■第五章:人と民と 2


 ユークリッドの行動は早かった。側に控えていた男に何かの指示を出した。男が一礼をして去っていく。
「風の民の村はサセナ山脈の麓だな。今隊を組ませて向かう」
「アンタ、オイラたちの村の場所……」
「知っているに決まっているだろう。国のことだ」
「王、許可を」
 短く声をかけるミズガルドに、ユークリッドは頷く。ばさりと、正装の上着をミズガルドが放り出した。襟元を緩める。
「カーラは外に?」
「控えさせてあるよ。これから隊を率いさせようと思う。もう指示はいっただろうね」
「判りました。適任でしょう」
 端的な会話に、今までの不機嫌そうな様子は見えなかった。それどころか、今ここにいるミズガルドはあの不器用そうないつもの師ではない。いつもはどこか丸まっていそうな背が伸びていて、大きい。
 つい先程振り払ってしまったことすら、もうミズガルドは気にしていないようだった。
「ティナ。先に帰れ」
「え……」
「君は先に帰れといったんだ。それぐらいなら」
「い、いやです!」
 言葉を遮り、トスティナはミズガルドの腕を掴んでいた。その瞬間、きゅうと胃の奥が痛んだがなんとか振り払った。
「わたしも行きます。先生」
「馬鹿か。どこに行くんだと思っている。遊びじゃない」
「だからですっ」
 振り払おうとされた手を、それでも離さなかった。指先が震える。
 無茶苦茶を言っているとは理解していた。ついさっき、振り払った手で縋りついて、無茶を言うなんて傲慢だとも判っていた。
 それでも。トスティナはまっすぐにミズガルドを見上げた。
「わたしが行っても邪魔だと思います。判ってます。でも、行かなきゃいけない、です」
 ミズガルドの瞳が揺れた。
「先生」
 もう一度。思いをぶつける。
 ミズガルドが舌打ちをした。それからぐっと、肩を掴んでこちらを正面から見据えてきた。
「いいか。無茶はするな。君は未熟だ」
「はい」
「俺の側を離れるな。俺の言うことは必ず守れ。出来るな」
「はい、先生。必ず」
 ぱんっ、と手を叩く音に振り返る。ユークリッドがどことなくムスッとした表情をしていた。
「いいから早く行きなよ。悪いね。止めてきて欲しい。これは僕の失態だ」
「王」
「不穏因子を抑えきれなかった僕の失態だ。頼むよ、ミズガルド」
「――畏まりました」



 風の少年が浮き上がる。ここに来るまでに泣いていたのか、目元が赤く腫れていた。ミズガルドはその顔に少し目を細めた。それから、隣に立つ弟子の肩をそっと抱き寄せる。弟子の細い腕が、自らの身体にしがみついてくる。
 理の展開。一式。二式。三式――次々と重なっていく理想を、六式目でまとめ上げる。風が耳元で唸った。地面が離れる。景色は風で歪んでいた。その中でユークリッドの顔が見えた。
 幼い王子は、あの頃確かに懐いてくれていた。歳が近かったのが大きいだろう。聡明な王子ではあったが、少し怖いほどに物事を見ていた気がする。兄王子たちが亡くなった後、王も崩御されどうなるかと思われたが見事に上に立った。
 ミズガルドはすっと左胸に拳を当てた。もう随分と長い間やっていなかった敬礼だ。ユークリッドが少し驚いた顔をしたのが見えた。
 前王は、民を嫌っていた。憎んでいたといってもいいだろう。ある意味、仕方ないことだとも思っていた。戦は長く続いたし、それ以前から確執はあった。人は生きるために、森や川を開発せざるを得ない。けれどそれは、民たちの居場所を奪っていく。当然反発も大きかった。反発は、また反発を呼んだ。増えていく人口。減っていく民たち。人は技術がないと生きていけず、民は自然がないと生きていけない。不満はどちらからも漏れただろう。それはやがて、どこかで暴発する。戦とは結局そういったものだったのだろう。
 ただ。それでも。偽善だと判っていても、ミズガルドはどこかで願っていた。共存できる道はないのかと考えていた。それは、自分の中の正義が崩れたあの日からだ。
 風の少年が先導して空を滑り始める。トスティナを抱いたまま、ミズガルドはその姿を追った。景色が全て斜線になり流れていく。
 視線だけで、腕の中の少女を見下ろした。
 ――あの日。
 上からの命令で、戦犯ササロエルを匿っているとされる場所へ隊を率いて向かった。その頃はまだ、戦の本質なんて知らなかった。知ろうともしていなかった。ただ、生きていくために職業につき、仕事だからと全てを遂行しようとしていた。それが、自分に対する嘘だと知ったのはあの日だ。
 生きていた。そこにいた民は、生きていた。その村を焼き、たったひとりを見つけるために多くの民を死に追いやった。
 少女がいた。名前はもう、脳裏に刻み込まれている。シュシュリ。波打つ緑の髪を持つ少女だった。
 彼女との会話はとても短かった。なのにいつまでも、脳裏から消えない。
 初めて気がついた。自分の中にある醜い感情に。結局、憎んでいたのだろう――自分たちを孤児にした民という存在を。
 そのことに気づかないふりをしていた。それは、口に出して民を憎いと言っていた兄よりずっと醜かったに違いない。
 自分の中のその感情をどう昇華すればいいのか判らず、休戦が結ばれるのを見届けた後宮廷魔法師をやめた。
 数年、色々なところを回った。人の住むところ。民の住むところ。その中でアグロアにも出逢った。そして、風の噂に聞いた。スレヴィの村には天災が住んでいる。
 その村の場所と、噂とでなんとなくは理解した。地の民。もしかしたら、とは思っていた。だが、確かめるのが怖かった。
 あの子たちなら、恐らく自分を恨んでいる。
 事実、そうだろうと思う。もしかしたら恐れられているかもしれない。さっきも彼女は一瞬こちらの手を振り払った。
 それでも――と思う。今彼女は、自分の体に手を回してくれている。
 白と黄色のツートーンドレスは彼女の緑の髪がよく映える。翡翠の目は真っ直ぐ前を行く風の少年を見据えている。
(怖いはずだ。空を行くことも。それを支えているのが俺だということも)
 胸中で呟く。それでも、彼女は行くと言った。風の少年のためだろう。その思いを無駄に出来無い。その為にはまず、守り通すことが第一だった。少女を抱く腕に力がこもる。
(マイセル。憎んでも何も生まれないんだ)
 共に生まれ、共に育った兄の気持ちが判らないわけじゃない。けれど、それでは何も前へは進めない。
(――待ってろ)
 風になって、飛んでいく。



 風の民の村は、銀色の草原の中にあった。風の膜を通して見ても判る。死化が進んでいるのか大地を覆う草は白く、それらが日に照らされ、風に吹かれて銀色に見えた。その中にぽつりぽつりと、布と僅かな木材で作られたような簡素な家々がある。そしてそれらが、幾つか燃えていた。
 ――赤い、火。
 ぞわりと肌が粟立つ。
 たんっ、と軽やかな音を立ててアグロアが大地に降り立つ。その後ろを追って、ミズガルドに抱えられたままトスティナも降りた。師が口笛のような音を漏らすと、周りから風が消えた。視界が晴れる。その途端、焦げた匂いが鼻を突き刺した。足元がふらついた。ぐっと、隣から支えられる。
「――離れるな」
「はい」
 頷く。
「ミズガルド、ティナ、こっち!」
 アグロアが鼻をひくひくと動かしてもう一度飛び上がった。師の手を握ったまま追いかける。
(痛い。熱い。怖い)
 どっどっどと心臓が早鐘を鳴らす。似ていた。記憶の中にある恐怖感。あの夜と似ている。風に交じる匂いも、熱も、空気のざわめきも。どこかで誰かが泣く声がした。怒声も聞こえる。逃げ出したくて震える足を叱咤して、走りにくいドレスは片手で持ち上げて、トスティナはミズガルドについていく。
 少し走った所でミズガルドが足を止めた。アグロアも少し前で浮いて止まっていた。
 アグロアの前――燃える村の家々を背に、彼はいた。
 師とよく似た顔を持つ男。
 ――マイセル。
「来るだろうとは思っていたさ」
「王は和平を結ぶことを決意した。それは先日の【国王の為の】会議で伝えられたはずだ。マイセル」
「ああ、聞いたさ」
 手を握るミズガルドがわずかに震えていることに気づいた。どうして。問いかけは呑み込んで、トスティナはただきゅっと握る手に力を込める。
 自分がどうしたいのかなんて判らない。どうすべきかも判らない。地の民であること。ミズガルドの弟子であること。いろんなことが頭を過るが、今はただ、願いははっきりしていた。
(アグロア)
 人であるミズガルドとも仲良く、地の民である自分とも変わらず接してくれている。彼のあんな声は聞きたくない。彼に、あんな思いはさせたくない。その為の術は――どうしてだろうか、はっきりと理解していた――今、ミズガルドが握っている。
「それなのにこんな騒ぎか。風の村を襲って何になる」
「反乱だ。判るだろう?」
 ふっと、マイセルが鼻で笑った。襟元にある印章をもぎ取り、ミズガルドの足元に投げ捨てた。
「【国王の為の七人】? 私はあんな若造に忠誠を立てた覚えはない。和平など――前王が聞いたらどう思うか」
「もう聞くことはない。死人はな」
 ミズガルドが発した言葉に、マイセルの眼の色が変わる。
「なあ、ミズガルド。お前は忘れたわけじゃないだろう」
 不意に静かな声で呟くと、マイセルは一歩、こちらに歩を進めてきた。
「あの冬の日だ。俺たちの誕生日だった。母さんが作った料理を食べて寝床に入った。その夜中だったな。不意に大地が揺れた。無造作に街中の地面から木が生えた。建物は崩れ、悲鳴を上げた。橋もなにもかも崩れた。父さんと母さんは衝撃で川に落ちた。真冬だった。凍るほど冷たい水に流されて行ったな」
「やめろ」
「聞け!」
 叩きつけるようにマイセルが叫んだ。
「聞け。ミズガルド。風の民。地の民よ。いいか、地の民よ。これがお前らのやったことだ」
 怒りをたたえた黒い瞳が、視界いっぱいに広がるような錯覚に陥る。それでも――聞かずにはいられなかった。
「俺は逃げた。逃げる最中にミズガルドとは一度はぐれた。死んだと思ったよ。弟すら亡くしたとな。無我夢中で街を出るときに俺は見たんだ。街の外で手を繋ぎ、おぞましい目付きで睨んでいた地の民の集団をな。お前のその目と同じものでな」
 カチカチと歯が鳴る。音が耳障りで、トスティナはぐっと奥歯を噛んだ。込み上げてくる熱を無理やり嚥下する。
「判り合えるはずなどないんだ。民よ。――なあ、ミズガルド。その民につくのか? 俺よりも、その民たちを選ぶのか?」
「マイセル」
「それでも止めたいというなら――俺に魔法を使えばいい。民を守るために、人に狂気を向ければいいさ」
 言うなり、マイセルが身を翻した。強く大地を蹴り、飛び上がった。そのまま右手を一文字に薙ぐ――その瞬間、大地に炎の線が走った。
「やめろォ!」
「――水、風、大気!」
 凛とした声がした。瞬間的に、炎が消えた。ミズガルドだ。額に汗を浮かべている。
「ティナ」
「……は、はい」
「俺は確かに、地の民に家族を殺された」
「……せん……せ」
「だが、俺は君の家族を……殺した」
 搾り出すような声だ。何も言えずにトスティナはミズガルドをただ見つめた。
「俺は君がどうしたいのかも判らない未熟な師だ。君は俺を憎んでいい。でも、今、俺は君を守る。……君も、アグロアも、この村も。後でなら俺をどうしても構わない。だから、離れるな」