幸せは、舞い散る花びら
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「よ、西岡ー」
「……」
 出やがったな、自称座敷わらし。
 桜が満開の中庭で、先輩はにこにことした人畜無害なあの笑顔で佇んでいた。
 あたしの通うこの学校はやや特殊で、中等部と高等部の敷地が繋がっている。共通の校門を入って正面の道を進むと中等部高等部共有の職員、事務舎があり、その裏に今立っているここ、第一中庭がある。右側が中等部の敷地、左側が高等部の敷地で、この中庭はどちらの校舎からも出入りが簡単な、そんな場所ではある。その中で佇む先輩は、昨日の服装とは違って高等部のブレザー姿だけど、それもまた良く似合っているとは思う。あたしは何も言葉を発することなく、静かに先輩を睨み上げた。あの写真の中で、お兄ちゃんと肩を組んでいた人畜無害なあの笑顔を。春の陽射しと同じ、穏やかな笑顔を。
「怖い顔」
 先輩はそう言って、小さく笑った。目じりが落ちる笑い方は、あの写真の中のそれとやっぱり同じだ。二年分歳をとった、それだけだ。お兄ちゃんの傍にいつもあった笑顔。あたしが望んで仕方なかった、お兄ちゃんと一緒の学校へ通うことをあたりまえに過ごした人。それなのに、あたしに対してはお兄ちゃんのことを一切訊いて来ない人。
 知らずにこくんと喉が鳴った。飲み下した唾が喉を潤して、だけど乾いたままの唇を一度舌でなぞってから、あたしは強張った声を漏らした。いつもより、半音高い気がした。
「何の用ですか」
「昨日の話。考えてくれた?」
 間髪いれず、先輩が被せるように問うて来る。頭上には空を覆い隠すほどの満開の桜。中庭は桜色に染まっていたけれど、芽吹いている花は桜だけじゃない。十字に走った煉瓦造りの道以外の場所には、春の花が咲いている。雪柳。花壇にはチューリップ。足元には無意味にけなげに咲いているオオイヌノフグリ。雪柳の落ちた白い花を踏みつけて先輩が歩き出した。十字路の真ん中、校舎から見ると半ば以上晒し者になるためにあるような場所に備え付けてある、ペンキのはがれた白いベンチへと。どちらの校舎からもばっちり見下ろせる――こんな趣味の悪い場所に置いてあるベンチに座る人物なんて、ほとんどいないと思っていた。だけど先輩は何のためらいもなくそのベンチに腰を下ろした。あたしはほとんど何も考えずに、先輩の後を追っていた。
 一陣の風が吹き付けて、桜の花びらを中庭に舞い上がらせた。ざわめくように、雪柳も揺れた。
 吐き気がするほどに纏わりつく花の匂いは、雪柳とチューリップが混ざり合ったそれだろう。園芸部か何かが適当に植えているのかも知れないが、もう少し秩序とかそういったものを考えてくれても良いように思う。
 吹き付ける桜吹雪に、先輩が柔らかな笑みを浮かべて見上げている。
「綺麗だよね、桜。西岡は桜、好き?」
「大嫌いです」
「桜が嫌いな日本人もいるんだ」
 先輩はそう言ってまたくすくすと笑った。額ごと木からはがれ、くるくると踊りながら落ちてくる桜を器用に右手でキャッチする。今日もつけている銀の指輪がまた、光に反射した。
「――本気なんですか」
 気付くと、あたしは正面から先輩を見据えてそう言葉を発していた。先輩は手の中の桜の花を見下ろしたまま、動きだけを止めた。
「本気なんですか。昨日の事」
「西岡はどう思う?」
 桜から視線を外し、目だけをあたしに上げて先輩が唇をゆがめた。制服の裾がはためくのをおさえながら、あたしは静かに言葉を返した。
「いかれてるとしか思えません」
「だろうね。俺もそう思う」
 先輩はそう言って笑って――そして、無造作に桜を持っていた右手を閉じた。
 先輩の手の中で、桜の花が潰された。
「――でも、本気」
 下を向いていた顔を持ち上げて、また先輩は笑顔を見せた。人畜無害なあの笑顔じゃない。昨日一瞬だけ覗かせた、あの笑顔だ。唇の端だけを片方持ち上げた、皮肉じみた――嘲笑に近い、笑み。
 春先に似合わない悪寒が、背中を駆けた。
 先輩はゆっくりと閉じた右手を開く。握りつぶされて一部色素すら失ってよれた桜の花が、舞うこともなく煉瓦の地面の上に落ちた。
 ただじっと、それを見下ろす。その時間はたぶん、ほんの十数秒だっただろう。だけどあたしには何故か長く思えた。ふいに先輩が、明るい声をあげた。
「西岡、デートしよう」
「……は?」
「デート。らぶ☆どき☆春の青春デート」
 浮かんでいた笑みを邪気のない幼いものへと変貌させて、先輩が立ち上がる。落ちた桜の花を無造作に踏みつけて――それこそ、幼い子供独特の残酷さをもって踏みつけて、あたしに手を差し出す。
 その時思った。
 ああ、やっぱりこの人も狂っているんだ。あたしと同じように。
 銀の指輪がはめられた右手。その手に自分の手を重ねて、あたしは小さな吐息をこぼした。少し硬くて厚い手のひらは、お兄ちゃんのそれを否応なしに思い出させる。先輩は重ねたあたしの手を、無造作に握ってきた。あたしも先輩の手を握り返す。
「ううーん。いいねぇ。この感じ。これぞ青春って感じだねぇ、そう思わない? 西岡」
 黙っていれば格好いいだけなのに、この男は口を開くととたんに馬鹿だ。馬鹿か、狂っているか、あるいはそのどちらでもあるのかは判断つけがたいけれど――たぶん、両方が正解なんだろう。
「先輩。後輩として忠告してあげます」
「なに?」
「口、閉じとけ。あんたは」
 あたしの一言に、先輩は軽く声を立てて笑った。
 並んで中庭から歩き出し、校門へと足を向ける。校門をくぐる直前に、薫とすれ違った。薫はぽかんと大口を開けてあたしたちを見たが、あたしは薫に何も言わずにその横を通り過ぎる。
 無言のまま、あたしたちは手を握り合って歩いていた。どこへ行くかもお互い口には出さず、ただ足の向くまま歩を進めていた。訊ねたいことはいくらでもあった。問いただしたいことも。知りたいことも。だけど口に出す気になれず、言葉は喉の奥に張り付いてやがて消えていった。消化不良になった黒い澱みが、ただ胃の中に積もっていった。
 春の陽光に照らされた影が、短く伸びている。影を引き摺って、機械的に足を動かした。高い石の段を幾度か上り、気付くと鼻先に水の匂いが広がっていた。学校裏の堤防。
 時折跳ねる魚と水音。学校から届いてくるざわめき。水に踊る光。流れてくる薄ピンクの花びら。沸き立つような若葉の土手。視線を高く上げれば、駅のほうに空を染めそうなほどに薄ピンクの群れが広がっている。昨日歩いた、あの桜並木。午前中授業のみだったので、まだ夕焼けには遠い。だけどそれでもやや西に傾いた陽射しが、眩しかった。
「んー、気持ちいいね。やっぱこの季節が一番良い。そう思わない? 西岡」
「先輩」
 大嫌いです。
 漏れかけた言葉を飲み込んで、あたしは違う音を唇に乗せた。伸びをしていた先輩が、空を見上げたまま動きを止めた。
「意味が判りません。どういうことなんですか。どうして、あたしに声をかけたんですか。座敷わらしがどうのって、あたしを馬鹿にしているんですか」
 先週通りかかったあの中庭で、初めて先輩のほうからあたしに声をかけてきた。
 先輩はその時すでに、あたしの名を知っていた。西岡、もうすぐ桜が咲くよ。つぼみが膨らんでいる。あまりに唐突なその言葉に、あたしはやや呆然として頷くしか出来なかった。桜が満開になったら、デートしよう。先輩はそう言ってほとんど一方的に、デートの約束を取り付けてきた。あたしは――先輩が何を考えているのかが知りたくて、それを承諾した。そして昨日があって、今がある。けれど、先輩の真意は――先輩が何を考えているのかは、全く判らなかった。
「君を誘ったのは」
 先輩は天に伸ばしていた腕を下ろして、こちらを振り返って来た。色のない、無機質な笑みを浮かべたまま。
「君のことが好きだったから」
 ――瞬間的に湧き上がってきた鈍い吐き気を押し戻そうと、喉を上下させた。そのあたしの様子を見て、ふと先輩の笑みが深くなる。
「――なんて言うと思った?」
「……思いません」
「正樹の妹なんだって?」
 心臓を素手で握り潰されたのかと、思った。ついさっき先輩の手の中で果てた桜の花の気持ちが、判るようだった。
 あいまいに揺らぎかける視線を、だけどあたしは先輩から外さなかった。長い睫毛に守られるように光っているブラウンの瞳を、正面から見据えた。
 声がかすれるのだけは、それでもどうしようもない。
「お兄ちゃんは、事故で死にました」
「そう」
「知っていたんですね」
「知らないとでも思ってた?」
 くすりと先輩が笑った。何かを試すような、意地悪な笑み。ついさっきまで張り付いていた人畜無害なあの笑顔は、よく出来た仮面だったのだろうか。
 先輩はネクタイに指輪をはめた中指と人差し指をつっこんだ。ネクタイを緩め、ブレザーのジャケットを脱ぐ。土手脇の階段さえ使わずに、器用に降りていく。ふと振り返って、こちらを見上げてきた。
「座ろう」
「……馬鹿に、してるんですか」
「そうだね。でもそれはお互い様。それに座敷わらし云々は、本気」
 先輩は言うだけ言って、こちらの返事も待たずに滑るように再度土手を降り始めた。途中で黄色くけなげに咲いているたんぽぽの花をちぎって、それをもてあそびながら河岸ギリギリまで歩を進めた。石積みの河岸に腰をおろして、こちらに背中を向けたままただ静かに佇んでいる。
 あたしは、一瞬だけためらった。だけどためらいはすぐ、かぶりを振って追い出した。二つ結びの髪が頬の横で跳ねて、邪魔だと思った。身をかがめて、土手に手をつく。草汁が手のひらにくっついて多少気持ちの悪さは否めなかったけれど、先輩のように器用に立ったまま降りていくことが体育二のあたしに出来る芸当とも思えず、仕方なしにそうした。学校指定の白のハイソックスが汚れるかもしれない、とも思ったけれどこの際どうでもいい。足を踏み出し、ゆっくりと降りていく。
 ところが、土手の半ばを過ぎた時、ローファーの靴裏がずるりと嫌な音を立てて滑った。
「きゃっ……」
 ひっくり返った悲鳴をあげて、あたしはその場に大きくしりもちをついていた。さっと頬に血がのぼる。やってしまった、と口中でだけで呟いた。判ってる。素直に遠回りになってでも階段を使うべきだったんだ。あたしはドン臭い。お兄ちゃんが良く言っていた。『真衣はホントにドン臭いよな』って。
 ぽかんと口を開けている先輩と目が合った。ああ、見られた。この男に。恥ずかしさと悔しさで、先輩の瞳を睨み返した。先輩はすぐにその目を細めた。困ったような、呆れたような――それでいて、今までのどの笑みとも違う、素直な優しさも垣間見えるような、笑みを浮かべた。
「馬鹿だな、真衣は」
「……先輩ほどじゃないです」
 真衣、と呼ばれたことに対しては、自分でも意外なほど驚きは浮かばなかった。それどころか、何故かお兄ちゃんにそう呼ばれたときのような心地良ささえ――腹立たしいが、認めざるをえないだろう――覚えた。
 先輩は苦笑を深くして立ち上がった。たんぽぽを放り出して、こちらに歩いてくる。その手を差し伸べられて、あたしは素直にそれに甘えた。こつりと違和感のある感触が手の中に生まれた。銀の指輪。
 先輩に引っ張って立たされて、スカートにくっついた草を払って歩いた。数歩だけ進んで、河岸に座る。先輩の右隣に座って、あたしは小さく言葉を漏らした。
「その指輪。……お兄ちゃんの、ですよね」
「知ってたんだ?」
「知らないとでも思ってましたか?」
 さっきと同じ問答を、立場を逆転してやる。奇妙な違和感に、先輩は楽しそうにくつくつと笑い声を漏らした。
「お兄ちゃんは」
 声がかすれて、それであたしは気付いた。心の中ではほぼ毎日、その言葉を発していたけれど、唇に乗せて音にするのは、それこそ二年ぶりに近かったのかもしれない。お兄ちゃん。その音が懐かしすぎて、胸に痛い。
「――お兄ちゃんは、あたしが貸して欲しいって言ったら、大抵のものは貸してくれました」
『わがままだな、真衣は』って苦笑しながら。それでも、貸してくれた。CDも。帽子も。本も。アクセサリも。
 先輩は何も言わず、こちらを見ようともせずただ水面に流れる花弁を視線で追っている。
「でも。その指輪だけは……駄目だって。どうしても貸してくれなかったんです」
 震えた音が、水面に落ちていった。だけど、石を落としたときのような波紋は生まれなかった。あたりまえだけど。指先が冷えてきていた。春の陽光があるとはいえ、水辺の風はまだやっぱり冷たい。水面を渡ってきた風から守るように、指を手の中に織り込んだ。自分の指先がかすかに震えているのを自覚する。
「それをなんで」
 喉からその言葉が漏れたとたん、ダムが決壊したように感情が溢れ出した。先輩の肩を掴んでこちらに向きなおさせて、叩きつけるように言葉をぶつけていた。
「なんで、先輩が持ってるんですか! どこを探してもなかったのに、どうして先輩がそれを持っているんですか!? どうしてお兄ちゃんのものを、先輩が持ってるんですか!?」
「正樹に託されたから」
 答えは、こちらの声をものともせずにあっさりと返ってきた。あっさりと、平坦な声で。自分のシャツに絡まったあたしの指を解いて、先輩は右手の中指につけた銀の指輪を眺めた。
「託されたって……」
 お兄ちゃんは交通事故だった。病気とかと違って、自分の死を判って何かを託すなんてことは出来たはずがない。なのに、先輩の言い草はまるで、お兄ちゃんが判っててそれを手渡したみたいだった。
「つけてみる?」
 先輩はふいに軽い口調でそう言った。一瞬意味が判らず見上げたあたしを気にすることもなく、自分の指から指輪を抜いた。それから、一度は振り払ったあたしの手に触れて、その指輪を静かに中指へとはめてきた。
 ――ぶかぶか、だ。
 思わずゆるく苦笑を浮かべたあたしを見て、先輩が笑みを濃くした。唇の端が持ち上がり、歪む。
「先輩……?」
「座敷わらし」
 ふいにトーンの落ちた声がその言葉を紡ぎ出して、あたしはすっと現実が冷めていくのを感じた。指輪のはまった右手を握りこぶしにして、左手で覆う。はずれないように。
「まだ言ってるんですか、それ。人の事、馬鹿にしてるんですか?」
「座敷わらしって、どんなのだと思う? 西岡」
 真衣じゃなく西岡、と先輩はあたしの顔を見つめた。赤いネクタイが風に揺れるのを何となく視線で追ってから、小さくため息を漏らす。馬鹿馬鹿しい。
「家に憑いて、幸福を呼ぶ子供の妖怪、でしょう?」
「そう。他には何か知ってる?」
 馬鹿にされている。そう思いながら、先輩の瞳を見返した。切れ長の目が、からかうような笑みを浮かべている。睨み返す。視線は動かない。あたしの視線も先輩の視線も、一度たりとて揺らがない。
「――オカッパの女の子だとか、座敷わらしは家から出られないとか、そういうのですか?」
「まぁ、一般的な正解だね」
 睨みあったまま交わす言葉じゃない。こんなのは。だけど先輩はその行為が満足だとでも言うように大きく頷いた。雲ひとつない薄い水色が広がる空を見上げ、変わらない口調で続ける。
「大昔――って言っても、それがいつ頃かは知らないし起源が日本だともはっきりはしてないんだけどね」
 もう何もついていない右手の中指を春風に晒しながら、それこそ春の陽光のような口調で続ける。穏やかな、腹立たしい口調。
「周りに幸せを呼ぶ能力を持った子供が実際にいたそうだよ」
「妖怪ですか? 馬鹿馬鹿しい」
「いいや。普通の農民の子供だったらしい」
 いきなり現実離れした単語を吐いて、そのまま言葉を続ける先輩に怪訝な目を向ける。けれど先輩は――ああそう、きっと狂ってるんだ――当たり前のように続けた。それがなんだか怖く思えて、あたしはきゅっと手を握る。銀の指輪の感触が、お兄ちゃんを思い起こさせてくれて力強く思えた。
「だからその子供は高い値段で買われたそうだ。農村の住民が一年は遊んで暮らせるほどの値段だったって言うからね、親だって手離さざるを得なかったんだろう。そんな話があれば、村人の目が子供を金としか見なくなるだろうし、そもそも当時の農村なんて閉鎖的な世界だからね……まぁ、売りませんとは言い出せなかったんだろ」
 意味が判らない。売られた子供の話がこの場合何の関係があるというんだろう。
「そんな怖い話、どうでもいいです。昨日のは嘘ですか。先輩が座敷わらしだって言ったのは」
「まぁそう急ぐなよ。せっかちだな、真衣は」
 どこからか飛んできた桜の花びらを視線で追いながら、先輩が前髪をかきあげた。くすりとした小さな笑い声を鼻から漏らして、一瞬だけあたしに視線を合わしてくる。
 ブラウンの瞳。
 それに映る自分自身を睨み返しながら、あたしはうすく唇を開く事を止められなかった。
「先輩が本当に座敷わらしだって言い張るなら、聞きたいです」
 先輩は視線だけで言葉の続きを促して来た。銀の指輪の感触に頼るように拳を握り、体内で響く心臓の音を感じながら、あたしは呟く。
「どうして、少しでも――ほんの少しでも、お兄ちゃんを幸せにしてくれなかったんですか」
 先輩の目が、まるで嘲りでも含むかのように色を変えた。
「そのときは俺はまだ座敷わらしじゃなかったから」
 ――座敷わらしじゃ「なかった」?
 思わずきょとんと目を瞬かせてしまったあたしの様子を見て、先輩が楽しそうに笑い声を漏らした。その様子は、一瞬にしていつもの人畜無害なそれに変わっている。
「とりあえず、順序だてて話そうか。最後まで聞いてくれるかな、西岡」
 先輩の言葉に、あたしは眉を寄せながら、それでも静かに頷いてみせた。

 †

 川辺を歩いていく先輩の影が、傾いてオレンジに変化した西日によって長く伸びている。先輩が小さく口ずさんでいるメロディは、レッド・ツェッペリンの天国への階段だ。お兄ちゃんが大好きだった曲を、先輩が口ずさんでいる。
 ばらばらのジグソーパズルを前にしたような感覚だった。ばらばらに提示される先輩の語る『座敷わらし』の話。それを自分なりに結合していくと、こうなった。
 遠い昔、周囲に幸せを呼ぶ『幸呼び子』と呼ばれる子供がいた。その子供は富豪の家に大金で買い取られ、その家に住まわされた。家から出ることを禁じられ、ただ己の意思とは無関係にその家に幸を呼びつづけたという。そこから、家から出られない、家についた幸せを呼ぶ子供――座敷わらしの話の原型になったのではないか、と先輩は言った。
 その子供は死んで、けれどその『幸呼び』の能力は時代とともに少しずつ『形』を変化させて、現代にまで受け継がれているという。そして、最近ではネットオークションに流れて、見つけることになった。先輩はそう言って深く笑った。深く。深く。深く。
 ふいに――
 前を歩いていた先輩の足が止まった。同時に口ずさんでいた歌声も途切れる。腕に抱えられているジャケットの裾が、川辺からの風に揺れている。先輩の影を踏む直前であたしは足を止めた。

「殺してやろうと思った」

 唐突なその言葉は、低く風に飛ばされていく。訳も判らず先輩の背中を見上げる。
「殺してやろうと思ったんだ。何も知らないお前をね」
 静かな言葉とともに、先輩は振り返って来た。切れ長のブラウンの瞳は歪んだ笑みを内蔵していた。
「せんぱい……?」
 先輩の顔は、ちょうど正面にある夕陽のせいで眩しくてまともに見れたものではなかった。だけどあたしは目を細めながらも、それでも先輩の瞳を見返していた。逆光の中浮かび上がる、ブラウンの瞳。あの写真の中にあった、お兄ちゃんと一緒にいた先輩の瞳を。
 川辺のざわめきは、かすかに耳元を揺らして過ぎていく。その間に、先輩はゆっくりとあたしに向かって歩を進めていた。すぐ真横にある川。並べられている石の上を平均台よろしく歩いてきて、あたしの目の前で足を止めた。
 先輩の腕が、あたしの右手をとる。中指にはめられたままの指輪を、先輩はそっとなぞった。
「何も知らないで――よく、生きてられるな。吐き気がするよ」
 唾棄するように呟かれたその言葉は、あたしを静かに斬りつけようとして――だけどそんなものは、あたしを傷つける要因にはなりはしなかった。そんな言葉なんて、どうでもいい。まるで額縁のなかの美しい絵画のように見える先輩からそんな言葉を吐かれたところで、何の意味を要するというのだろう。
 そして――見ていて吐き気が覚えるのは、何も先輩があたしに対してだけじゃない。あたしが先輩に対しても、全く同じだ。あの写真の中の笑顔。お兄ちゃんの傍にあったはずのそれを、ためらいもなくあたしに向けてくる人。お兄ちゃんが大好きな曲を口ずさむ人。お兄ちゃんと一緒の学校に通っていた人。あたしが望んでも望んでも得られなかったものをもっている人。お兄ちゃんが貸してくれなかった指輪を、お兄ちゃんに託されたという人。座敷わらしだなんて本気で言ってしまう頭のおかしな人。狂っている人。狂っている人。お兄ちゃんはもういないのに。あたしと同じように、お兄ちゃんを追っているようにしか――見えない人。
 夕陽の中佇むその顔を見上げ、あたしは確かに込み上げて来る何かを押しとどめながら、言葉を吐き捨てた。
「知らないから――生きていけるんです。知ろうとするから」
 あたしの言葉に、先輩の笑みが深くなった。あたしの手を握るその手の力が強くなる。鈍く染みてくる痛みに顔が歪むのが自覚できた。だけどあたしは、先輩の瞳を睨みあげた。逸らすことはなかった。ただ睨みあげた。睨みあげた。睨みあげた。切れ長の、睫毛が長い、ブラウンの瞳を。
 くつくつと、低い笑い声が響いた。そう思った瞬間、それは弾けるような大きな笑い声に変化していて――そして、あたしの足は踏みしめる地を失っていた。
 一瞬の浮遊感。そして、刺すような痛みが全身を襲う。水柱が上がって、そこでようやく理解した。川の中に突き落とされたということに。
 スカートのひだが波に流されるように踊っている。川は浅く、水かさは、座り込んだ体勢のあたしの腹部に達するか否かと言う程度でしかなかったが、それでも、痛みに似た冷たさに全身が震えた。動くことも出来ず、凍りつくように冷えていく体を感じながら、あたしは顔を上げた。先輩のブラウンの瞳と視線が絡みあう。
「寒い?」
 何かを楽しむような声音で、先輩が訊ねて来る。
「……寒いです」
「そう」
 川の中にいるあたしを見下ろしながら、先輩は静かに微笑んだ。人畜無害な笑みで。
「真衣」
 またあたしを名前で呼んで、先輩は子供のように首を傾げた。
「正樹が生きてた頃は、幸せだっただろう?」
 あたしは答えずに先輩を睨み上げていた。先輩はあたしの視線を苦笑で受け止めて、それからゆっくり手を差し伸べてきた。その手を掴んで引きずり込んでやろうか――そう思ったけれど、力が敵わなかった。細身に見えるくせに力が強い先輩は、あたしをあっさり川の中から引き上げた。
 下着も濡らした川の水が、足を伝っていく。風が冷たく感じた。草の上に靴を載せると水音が響いた。あたしはその間一度も先輩から目を逸らさなかった。
「先輩。あたし、先輩が大嫌いです」
「知ってるよ」
 震える唇から唾棄した言葉に、先輩は造作もなく頷いた。自分のジャケットを脱いで、あたしにかけてくる。お兄ちゃんが小さい頃あたしによくそうしてくれたみたいに。けれどかけられたジャケットは高等部の物で、お兄ちゃんが結局ほとんど着ることのなかったものだと考えるとどうしてもやるせなかった。ぶかぶかのジャケットに下唇を噛んでいると、先輩がふと微笑んだ。邪気も何もない穏やかな笑みで。
「早く帰ったほうがいい。風邪ひくよ」
 自分で突き落としたくせに。
 頭の中の冷静な部分がそんな言葉を発してきたけれど、結局それはあたしの唇に乗ることはなかった。
 先輩はあたしの視線から逃れるみたいに、足早に川辺を去っていった。風があたしの体温を奪いながら桜の花びらを運んできた。恐怖が足を竦ませて暫く動けなかった。
 おにいちゃん。
 口内で呟いた言葉が鍵になって、あたしはようやく動き出せた。春から逃げたくて、あたしはジャケットと手の中の指輪を握り締めたまま、水濡れた足音を響かせて走り出した。


幸せは、舞い散る花びら
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