■第二章:時代の歯車 3


「おひ……」
 さらり、と紡がれた涼やかな声ととんでもない言葉に、トスティナは思わず絶句した。二秒ほど固まってから、慌てて後退る。
「あああああのっ」
 姫を否定するべきか、それとも礼を言うのが先か。一瞬の混乱の後、トスティナは後者を選択した。ぺこりっ、と大きく頭を下げる。
「ありがとうございましたっ」
「いえいえ」
 くす、と笑われた。頬が熱くなる。顔を上げると、涼やかな笑みがそこにあった。とても美しく整った笑みだ。なるほど、と少し思う。この顔立ちなら、先ほどのとんでもなく芝居がかった恥ずかしい台詞もさらりと紡げるわけだろう。
「可愛いお姫様にお怪我がないのが何よりだね。大丈夫?」
「えっ、あ、けけけ、怪我はないですっ、けど」
「けど?」
「わ、わたしお姫様じゃないです!」
 見上げて、言い切る。美しい青年は、一瞬きょとんとした顔を見せてから、やがて大きな声で笑い始めた。
「えっ、えっ?」
「はは、いや。失礼。可愛いレディはみんなお姫様なんだよ」
 秘め事でも話すかのようにそっと人差し指を口元に立てて、彼は片目を瞑った。そういった仕草が、嫌味なく決まるあたりが不思議だった。
「は、はぁ」
「ところで、名前を伺っても?」
「あ。わたし、トスティナです。ティナって呼んでください」
「ティナか。朝露のように美しい響きの名前だね。君にぴったりだ」
「あ、はは……」
 どうも、トスティナの人生の中でこの手の言動をする人物にあったのは初めてなので、受け答えの言葉に苦慮してしまう。
「ティナは魔法使い、なのかな?」
「いえ、あの、見習いで……失敗しちゃって。あの……助かり、ました」
「ああ、いえいえ。気にしないで。僕も昔齧ろうとしたことがあってね。同じように助けて貰ったことがあるんだ。おあいこさ」
「あいこ?」
「人にしてもらった行為は別の人に返すのさ。そうして、その人がまた別の人に、とすることで行為は回っていく。僕の持論」
 単純でしょ、と微笑まれ、トスティナは微かに笑みを返した。そういった世の中は理想だろう。
 トスティナは青年をそっと見上げる。綺麗な顔立ちに、綺麗な身なり。歳は自分よりは上だが、ミズガルドよりは下だろうか。魔法、なんてものに頼らずとも、何かと生きていく術には事欠かなそうな雰囲気はあるが、何故魔法を齧ったのだろうか。
「魔法、お好きなんですか?」
「んー? どうだろ? 身近に使う人はいて、面白そうだなと思って齧ったんだ、昔。僕には合わなかったみたいだけど」
「はぁ。あ、あの。お名前は? どうしてここにいらっしゃったんですか?」
「ここにいたのは昼寝のためー。時々くるんだ、ここ。あと、僕の名前はね、ユウ」
「ユウさん?」
「ユウでいいよ、ティナ」
 にっこりと、柔らかく微笑まれ。思わず頬が熱くなる。その時、背後から聞きなれた声がした。
「――ティナ! 何事だ!」
「あ。先生……」
 振り返ると、白い森を背に、顔をしかめた師がこちらに向かってきているところだった。おそらくは、先ほどの失敗の音が師を起こしてしまったのだろうとトスティナは頭を下げた。
「ごめんなさい!」
 ぺこっと頭を下げてしばらく。小言でも降ってくるかと思ったのだが、それすらもなく、これはもしかして相当怒っているのだろうかと恐る恐る顔を上げる。
 そしてトスティナはぱちくりと目を瞬かせた。
 眼前の師は、何か恐ろしいものでも見たかのような顔で硬直していた。しかしその視線の先は、トスティナではない。
「……?」
 師の視線を追って後ろを向くと、青年――ユウがにこにこと微笑んでいる。視線を前に戻すと、苦い顔の師。二人をきょときょと見比べて、トスティナは恐る恐る、
「お知り合い、ですか?」
 と、問いかけた。
「そうだよ。とっても仲良し」
 答えたのはユウだ。が、その言葉に師の渋面は深くなる。気にした様子もなく、ユウはにこにこと続けた。
「お久しぶりだね、ミズガルド」
「……ご無沙汰しております」
「あっはは、相変わらずの無愛想だねー」
(こ、これは何か、その……こ、怖い気配……?)
 ひとりはとてもにこやかなのに、もうひとりの顔が厳しすぎるせいで、空気がぴりぴりと痛い。間に挟まれたトスティナは、曖昧に笑みを浮かべるしかできない。
 しかし、ユウの方はそういった空気に臆する気配もなかった。
「そうそう。ミズガルド。聞いた?」
「何をです」
 あっけらかんと言葉を紡ぐユウに、煩わしそうにミズガルドが答える。
「――もうすぐ。君の望んだ時代がきそうだよ」
 ふと。声音が変わったことにトスティナは気づいた。何かを値踏みするかのような、あるいは試すかのような、静かな中に潜む確かな感情を、声音は宿している。
「じゃあ、ね。ミズガルド。ティナもまたね」
 ふっと、声が和らいだ。先刻までと同じ無害そうな笑みを浮かべ、軽やかな足取りでユウが去っていく。その背中を見送り、ミズガルドがふっと息を吐いた。
「ティナ」
「あ。はい」
「怪我はないか」
「ないです。ユウさんが、助けてくださって」
「ユウ……か。まぁ、いい。無事なら。心配をかけるな」
 くしゃっと頭をなでられる。なぜかほっとして、トスティナはもう一度、問いかけた。
「先生。ユウさんとお知り合いなのですか?」
「……昔、な」
 それ以上答えず、ミズガルドは歩き出した。師の背中を追いかけながら、トスティナは考えていた。ユウが、ミズガルドに告げたあの言葉を。
(――先生が望んだ時代って、なんのことだろう?)



 冴えた月光は、冷たく部屋を突き刺す。
 彼は、余計な明かりを好まなかった。故にこの時間においても、部屋にはひとつのランプもなく、ただ月明かりだけを光源としている。
「それが解決だと、我が主は考えるか」
 小さく、彼は呟いた。声は薄闇の中で溶けて消える。目を閉じた。【国王の為の七人】と、人は彼を呼ぶ。だが、と皮肉に笑った。
 彼が忠誠を誓ったのは、前王だ。現国王ではない。
 前王の考えに、傾倒はした。しかし、現王はそれを、まるで否定するかのように動いてばかりいる。何が、【国王の為の七人】なのか。
 そっと、書き物机に置いた紙を爪先で弾いた。小さな文字で、市内で起きた些細な騒動について書かれている。同僚が関わった事件の顛末書だ。なんでもない、些細な事件。普段は一つの書類として処理されて終わりであろうそれを、彼はこうして手元に持ってきていた。
 それはとても些細な出来事だ。だが。
 大きな意味を持つ出来事でもあった。
「スレヴィの天災に働いて頂くか」