夢を見ていた。
それはぼくがまだ小さいころの夢だ。今のサツキよりも小さいころ、小学校に入る前のぼくだった。
今と同じように、島はやっぱりスローペースで、魚くさい空気がいっぱい広がっていた。ぼくは南海岸で、カノンと一緒に遊んでいる。カノンの隣には、男の人魚もいた。まゆげが太くて濃いのがすごくインパクトがある。覚えている。サトル兄ちゃんだ。父さんの親友の、サトル兄ちゃん。母さんと父さんも一緒に、浜辺でシートを広げておにぎりをほおばっている。
ぼくは、楽しそうに笑っていた。
カノンより、サトル兄ちゃんより、母さんより父さんより、楽しそうに笑っていた。
サトル兄ちゃんが、ぼくの頭をなでる。
『ユースケは、いい子じゃなぁ。俺たちともちゃーんと仲良ぅしてくれるし』
『そりゃそうよ。なんてたって、私の息子だもん。ねぇ、ユースケ』
『あはっ、また出たよ。ナオコの親ばか!』
大人たちがころころ笑う。
ぼくは大人たちにかこまれて、笑いながら首をかしげる。
――なんで? だって、おともだちだもん。なかいいよ!
ぼくが笑っている。
ぼくが、言った。
カノンも、サトル兄ちゃんも、母さんも父さんも、うれしそうに目を細めている。
ぼくを順番になでている。
『ユースケ、いい子だな』
『ユースケ』
『ユースケ』
名前を呼ばれている。
人魚から、名前を呼ばれている。頭をなでられている。カノンたち人魚の手は、よく見ると指と指の間にうすい膜があって、水かきみたいにも見えて、ぼくら人間の手とはやっぱり違う。だけど、夢の中のぼくはそれを気にしていない。気持ち悪いとは、全然思わなかった。
ただ、なでられる事がうれしくて、笑っていた。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。サボテンのトゲにさわったみたいな小さな痛み。だけどそこから、ゆっくり花の匂いが広がるみたいに、やわらかくてあたたかいものが溶けてくる。そのやわらかくてあたたかいものの名前を、ぼくは知らない。知らないけれど、でも、きっとサツキはこれを、知っていたんだと思った。
――ユースケ
名前を呼ばれている。ぼくの名前だ。
ぼくの名前を、みんなが呼んでいた。
ぼくもたぶんこの花の匂いに似ているものを、小さい時は知っていた。夢の中のぼくは知っている。この島の潮風の中に、確かにそれを感じ取っていて、だからぼくは魚くさい島の匂いを嫌いになれなかったんだ。
頭が、じんっと重くなる。
急にまぶたの存在を思い出して、ぼくはそれをゆっくりあけた。夢の中の南海岸はうっすら白く溶けていって、ふいにぼくの視界の中を何かが入り込んだ。
「ユースケ?」
「カ、ノン……?」
声にならないかすれた音が、のどからもれる。ぼくをのぞきこんでくる、海と同じ青い瞳をした人魚。
そっか。ぼく人魚と一緒に、おぼれたんだっけ……
「大丈夫?」
「うん」
うなずいて、上半身を起こす。頭がずきずき、痛かった。
「ここ、どこ?」
「洞くつ……って言ったらいいのかな。南海岸から、ちょっとだけ離れた場所なんだけど、大きな岩場なの。そこがずーっと波でけずられて、こんな形になってるのよ。大丈夫、ちょっと複雑な形になってるから、海水はそんなに入ってこないよ」
言われてみると、確かにそんな感じの場所だった。立つには少し無理があるかもしれない高さ。せまくて、ぼくとカノンの二人でいっぱいいっぱいだ。暗さに目がなれていなかったら、何も見えないかもしれない。
「って、海水なくて、大丈夫なわけ?」
よく見ると、カノンのヒレにはいくつか傷が見えた。うろこが少しはがれかけていて、痛々しい。岩ですったか切ったかしたのかも知れない。
カノンはぼくの質問の意味に気付いたらしくて、その傷を手でそっと隠しながらうなずく。
「うん。少しくらいならヘイキ。体が乾かなきゃ、大丈夫だから」
「ふぅん。……カノンが、助けてくれたの?」
「え? うん。そうなる、のかな。なんか夢中でよく覚えてないの。私も必死だったし」
そりゃそうだ。あの時だって、ほとんど意識がぼんやりしていたんだ。それでよくぼくを助けてくれたものだとは思う。
「何で、たおれてたの? おぼれた?」
「おぼれたんじゃなくて。波に飲まれちゃってさ。岩に頭ぶつけちゃって気を失って」
「それって、おぼれたって言わない?」
「……な、七割くらい、言うかもしれない」
しどろもどろに声が小さくなるカノンに、ぼくははぁと大きく息をついた。
「人魚ってさ、家とかないの? こんなときどうしてるの?」
「あるには、あるけど」
いまいちはっきりしない言い方。
「人間とは、ちょっとちがうかも。でも、ふつうは家に帰ってれば大丈夫なの」
「じゃあどうして家にいなかったのさ。台風くるって、知ってた?」
「気付いてはいたんだけどさ……その……あのあと、ちょっと帰るのおそくなっちゃって」
あのあと。
ぼくとサツキがカノンと別れたときのことだろう。
「なんで?」
「ちょっと、いろいろ考えてた」
カノンの言葉に、ぼくの胸がぎゅっとなる。
それは、もしかしてぼくのせいなんだろうか。あの時ぼくが、人魚は好きじゃないって、カノンに言ったから?
「あ。ユースケのせいじゃないからね? 心配しないでね」
あわてたみたいにカノンが言う。魚のくせに、カンがいい。
でもあわてるってことは、その逆だ。ぼくのせいだって、ことなんだ。
「ただ、さ」
カノンが、また静かな声を出した。あのときの――『そっか』って言ったときと同じ、夕焼けの空によく似た声でつぶやく。
「さびしいじゃない? 兄弟に、好かれないとさ」
……兄弟?
「誰と、誰が」
「あんたと私」
あっさりとカノンは言ってのける。冗談じゃない。人魚と兄弟になんてなった覚えはない。
「ほら、なんだっけ。人間のことわざになかった? みんな兄弟、ってやつ」
ああ、そういうことか。
「人類みな兄弟?」
「あ、そう。それ!」
ぴっとカノンが指を向けてくる。ぼくはひょいっと肩をすくめてみせた。
「あれなら、ぼく否定派だから」
「え。なんで」
「あれ、アダムとイヴの説をとるなら、じゃないの? ぼくはそんな非科学的なこと信じないよ。現実主義者なの」
アダムとイヴが人間の一番最初としてとるなら、人類みな兄弟になるんだろうけれど、ぼくはそうは思わない。だいたい、のどぼとけの正体がリンゴのかけらって、どんな理屈だよ。ばかばかしい。
「ぼく、人間はサルから進化した説をプッシュする」
「サルじゃなくて、猿人類ね」
カノンがにやりと笑ってきた。なんとなくむかっとした。座りなおすと、カノンも壁に寄りかかる。
「どっちにしろその説とるなら、あちこちで猿人類はいたと思うし、人類みな兄弟にはならないと思ってるよ。――てか、人類だし。そもそも。カノン魚」
「人魚だってば」
「人魚でもさ。サルの時点で足あるじゃん。兄弟になるわけないし」
ぼくの言葉に、カノンはしばらくぼうっとしていた。青い目をぱちくりとまばたきして、やがて声を上げて笑い始めた。
「なに、失礼な」
ぼくのむすっとした声に、カノンはしばらく答えなかった。洞くつの中にカノンのきれいな声が響く。カノンはしばらく笑った後、ようやくにっこり笑みを向けてくる。
「あははは、ごめんごめん。だってさ、ユースケって物を知ってそうなのに案外何も知らないじゃん?」
かちん。
これでも学校の成績はいいほうだし、人魚にそんなこと言われたくない。
「どういう意味だよ」
「サルも魚も、兄弟なんだよ」
カノンが笑うのをやめた。すっと青い目を細めた大人びた顔で、腕をのばす。そして、洞くつの外を指差した。
荒れた海が、ある。
「おかーさんが、そこにいるじゃない」
○
カノンの言った意味が一瞬分からなかった。
カノンはそんなぼくの顔をのぞき込むと、暗い洞くつの中でもはっきり分かるくらいの笑顔で言った。
「学校で、習わなかった? 生物はみんな、海から生まれたんだって」
「……理科の時間に習ったよ」
「うん、そう。海ってね、全部のおかーさんなんだよ」
なるほど、ね。カノンの言っている意味が少しずつ分かってきた。洞くつの外、黒い海の姿がある。太陽が当たれば、それはカノンの目と同じ青い色に輝くんだ。それが、お母さんだって言う。カノンの言っている言葉の意味が、少しずつ、分かってくる。
それはすごく大げさで、大規模で、こんな洞くつの中で言うにはちょっと笑っちゃうくらいに不似合いだったけれど、でも、そういうのは……嫌いじゃない。
胸の中で何かがぽくんと音を立てた。夢で感じたあの『何か』の音のような気がした。
ぼくは小さく笑ってカノンに問いかける。
「じゃ、おとーさんは誰なのさ?」
「えっ?」
カノンが、びっくりしたみたいに声を上げた。カノンがあんまり素直におどろいたものだから、ぼくはちょっとだけ声を上げて笑っていた。
「ぼくは、太陽だと思うけどね」
「じゃあ地球はおばあちゃんかなぁ」
なんか、すごい。大げさで大規模が、本当にばかばかしいくらい大げさな話になっていく。それが、ぽくぽく音を立てて、花の匂いみたいに広がっていく。夢と、すごく似ていた。ちょっとだけ、楽しかった。
「じゃあ長男は……アメーバとか、そっち系?」
「そうなる、のかな」
カノンが真面目な顔で考え込む。それがあんまりに真剣な顔だったから、ぼくは思わず吹き出していた。こんなくだらないただの会話に真剣になる人魚が、なんだかすごくばかばかしくて、それでなんだか、楽しくて。
「だとしたら、ずいぶん怖いおかーさんだね。サツキもそうだし、ぼくもカノンも、こうしておぼれかけてるわけだしさ」
「うーん、おかーさんもさ、たまには怒るんじゃない? 今みたいに」
「台風?」
「そんな感じ。人間がさ――いや、人魚もだけど。海をたまに甘く見ちゃうでしょ。だから怒るんじゃないかな」
「そんなものなのかなぁ」
やけにグローバルな話だ。人類みな兄弟どころか、生物みな兄弟らしい。
「それ、みんなそう思ってるわけ?」
「うん。最近の学説」
どこのだ。
カノンがよく通る声で笑う。
「だからさ、あたしとユースケも。サツキも、ナオコも、みんなね。兄弟なんだよ。そう考えると楽しいじゃない? 海がおかーさんで、私たち生物はみんな海の子供で、億単位の……」
と、カノンは一度言葉を切って首を振った。にっこり笑って、続ける。
「ううん、それよりずっともっと多い、兄弟だよ」
「だから、人魚と人間も?」
「そう。兄弟。みんな、海の子供」
ザンッ……
波が白く、洞くつの入り口にはねた。
カノンが手ではいずって、外の様子を見に行く。
「あ。だいぶ落ち着いてきてるね。目に入ったみたい」
台風の目に入れば、一時的にだけど静かになる。
「今のうちに戻ろう。またひどくなっちゃたまんないからさ。ユースケ、送ってくよ」
カノンがパチャンと水に下半身をしずめた。器用に上半身を浮かべて、ぼくに手を差し伸べてくる。
「ほら、行こう、ユースケ」
ぼくは泳げない。
泳げないから、水が怖い。
だから海に入るのは怖い。怖かったけれど、でも――さっきの話を考えると、怖さはだいぶなくなっていた。
海はお母さん。たまには怒るけど、でもみんなのお母さんなんだ。
それに、ぼくたち人間とちがって、お母さんのそばに居続けることを選んだ人魚がそこにいるから……まぁ、なんとでもなる、はずだ。
ぼくは少しだけ、手をのばすのをためらった。だけど、カノンが笑いかけてきたから。
「うん」
ぼくはゆっくり、人魚の――
――兄弟の手をにぎり返した。
-海から生まれた子供たち-
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