌い。音が壊れちゃうから。でも。今はその水に救われた気分だ。
 ねえ、雨滴。わたしの全身を叩きつけて。
 溶けちゃうくらいに、濡らしていって。

 何かが割れたみたいだった。
 弾ける水音と同時に目が覚めた。
「ああ……」
 声が漏れた。体が震える。そこは終わり屋だった。わたしの前に、カウンターがあった。そしてそこにいた。一筋だけ赤の混じった、鮮やかな黄色い羽根を持つ小鳥。ピチチッとカナリアが鳴く。
「ゴめンナァ。本当ニ ごめん ダナァ」
「かなり……あ」
 小さなくちばしがわたしの涙をつついた。
「ワッシ 何度も何度モ 行こウとしタンだナァ。アンタの所 へ 行きタかっタ ンダナァ」
 ガラガラのしわがれた声でカナリアが鳴く。全く美しくない声で、鳴いている。
「辿りつけなかったんです」
 女の子の声に顔を上げると、カウンターの中のアンリちゃんが少しだけ微笑んでいた。
「辿りつけなかったんです。ね、金糸雀さん」
「ダナァ」
「だけど」
 と、今度は男性の声。マスターさんが、カウンターに頬杖をついて微笑んでいた。細く長い指で、自分の頬をとんとんと叩きながら。
「ずっと君を呼んでいたんだね。おかげで声がガラガラだ」
「ハハッ そうナんダナァ」
 恥ずかしそうにカナリアが鳴く。その黄色い姿に手を伸ばす。手を、伸ばすことが今なら出来た。小鳥はわたしの手のひらに乗って、幸せそうに目を細めた。すべすべの羽根が気持よくて、少しくすぐったい。
「ねぇ、ずぶ濡れレディ。ガラガラの金糸雀」
 マスターさんが笑って言った。
「今回のお代は君たちの音で、といきたいんだけど。どうかな?」
「あたしも聴きたいです」
 アンリちゃんにも頷かれて。
 わたしとカナリアは顔を見合わせて大きく笑った。

 カナリアの声はガラガラだ。しわがれて、いつもみたいに響かない。濡れそぼったわたしの音も、歪んで滲んでしまっている。
 けれど、カナリアは唄った。高く高く、喉を震わせて。わたしを小さな羽根で撫でながら。
 目を閉じて音の波に体を揺らす。心地良く混じっていく。しわがれていても、ガラガラでも、カナリアの声は金糸雀の声だった。終わりの音はいつも少しだけ跳ねる。スラーが人より優しく伸びる。音の粒がまるく、まるく、広がる。
 すっと目を開ける。金色が目に飛び込んできた。わたしの大好きだったお陽様色の髪。春先の青空の瞳に、すこしだけぷっくりとした唇。優しく目を細めて、大きく歌っている。
 金糸雀だ。
 金糸雀が、あの頃の金糸雀のまま、そこにいた。わたしを爪弾いて歌っている。
 あの時最後まで歌えなかった別れの歌は、今、途切れることなく響いていく。
 ああ、なんて。
 ――美しい声。

 ぱちぱちと、ささやかな拍手が聞こえた。
 薄らいでいく視界の中で、マスターさんとアンリちゃんが手を叩いていた。
「お代は確かに頂戴しました」
 マスターさんが微笑む。わたしを大事に抱きしめた金糸雀がちいさく頭を縦に振った。
「それでは、いってらっしゃいませ」
 恭しくマスターさんが頭を下げる。金糸雀は一度深く頭を下げると、店の扉に手をかけた。真鍮の取っ手を押して、外へ。
 同時に視界が白く染まった。少しだけ怖かったけれど、大丈夫。何もない場所でも金糸雀の手はわたしを強く抱いていたから。

 ねぇ、金糸雀。
 今度はずっと一緒にいようね。

 カランカランと鐘が鳴る。
 ふんわりとあたたかい紅茶の香りがくすぐって、消えた。

 ――fin.

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