幸せは、舞い散る花びら
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 美しすぎて腹がたつと先輩は言った。
 何も知らない目が美しすぎて腹が立つと。
 だから、殺したいんだと先輩は言った。
 何も知らないから殺したいんだと。
 美しすぎて愛しく思ったと先輩は言った。
 何も知らない目が美しすぎて、殺したいほど愛しいと。







 桜はもう散りすぎて、葉桜になっていた。


「無理! やっぱ無理! 勘弁して!?」
「薫……」
 机に張り付いて、まるでこの世の終わりといわんばかりに青褪めている薫を見て、あたしはこっそりため息をついた。何が無理なんだろう。ただ単純に、木村くんに向かって「ノート貸してくれてありがとう」を言うだけだというのに。
「薫ー……」
「いや無理。だって無理。ごめんなさい。無理」
「大丈夫だって。あたしがついてるしさ」
 ――座敷わらしが、薫には憑いているんだから。
 あたしの言葉の裏側の意味なんて、もちろん薫は気付くわけもない。ただ単純に励まされたととったのだろう、真っ赤な顔を上げて、恨みがましい視線を送ってくる。
「ンなこといったって……」
「佐川、ノート役に立った?」
 ふいに声が聞こえて振り返ると、そこに当の本人である木村くんが立っていた。薫が慌てて身なりを整えて、上ずった声で頷くのを見て小さく笑いをかみ殺す。ばればれ、じゃないのかなあ。こんなに判りやすかったら。
 それに――たぶんきっと、二人は上手く行くだろうし。
 あたしが、傍にいるんだから。
 なんだか非常に初々しい会話を交わしている二人を見て、あたしは小さく微笑んだ。きっと、あたしにはもう望めない光景だから。
「ごゆっくり」
 軽く微笑んで、二人に手を振って教室を後にする。放課後の夕陽が差し込む教室は、これで木村くんと薫二人きりになった。後は二人次第だ。後ろ手に戸を閉める直前に、木村くんの上ずった声が耳に入ってきた。きっとそう、何もかも上手く行くはずだから。
 放課後の廊下はそこそこ人が多い。人の間を縫うように歩いていく。すれ違う同学年の誰もが、なんだか幸せそうに見えた。それはひがみなのか何なのか、あたしにもよく判らない。
 幸せのない世界。それがどんなものなのか――さすがに、あれから一週間程度じゃ判るはずもない。ただ、少しずつ変わり始めている何かはある。母さんは昨日帰ってこなかった。外にいい人でも出来たのかもしれない。あたしはひとりで料理をして食べて、片付けの最中に湯沸し機が壊れていたせいで火傷をした。自転車に乗ればパンクしたし、宿題のノートはいつのまにか行方不明になった。でも所詮、その程度。生きていくことに耐えられないと思うほど、全く幸せがこない状況とは程遠い。
 きっとそれは、今後なんだろう。
 でも、あたしはそれでいいと思っていた。
 幸せなんてない世界でひとりきりで。それでも、あたしは生きていくことを決めていたから。
 階段を降りるときに数段踏み外した。だけどたいして怪我はしなかった。そのまま、中庭へと足を向ける。
 桜の花びらはすでに汚れた絨毯のように地面に色を添えるだけで、ほとんど葉桜になっていた。少しだけ、淡い色が残っている。
 花びらを見上げる。

「真衣」

 ふいに穏やかな声で呼ばれて、あたしは顔をそちらに向けた。
 柔らかいブラウンの瞳がそこにあった。彼は静かに、ベンチの傍に佇んでいた。
「先輩」
 呼びかけると、彼は小さく笑った。あたしの指にはめられている銀の指輪を確かめて、小さく笑った。
「真衣は馬鹿だな」
「先輩ほどじゃないです」
「まだ、生きつづけようとしている」
「――馬鹿ですね、あたし」
 頷くと、先輩は破顔した。あたしの傍によってきて、触れられないはずの手を伸ばしてきた。まるで、頭を撫でるみたいに。
 桜の花はもう、舞い散らない。
「でも先輩。あたし、生き続けますよ。幸せなんてない世界で。ひとりきりでも」
 生きて。生きて。生きて。いつか幸せが本当に底尽きて、お兄ちゃんと同じ運命を辿ることになったとしても。その日までは、生き続けます。
 先輩は微笑んでいるだけだった。
「先輩。あたし、先輩が嫌いです。大嫌いです。だから」
 風が吹いて、葉桜がざわめいた。
「だから、消えないでください」
 先輩は答えなかった。手を伸ばしてきて、あたしの頬に触れた。あの夜とは比べ物にならないくらい、ほとんど感触のない風みたいなものだった。先輩がそっと顔を近づけてきた。ブラウンの瞳を見つめつづけて、それから静かに目を閉じた。
 先輩。先輩。先輩。
 あなたが、大嫌いです。
 だから、最期にひとつだけ。この春が終わる前に。桜の花が、全て散ってしまう前に。
「真衣」

 ――口付けは、桜の花びらが触れた程度の、ほんの微かな感触だけを残して消えた。

 花びらの最後の一枚が、中庭の地面に吸い込まれていった。

 先輩はもう、いない。
 先輩がいたはずの場所を見つめた。風は答えずに吹き付けるだけだった。
 音には出さないで、くちびるでだけ文字を綴った。
 ア、イ、シ、テ、――
 似合わなさすぎて、笑えてきた。
 視界が揺らいで崩れるほど、あたしは笑った。
 先輩。先輩。先輩。
 あたし、生き続けます。
 幸せなんてない世界で。ひとりきりで。桜の花が散るように、幸せが底尽きる日まで。お兄ちゃんと同じ運命を辿るその日まで。
 その日までは、生き続けます。どんなことがあっても。
 だから。

 もう一度逢った時、笑ってくれますか?
『馬鹿だな、真衣は』
 そう言って、笑ってくれますか?
 生きつづける事を選んだあたしを笑ってくれるなら。その日が来るのなら。
 あたしにとって今生きていることは、決して幸せがない状態なんかじゃないですから。



 空気までが薄ピンクに染まる中で、彼は静かに花を見上げていた。
 穏やかなブラウンの瞳が印象に残った。何も言わずに立ち去ることが出来なくて、その日のあたしはその人に声をかけた。

「なに、してるんですか?」
「人生に迷ってるんだ」
「……そうですか」

 変な人だと思った。
 それがちょうど一年前。入学式の日。
 あたしと先輩との出逢いだった。





 桜の花はもう、最後の一枚まで散り尽くしていた。
 その花びらを踏みつけて――
 あたしは、中庭を後にした。

 幸せなんてない世界でも。それでも。
 あたしは生き続けるのだから。

――Fin.


幸せは、舞い散る花びら
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