嗚呼――我が愛しのチチカカ湖……!
 そのたっぷりたゆたう水は空の色を鮮やかに映しこみ、トトラの草はゆるゆると風に揺れ、何よりも美しき我が故郷よ。
 遠き昔のあの時代から、今でもきっと変わらずに、美しく存在し続けているに違いない。
 嗚呼――なのに。なのにどうして。
 どうしてあたしはこんな、こんなペラい写真集を眺めるしかできないのか……! 嗚呼、あの水の匂いを、風の香りを、太陽の陽射しを、トトラのやわらかさをっ! 身体全部で受け止めたいというのにっ!
「なぜっ、あたしはあの場所にいないのーっ!」
「翡翠うるさい」
 思わず叫んだあたしの声に、ピシャリ、と冷たく友人が告げた。
「あんた図書室の本くしゃくしゃにしたあかんで」
「はっ」
 言われてはじめて、思わず本を持つ手に力が篭ってしまっていたことに気づく。図書室で借りた写真集だ。いそいそと皺を伸ばしながら顔を上げると、冷めた目をした女の子がひとり、こちらを見据えていた。
 ポニー・テイルのあたしとは対照的に、綺麗に丸くカットされたショート・ヘア。男の子並みに薄い体を包む夏のセーラー服。友人の沙羅は、いつもどおり冷ややかな目でマックシェイクのストローに口をつけていた。
 学校近くの大通りにあるマクドナルド。まぁ、寄り道には定番の場所だ。ちらりと周りを見回しても、うちの高校以外にも、いくつか制服姿が見える。銘々、ノートやテキストをひらげていたり、漫画やスマホを覗き込んでいたり。あたしははぁっと大きく息を吐いた。そのままべにょりと机に突っ伏して、放り出してあった手鏡を覗きこんでみる。不満気な顔をしたあたしが写っている。
 黄色い肌に黒い髪。無造作にシュシュで束ねただけのポニー・テイル。沙羅と同じ夏のセーラー服。黄色い肌に、黒い髪。顔立ちはどうあがいても日本人だ。うう。
「どうしてあたしは日本人なのようう」
 べんべんべんべんっ、と苛立ち紛れに机を叩くと、沙羅が迷惑そうに顔をしかめた。
「あのなぁ、中二病はそろそろ卒業したほうがいいと思うで、翡翠。うちらもう高一やで?」
「人を病人扱いしないでよ」
 失敬な。断固として抗議するため、あたしは姿勢を正した。
「いい? 何度も言ってるけどね」
「はいはいはいはい。前世の記憶ですねインカ人ですねハイハイ」
「言わせてよ!」
「聞き飽きたわ」
 そうは言ったって、この溢れだす熱情は止めようがないんだから仕方ないじゃないの。
 そう。沙羅にだけは言ってあるのだけれど、あたしには今のあたし、阿野翡翠としての記憶以外にもう一つの記憶がある。
 その時の名前は、イネス。
 神聖なる湖チチカカ湖。そこに浮かぶ、トトラという葦のような草で出来た浮島――ウロス島に住んでいたんだ。
 その国はタワンティン・スーユ。四つの州、という名のその国は、とても大きく発展した国だったんだ。タワンティン・スーユ――今で言う、インカ帝国。
「言うてもあんた、団子結びの紐みてきらきらしとるだけやん」
「キープって言ってよ!」
「知らんし」
 キープ。紐文字って言われるやつだ。タワンティン・スーユは文字を持たない文明だったけど、細い紐に様々な結び目をつけたものを連ねて、それを運ぶことで情報伝達をしていた。それがいわゆる文字の代わりだったんじゃないかって、今の時代じゃ言われている。
 沙羅は話に付き合ってはくれるけど、いつもこうだ。あたしが中一の頃、ここ京都に引っ越してきて初めて出来た友達で、実はそれなりに歴史に明るい。学校の授業で図書室で本を見てる時にインカ帝国の本の前で足を止めたあたしに、声をかけてくれたのが仲良くなるきっかけだった。
『何見てるん? インカ帝国? ほんまはタワンティン・スーユ言うんやっけか』
 もうその言葉にどれだけはしゃいだことか。そしてまぁ、なんといいますか、中学一年生らしく周りが見えていない時期ではありましたので、うっかり彼女に『本当のこと』を話してしまったんだ。
 ま、さすがに今はそんなバカはやらかさないけれども。
 でも言いたい。はっきり言いたい。コレは病気なんかじゃない。
 真実のことなんだ。
 目を閉じれば今でも鮮やかに思い出せる。手元にあるのはただの写真集だけど、あたしはあの場所の空気も陽射しも匂いも、全てを鮮明に思い出せるんだ。
「はぁ……愛しいわ。チチカカ湖……」
「いつまで中二病続けるん?」
「だから病気じゃ……!」
 いいかけて、はっとあたしは口を噤んだ。それからゆるゆると首を振る。
「そう……そうね。病気かもしれないわね。この愛しさ。懐かしさ。まだあの地はあるのに、辿りつけないもどかしさ……!」
「いやほんま、なんでうちあんたの友達やってんねやろ」
「沙羅は冷たすぎるわ」
「ふつーです。なんで下校途中のマクドでチチカカ湖やねん。ふつーは恋バナとかするやん?」
「恋? ハッ」
 唐突な単語に、あたしは思わず鼻で笑った。
 恋? それはあれですか。ラブですか。ラブってやつですか? だとしたら、答えはひとつ。
「バカげてるわ」
「はぁ」
 生返事をする沙羅に、あたしはピシっと指を突きつけた。
「いい、沙羅? あたしは首長の息子に嫁いだのよ」
 当然のように一夫多妻制ではあったけど! けど! 一番愛されていたのはあたし――ってかイネスだったんだから!
「首長よ? 首長の息子よ? 言ってしまえば次期王様!」
「言い過ぎ。村長レベルやろそれ。せめてほんまにインカの王様に見初められてたら良かったのに」
「庶民に何を求めてるのよ!?」
「うちはもうあんたと会話するのが疲れるっていうか……」
 あたしはがしっと指を組んだ。うっとりと、目を閉じる。そうすればほら、今もまぶたの裏にはあの空が見えるのよ。美しい、あの、深く澄んだ青い空が!
 その空を背景に、爽やかに笑う彼の姿を思い出す。浅黒い肌。太い眉毛。体つきはがっしりしていて、色鮮やかな衣装がよく似合っていた。
「彼は素敵だったわ。魚をとるのも上手だった! 力強い腕をしていたわ」
「漁師と結婚したいん?」
「それなのに、どうよ!? この現代日本男子の不甲斐なさ!」
「聞いてへんし」
 あたしは興奮に任せてもう一度ばんっと机を叩く。顔をしかめて、告げた。
「特に許せないのがアレよ、アレ。なんだっけ? く……」
「く?」
「草系?」
「草食系男子な。草系て、ポケモンちゃうねんから」
「こうかはばつぐんだ!」
「黙っとれ」
 ちぇー。沙羅はあたしの嘆きをちゃんとは判ってくれないんだ。
 今のあたしだって彼に嫁いだイネスと同じくらいの歳だもん。彼ぐらい素敵な人がいればラブだってそりゃしてみたいんですよーだ。
 でもいないじゃない、そんな人。
 彼より素敵な人なんて、もうこの日本にはいないんだ。今回の生ではきっと出逢えないんだから。



 目の前の男子は、やや緊張した面持ちで頬を蒸気させていた。
「やから、前からその、阿野さんのこと綺麗やなぁって……」
 放課後の校舎裏。中庭側とは逆のせいで、人気もほとんどない場所だ。そこに呼び出されてなんぞとおもいきや、唐突に告白劇らしきものが始まってしまった。さて。時々廊下ですれ違う顔、というくらいしか知らない少年だが、どうしろというのだ。
「良かったら、付き合わへん?」
 ……むか。
 へらっと笑った顔が気にくわなくて、あたしは冷ややかに口を開いた。
「――却下」
 すぱんっ! 答えると同時に鮮やかな音と衝撃が後頭部に走った。思わず前につんのめってから振り返る。
「何するのよ!」
「いやあんたもーちょい人の気持ちを考えようや……」
 立っていたのは案の定、悪友沙羅だ。今しがたあたしをひっぱたいたノートをぺしぺしと手で弄びながら、顔をしかめて立っている。
 少年(そういえば名前知らない)は目を白黒させて硬直してしまっていた。
「おかちゃんごめんなー。この子アホでさぁ、照れるとぶっきらぼうなんねんなぁ」
 ははは、と沙羅は愛想笑いを浮かべ、あたしの腕を無造作に掴んだ。そのままぐいっと引っ張って歩き出す。
「ほな、ごめんなおかちゃん。許したって。行くで翡翠」
「あ、ちょっと沙羅っ」
 沙羅に半ば引きずられる形で、あたしはその場を後にした。うーん。バイバイおかちゃんクン。
 ずるずると歩いて学校を出る。学校はこのあたりの住宅街の中にあって、すぐ細い道になる。年季の入った家が左右に並ぶ細い道を、ずるずる、引きずられながら歩いて行く。あー、沙羅、あたしの鞄まで持ってきてくれてたんだ。いいやつ。
 その視線に気づいたのか、肩にかけていたあたしの鞄をぐいっと押し付けてきた。足が止まる。十字路だ。
 あたしと沙羅の通学路はここで別れる。沙羅は高校入ってから家が引越ししたから、ここから横断歩道を渡って電車。あたしはバスのほうがラクなのですぐ傍のバス停に向かう。
 影が短く伸びる通学路で、沙羅は唇をつきだした。
「ほんまにもう、あんたは。そんだけモテんねから、いい加減やらかい振り方くらい覚ええや」
「めんどくさいもん」
「もー」
 呆れたように息を吐き、沙羅はあたしの腕から手を離した。自由になった手を腰に当て、さながらおかーさんの体で、
「ほな、ちゃんと帰るんやで!」
 と、言った。まぁ、いいけどさ。大通りへと消えて行く沙羅にひらひらと手を振ってから、あたしはふぅと息を吐いた。
「そりゃまぁ、悪いかなぁとは思うんだけどさ」
 口中でぼそっと呟いた。スカートからスマホを出して覗きこむ。バスまでもうちょっと時間があるし、別に遅くなったっていいし。
 うまく言えない。でもまぁ、少年のせいではあるんだろう。胸の真ん中のあたりがもやもや、すっきりしない。スマホをまたポケットに仕舞って、あたしはくるりと足の向き先を変えた。
 ちょっと歩きたかった。この先には、市内を流れる大きな川がある。川の畔は湿気が多くて嫌いだと沙羅は言うけど、あたしは好きだ。湿気はあるけど、風はその分少しひんやりしていて、水の匂いが優しい。
 細い通りを何度か曲がって、少し。不意に視界がひらける。川辺だ。大昔はここの川、処刑された罪人の首を洗ったりして血で染まってたとか何とか。それっていつぐらいの話なんだろ。あたしがイネスだった時代よりは後なのかな。
 川辺の柵にもたれかかって、見下ろした。流れる水は夏の空を映し込んでキラキラ、輝いている。
 目を閉じる。遠い遠い記憶の向こうにある、大好きな湖チチカカ湖。あそこの湖面ほどには、美しくはないけれど。
 最近よく夢を見る。あの頃の夢だ。だからだろう、たぶん。このもやもやした気持ちの正体を、本当は判っている。あたしはたぶん、そう。
「さみしいんだなぁ……」
「サミシイの?」
「うん」
 だってさ、阿野翡翠を知ってる人はいても、イネスを知ってる人はもうこの時代、この世界、この日本、ていうかあたしの周りにはいないんだもの。彼にだって会えないんだもの。それが寂しくないわけがない――って、ん?
 そこまでつらつらと考えてから、あたしはふと顔を上げた。
 なんか今、誰かしゃべりませんでしたっけ?
 顔を上げたあたしはその時ようやく、隣に知らない男子たちが立っているのに気づいた。白いシャツに緑チェックのネクタイ。下のズボンもうっすらチェック模様入り。このあたりでは見かけない制服だ。それが、えーと、三人? 話しかけてきたのはその中のひとりみたいだ。
「何用? つか、どなたさま?」
「俺ら? 修学旅行で来てるの。君地元の子?」
 ……あー。ナンパかぁ。
 ぶっちゃけこの手の声をかけられるのは珍しくもないし、そもそもこのあたりって修学旅行の自由行動によく使われるらしくって、ハメを外したバカども、というのも珍しくない。しかしまぁ、面倒くさいことには変わりない。
「邪魔なんですけど。どっか行ってくれません?」
「なーんでー? サミシイんっしょ? 俺らが遊んでやっからさぁ。なぁ?」
「だよなー」
 わーあ。ありがたみゼロ。
「結構……ッ」
 言いかけたセリフを遮るように、がしゃっ、と柵が鳴った。きゅっと心臓が縮まる感触。唇を結んで、睨み上げた。
 ちょっと状況がよろしくない。そんなことに今更気づいた自分を罵りたいくらいだった。この男子三人、なにげに結構背が高い。あたしは割と小さい方だ。これ、周りを囲まれている今のこの状況、端からだとあたしは見えないんじゃないか? それって結構、ヤバい気がする。
 なめられないように、視線に力を込めた。
「邪魔だって言ってるでしょ。どいて」
「サミシイ子はほっとけないんだよ?」
 言うなり、腕を握られた。ぞわっと二の腕に粟が立つ。そのままぐっと力を込められた。びりっとした痛みが走る。
「いっ……」
 痛いしうざいしヤバいし。胸の中がぐちゃぐちゃになって、顔が熱くなった。嫌だ。嫌だ。ここに、彼がいれば。絶対助けてくれたのに。
 ねえ――!
「――翡翠っ」
 胸中で彼の名前を叫ぼうとした時、あたしの――翡翠の名を呼ばれた。いつの間にか閉じていた目を開ける。ふいに緩んだ男子の手を振りほどいて、隙間をくぐって男子の間から抜けだした。こういう時は、小さい体で良かったって思える。開けた視界の先、立っていたのは――また、男子?
 背は、たぶん男子にしては小さい方。シンプルなシャツに襟のところに小さな校章の刺繍。うちの制服だ。
「なんや、こんな所におったの。お友達?」
 ――あんたも誰だ。
 全力で突っ込みたいところだけれど、今は諦めることにした。走りよって、隣に並ぶ。
 さすがにあたしからすれば、そこそこ見上げる程度には身長はあるようだ。温和そうな……人畜無害そうな顔立ちに、眼鏡をかけている。
 知らない……人だと思う。
「すいません。この子、なにか迷惑かけてしもたかな?」
 その人が、にこにこしながらバカ男子三人組に話しかける。ばつが悪くなったのか、たんに毒気を抜かれたのか。男子たちは「別に」と呟いてそのまま歩いて行ってしまった。だらしないぺたぺた歩きで遠ざかっていく背中に、思いっきり中指をおったてた。消えろ! 社会的に抹殺されて琵琶湖に沈んでブラックバスと仲良くなってろ!
「あんまりそういう事せんほうが……」
 控えめな声をかけられて、ようやく隣に誰かがいた事を思い出した。慌てて正面に回りこんでぺこりっと頭を下げる。
「どなたか存じませんが、お声をかけていただきありがとうございました! 助かりました!」
「あ、いえいえ。なんでもあらへんです。大丈夫ですか?」
「はい。知らない人間のためにありがとうございます」
「いやえーと」
 ぽりぽり、と頭をかいていた少年が曖昧に苦笑した。
「知らへん……かな。僕は知ってたんやけどな」
「はい?」
「すいません。下の名前で呼んで。そのほうが効果あるかなーと思て……」
「……おお。そういえば」
 下の名前で呼んでた気がする。でも、なんで知ってるのか。いやまぁ、確かに同じ学校の制服だけども。
 疑問がたぶん、顔に出たんだろう。少年はちょっとはにかみながら、笑った。
「阿野さん、目立ちはるから」
「んっと……」
「同学やよ。阿野さんは知らへんかもしらんけど、五組の四条です。四条一真」
 五組って二つ隣のクラスだ。まぁ、馴染みはないんだが、それにしては顔さえ知らないとは。よっぽど影薄いのかなー、この人。
「えーと、四条クン。お手間をお掛けしました。ありがとうございました!」
「いや、えと、まぁ、僕自身のためでもあったしね」
「と、いうと?」
「僕、ここで本読むのん好きで、よう読んでるんです。目の前であんな五月蝿い人らにおられてもかなわんしね」
 にこっと笑って、少年――四条クンは手にしていた本を掲げてみせた。あー。なるほど。影が薄そうな趣味――って、うん!?
 半ば反射だった。がしっと、あたしは四条一真の腕を掴んでいた。
「ちょ、え? 阿野さん?」
「……インカ」
 ぼそっと、呟いた。あろうことか! どういうことか! 四条が掲げた本は一冊の文庫本だった。タイトルにはこうある。――『インカ帝国史』。
「インカ、好き?」
「え? ああ、うん。ていうか僕歴史がすごい好きやって……」
 インカ帝国史。渋い。渋いじゃないか。シエサ・デ・レオンとか、普通男子高校生読まない! 渋い! いい!
 もしかして、と一縷の望みにかけて、あたしは震える唇を開いた。
「チチカカ湖……は?」
「好きやよ。綺麗やんね。ウロス島とか……空が写った青い湖と、黄色いトトラと。いつか行ってみたいなぁ」
 知って、いた――!
 あたしは湧き上がる興奮と感動を支えきれず、顔を手で覆って思わず膝からくずおれた。
「えっ、ええ!? 阿野さん!? どないしたん、大丈夫!?」
 大粒の涙がぽたぽたと、我知らず頬をこぼれ落ちていく。ああ。ああ――なんということだろう。彼は今、確かに言ったんだ。
 トトラ、と言ったんだ……! ウロス島と言ったんだ……!
 イネスの住んでたあの島の名を! あの島の素材である葦の名を! 彼はたしかに、声に出して言ってくれた!
 日本に生まれて十五年。他人から「トトラ」という単語を聞くことさえなかったのに……!
 ふるふる体が小さく震える。ダメだ。これはきっと、あたしの今生での寂しさを埋め合わすために、神さまがよこしてくれたチャンスに違いない!
「四条クン」
「あ、はい?」
 涙を拭い、あたしは四条一真を見上げた。告げる。
「あたしの話し相手になりましょう」

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