幸せは、舞い散る花びら
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 先輩。先輩。先輩。

 あなたが、大嫌いです。

「実は俺、座敷わらしなんだよね」
 その言葉を聞いたとき頭に浮かんだ台詞はただひとつだった。
 ――ああ、この人は頭が可哀想な人なんだなぁ。
 三年前に駅前に出来た複合型ショッピングモールの一階にある、アメリカンハンバーガー専門店。店の飾りつけもなにやらハワイアンで、店員は『いらっしゃいませ』ではなく『アロハー』と挨拶してくるそんな場所。その窓際の角に陣取って、ハワイアンな空気をぶち壊すひとことを発したのは、目の前に座る先輩だった。
 窓の外には満開の桜。丁寧に磨かれたガラスを通って降り注いでくる陽射しは仔猫も喜ぶあたたかさ。そして目の前には、頭が可哀想な男の人。
 ――春だなぁ。
「って、聞いてる? 西岡」
 ぬるく冷めていく視界の中で、顔だけは綺麗な、しかし頭が可哀想な先輩が、眉を寄せてあたしの顔を覗き込んでくる。
 戸部敦先輩。
 あたしが通う中高一貫校の高等部三年生。普通なら、中等部二年のあたしが関わる先輩でもない。まぁ、実は中等部にも先輩好きの女子はけっこういるほどには有名な人だけど。――さて、問題です。あたしは何でそんな人と、ハンバーガーなんて食べているのでしょう。
 答え。先輩に誘われてデート中だったから。
 ……頭が可哀想な人だったなんて、思ってもみなかったけどね。座敷わらしって何ですか。座敷わらしって。
 あたしは唇を開くのも面倒くさくて、無言のまま馬鹿でかいアメリカンサイズのコーラをすすった。口の中でしゅわしゅわっと炭酸がはじけて、それが確かに現実だということをありがたくもなく教えてくれる。夢だったらいいのに。
 春先には頭のおかしな人が沸くという。古今東西今昔、どこでもそうかは知らないが、一般的にはそう言われている。ただし先輩の場合、もしかしたら年がら年中頭が沸いているのかもしれない。可哀想に。
「ええと、それで後継者を探しているんだけど」
 いやな、予感。
 先輩は切れ長の目を瞬かせて、にこっと笑った。人畜無害な人懐っこい笑顔は、とても十七歳とは思えない。そこがあたしたち中等部の女子生徒にもうけている理由でもあるんだけど――この場合は、ある意味死刑宣告。
「西岡、座敷わらしにならない?」
 ――春だなぁ。

 †

「いや、だからさ。西岡には座敷わらしの素質があるんだって!」
 早足で歩くあたしの隣についてきながら、先輩が早口でまくし立てる。神さまプリーズ。この男を黙らせろ。
 ……いや、前言撤回。黙らせないでいい。黙ったら、この人の声が聞けないから。このイライラするほど穏やかな声が聞けなくなるから。
 ショッピングモールの脇にある長い桜並木を歩いていく。日曜の午後らしく、子供たちのはしゃぎ声が陽射しの中で揺れている。さて、問題です。そんな中でこの先輩は何をとち狂った台詞を吐いているのでしょう。
 答え。あたしを座敷わらしの後継者にしたいと口説いている。
 ……頭が痛い。
 あたしは確かに面食いではある。格好いい顔の男の人は好きだ。だけど、頭の可哀想な人は――嫌いだ。心底。吐き気がするほどに。
 特に、この人は。
 戸部敦先輩は。
 春風が吹き抜けて、薄ピンクの花びらを舞い上がらせた。肩に降って来る花びらをつまんで捨てて、あたしはため息を風に乗せて立ち止まる。
 先輩はあたしより半歩行き過ぎたところで立ち止まって振り返って来た。穏やかな笑顔が、春の陽射しによく映えている。
「聞いてくれる気になった?」
「あのですね」
 鈍く響いてくる頭痛に顔をしかめながら、あたしは頭一個分上にある先輩の顔を睨みあげた。薄ピンクの満開の桜が、先輩の輪郭を包んでいるようにすら見えた。
「あたし、デートはオーケイ出しましたけど、こんな頭可哀想な会話に付き合うことにオーケイ出したつもりはありませんよ」
「西岡はけっこう酷いなぁ」
「先輩!」
 へらへらっと一切の緊張感を欠いた笑みを浮かべる先輩に、あたしは苛立ちを隠せずに思わず声を荒らげた。下ろしたての白いスカートが、ふわりと風に舞う。それを手のひらで抑えて、先輩の瞳を見上げた。
 切れ長のブラウンの瞳。まつげが長く、目の下にわずかな影を落としている。自分のスタイルをたぶん良く理解しているタイプの、もてる人、だと思う。襟の大きく開いた白い長袖シャツに、デニムの半袖ジャケットを合わせていて、足の長さが引き立つような綺麗なラインのジーンズをはいている。金をかけたと思われるがっちりしたスニーカーは、ある程度履き潰した感が逆に浮きすぎずにはまっていた。十字架のチョーカーと、太い銀の指輪。装飾品も浮くことなく決まっている。それなりに自分の容姿に自信があるんだろうなぁ、と思わせるスタイルだ。まぁ実際、外見は格好いいんだけど。頭の中身が、これじゃあなぁ。
 というか、どこにいる。こんな今時若者スタイルの『座敷わらし』が。
 先輩は相変わらずの穏やかな笑みを浮かべたまま、自分の前髪にくっついた桜の花びらをつまむ。銀の指輪が陽射しに柔らかく反射した。
 飾り気のない、太い銀の指輪。
 理由もなく、一瞬それに目を奪われた。銀の指輪。
「――この指輪が、気になる?」
 ふいにトーンの落ちた声が耳に届く。はっと意識を戻すと、先輩が口の端を片方歪めて上げていた。穏やかな笑顔じゃない――どことなく皮肉っぽさも漂う、笑い方。
 ほんの一時、背中に何かが走った気がしたけれど、あたしはそれを無視してかぶりを振った。
 何かが、心の奥で引っかかる。
 だけどそれを振り払って、あたしは淡く甘い香りのする空気を肺に入れた。
「別に、なんでもないです」
「あれ、そう? 残念だなぁ」
 そうやって笑った先輩の声は、さっきのトーンとは違っていて、笑顔も皮肉っぽさは欠片もない、人畜無害な純粋笑顔だった。気味が悪いほどに。
「まぁそれはいいとして。で、さ。西岡。座敷わらしだよ、座敷わらし。なりたくない?」
「ありません。そもそも頭の可哀想な先輩にこれ以上付き合う気もさらさらありません」
「西岡はけっこう酷いなぁ」
 どうしてくれようこの男。会話が全く成り立たない。
 あたしは漏れ出るため息を飲み込んで、止まっていた歩を再開させた。先輩を置き去りにするために、早足で歩き出す。ヒールのないぺたんこの白いバレエ型シューズが、桜の花びらを踏んでいく。
 前代未聞だ。いくらなんでも。初デートでいきなり『俺、座敷わらしなんだよね』とカミングアウトされ、あまつさえ『座敷わらしの後継者にならない?』と言われる事なんてあっていいのか? しかも、先週偶然中庭で逢ったのが、ほとんど初対面だというのに。その日にいきなりデートに誘われ、まぁいいかと承諾したあたしもあたしだけれど、しかしこれは、いくらなんでもどうなのか。
 鈍く疼く頭痛を抱え込んだまま歩き出したあたしに、先輩はついてこなかった。
 ただ、数メートルも距離をあけたとき、後ろから能天気なのほほん声が覆い被さってきた。
「西岡ー」
 いやいやながら、だけどあの吐き気がするほど人畜無害な顔を視界に収めてやろうかと思って、肩越しに小さく振り返る。
 先輩は桜並木の中で、大きくこちらに向かって手を振っていた。
「また明日な、西岡。俺けっこう、しつこいから。よろしくー」
 胸の奥で渦巻く黒い感情を押さえつけて、あたしは先輩から目を外して前を見た。
 うすい水色の空に、白に近いピンクの花びらが寂しげに舞い上がる。
 桜の花びら。
 ああ、そうか――この時期だから、なのかもしれない。あたしがこんなに苛立っているのは。もちろんあの頭が可哀想な人のせいであるのは八割以上正しいとは思うのだけど、残り二割は、季節柄もあるのかもしれない。二年前の春。あの日から、あたしの中で大嫌いな季節ワーストワンに確定されたこの季節のせいなのかもしれない。
 あたしから、お兄ちゃんを奪った季節。
 目の前にふわりと降って来る花びらを視線で追いかける。舗装された地面に吸い込まれるように落ちていった花びらを見下ろして、あたしは小さく唇の端に笑みを作った。濃い緑の地面の中で、浮き上がるようにいくつもの花びらが白い姿をさらしている。中には花びらじゃなくて額ごと落ちた桜の花もある。そのどれもが、誰かの足に踏まれ、靴のあとを体に纏い、ちぎれ、汚れて見るも無残な姿になっている。ざまあみろ。
 咲く桜に人は目を奪われる。だけど、舞い散り地面に落ちた元桜には、誰も興味を示しはしない。散りゆく桜は美しくない。欠片も、美しくなんかない。そして桜は、散るだけしか能がない。ざまあみろ。
 あたしはいつのまにか止まっていた足を持ち上げて、落ちてきたばかりの花びらに下ろした。感触も何もなく、白い靴の裏で花びらがちぎれる。口の端に浮かんだ笑みが自然と濃くなるのが判った。自分でも気狂いじみてると思わなくもないけれど、だって仕方ないじゃない?
 あたしはこの季節を、殺したい程憎んでいる。
 ゆっくり、ゆっくり、丁寧に。花びらを踏みつけて歩きつづける。恐らく先輩は、まだあたしの背中を見ているはずだ。さて、問題です。彼はこのあたしの姿を見て、何を思うでしょう?
 答えなんて、知りたくもない。
 知る必要もない。
 座敷わらし? 座敷わらしだって? だったら、ぜひ、あたしにとり憑いて欲しいもんだ。幸せを呼ぶんでしょう? だったら、あたしにお兄ちゃんを返して下さい。この季節をなくして下さい。
 ああ、でも駄目だ。そうしたら、今みたいに桜の花を踏みつけて歩くことが出来なくなってしまう。それは駄目だ。
 かなりの時間をかけて、桜並木を通り過ぎる。風にふかれ、二つに結んだ髪の毛がくすぐったそうに揺れている。並木道を過ぎた後は早足で、家までの道を行く。
 ああ、本当に。憎たらしいほど穏やかな季節。先輩の笑顔のように。

 †

 家に帰って扉を開けて、ただいまと声を投げてみても返って来るのは静寂と、せいぜい冷蔵庫が動いている証拠の低い音だけだ。鍵っ子の宿命。
 靴を脱いでリビングに上がる。食卓の上には、鶏と大根の煮物がラップをかけられて鎮座している。晩御飯はどうやらこれらしい。
 母ひとり、子ひとりの家にしては無駄にでかい一軒家で、この広いリビングは妙に浮いているようにすら思う。実際、このリビングを一度に一人以上で使うことなんてほとんどない。母さんは普通にOLの仕事と、土日のパートを掛け持ちしている。もちろん会社にばれたらクビなんだろうけれど、そうでもしないとあんたを養っていけないのよ、と母さんは時々ヒステリックに叫んで物を投げてくる。まぁ、仕方ない。そのくらいは、あたしだって理解している。
 二年前にお兄ちゃんが死んだとき、あたしは小六だった。その時にはまだ、父さんがいたから進学だって自由に選べた。お兄ちゃんと同じ学校に通うんだというのが、あたしの五年生のときからの口ぐせで、そのためにずっと受験勉強もしてきていたし、父さんはあたしに、公立中学にいくか、お兄ちゃんと同じ私立中高一貫校に行くか選ばさせてくれた。あたしは少しも悩むことなく、もう一緒に通うことは出来ないと判ってはいたけれど、お兄ちゃんと同じ学校を選んだ。
 一年前、入学式を終えて帰って来てみると、今鶏と大根の煮物が鎮座している食卓の上に、父さんの走り書きが残っていた。
『真衣、入学おめでとう。そして、ごめんな』
 その日、父さんもあたしの前からは姿を消した。母さんはその日からヒステリックになって、時々あたしにも手をあげるようになった。二年間のこの季節だけで、あたしは大好きなお兄ちゃんと、優しい父さんと母さんを失った。だから、この季節が心底憎たらしくて仕方がない。別に母さんを責めるつもりなんてない。母さんだって、狂ってしまったんだろう。――あたしと、同じように。
 バッグを放り出して、手も洗わずに、ラップを剥がして鶏肉をつまんだ。冷たい鶏肉にも、味はきっちり染み込んでいた。
 一口だけで飽きてしまって、あたしは指についた汁をなめて、左手でバッグをもう一度掴んで階段を上った。音のない階段は、二年前からだ。お兄ちゃんが居たときはいつだって、騒がしいロックの音が漏れてきていた。今はもう聞こえない。ただ静かに、階段が軋む音がわずかに響くだけ。桜の花びらはもうない。二階へと上がって、自室への扉に手をかけたあと、あたしはすぐにその手を外した。踵を返し、向かい合わせのお兄ちゃんの部屋の扉を開ける。お兄ちゃんが死んで二年経っても、未練がましく当時のままの部屋に足を踏み入れる。
 時々母さんが軽い掃除をするだけで、ほかは一切いじっていない。だからだろうか。この部屋だけは二年前で時が止まっている錯覚を起こす。ここでこうして立ち尽していたら、部活から帰ってきたお兄ちゃんが呆れ顔であたしに言うんだ。
『真衣、人の部屋に勝手に入るなよ』
 ――もちろん、そんな声はもう聞こえないけれど。
 あたしは一度だけ唇を結んで、部屋の隅にあるCDコンボに近付いた。お兄ちゃんが好きだったロックのCDがたくさんある。その中から一枚引っ張り出して、再生ボタンを押す。レッド・ツェッペリンのEARLYDAYS。一番最後のナンバーにあわせて、ボリュームを上げた。天国への階段。静かな旋律が、部屋を満たし始める。それに抱かれることを望むように、あたしはお兄ちゃんのベッドへと身を投げた。ベッドが軋んで軽く鳴く。
 ベッドのすぐ脇にあるサイドテーブルには、ライトスタンドと、しおりが挟まれたままの文庫本。それから、フォトスタンドが置いてある。
 写真の中のお兄ちゃんは、満面の笑顔を見せている。得意のギターを片手に、隣に居る男の人と一緒に笑っている。隣に居る男の人――お兄ちゃんの親友だったという、同級生。
 ワックスで綺麗に整えられた髪形と、明るいブラウンの切れ長の目。すうっと通った鼻筋と、人畜無害な人懐っこい笑顔。
 ――戸部敦先輩。
 お兄ちゃんがいる間は幸せだった。何も嫌な事なんて起こらなかった。幸せだった。とても。

 光輝くものは全て黄金だと信じる貴婦人が居る。彼女は天国への階段を買おうとしている――

 レッド・ツェッペリンの音楽に抱かれるまま、あたしはフォトスタンドを倒した。枕に顔を埋め、声を押し殺す。
 お兄ちゃん。お兄ちゃん。お兄ちゃん。
 どうして、そんな風に笑っているの?
 先輩は、お兄ちゃんの親友だったって言う戸部先輩は、狂ってしまったの? 母さんや、あたしと同じように?
 先輩は気付いているんだろうか。あたしが、お兄ちゃんの妹だってことに。知らないのだろうか。
 ねぇ、先輩。座敷わらしが本当だって言うのなら、どうしてあなたの身近にいたはずのお兄ちゃんは、死んでしまったんですか?
 どうして、お兄ちゃんに幸せを与えてくれなかったのですか?
 お兄ちゃんはとても優しくていいひとだったのに、酷く運が悪い人だった。父さんとも些細なことで口論になって、母さんもお兄ちゃんを持て余していた。お兄ちゃんの当時の彼女は、お兄ちゃんを捨てた。あたしだけ。あたしだけが、お兄ちゃんを愛していた。もちろん、妹として、だけど。他の誰も、お兄ちゃんを見てくれなかった。それが悔しかった。ついてないお兄ちゃん。だけど笑顔でいつもあたしの頭をなでてくれたお兄ちゃん。ついてないのも交通事故で即死、それでおしまい。何もかもおしまいだった。
 ねぇ、先輩。あなたが本当に座敷わらしだというのなら、どうして、ほんの少し、ほんの少しでもお兄ちゃんに幸せを与えてくれなかったのですか?
 嘘ついているのなら、その口に汚れた花びら詰め込んで、あたしが縫い付けてやる。

 †

「真ー衣っ!」
 がばっと後ろから抱きつかれ、あたしは思わず体を逸らした。……重い。
 首を回して見ると、少年じみたはにかみ笑顔がそこにあった。よく見知ったクラスメイトの顔。廊下と教室の間でとりあえず彼女を振り払い、あたしはこっそりため息を漏らした。
「英語? 数学?」
「……数学」
 挨拶代わりのあたしの問いかけに、彼女――佐川薫はへらっと頼りない笑顔を返してきた。鞄の中からノートを引っ張り出して、薫の薄っぺらい胸に押し付ける。
「ほら。たまには自分でやれば?」
「あたしがやったところで間違いだらけのものが出来るだけだし、真衣のを写させて貰ったほうが効率いいじゃん」
「まぁ別にいいけど……」
「さんきゅっ。真衣ちゃん愛してるっ」
 薫は嬉々として投げキッスを残すと、スカートを翻して教室の中へ入っていく。数学一時間目だけど、間に合うんだろうか。まぁ、あたしが知ったことじゃないけどさ。
 ちょうど薫の前の席――窓際、前から二番目の自分の席へつく。すでにノートを広げて黙々と写しに入っている薫の姿を見下ろして、肩をすくめた。鞄の中から手鏡を取り出して机にのせて覗き込む。
 ――あーあ。酷い顔。
 別に元々可愛い顔、という訳でもないけれど、この顔はちょっと酷すぎるな。不機嫌顔の女子が鏡の向こうから覗き返してきている。高い位置で二つに結んだセミロングの髪の毛。腫れぼったいまぶたと、やや充血した目。唇だってかさかさだ。泣きつかれて、そのくせ寝不足だというのがよく判る。何て顔だろう。
「死刑囚みたいな顔」
 真後ろからの声に、あたしはむすっとさらに顔をしかめてしまう。手鏡を鞄の中に放り込む。
 薫はこちらの様子に気付いているのか気付いていないのか、相変わらずのさほど興味があるわけでもなさそうな声で続けてくる。
「何かあったん?」
「別に何もないよ」
「あそ」
 明らかに嘘だと判るはずのあたしの台詞に、薫はそれ以上つっこんでこなかった。一瞬止まっていたシャーペンの音が再開される。今度はその音も止めることなく、やっぱり興味がなさそうな声のまま訊ねてきた。
「昨日のおデートはいかがだったざんすか?」
「最悪」
「それはよござんして」
 薫はまた、それ以上この事には触れてこなかった。それがありがたいし、だからこそ薫とあたしは付き合いつづけていられるんだろうと思う。根掘り葉掘りきかれるのも、友達顔されて心配されるのも、あたしは嫌いだ。
 朝、ホームルームが始まる前の教室は騒がしい。開けっ放しの扉から、また一人誰かが入ってくる。薫より背の低い、よく日焼けしたやんちゃ坊主のような顔の少年。
「薫、木村くん来たよ」
 何の気なしにそう言ってみると、面白いほど見事にシャーペンの音が途絶えた。軽く振り返ってみると、あわてたように髪を正す薫と目が合う。さっと頬を染めた薫をぬるく見つめていると、薫は物騒な低い声をもらしてきた。
「……何も言うなよ真衣……?」
「言わないよ。とりあえずノートとっとと返してね」
「……」
 無言になった薫から視線を外して、くすりと思わず笑みをこぼす。判りやすくてからかいがいがある。
 少しして木村くんが近付いてくる。薫が多少上ずった挨拶をする。全く気付いていないらしいど鈍の木村くんは、あたしと薫に同じように挨拶をしてくる。あたしも適当に挨拶を返す。そんな、あたりまえすぎるあたりまえの日常。昨日の事がすべて夢のようにすら思えてくる。
 戸部先輩とのデートも、先輩が口走った阿呆な台詞も何もかも、ただの夢のように。

 だけどあたしのそんな考えは、放課後、全ての授業が終わって中庭に出たとたんぶち壊された。


幸せは、舞い散る花びら
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