第一章:  保健室のあやしい先生  


 戻る 目次 進む





 前田あやにとって、その場所に行くというのはすなわち敗北を意味していた。
「絶対、行かねぇ」
「あーやーちゃーんー」
 こちらの断言に、真向かいの机に腰を下ろしていた梨花が抗議のうめきを発する。梨花の肩口で揺れている二つ結びの髪も抗議を示しているように見えて、あやは漏れかけた舌打ちを飲み込んだ。
「だって見るからに顔色悪いんだよ? 青いって言うかもはや白いんだよ? 何でそんなに嫌がるの?」
「胡散臭い」
「なにが? あやちゃんが?」
「何であたしなんだよ。決まってんだろ。あの変態だっ」
 吐き捨てると、梨花の頬が風船よろしく膨れ上がっていく。それを見ながら、頭痛が酷くなっていくのを自覚した。教室内は休み時間でざわついている。普段なら気にもしないような誰かの笑い声が、脳に直接痛かった。ふっと息を吐いて机に突っ伏する。ひんやりとした机が気持ち良かった。
 めくったシャツから伸びる腕にも、同じようなひやりとした感覚が伝わってきて心地良い。いっそこのまま寝てしまおうかとあやはそっと瞼を下ろす。が、そうはさせじとばかりに頭をぱすぱす叩かれた。頭痛がする。
「梨ぃぃ花ぁぁ」
「痛いんでしょ?」
「判ってンならやるなっ!」
「痛いんだったら、行こうよー」
「人の話を聞けっ」
 怒鳴り声が、そのまま自らの頭に突き刺さってうめき声を上げることすら叶わずに再度机にキスをした。怒鳴ったって仕方がないことは、判っている。目の前で風船顔をしている梨花は、あやにとって幼なじみであり従姉妹同士でもある。ほぼ生まれたときから一緒だ。この全力マイペースな性格にいつも振り回されてきた。慣れないわけがない。それなのに毎度口争いに付き合ってしまうあたり、成長がないのは自分のほうなのかもしれない。
「あやちゃんって、バカだよね」
「梨花。お前ホントはあたしのこと嫌いだろ……」
「えー? 大好きだよ。チョー好き。サイコー好き。愛してる」
 ちゅう。と頬にキスをされ、あやはもう一度嘆息をついた。「やめれ」と引き剥がすと、梨花はいたずらを叱られた子どもみたいな仕草でぺろりと舌を出す。いつも通りの仕草の中で、目だけが笑っていないことにあやは気付いた。落ちてくる前髪をかきあげ、机に頬をつけたままで呻く。
「何だよ」
「熱、あるね」
「ちゅーして計るな」
「ね・つ・あ・る・ね」
 目が笑っていない。
 こういう顔をするときの梨花は始末に終えないのだ。同年齢だというのに、むしろ誕生日は梨花のほうが早いというのに、あやよりも俄然子どもじみた顔立ちと表情がこんな時は逆に怖い。あやがぎくりと背中に汗をかいた途端、がっしり首に手を回された。
 梨花が満面の笑みで告げる。
「強制連行♪」
「いいぃぃぃやあぁぁぁだぁぁぁぁ!」
 馬鹿力なのだ。半ば首を絞められてそれで逝ってしまいそうな状況ではあったが、あやは必死に机にかじりつく。が、その机ごとずるずると引きずられていく。教室内にいたほかの生徒が無表情に拍手しているのが腹立たしい。
「助けろよ!」
 引きずられながら怒鳴ると、すぐ傍にいた佳代とチイがにっこりと手をふってくる。
「ヤ。梨花ちゃん敵にまわしたら後が怖いし」
「同意。がんばれ、あやー。椿ちゃんが保健室で迎えてくれるさな」
「奴の名前をここで出すたぁ、チイは悪魔に魂売ったのかあ!」
「残念あや。売る魂はないなぁ。何せほら、あたしが悪魔だったりするからさ」
「死にくされえぇぇっ」
 ろくな友人がいやしない。
 梨花に引きずられながら、あやは内心だくだくと涙を流す。どいつもこいつも、こんなんばっかりだ。そもそも梨花のこの馬鹿力は絶対何かが間違っている。
 内心でどれだけ呟こうが、引きずっている梨花に届くわけもない。ずるずると引きずられ、時折机に頭をぶつけつつ、結局教室のドアの前にまで連れてこられた。たんこぶと頭痛のダブルパンチでうずくまっていると、ふいに頭上で声がした。
「何をやっとるか、お前らは」
「ありゃ。井伊ちゃん」
 拍子抜けしたような梨花の声に顔を上げる。ドアを開いた状態で、教師がこちらを見下ろしていた。
 ぼさぼさの黒髪に、青い作業服、むっつりと引き結んだ口もとはいつも通りだが、眼鏡の奥の目が呆れた色を灯していた。井伊太蔵。あやの属する二年一組の担任でもあり、本日二時間目の基礎メディア論の担当講師だ。
「んーと、強制連行中?」
「どこにだ」
「椿ちゃんとこー」
「ほう?」
 梨花の言葉に、太蔵が腰をかがめる。覗き込まれ、反射的に睨んでしまった。太蔵が相変わらずの無表情さでぴくりと眉を跳ねさせる。少々、罪悪感が胸に生まれた。別に喧嘩を売るつもりもないのだが、子どもの頃からどうしてもこういう態度をとってしまうのが、あやの癖だった。
「なるほど。おい前田妹」
 太蔵は梨花とあやを区別して呼ぶとき、あやを妹、梨花を姉と呼ぶ。姉妹ではないと何度か言ってみたが無駄だったので、もはやそれで許容してしまっている。
「なんっすか」
「顔が漂白されてるぞ」
「漂白言うな。あたしは洗濯物かっ」
「干すときは首でがモアベターだな」
「井伊ちゃんもあたしのこと嫌いだろ……」
 ぐったりと項垂れると、梨花のため息が聞こえて来る――「ほらぁ。暴れるからー」――誰のせいだと胸中でだけ毒づいた。チャイムが鳴って、太蔵が嘆息した。
「姉、連れて行くならとっとと連れて行って戻って来い。授業始まるぞ」
「いーやーだってばっ! 行きたくないっ、授業受ける!」
 がばりと起き上がると、太蔵が目を丸くする。立ち上がると、太蔵とあやの間に身長差はほとんどない。
「漂白顔で何を言うか」
「だからそれはもういいって。行きたくないんだってば。授業受ける」
「漂白されてるのにあやちゃん何言ってるのー!」
「黙れ」
 即座に切り捨てる。背中に頭突きをかまされたが気合で耐えた。太蔵を睨みながら訴える。
「井伊ちゃん〜」
「……お前は本当に甘えた声が似合わないな」
「殺すぞ」
「自分の手は汚さないようにしとけ。判った、別に強制連行したいわけじゃない。そんなに嫌なら黙って授業受けてろ」
 しっしっと手で払われて一瞬むっとしたが、あやとしては保健室に行かないですむというならそれにこした事はなかった。ふらりと机に戻って座る。梨花はというとまだ不服そうな顔をして太蔵に抗議の声を上げていた。
「井伊ちゃん、あやちゃんあんなだよー? 連れて行かなくていいのー?」
「あんなに嫌がってるのを無理やり連れて行ったところで、這いずって戻ってくるのがオチだろう。そんな二度手間かけたくない。面倒くさい。その辺に寝転がしておけ」
 教卓に教科書をのせながら、太蔵が肩越しに告げる。後ろで佳代が「さすが井伊先生。生徒の性格よく把握してるなぁ」と零していた。若干ムカつかないわけでもないが、自分でもそうするだろうなと思うとあやには何も言えなかった。寝転がしておけ、と言われたので素直に寝転がることにした。一応教科書を広げ、そのままその上に顔を乗せる。紙の感触が、気持ちいい。目を閉じると、雨音が内耳に届いてきた。さらさらと、細い雨が降っている。
 がたん、と派手な音が隣からした。薄目を開けると、不機嫌顔の梨花が座っている。目が合う寸前に、あやはもう一度瞼を閉ざした。心配してくれてるのは判っているし、ありがたいとも思う。ただ、行きたくないものは行きたくないのだ。そのあたりも同時に理解してくれればいいのに。
「あやちゃんのバカ。今行かなくたって、絶対後で行くことになるよ」
「不吉なこと言うな」
 拗ねた声で呟いてくる梨花に、まぶたを閉じたまま一言だけ返した。授業が始まる。太蔵の起伏の少ない声で説かれる講習は、しかし意外と頭に入ってきやすい。普段は、だ。今のあやにとってはちょうどいい子守唄状態だった。今日は寝てても、許してくれそうだ。
 梨花の視線が痛かったので、首を回して窓のほうを向いた。そっと目を開ける。窓ガラスに自分の顔が映っていた。前髪を作らないタイプのショートヘアは梨花と違って真っ黒だ。瞳も日本人らしいブラウンと言うよりは、ほぼ黒に近い。普段から目つきはきつめだが、今日はさらにきつく見えた。自分でそう思うのだから、他人から見ればもっと顕著なのだろう。梨花のように普段からきっちりメイクするわけでもないし、目が丸くて大きい可愛らしい顔立ちでもない。他人から貰う評価は大概にして「男前」か「カッコイイ」だ。別にそれを恨むわけでもないが、今のこの目つきの悪さはあや自身も居心地が悪く覚えるほどだった。もう一度、目を閉じる。
 雨音の中で、太蔵の声がした。耳を抜けていく言葉を少しだけ拾って、すぐに手放した。ノートは後で、梨花かチイに写させて貰えばいい。
 さらさらと、雨音がする。梅雨の最中だ。雨はここ暫く続いている。
 隣の梨花は、保健室に連れて行くことを諦めてくれたらしい。カリカリとシャーペンの音を小さく立てているだけで、こちらには何も言って来なかった。ほっと、安堵する。
 鬼門なのだ、あそこは。
 まず保健室自体が、好きじゃない。やけに白くて清潔なところも、消毒薬の匂いも好きにはなれない。だが、あやがあの場所を嫌悪する理由は、別にある。正確には、あの場所を嫌悪しているわけじゃない。あの場所に居座っているあいつを嫌悪している、それだけだ。
 そこまで考えて、あやはぐっと奥歯を噛んだ。何故自ら嫌いな奴の思考をしなければならないんだ。そうは思っても、一度浮かんだ顔はなかなかすぐには消えてくれなかった。
 強く奥歯を噛んでいるせいで、頭痛が酷くなる。どうせならその痛みに負けて思考も消えてくれれば良いのに、何故かそうはならなかった。
 いつも微笑んでいる顔を思い出す。
 長めに切った髪、口角の引き締まった口元に、切れ長の目。身長は高い。あやでさえ見上げるほどだ。ピアスにチョーカーと、教諭らしからぬ格好ではあるが、見た目はそれらも合わせてたぶん、カッコイイほうなのだろう。ただ、それらを踏まえてなお、違和感がある。
 一条椿。花川総合高等学校の養護教諭。性別は、男。
 苛立ちが募る。強く瞼を瞑ったまま、あやは胸中で呟いた。

 てるてる坊主の代わりに首でもくくって潔く死ね。


 戻る 目次 進む