その日から、ぼくとサツキはほとんど毎日、カノンに会いに南海岸へ行った。
最初はカノンとサツキが遊んでいるのを見ているだけだったのに、結局なんでか巻き込まれてぼくも一緒に遊ぶようになっていた。
ビーチバレーをした。カノンに投げると絶対波に流された。
カノンの背中にサツキが乗っていった。浦島太郎、って呟くと、亀じゃないとカノンからの強烈な抗議があった。
サツキの『キレイな貝がら探し』に付き合った。カノンが海底から訳の分からない貝を拾ってきた。
まぁ、認めたくは、ないけれど。毎日確かに、刺激的だった。
とはいっても、別にぼくが人魚と関わらないということをやめたわけじゃない。
仕方なしに、だった。理由は簡単。サツキのわがままだ。
カノンと遊ばないとサツキが泣く。サツキが泣くと母さんに怒られる。母さんに怒られると父さんも怒る。二人が怒るとおばあちゃんはご飯を出してくれなかったりする。
結局ぼくにしたら、サツキのわがままに付き合うしかないわけだ。拒否権なし。だって、死活問題。
で、母さんが言うには、
『あんたもたまには外で遊んできたほうがいい』
だそうだ。まったく、この学歴社会の中で、母さんってばちょっと考えが古すぎる。今どき、塾へ行け、じゃなくて外で遊んで来い、なんていう親、ちょっとめずらしいんじゃないか。だいたい母さんってば、分かってない。外で遊んで日焼けしたって、いい大学に入れるわけじゃないのにさ。
外で、人魚と遊んで、一体何の得になるって言うんだか。それだったら、本の一冊でも読んだほうがずっとためになる。それにぼくは、人魚なんかと遊びたくないんだから。
だいたい、夏休みの日記をどう作るかが、ぼくには目下の問題なのだ。
まさか真っ正直に『人魚と妹が遊んでいるのを見てました』なんて書こうものなら、夏休みが明けてすぐ、ぼくは職員室か、下手したら保健室に呼び出されるに決まっている。
そんなわけで、今日も今日とて、遊んでいるカノンとサツキを見ながら、ぼくはウソ日記を書いていた。
「今日は何があったことになってるの?」
隣からの声に、ぼくは顔を上げる。岩場に座っていたぼくの横、海水にヒレをつけたままのカノンが、サツキを抱いて座っていた。
「花火することにした」
「あ。いいわねぇ」
カノンが楽しそうにころころ笑う。この人魚はいつも本当によく笑うんだ。
笑うカノンをぼくはそっと見る。上半身は人間で下半身は魚って言うのは、やっぱり少し、気持ち悪い。まぁそれでもカノンはふつうに日本語しゃべってるし、別に問題はないんだけれど。
「あ」
「あ?」
ふと思いついて声を上げたぼくは、カノンに聞いてみた。
「カノンたち人魚ってさ」
「うん」
「えら呼吸? 肺呼吸?」
「……」
カノンが沈黙した。サツキはよく分かってないらしく、どうでもいいやとばかりにヤドカリをつついて遊んでいる。
いやだって、結構気になるし。もしかして、この人魚のことを世間に報告して、人魚の生態とか調べちゃったら、ぼく将来、有名人。
「少なくとも、えらはないわね」
カノンがこめかみに指を当ててうめく。
「じゃ、肺呼吸? だったら変じゃない? 水の中で息出来るんでしょ?」
「出来なかったら死んでるってば。そうねぇ」
カノンはちょっとだけ考えるように首をかしげて、白い指を一本立てた。
「そうね。どっちかって言うと、肺呼吸。ただ人間よりは、くじらとかに近い感じね」
「じゃ、寝てるときに息しに上がって来たりするの?」
「それはしないんだけど」
「じゃあ、違うじゃん」
「……水の中でも、息は一応、出来るし」
カノンはもごもごと言葉をにごして、ぼくらはじっと見つめあって固まってしまう。
「むずかしいわね」
「自分の体のことくらい分かってようよ」
「そんなこと言ったって、ユースケだって全部分かってるわけじゃないでしょう」
カノンがスネたようにくちびるを突き出す。まぁ、いいけどね。どうせ特殊な魚だし。
カノンは足……ヒレでばちゃばちゃと水遊びをしながら、
「ま、どっちにしろ、私たち人魚は、やっぱり人間とは体の構造ちがうしね」
「内臓とか?」
「内臓とか。っていうか足はないし、私たち。骨格もちがいますって」
そりゃそうだ。一緒だったら怖い。
「脳の構造は似てるみたいだけどね」
「ふぅん」
まぁ日本語理解してるし、こうやって会話できてるし、同じようなものなんだろう。
「どうしたの?」
「何が」
「人魚のことなんて、関わりたくないんじゃなかったの?」
にやりと笑うカノンに、カチンとくる。
「純粋な『知的好奇心』のたまものだよ。ノーベル賞いただくから」
ぼくはジト目でカノンを見た。カノンはまた、けらけらとよく通る声で笑っていた。
「たいした小学生だわ、あんた。さすがナオコの息子」
「おほめにあずかり、恐縮です」
ぼくは肩をすくめて日記の続きに取りかかった。
○
その日の夕暮れ。正確には夕暮れの一歩手前の時間。ぷくぷくにふくれ上がった入道雲が、夕立を運んできた。
おばあちゃん家まではそれほどの距離でもないし、サツキを連れていても走って帰れないこともない。けど別に急いで帰ることもなかったので、ぼくとサツキは、カノンが教えてくれた岩場の影へと移動した。
「あめあめふれふれ、かあさんとー」
「これ以上降ったら面倒なだけだから……」
サツキの歌に、肩の力が抜ける。岩場の奥、ごつごつした岩が重なり合って屋根のようになっている場所の下にぼくらは座っていた。海水も近くて、カノンも一緒にいる。
雨が降ると、やっぱり少し、冷えてきた。サツキもパーカーだけじゃ寒いらしくて、くしゅんと小さくくしゃみをした。
「サツキ、大丈夫? 寒い?」
「うん。だいじょうぶだよ、カノンちゃん」
けろっと笑って、サツキ。雨が海面を静かに叩く音だけが響く。最初はカノンとサツキの二人でどうでもいい世間話をしていたのだけれど、そのうち話題もつきてくる。
静かな雨音が続いて、気が付くとサツキがこっくりこっくり寝息を立て始めていた。
「あらら。サツキ、寝ちゃったね」
「仕方がないからおぶっていくよ。雨、もうすぐやみそうだし」
「そうだね」
カノンは雨に打たれながら、空を見上げている。気になって、ぼくは聞いてみた。
「寒くないの?」
「うん? ああ、雨ね。寒くないよ。水は私たちにしたら、あって当然のものだから。さっきサツキに寒い? なんて聞いたけど、本当はね、寒いとか寒くないとか、そういうのはよく分からないんだ」
年がら年中水につかっている種族だし、そんなものなのかもしれない。魚に寒いなんて聞くほうが間違っていた。
「ねぇ、ユースケ」
「ん?」
サツキを背負うぼくに、カノンが声をかけてきた。
「あのさ。人魚、嫌い?」
……え?
いきなりの質問に、ぼくはカノンの目を見て首をかしげた。
「何、いきなり?」
「人魚、嫌い?」
答えになってないし。
カノンの青色の目が真っ直ぐぼくを見つめていて、その目はいつもの笑いがちっとも浮かんでいなくて、ぼくはちょっとだけ気まずくなって視線を外す。
「好きじゃないのは、確かかな」
小さくつぶやいたぼくの言葉の後、ほんの少しだけ間があった。少ししてから、カノンがうなずくのが、分かった。
「そっか」
その声がいつもと違っていて、ぼくはそれ以上何かを言うことが出来なかった。
サツキを背負って、空を見上げる。雨はもう、やんでいた。
「じゃあね、カノン」
「うん、ばいばい。気をつけてね」
そういった声は、いつも通りの元気な声だったから、ぼくはこっそり息をつく。
背中にサツキの重りを背負いながら、ぼくは歩き出した。
雨雲が切れた空に、誰かが半分食べたみたいな月が浮かんでいた。
○
その夜、少しだけいつもと島の様子が違った。
気の早い台風が、この島に上陸したんだ。
○
がたがたと窓ガラスが揺れている。外の風が強いせいだ。ついでに、この窓の立て付けが悪いせいでもあるかもしれないけれど。
「窓、ちゃんと閉めたかぇ?」
「閉めたよ」
おばあちゃんの声に、テレビを見ながらぼくは答えた。テレビの中では生真面目そうなお兄さんが、各地の天気を伝えている。うん。ニュースはやっぱり、久米さんに限る。
「今夜は降るで。さっきラジオで言うとったわ」
「こっちも同じこといってるよ。ねぇ、母さんたちは?」
「集会所じゃ。色々、手伝わんとなぁ」
ご苦労様なことだ。
「おかあさんたち、おてつだい?」
ぼくの隣で寝転んで絵本を読んでいたサツキが、顔を上げてくる。
「だってさ」
「へぇ。おかあさんたちもおてつだいするんだね」
「ま、大人は大人で大変ってことだよ」
子供は子供で、大変だけど。
「海のほうが大変なんじゃ。堤防、越えんとええがなぁ」
「越えたらやだよ」
水害はうれしくない。……ここの水害って、もしかして一緒に人魚が流れてきたりするのかなぁ……
それはなんだかすごく嫌だ。それはもう、いっそホラーだ。
まぁ、魚だし。おぼれはしないと思うんだけど。
「ねぇ、おばあちゃん。人魚って、台風でも大丈夫なのかな」
ぼくの言葉に、サツキがはっと顔をこわばらせた。
「そうさのぅ」
おばあちゃんが、ちょっとだけ困った顔で天井を見上げる。
「たまに、死体があがったりするの。人魚にも、人間にも、台風は怖いものなんじゃよ」
その言葉に、サツキが飛び上がった。
絵本を放り出し、一目散に玄関の方へと走っていく。
「こら、サツキ!」
ぼくはあわててサツキを後ろから引っつかんだ。
サツキはぼくの腕の中で、じたばたと両手足を動かしてわめく。
「だって、カノンちゃん! カノンちゃんたいへんだよ! おうちによぼうよ!」
ここに海水はない。人魚は呼べない。
いや、そうじゃない。そうじゃなくて。
「サツキ、大丈夫だよ。今出て行ったら、カノンより先にサツキが吹っ飛ばされるよ」
「でも、カノンちゃん」
「サツキ」
「いくの!」
サツキがぼくを思いっきり押した。人間の、ここぞというときの力は、時に思いがけないくらいになるらしい。ぼくは小さなサツキの力によろめいて、サツキはぼくの腕を突破した。そのまま、玄関の引き戸を思いっきり開けて――
その瞬間、ぶわっと風が一気になだれ込んできた。ひどい風雨だ。サツキが風におされてころんと転ぶ。ぼくはあわてて引き戸を閉めた。風がおさまって、ぼくとおばあちゃんはそろってため息をつく。
「サツキ、危ないことしたらいけん。お兄ちゃんかて、おばあちゃんかて、心配なんじゃで」
「そうだよ。大丈夫だよ、カノンなら。魚だし」
「さかなじゃないよ!」
ぼくの言葉に、びっくりするくらいの大声でサツキが怒鳴ってきた。
ぼくもおばあちゃんも、言いかけた言葉を忘れてサツキを見る。
サツキは小さい体で、両足を開いて立っていて、真っ直ぐこっちを見つめてきた。その目がなんだか、カノンとよく似ていた。
「さかなじゃないよ。カノンちゃんは、カノンちゃんだよ。カノンちゃんは人魚だけど、人魚じゃなくて、カノンちゃんなの。サツキは、カノンちゃんが好き。カノンちゃんは、おともだちだもん。おにいちゃんも、おばあちゃんも、サツキをしんぱいしてくれるんだったら、何でカノンちゃんはしんぱいしてくれないの?」
サツキの言葉は、目と同じで真っ直ぐに、ぼくとおばあちゃんに向かってくる。
「カノンちゃんとサツキの、何がちがうの?」
全部が、違う。
全部、違う。カノンは特殊な魚だし、おぼれるなんてことはないだろう。でも、サツキは泳げなくて、おぼれる。カノンはこの島にいるだけの、知り合いだし、別に友達ってわけじゃない。サツキはぼくの妹で家族だ。全部違う。全部全部、違うに決まっている。
だけど、分かった。
サツキが言っているのはたぶん、そういうことじゃない。そういうことじゃなくて、たぶんもっと単純なことだ。本当はすごく難しいはずの問題なのに、ぼくより小さなサツキは、あっさり答えが分かっているみたいな、気持ちの悪さ。それはぼくだけじゃなくて、おばあちゃんもそうだったみたいだ。二人して何も言えなくなったとき、台所でぴゅーっとやかんが悲鳴を上げた。おばあちゃんがあわてて台所に走っていく。それでも、ぼくとサツキは見つめあったまま、何も言えなかった。
『そっか』
ふいに、カノンの声を思い出した。
なんとなくさびしそうだった、あの声だ。それが、サツキの言葉に重なって、耳にじんじん痛かった。
サツキはまだ、真っ直ぐな目で、ぼくを見上げている。
「おにいちゃんも、いやだよね」
サツキの言葉に、どうしたらいいか分からなくなった。
人魚は好きじゃない。好きじゃないけれど、でも、ここ数日ずっと一緒に遊んでいたのは事実なんだ。
「大丈夫だよ、カノンなら。たぶん」
「わかんないよ!」
確かに、分からないけれど。
サツキが必死の目でぼくを見上げてきて――
ぼくは気が付いたら、こんなことを言っていた。
「分かった。じゃあぼくが、大丈夫かどうか見てくるから」
○
言うんじゃなかった。
おばあちゃんにバレないように家を出て約二十歩。たったそれだけでぼくはすでに後悔していた。
雨ガッパなんて役に立たない。何この雨。すごすぎる。
ふらふらしながら、何とか海の近くまでたどりつく。なんだかすごい音がした。いつものザザン、なんて波音はかけらもなくて、耳元ででっかいドラムでも鳴らされてるみたいなひどい音。
やばいくらい高い波が、堤防のはしでざんざん白いしぶきを上げている。
いやさ。やばくない、ぼく、ここにいることが。
波に流されるの、カノンより絶対早い。
「カノン、大丈夫かな……」
不安がすこしだけぷくっと胸にふくれて、ぼくは小さくつぶやいた。堤防のそばでつま先立ちしておそるおそる、下をのぞく。
……砂浜、ないし。水ばっかだし。
バシャン!
「わぷっ」
頭から水しぶきをかぶって、ぼくはあわてて後ろに下がる。海水が目にしみた。
「カノーン、大丈夫ー?」
やる気のない声を上げてみる。返事はないだろう。あったら大問題だ。
少し、耳をすませてみる。
「……ースケ……」
何かが、聞こえた。
心臓がびくんっとはねあがって、階段を一段飛ばしでかけ上がったときみたいに早まりだした。耳の奥で、どくどくどくと音がする。
今のは……声?
ぼくはあわててもう一度、下をのぞきこむ。ざっと左右を見渡して――
「カノン!」
悲鳴を上げていた。
人魚が、カノンが、岩かげにたおれていたんだ。
うそだろ……!
その時のぼくの頭の中には、自分がかなづちだって言う事実がすっぽりぬけ落ちていた。
われながら、バカだったと思う。どうしてそんなことをしたのか分からない。
でもその時、気付くとぼくはひどく荒れる海へと足を向けていたんだ。
砂浜に下りる階段で、波が押し寄せてきてよろめいた。それでもなんとか、ほとんど四つんばいになりながら、カノンの元へとたどり着く。
怖くないわけがなかった。泳げないという事実が、その頃になってやってきた。
それでも、そこにぐったりしているカノンを放っておくことも出来なくて。
ザンッ!
波が、ぼくとカノンを頭から飲み込む。
海へと引っ張られそうになる。ぼくは足を開いて、必死にカノンとぼく自身の体を引きとめた。
「カノン、カノン!」
腕の中のカノンに呼びかけても、なかなか返事がない。
「カノンッ!」
「ユー、スケ?」
うっすらと青色の目が開かれた。ぼんやりしていた目の色に、ゆっくりおどろきの色がさしていく。
「ユースケ、どうして」
「それはこっちのセリフ。何おぼれてるんだよ、魚のくせに」
「魚じゃなくて、人魚……」
のんびり話している場合じゃなかった。
その瞬間、ぼくとカノンは同時にいっしょくたに、真っ黒い海へと吸い込まれていったんだ。