プロローグ:    


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 間に合わなかった。
 手にした封筒がくしゃりと音を立てて歪むほどに握り締め、彼はその場に座り込んだ。
「椿」
 背後から、名を呼ばれる。走って追いかけてきたらしく息が弾んでいる。振り返ることが出来なかった。「椿」 もう一度名を呼ばれる。それでも、体が動かない。ただ振り返るという行為すら、体が受け入れてくれなかった。
 何か言うべきだと思った。背後に立っている男が、こちらを心配してくれているのは判る。何か言ってやるべきだとは判っている。それなのに、声すらも出ない。喉の奥に張り付いて、言うべき言葉さえ見つからない。
 返事がないことが判ると、太蔵は何も言わなくなった。静かに後ろで立ち尽くしている。その気配だけが、伝わってくる。
 雨が降っている。
 三人でよく溜まり場にしてビールを呷っていた廃ビルは、薄汚れた窓ガラス越しに建物内に雨音を染み渡らせている。玄関口に座り込んで、今はその雨音に耳を揺らされるしか出来なかった。暫く、動けなかった。手も足も痺れた熱を持っていて、動かせなかった。それから、立ち上がる。血が上手く回っていなかったのか目の前が一瞬暗くなったが、無視して歩を進めた。外に出ると雨粒が全身を叩いた。丸い雫が頬を滑っていく。顔を上げて空を仰いだ。重たい灰色の空が、細い雨を降らせている。
 やみそうにない。
「太蔵」
 かすれた声が出た。すぐ後ろに立つ友人の気配を感じながら、椿は目を閉じた。雨が降り続いている。頬を滑り、顎を滴り、服に落ち、まだ、降り続いている。
「何で、やまない?」
 百合子は死んだのに。
 その言葉までを口にするだけの気力はなかった。それでも、太蔵は確かに判ったらしい。雨音の中、疲れた吐息が聞こえた。
「ただの、雨だ」
 その言葉が真実だった。もう、いない。これはただの、雨だ。
 息苦しかった。空気中の埃を巻き込んだ雨は、特有の匂いを含んでいる。息苦しいほど、きつい香りだった。
 雨はまだ、降り続いている。


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