第一章:  保健室のあやしい先生  


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「こぉのぉバァカァがぁ。んー? んー? 心配かけるんじゃないってーのー!」
「っ……ギ、ギブ、チイ、ぎぶっ」
「ぎゃーっ、チイチイ、あやちゃんマジ落ちるってばっ、こらっ」
 がっくがっく揺さぶられてふらふらし始めたあやを救おうと、ユキが手を伸ばす。騒がしい生徒たちをよそ目に、松本教師は気が抜けたようにソファに座り込んでいた。
「わーん、椿ちゃんびっくりしましたよう」
「はいはい、もう大丈夫よー。とりあえず貴女も落ち着いてねー」
 大人同士が間の抜けた会話をしている間に、何とかチイの首絞めの刑から逃れる。と、チイから制服を渡された。
「制服。着替えたら?」
「あー、うん」
「ああそれから、梨花に連絡しといたよ、メールで」
 チイの言葉に、ユキが「あたしがやっといたー」と手を上げる。それを聞いて、あやは思わず顔を引きつらせた。
「梨花に言っちゃったのかよっ」
「言うた。まぁ、諦めて死ねやぁ」
 チイが首絞めの刑を軽く終わらせてくれたのは、この後の梨花が残っているから、らしい。授業中だが、携帯をバイブにしてある梨花はきっちりとメールを読んでくれたことだろう。梨花にばれたらチイ以上に面倒なのは違えようのない事実だ。たぶん、チャイムがなって休憩時間に入ると同時にここに飛び込んでくる。
「うーわーぁー。最悪。最悪」
「最悪なのはいいけど、着替えないの?」
 チイに指摘され、あやはとりあえずうめくのをやめた。水着のままだとやはり寒い。着替えたいのは確かだ。確かだが――
「ん、ああ、着替えるの?」
 あやの視線に気づいたのか、椿が微笑んだ。そのまますたすたとドアの前まで進んでいく。
「大丈夫、外に出るわよ。男がいるところで着替えろなんて言わないわよぅ」
「あ? 椿ちゃんハートは乙女でしょ?」
 チイの一言に、椿ががごんとドアに頭をぶつける。それと同時、全く見事なタイミングでチャイムが鳴った。ウェストミンスターの鐘の音の合間に、椿がうめく。
「……椿ちゃん、立派に男の子……」
「少なくとも子は無理があるでしょ、年齢的に」
「チイちゃんって面白い子ねぇ」
 うふふ、とふらつきながら椿がドアを開ける。なるほど、ああ対処すればいいのか――とチイの言動を観察していたあやの前で、今度は椿が吹っ飛んだ。
「椿ちゃん!?」
 ユキが悲鳴を上げる。が、その悲鳴に、あやのほうが悲鳴を上げたくなった。ベッドの中で思わず後退する――が、する間もなくがしっと肩をつかまれた。
 たった今、椿を吹き飛ばして保健室に入ってきた梨花に、だ。
「あーやーちゃーんー?」
「ぎゃーっ、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!?」
 どんどろどろどろどろ……とでも音を立てそうな形相の梨花に、あやは今度こそ確実に悲鳴を上げていた。怖かった。怖すぎた。松本教師はソファに座ったままぽかんとしていたが、二人のやりあいに慣れてるユキとチイはそそくさと椿を保健室から放り出し、バスタオルとドライヤーを引っ張り出してくる。
「はっやいねー、梨花ちゃん。チャイムとほぼ同時だったよね」
「だって、ユキちゃんがあんなメール送ってくるから梨花びっくりしたのー!」
「待て。なんて送ったのユキ」
「ちょっとお茶目に。あやちゃんが死ぬかもーっ、って顔文字つきで。ダンナとか佳代っちとかにも送っといたからそのうちお見舞い来ると思うよー」
「余計なことをするなっ!」
「はい、どうでもいいからとっとと着替える」
 チイに言われ、梨花が拗ねた顔のままベッドから離れた。あやはほっと息をつくとカーテンを閉めて、着替えを始めた。白いカーテンの向こうでは、梨花がまだぐちぐちと文句をたれている。相当心配をかけたのは確かなようだ。一部誇張しすぎなユキのメールのせいもあるだろうが、そうでなくとも心配はかけている。制服に着替え終わってぬれた水着をビニールに放り込んでから水泳バッグに納める。すべてが終わってからカーテンを開けると、梨花がいつもの風船顔で睨みつけてきた。
「終わった?」
「終わりました」
「言うことは?」
「……心配かけてごめんなさい」
「よろしい」
 フンッ、と拗ねたまま梨花がうなずく。と、今度は強く抱きしめられた。
「梨花ぁ」
「あやちゃんのばかぁ。心配した、心配した、すっごいびっくりしたんだからね、梨花っ」
「わーかったって。ごめん」
 抱きついてくる梨花をぽんぽんと宥める。チイがボソッと呟いた。
「ラブラブだなお前ら」
「ラブラブ言うな」
「そうだよチイ。今に始まったことじゃないじゃん」
「ユキも黙っとれ」
 そのうち、椿も保健室に入ってきた。ほかにもクラスメイトやら同系列の友人たちも一緒に、だ。どうもユキは片っ端からメールを送ったらしい。一気に騒がしさが増した保健室に、さすがに頭痛がした。ベッドに引き返し、脇に置いてあった水を飲もうと手を伸ばすと、背後から椿が問いかけてきた。
「どうする、あやちゃん? 確か梨花ちゃんとおうち近いのよね。一緒に帰るの?」
「ん。梨花と帰る」
「じゃあそれまで、休んどきなさいね」
「授業出る」
 断言すると一瞬にして保健室の空気が凍った。次の瞬間方々から罵声が浴びせかけられる。
「ばっかじゃないのあや! 一度死にかけててまだ言うか!」
「うわ、前田ってこんなバカだったんだ」
「あーやーちゃーんー!?」
「今度こそホント死ぬかもよ、あやちゃん」
「っだあ、うるさいっ!」
 ガシャン!
 叫ぶと同時に、手を伸ばしかけていたコップが割れた。あやは思わずはっと息を呑む。こぼれた水は、ぱたぱたと音を立ててリノリウムの床に落ちる。
「あらやだ。落としちゃった?」
 ひょい、と椿が顔を覗かせた。その手には箒と塵取りが握られている。あやをどけて手際よく掃除を始めながら、椿が首を傾げた。
「あらあら、粉々ねぇ。怪我はない?」
「え。あ……うん」
「なら良かったわ。ちょっと端に置きすぎちゃったのかしらね、ごめんなさい」
 微笑む椿の顔を見れなくて、あやは目をそらした。違う、今のは自分の――
 そっと梨花の手が腕に触れた。囁かれる。
「あやちゃん、大丈夫?」
「梨花」
「気にしちゃ駄目だよ」
「判ってる」
 わずかに顎を引いて頷いた。やり取りは多分、背後にいる皆には聞かれていないはずだ。心臓がどくどくと早打っていた。
「ほら、もうチャイム鳴るわよ。授業行くなら、行きなさいな。みんなもよ」
 椿の一言に、集まっていた面子がばらばらと廊下に出て行った。拍子抜けしたあやは、ぽかんとした表情を隠すこともできないまま椿に問う。
「……いいのか?」
「良くはないけど、その様子じゃ貴女、抜け出しそうだからね。ホント、嫌われちゃって悲しいわぁ。さて、四時間目、授業は?」
「……地理」
「そ。なら体育と違って大丈夫かしらね。やばくなったらすぐに来るのよ。チイちゃん、見といてあげてね」
「あーい」
 梨花たちと一緒に保健室を出る間際、あやはそっと保健室を振り返った。椿の定位置であろう机の脇には、花瓶に活けられた百合が置いてある。目覚めた時に感じた甘い香りの正体はこれだったらしい。視線を上げると、椿と目が合った。微笑まれて、視線をはずした。
 保健室を出た後も、甘い香りが鼻腔に残っていて、割れたガラスの破片が胸の奥で刺さったままのようだった。



 幸いにして、今日の地理の授業はビデオ鑑賞だったので、あやはノートを取る労力も使うことなくただただ机に突っ伏していた。先にチイが説明してくれていたせいか、教師も別段注意をしてくることもなかったので助かった。
 体の中で不快感が渦を巻いている。自覚する度、割れたガラスの残像がまぶたに蘇った。
 ただの風邪なら良かった。だけど、違う。この不快感は、風邪じゃないらしい。
 昔から時々あるアレだ。梨花もそれを心配しているのだろう。授業の合間に送られてきたメールを机の下でこっそりと確認する。『大丈夫?』顔文字つきの一言に、小さく苦笑が漏れた。さっきから、三回、ほとんど同じ文面のメールが送られてきている。梨花は心配性だ。長文を打つのは苦手なのでただ一言『平気』と返す。机は離れているが、ユキやチイの視線も感じた。時折顔を上げて、平気だと示すように手を振る。そうこうするうちに、時間はゆっくり過ぎていく。
 また、あの養護教諭を思い出した。割れたコップを見て、すぐに片したあの男に、言いようのない違和感が募る。あの日のあの目と、今の穏やかな眼差しは似ても似つかない。全てを拒絶するようなあんな目をしていた男が、今の椿とは結びつかない。その事が、違和感を際立たせる。
 にせものだと、感じる。
 へらへらと笑っていたり、チイにやり込められたりしているあの男には、なんとなく、ガラス一枚隔てたような感覚があった。それはあやだけが感じているものなのかもしれない。それでも、違和感をぬぐえない。あの口調も、にせものめいていて、ただでさえ嫌いなのにさらに気持ち悪い。――だと、言うのに。
「なんで考えてんだよ……」
 口中でだけ呟いて、ごつ、と机に額を打ち付ける。考えたところでどうしようもないことばかりぐるぐると頭を駆け巡るのは、良くない癖だと知っていた。結局それはストレスになるだけだ。それは、判っている。
 ふいに、不快感が増した。
 胸の奥から突き上げるように、こみ上げてくる。やばい。ぐっと強く奥歯を噛んだ。脳が直接揺れていた。
「前田?」
 教師の声が聞こえた。けれど答えられない。不快感が異物の塊のようにこみ上げてくる。
 ばさっ、と音がした。教科書が落ちていた。世界が揺れる。比喩でもなんでもなく――揺れ始めていた。黒板消しが落ちて、誰かのペンケースが落ちる。がたがた、と机や椅子が揺れる音がした。
 地震――というには、何か違うような気もしたが、それが何かは判らなかった。
 がたっ、と窓が鳴る。電灯が悲鳴のような甲高い音を立てた。弾けるような音を立てて、何かが割れた。酷くなる。そう思った。携帯電話を強く握ったまま悲鳴を押し殺す。まぶたを強く瞑る。
 そして――

 ふ……っと、音もなく揺れが止まった。
 驚くほど唐突な収まり方に、あやは一瞬理解が及ばなかった。
 瞬きを、二度、三度してから、地震――としか言いようのない何か――がおさまったことを認識した。大きな地震だった。いや、正確には大きくなる予感のする地震だった。この程度で済んでよかったのかもしれない。
 ほっと息を吐いて顔を上げる。チイやユキの姿を見ようと思って顔をめぐらせ、そこであやは息を呑んだ。
「え?」
 間の抜けた呟きが、空気に溶ける。
「チイ? ……ユキ?」
 呟きはビデオの音と一緒に、教室の空虚に溶ける。誰も反応しない。誰も答えない。
 否、正確には、答えるべき誰かが、そこにいない。
 誰も、いなかった。
 教室はただがらんと空虚だけを横たえていて、床に散らばった教科書やシャープペンシルが拾い主に見捨てられたまま転がっている。
 それだけだった。ただ、それだけしかなかった。
 チイもユキも、ほかのクラスメイトや教師でさえも、誰もいなかった。
「……なに、これ……」
 窓から吹き込んできた湿った風が、呟きもかき消していった。
 誰もいない教室に一人突っ立ったまま、あやは何も出来なかった。
 ただ呆然と、置き去りにされた迷い子のように佇むしか出来なかった。


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