精霊の祭殿

 それは今から百年近くも前のお話。
 今は王国の聖霊国グレイージュが、まだ公国だった頃。
 その国に一人のお姫様が居ました。
 名前をミユナ。

 銀色の髪の毛に、雪のように白い肌。淡いブルーの瞳を持った、美しい少女でした。
 ミユナ姫には特別な力がありました。

 だーれも持っていない、お姫様だけの特別な力。
 だけど、みんなは信じてくれませんでした。

 でもお姫様の力は本物でした。それは――……




 此処に―― 一人の少女が居る。
 冬の厚い雲の合間から射す陽射しを受け、葉についた朝露が煌めく大きな木の下に。
 年の頃なら、まだ十にすら達していないだろう。幼き少女。
 大きな蒼い瞳は優しく、淡く桃色がかった頬と同色の唇にも微笑みを浮かべている。
 雪色の肌を持ち、銀絹糸の髪を風になびかせた美しく、見るからに聡明な少女である。
 ふいに、少女はその花片のように小さな手を虚空に差し伸べた。
 まるで――目に見えぬ何かと戯れるかの如く。
 少女は暫しの間、その動作を続けた。飽きる事無く、楽しげに――夢のように。
 だが、夢の如き時間――それは、どんな時もすぐに流れてしまうものであった。
「ミユナ様」
 少女の沈黙の遊戯を破るものが居た。
「あ……」
 少女はびくりと小さく体を震わせた後、今まで其処に居た目に見えぬ何かに追いすがるかの如く手を突き出した。
 だが、すぐに悲しそうな顔を見せ、声の主を振り返った。
「もぉっ! てめぇっ、アペルッ! お前がいきなり話し掛けるから聖霊さん逃げちゃったじゃないかよっ!」
 桃色の頬をぷうと膨らませた少女は、可愛らしい外見とは裏腹に、痛切な言葉を投げ付けた。
 声の主である、十二、三歳程の少年に。
 しかし、そのアペルと呼ばれた少年は、戸惑い顔のまま少女に告げた。
「しかしミユナ様……今は学業のお時間です。お戻りになられてもらわなければ困ります」
 アペルは、諭すように少女に言う。少女はつまらなさそうに立ち上がった。
「判ってるよ。アペルの仕事だもんね。ご学友さん。けどさぁ……たまにゃぁお話位したっていいじゃんかよ」
「ミユナ様……お言葉ですが、精霊とは決して目に見えないものであり……」
「うーるさいっ! いいよ、もうっ! アペルなんか大嫌いッ! あたし本当に話せるんだからなっ」
 少女は声を荒げると、だっとアペルに背を向けて駆け出した。
「ミユナ様……!」
 背中から呼びかける学友の少年の声には耳も貸さず、少女――ミユナは銀色の髪を振り乱し、城の庭園をかけた。
 白い雪が、ひらひらと静かに庭園を彩っていく――……

「アペルの馬鹿……あほ。間抜け。ホーケイ。陰険。低俗。馬骨。ジジイ。カボチャぁ……」
 暫らく走りつづけ、学友の少年アペルの姿が見えなくなった辺りで少女は足を止めた。
 それからぶつぶつと思いつくだけの悪態をつく。が、ほとんど意味は知らない。
 弾む吐息は白く、この国の寒さを主張する。
 この国――聖霊公国グレイージュでは、冬は長く夏は短い。
 今はもう初春ではあるが、身を斬るような風の冷たさは未だ冬の其れだ。
 その名の由来になった通り、この国では精霊と呼ばれる超自然的な存在を祭っている。
 全ての力の源たるべき精霊が、この国には多く存在しているのだ。
 そして、冬精霊と呼ばれる冬を司りし存在もまた然り。夏精霊よりも多く存在しているのだ。
 よって、この国の気候はこのようなものになっている。
 最も、精霊とは言わば『存在のみ』のものであり、決して目に見える事はない。
 ――そう、一般的には。
 だが物事には全て例外というものが存在する。マイノリティではあるが、それゆえ唯一絶対的なもの。
 少女が、其れだった。
 ふと、再び少女が顔を上げた。
 そしてまた微笑むと、手を虚空へと差し伸べ、緩やかに動かす。
「へへ、ごめんねビックリした? 大丈夫だよ」
 話し掛ける――目に見えない、あるいは其処に居るか居ないか判りもしない虚空に。
 それは、妙な光景でもあるだろう。だが、少女にははっきりと見えているらしかった。
 厚手のドレスをふんわりと広げ、また、暫らく遊ぶ。
 そして、気づく。
「あ……そっか。明日精霊祭……」
 城内の飾り付けが変わっている。普段は質素な城内が僅かながらに華やかだ。
 精霊祭――正式には精霊の祭伝と言われている祭りだ。
 この国は前記した通り、精霊を祭っている。そしてこの国で一番の祭りでもあるのがこの祭りだ。
 冬の終わりを告げ、春の精霊を呼ぶ。
 暦の上ではこの精霊祭が終わった時から春になる。
 その精霊祭がもうすぐ執り行われる。
「わぁ……きれー」
 城内を一望しようと視線を動かし、そして再び気づく。
「あれ……? お前、誰?」
 庭園の中央、噴水の手前のベンチに一人の少女が居た。
 長い黒髪。光彩の加減だろうか、アメジストに輝く瞳。淡い桃色の小さな唇。
 黒髪の少女は、ミユナに気づくと驚いたような表情を見せた後、ゆっくりと微笑んだ。
 この寒空の下では、はっきりといってあまり意味をなさないであろう薄手の服。
 だがしかし、この少女はあまり寒さを気にしていないようだ。
「横、座っていい?」
 ミユナが訊くと、黒髪の少女はこくんと頷いた。さらりと音を立て、滑らかに肩口を滑る黒髪。
 少女達は並んでベンチに座った。
 言葉のない時間が、過ぎる。
 その間、ミユナはまた精霊と遊んだ。すると驚いた事に、黒髪の少女もまた虚空に手を差し伸べたのだ。
 驚きはしたが、ミユナにとっては驚愕よりも感激の方が勝った。
 今まで、誰一人として――もとい、少女の姉であり、この国を治める年若き女王エカテリーナを除き、認めなかった彼女の力。
 精霊との意志疎通――それが、今隣に座っている素性も、ましてや名も知らぬ少女には判るのだ。そして、おそらくその少女にも見え、聞こえ、触れる事が出来るのだろう。
 ――精霊と。
 暫らく二人の少女は言葉も交わさず戯れた――精霊という、不可視の存在を通して。
 否、言葉はあった。耳に聞こえず、唇にも乗らない唯一絶対の、不可侵の言葉。
 ややあってから、ミユナがゆっくりと唇を開いた。
「名前は……?」
「……フローテ」
 ただ、それだけ。城内に居るという不可思議すらそれだけの言葉に消える。
「明日、また逢える?」
 ミユナがフローテに尋ねると、フローテはそのアメジストの瞳を揺るがせた。
「駄目……明日は、もう行かなきゃいけないから」
「行く……?」
 不可解な言葉の後、フローテはその白い外套を翻して立ち上がった。
「バイバイ……楽しかったよ」
「あ……! フローテ!」
 ミユナが立ち上がったその時には。
「……フローテ……?」
 黒髪の少女の姿は何処にも無かった。

 翌日――精霊祭当日。
 ミユナは正装した姿で、庭園にいた。
 だが、美しいドレスに身を包みながらも、少女の顔には陰鬱な表情が浮かんでいる。
 やはり、昨日の少女――フローテの言葉が気になるのだろう。
(今日……逢えるよな)
 ミユナには確信があった。必ず逢える。
 祭伝が始まった。
 まだ重い雲の下、巫女が祈りの言葉を唱え、踊り子が舞う。
 観衆が笑い、春の訪れを祝う――そして。
 精霊の祭伝のメインイベント。
 少女の姉である女王が春の精霊に語りかけるのだ。
 祭殿に立った女王が、声高に御言葉を唱え始めた――その時だった。
「あ……!」
 ミユナが唐突に叫び、駆け出した。祭殿に向かい。
「フローテ!」
 祭殿――少女の姉が立っている前に、昨日の少女が居た。
 黒く艶やかな髪、アメジストの光彩を放つ瞳。
 だがその瞳は涙で濡れていた。
「フローテ……やっぱり、精霊さんだったんだ」
 ミユナがポツリと言葉を漏らした。ミユナの姉、エカテリーナは驚いたように自分の横に並んだ妹を見ている。
「ミユナ?」
「姉さん……此処に、居るよ。冬の精霊さんが」
 フローテ――昨日、ミユナと会話したあの黒髪の少女は精霊だった。
 ミユナはやっぱりと言った。彼女は気づいていたのだろう――いつからか、あるいは確信があったのかそれは彼女自身判ってはいないのだろうが。
 そっと伸ばした手が、フローテの頬に触れる。
「ミユナぁ……」
 フローテの白雪の如き頬を、一滴涙がつたった。
「もっと早く逢いたかった……でも、精霊祭に近くならないと私たちの力は弱いから……人の形をとることはできないかった……」
 頬に触れるミユナの手をにぎりながら、フローテは呟いた。
 精霊祭――その日には、精霊の力が強くなるといわれている。
 だからこそ、精霊を見る力のあるミユナでさえ、普段は淡い光にしか見えない精霊がこうして人の姿をとることも可能なのだろう。
「もう、逢えないなんて嫌だよ……せっかく、お友達になれたのに……人間さんとお友達になれたのに……」
 アエナイナンテイヤ――……
「――逢えるよ!」
 ミユナは叫んだ。少女の銀青色の瞳は僅かな揺らぎもない。
 ただ昂然とした光が満ちている。
「来年――また逢えるよ! 今年はもう行っちゃうかもしれない……でも、来年があるんだ! 来年も、その先もずっとずっとフローテは来るんだろ!? あたし待ってるよ! ずっと待ってる……! だから……!」
 ふとミユナの声が途切れた。静まり返り、幼き姫の動向を見守っていた国民からほぉという溜息がもれた。
 エカテリーナ――少女の姉が後ろからミユナを抱いたのだ。
「姉さん……?」
 エカテリーナは妹にふっと微笑みかけると、何もない祭壇に向って言葉を紡いだ。
「ありがとうございます――フローテさん。私にはあなたを見ることは出来ません。ですが、あなたの事はかんじます。冬の精霊の――冬の、暖かさをかんじます」
 フローテが驚いたように若き女王を見つめた。
「妹の友人になって下さって、有難う……姉として、嬉しく思います」
 エカテリーナは見えない精霊に対して、深く頭を下げた。
 フローテは見えないと判りつつ、小さく頷いた。
 そうして、静かに微笑むとふんわりと祭殿の上に浮かび上がった。
「フローテ!」
 ミユナの声。フローテはミユナに満面の笑顔を向けた。
「ミユナ……また、来年ね」
 言うと同時に白い外套を翻し、その姿を雪にかえた。
「うわあ……」
 その瞬間、国民から歓声が上がった。
 今年最後の、雪――
 精霊祭に降る雪がこの国の最後の雪となる。
 そして、その雪が降り終わったころ――城の庭園中に色とりどりの花が咲いた。
 精霊祭のラストだ――春の、訪れ。
 春の精霊が訪れたのだ――……
 歓声が城を覆う。長く厳しいグレイージュの冬が終わったのだ……
「来年、待ってるよ……フローテ」
 歓声の中、ミユナは小さく呟いた。

 来年の冬、また、会える――……

 精霊と、姫君のかわった親友同士は、必ず……


 そして、これから聖霊公国グレイージュは短い春にはいる。
 冬の優しさを包み込んで――……

 ――END