あたしの気晴らしに、四条は何も言わずに付き合ってくれた。我ながら「どっか連れてけ」ってのはまぁ無茶よね、とは思わなくもないんだけど、四条は全然気にしてないようだった。それどころかいつもどおり、何か食べたい? とか。何が見たい? とか。いろいろ聞き出してくれる。
 そしてその日、あたしたちが来たのはあの川辺だった。
 初めて逢った日の、あの、川辺。
「あー、気持ちいいー」
 ぐうっと腕を伸ばして息を吐く。空は青空と黒雲とが点在していてちょっと不思議な様相を見せている。どっちつかずだけど、それも悪くない。
「うん。やっぱここが良かったんやね」
「なんでここに連れてきたの、四条?」
 満足そうに頷くものだから、多少疑問が生まれた。四条は少しだけ困ったように笑ってから、傍のベンチに座る。
「なんか阿野さん、悩んでそうやったからなぁ。そういう時は、こういう自然っぽい場所がええかなって」
 ――悩んでそう?
 突然の言葉に、あたしは思わず瞬きをした。
「そんな風に見えた?」
「うん。なんかあったんよね? ほんまは近藤さんが良かったんちゃうかなぁて思うけど、僕誘ってくれはってちょっとほっとしとるんよ」
 ……えーい。この草系め。何でそんなほわほわしてるんだ。なのに何でそんなことをさらっと言えるんだ。そしてあたしは、四条にも沙羅にも見抜かれるとか、そんな判りやすい顔してるんだろうか。
 口中でもごもごうめいてみるが、四条は気にした様子もなかった。
「僕で良かったら話してみいひん? 嫌やったらええよ」
「……嫌じゃないけど」
 別に悩んでるわけじゃない。ただなんとなく、もやもやしているだけだ。あの日、四条と初めて逢った日と同じように、なんとなく胸の中がすっきりしないだけ。ただそれを上手く説明する自信はない。だけどまぁ、嫌、って訳でもないんだよなぁ。
 言うべきか言わざるべきか。しばらく空を睨んで考えこんでから、あたしは結局口を開いた。
「夢をね、見るんだ」
「ゆめ?」
「うん。ただの夢。良く見る夢なんだけどさ」
「それが悩み?」
 首を傾げる四条に、同じように首を傾げてしまう。
「悩み……ではないかなぁ」
「そう?」
「困ってないもん。ただなんか、気になるだけ」
 なんとなく手持ち無沙汰になって、そのあたりに落ちていた木の枝を拾った。川に投げ込む。
「どんな夢? って聞いてもええかな」
「そこまで気つかわなくていーよ。ちょっと鬱陶しい」
「ごめん。性分や」
 困ったように笑う四条の顔が、それでも嫌な気分にはならなかったので小さく笑い返してみせる。
「……湖の夢。夜と朝の間の時間に、熱そうな太陽が、湖の向こうから昇る夢。浮島から食い入る様にそれを見てて、風がすごく冷たいの。そういう夢」
 断片だけの言葉は、本質を伝えない。夢の意味。それを四条は汲み取れない。だってあたしがイネスだったことを知っているのは、沙羅だけだから。
「それって、チチカカ湖?」
「さあね」
 軽く肩をすくめてみせると、四条は子どもじみた笑顔で大きく頷いた。
「たぶんそうやんな。ええなぁ。僕もたまに見るよ、池田屋の階段から落ちる夢とか」
 それは縁起悪くないか。
「阿野さんはほんま、インカ好きやねんなぁ」
 ――好きだから、夢を見る、か。単純な理由だ。ただそれだけだったら、こんな複雑な気持ちにはならなかっただろうに。
 だけど何故だろう。言葉にしたからか、ほんの少しだけもやもやは軽くなっている。あたしはそっと、四条の隣に腰を下ろした。
「――四条はさ、なんで歴史が好きなの?」
 不意に口をついた問いかけに、四条はぱちくりと瞬きをした。心底、驚きました、というような顔をしている。
「……何?」
「あ、いや。ごめん。阿野さんが僕のこと聞いてきたの初めてやなぁと思って」
「そう?」
 困ったな、と四条が小さく呟く。
「いや、色々、聞いてはきてくれるんよ。キープについての考え方とか、コンキスタドールについての考えとか。でもほら、インカのことか、阿野さんのことか、近藤さんのことか、やん? 僕のことは聞かへんって思ってたから」
 言われて初めて気がついた。確かにそうかもしれない。そしてそれはたぶん、沙羅が言うところの「あんたは他人に興味なさすぎやねん」ってところなんだろう。
 ――まぁ、その自覚は多少ある。ある、けど。
「別に、四条に興味が無い訳じゃないよ」
「え」
「? 何?」
 なにかおかしな事でも言っただろうか。一瞬硬直した四条に首を傾げるが、四条は慌てて「何でもあらへんよ」と笑った。おかしな奴だ。
 それから、ふっと短く息を吐いて空を見上げた。眼鏡の奥の目をほんのり細めて。
「――バタフライ効果、って知ってる?」
「聞いたことはあるよ。アマゾンを舞う一匹の蝶の羽ばたきが、遠く離れたシカゴに大雨を降らせる、ってやつでしょ?」
「うん」
 四条がこくんと頷いた。ようは、どんな小さな出来事も重なりあって大きな事象を動かしているって考え方だったはず。
「僕、歴史ってようはそれの積み重ねや思うねんね」
「ピサロがインカを滅ぼしたから、今のペルーがある、みたいな?」
「それもまぁ、ひとつやろうけど、もっと微小な単位での話かなぁ」
 例えば、と四条は自分の鞄をポンっと叩いた。
「あの日、僕が本を読むのをここやなくてスタバとかにしてたら、たぶん阿野さんに僕は今も認識されてへんよね」
「……かなぁ」
 だって四条、ホントにしゃべらないと地味なんだよ。影が薄いんだよ。しゃべるとすっごい楽しいんだけど。
「それで、阿野さんと僕が知りおうた。もしかしたらそのことで何か変わるかもしれんやん?」
「かな」
「可能性の話な。でも僕らはたぶん、今んとこ、歴史に残る人物とはちゃうと思うねんね。でも僕らが知りおうたことによって、ちょっとしたことが何か変わって、何か変わって……って繋がっていくかもしらん。たぶんほんまの歴史って、英雄とか、革命家とかが作ったんちゃうくって、そういう普通の人たちが作ってきたもんやと思うんや。ピサロかて、そうやん? お母さんは確か、召使とかちゃうかったかな?」
「あ、それ知らない」
「あ。ほんま? うん。確か召使やったと思うんや。召使さんが生んだ人が、一つの大きな国を滅ぼす……って考えたらすごない?」
 すごい――んだろうか。どっちかというと、むかつく、っていう感情のほうが先に湧いてしまうのだけれど。
「僕はたぶん、歴史を知ることで僕が今ここでこうしてるのが、なんかすごいんやって、奇跡なんやって、知りたいんやろなぁ」
 ちょっとだけ照れたように、でも何故かほんの少し誇らしげに見える顔で四条が笑う。
 チクっと、胸の内側から何かが突き上げてくる。痛みともちょっとだけ違う、不思議な感情。そのチクチクに動かされるみたいに、あたしはそっと口を開いていた。
「つまり四条は、四条一真という人間が出来上がるまでにバタフライ効果が起きていた、と考えてるわけだ」
「そうなるね」
「あたしも? ――阿野翡翠もその流れに組み込まれているって考える?」
「そら勿論……」
「違うわ」
 気がつくと、あたしは四条の声を遮っていた。そしてその声は、自分でも驚くほど硬かった。硬くて、尖っていて、冷たい声。自分で自分の声を聞いて初めて判った。あたしなんか、イライラしてる。
「阿野さん?」
「バタフライ効果は、何かがどこかで必ず繋がっている。でもそうじゃないこともある。歴史の中で途切れたまま、どこかに置いてきぼりにされたまま、唐突に現代に放り出されることもあるもの」
 ぷちん、と軽い音が自分の中から聞こえる。糸が途切れたような音は、たぶん、気持ちの中の、何かだ。
「阿野さん、どないしたん?」
「阿野翡翠とイネスは繋がってない」
 思わず口をついて出た言葉を、けれどあたしは、今更引っ込めることなんて出来なかった。洪水のように、言葉が止まらない。
「イネス……?」
「私はいたの、たしかにあの場所にいた、でも、私と今のあたしは繋がってない。今のあたしの阿野翡翠のルーツには絶対イネスがいるのに、でも、繋がりなんかない。地球の反対側だもん。あるわけない。バタフライ効果なんて、結局ウソ哲学でしょ。だいたい何でこんなとこに……もう一度生まれなきゃいけなかったの。どうしてこんな感情持ってまで、日本で生きてかなきゃいけないの。繋がってないじゃない、そんなのぜんぜ――」
「阿野さん!」
 早口になりかけたあたしの声を、今度は四条が遮った。びっくりするくらい、大きな、はっきりとした声だった。
 真っ直ぐな、真っ直ぐな茶色い瞳があたしを見据えた。
「――イネスって、何のことや? なんでそんな、泣きそうな顔してるのん?」
 言わないほうがいい。そんな事判ってた。どうせ馬鹿にされる。嗤われる。そんなの知ってる。だけど。
 喉の奥がちりちりと痛んだ。痛んだまま、潰れたみたいな声が出る。
「イネスは……あたし。前の、あたし」
 四条が眉根を寄せる。絞りだすように、あたしは告げていた。
「阿野翡翠が、阿野翡翠になる前の名前。あたしはあそこに住んでたのよ。イネスって名前で、あの時代に、チチカカ湖に、住んでいたの。……生きていたのよ」
 沈黙が落ちる。耳が痛くなるほどの無音の空間。そんなもの、この時代この場所には存在なんてしないはずなのに、一瞬確かに沈黙があった。
 沈黙を割るように、ざっと風が吹き抜ける。周りの木々が鳴る音に紛れて、小さな声が聞こえた。
「……ごい」
「え?」
 いつの間にか落ちていた視線をあげると、四条が目前にいた。近い。
「え、な、なに……」
「すごい!」
 ――は、い?
 子供のような目でキラキラと叫ばれたので、あたしは一瞬硬直してしまう。
「ちょ……え……?」
「すごい、すごいな阿野さん! すごいな!」
 何故かあたしの両手を握った四条は、そのままぶんぶんと勢いよく上下に振っている。ぶんぶん両手を上下に振られている。訳が判らない。
「すごいなー! そっかぁ、そやからあんな詳しかったんやなぁ! あっ、さっきの夢もそぉか!? そっか、そっかぁ!」
「ちょちょ、ちょっと待ってよ!」
 慌てて叫んで、四条の手を振りほどいた。五十メートル走の後みたいに、心臓がドキドキしている。
 きゅっとセーラーの胸元を握る。落ち着け。
「まさか、信じるの?」
「えっ、ウソなん!?」
「ホントよ!」
 叫んで。
 すぐに四条が目をぱちくりと瞬いた。かぁっと顔が熱くなる。きょとんとしていた四条がふわっと破顔した。
「ほんまやったら信じてええやん。おかしなぁ、阿野さん」
「で、でも、そんな非科学的なって……」
「科学も大事やけどね」
 四条が軽く肩をすくめる。
「僕、歴史好きやん? そんで色々調べるうちに、どんどん僕が何も知らんことが判っていくんよ。そやからたぶん、科学も万能やないし、僕の知らんことなんかいっぱいある。阿野さんのえーと、過去? でええんかな? それがそうやったとしても、僕が否定はでけへんよ」
 人畜無害な草食系男子たる、煮え切らないふわふわした笑顔で、でも、四条は確かに笑ったんだ。
「僕は阿野さんを信じるよ」
 ほんの少し。どうしたらいいのか判らなくなって視線を彷徨わせて。
 それからあたしはくるっと彼に背を向けた。
「ごめん、帰る」
「え。阿野さん、ごめん。なんか気ぃ悪うしたかな」
「ち、違うの!」
 震える声で叫ぶ。
「うれ、嬉しかった、んだけど。なんかその、混乱してて。ごめん。帰る」
 ちょっとだけ勇気を出した。かちかちに固まった首を無理やり動かして、振り返った。
「あ……ありがとう!」
 投げつけるかのように言葉を叫んで、あたしはその場から走りだしていた。地面に足がついていないみたいに、ちょっとだけ不安定な感覚。鼓動が、内側から急げ急げとせかしているみたいに跳ねあげてくるから、どんどん走るスピードは速くなる。イネスのこと。チチカカ湖のこと。四条のこと。いろいろぐるぐる回りながら、でも、判っていた。
 逃げ出したいくらい、あたし、嬉しいんだ。

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