第一章:  保健室のあやしい先生  


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 思い出すのは、去年の入学式。
 桜の花を見上げる、あの横顔。
 全てを拒絶するような、孤独を好む大人の目――



「まぁね、あやはバカだとは思ってた、というか知ってたさ。二年間同じクラスでしかも系列同じだと授業もほとんど同じで、うん、知ってたさ」
 目の前で水着姿のチイが腕を組みながら呟いている。チイの視線から逃れるようにあやはそっぽを向くが、しかし視線は容赦なくあやを刺した。
 総合学科というシステムを用いているこの学校では、授業は選択科目と一般教科に分けられる。七つある系列のうち好きな系列の授業を選択し、一般教科と合わせて時間割を組み立てていくのだ。よって生徒一人一人の時間割はそれぞれ違う。
 選択した授業が同じであれば、他のクラスの生徒と一緒に授業を受ける。一般教科はクラスメイトと教室で受けるのが通常だ。自然クラスメイトより同系列の生徒と関わることも多くなる。チイのように同じクラス、同じ系列だと、ほぼずっと一緒の授業だ。逆に梨花や佳代はクラスが違うため、系列授業の時のみ一緒で、今みたいな体育の時間だと傍にはいない。
 口うるさい奴がいなくてほっとする――とは思ったのだが、チイのこれのせいで、あやの安堵も霧散した。腕を組んだチイが、断言する。
「知ってたけど、あんた、バカだよね」
「うーるーせー」
 水着姿のまま、あやはタオルを抱えて低く呻いた。同じクラスのユキも視線を投げてくる。
「その真っ白顔のまま水着着る意味が判んない。なんで休まないのー?」
「見学の後のプリントが嫌なんだよ」
 体育の授業を見学すると、補修プリントを書かされるのだが、あやはそれが苦手だった。一、そもそも長い文章を書くのが嫌い。二、提出先が、体育教官室と保健室。
「だからって唇紫に染めて水着を着るあんたは、天井知らずのバカだ」
「チイ、梨花みたいだ」
「やめろ。あんな子どもと一緒にするな」
「梨花一応同い年だけどな」
「見えんわ」
 断言にユキがしみじみ頷いている。しかしユキも小柄で可愛らしいタイプなので、あやたちにすれば似たり寄ったりなのだが、本人は自覚がないらしい。体育教師の集合のホイッスルに、チイがため息をついた。プールサイドの隅に集まりながら、チイがあやのほうを向く。
「溺れないでよ。梨花がすーげ心配してたからね」
「努力する」
 そう答えたものの、あやはあまり自信がなかった。熱を持った体は寒さに震えていて、とてもじゃないが泳げそうもない。
 朝からの雨は授業の直前にやんで、それでも灰色の雲が重く垂れ込めているせいで水温は上がりきっていない。正直あやは水泳の授業が好きだった記憶はない。真夏の炎天下に水に潜ることは好きだが、こんな肌寒い日にまで水に浸ることを強要されるのは嫌いだった。別に水泳に限らず、何かを強要されること自体、あやの肌には合わない。この学校を選んだのも、総合学科という『自分で授業を決める』という自主性を重んじている制度が肌に合ったからだ。実際生徒の自主性を重んじるという点ではかなり自由度の高い学校で、あや自身この学校を気に入っている。たった一つ、保健室以外は。
 プールの反対側で男子生徒が派手な水飛沫をあげてバタフライをやっている。真夏なら飛沫は陽射しに煌くのだろうが、今日の気候じゃそうもいかずただ寒々しいだけだ。ぼんやり見ているうちに前の女子が泳ぎ終わって、自分の番になった。嘆息を飲み込み、ふらつく体を気力で持ち上げ水の中に体を浸す。冷たいくせにどことなくぬるい水が、まとわりついてくるようで気持ち悪かった。
 ホイッスルが鳴る。
 顔を水に浸して、強く壁を蹴った。体が水を割って進んで行く。
 世界が揺れていた。
 僅かな陽射しに揺れる水格子。隣の女子が上げた水飛沫に、プールの波。揺れるコースロープ。何も考えないままクロールの腕を振り上げていると、ふっと意識の中に一枚、花びらが落ちてくる。
 ――さくら……?
 世界と同じように揺れて、淡い紅色の花びらが視界に飛び込んでくる。
 水中で、あやは思い出す。あの日はそう、入学式だというのに雨が降っていて、梨花が朝から文句をたれていたっけ――
 今は着なれた制服が、まだくすぐったかったあの日。入学式の前、講堂に行く前に通りかかった中庭は桜が満開で、けれど雨に晒されて花びらを無残に散らしていた。あの日――
 はじめて、あの男の横顔を見た。
 強く引き結ばれた口元に、睨みつけるように桜を見上げる、あの目を――あの目を。
 あやはどうしても、信用する気になれなかった。
 世界は雨に揺れていて、桜も同じように揺れながら散っていたのに、あの男の目だけは揺るがない何かを閉じ込めていた。世界はこの水と同じように揺れていてそれから――
 ふっと、意識が遠くなる。揺れているのは記憶の中の花びらか、水の中の世界か、それともあや自身の頭の中なのか理解出来なくなった。押し寄せる悪寒に、意識を奪われる。クロールのため伸ばした手が、力なく幻の桜に触れかけて――
「あやっ!?」
 水でくぐもったチイの叫び声を遠くに聞いて、あやはそのまま意識を手放した。



 大失態だ。
 目覚めて一番に頭に浮かんだのはその一言だった。
 白い天井。白いシーツ。空気までもが色を失ったように白い。その中で漂う甘い花の匂いと、薬品のかすかな刺激臭。それらを全て知覚した後、あやは漏れかけた嘆息を押し殺してベッドの上で寝返りを打った。
 誰かに言われなくても判る。ここは、保健室だ。
 花川総合高等学校の中で唯一にして最大の鬼門!
「……最悪だ……」
 我知らず、うめきが喉から漏れた。ひんやりとした枕に顔を押し付けて、何とか現状を把握しようと頭を働かせる。泳いでる最中に気分不快が最大値までいって、そのまま意識を手放して、きっとたぶん溺れて、で、保健室だ。考えられるのはそれだけだ。そしてそれで充分だった。実際、シーツで見えないが、どうやら水着のままらしい。ベッドの下にはタオルを敷かれている様で、タオル地の感触もある。想像は事実とイコールである証拠といえる。けれど、そんな証拠は要らなかった。最悪だ。ここに来たくないがために、無理して体育を受けたというのに、結果ここにいるのでは最悪を通り越して、確かにバカだ。バカ中のバカ。キング・オブ・バカだ。
「あー。バカだー……」
「おはよう。目、覚めた?」
 あやが再度苦々しく呟いた途端、ベッド脇のカーテンが勢いよく引かれた。瞬間、あやの顔がほとんど恐怖か何かに引きつったように歪んだ。シーツをぐっと引き寄せて胸元で握る。
 ベッド脇に立って、カーテンを開いた姿勢のままに立つ男。パンクスとでも言うべきか、妙にちゃらちゃらした服装に白衣を羽織っているあたり違和感があるが、二年間いやいやでも見ることがあれば慣れてきた。長身で、肩幅もあって、それなのに顔立ちはどちらかというと繊細だ。目鼻立ちのはっきりした顔立ちに、口角の持ち上がった唇。切れ長の目は優しげな色をしている――あの日と同じ目とは、信じられないほどに。
「出やがったな。一条椿……っ」
 殺気に近い何かをかもし出しながら、あやは低くうめいた。が、当の椿は唇の端に笑みを浮かべたまま肩を竦めるだけだ。
「やぁねぇ、そんな敵を見たみたいな顔しないで頂戴よぅ」
 椿がよく通る低い声でその台詞を吐いた途端、あやの腕にぞわっと鳥肌が立っていく。まだ青ざめた顔のままのあやが、ほとんど懇親の力で叫ぶ。
「黙れ、気持ち悪いっ、口を開くなこのオカマッ!」
「あらひどい。アタシはちゃんとストレートよ?」
「その口調で吐けた台詞か貴様ぁっ」
「こぉら、あやちゃん。保健室では静かにね?」
「……っ」
 もはや腕だけではなく全身に鳥肌を立てながら、あやは怒りと不快で体を振るわせた。あやが一条椿を毛嫌いする理由はいくつもあるが、その中のひとつが「あの日」の関連で、もうひとつにして最大なのが、これだ。
「ほぉんと、無茶するんだから困っちゃうわねぇ」
 一条椿。花川総合高等学校の養護教諭。性別は男。
 口調は何故か、オネェ言葉。
 あやはこの男のこの口調が、鳥肌が立つほど嫌いだった。
 シーツを強く握り締めたまま、あやは椿を睨みつける。が、椿は軽く肩を竦めるとひょいと何かを放り投げてきた。シーツの上にぽとんと落ちたものは体温計だ。
「どこまで記憶あるか判らないけど、貴女プールで溺れかけたのよ? コースロープにつかまって真っ青な顔して浮いたのぉって、松本先生が貴女運んできたの。覚えてる?」
「……泳ぎ始めたところまでは、覚えてる。コースロープがどうとか松もっちゃんがどうとかは知らない」
「じゃ、その辺無意識だったってこと? あきれた。よく無事だったわねぇ」
 腕を組んだ姿勢で大きなため息をつかれ、あやは気まずさに顔をしかめた。それから脳裏に体育教官である松本教師を思い浮かべ、ゆっくりと首を傾げた。
「運んだの、松もっちゃんなんだ……」
「そぉよぉ。お姫様抱っこ。女の人が女の子を、ってだけでもびっくりなのに、何せあの小さい松本先生が、自分より大きい貴女をだものね。火事場の馬鹿力ってすごいわー。見たときびっくりしちゃったわよ」
 くすくすと笑う椿に、確かに見物だったかもしれない、と考えた。考えたところではっとした。こんな世間話を、このオカマと話したいわけがない。
「黙れ。ただの屍のように黙りつくせ変態」
「ただの屍になりかけたのは貴女だけどね。松本先生も、呼んでくれればアタシ行ったのに」
「お前にそんなことされたら舌噛み切ってその場で死んでやるわぼけぇっ!」
「元気ねぇ。ま、それだけ叫べれば大丈夫かしらね。熱、計りなさい。気分はどうなの?」
「最悪だ」
「それは機嫌でしょう」
 ぴしゃりと切り捨てられたが、実際気分も最悪だった。不快な塊が胸の中、それもほとんど喉元近くで渦を巻いているような感覚がある。少ない唾液を飲み込むことで不快感を何とか嚥下させた。
「ちなみに、今はまだ三時間目よ。もう少ししたらチイちゃんたち着替えて来るんじゃないかしら、松本先生と。着替えも持って来てくれるみたいよ」
「うーわー……すげーやだ。チイ殴ってきそう……」
「心配かけたんだから素直に殴られなさい。ほら、熱計りなさい。終わったら呼んで頂戴ね」
 言うなり、椿はカーテンを引いて姿を消した。結局、向こうのペースに飲まれている。引かれたカーテンの白さにいっと歯をむいてから、あやはぺたりと枕に背をもたせかけた。
 体温計を脇に挟んでため息をついた。ため息は白さに吸収されるようで、自身の耳にも届かない。よく見ると、体温を逃さないためか毛布が幾枚もかけてある。傍らにはバスタオルと、コップに入った水。さすがに用意周到だ。
 体温計がピピっと無機質な電子音を奏でた。デジタル表示は37.6。平熱が五度台のあやにしたら、高熱といっていいほどだ。気持ちの悪さも納得のいく体温だ。
「計れたー?」
 カーテンの向こうから声をかけられ、我知らず眉間にしわを寄せながら低く答える。
「七度六分」
「うーん、結構高いわね。平熱は?」
「五度八分」
「高熱ってカンジね。開けるわよ」
 ことわりと同時にまたカーテンが開かれる。睨みつけるが、全く効果はなかった。椿は平然とした顔で腕を組んでいる。
「どうする? 早退する? と言うかしたほうがいい気がするわね」
「……ない」
「え?」
 小声で呟くと、聞こえなかったらしい椿が聞き返してきた。恥ずかしさに俯きながら、やや声のボリュームをあげる。
「帰る自信、ない」
「……あらぁ。おうち、遠かったんだっけ?」
「一時間半かかる。電車三本乗り継ぎ」
「おうちの方はお仕事?」
 頷くと同時に、保健室の扉が開かれた。見ると、子犬さながらにおろおろした様子の松本教師と、荷物を抱えたチイとユキがいた。チイと目が合うと、にっこりと微笑まれ――次の瞬間、チイの手があやの首にかけられてた。


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