第三章 :  絶対孤独主義  


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「どこから話したほうがいい?」
 頭を拭き、ソファに座りなおした太蔵が訊いてくる。
 梨花と顔を見合わせて、あやは一瞬口ごもった。一番訊きたい事、を考えて口を開く。
「チイたちは、どこに消えたんだ?」
 梨花が小さく息を呑んだのが聞こえた。一瞬、まぶたを下ろしてすぐに開けた。チイたちがどうにかなった、ということはないと信じている。あるとしたらさすがに椿も太蔵も、こんなに落ち着いてはいないだろう。だから、信じてはいる。けれど不安なのは確かだった。それはきっとあやだけではなく、隣で座っている梨花もそうだったのだろう。
「チイもユキも佳代もダンナも、松もっちゃんも、皆いない。何処に行ったんだ? 無事、だよな」
「消えてない。木戸も大嶋も田辺も柳も、松本先生も、皆普通にいる。無事だ」
 こっちのあげた友人のあだ名を丁寧に苗字で復唱して、太蔵が微かに笑んだ。
「誰も消えてない。消えたのは、どちらかといえば俺たちだ」
「それってどういう……」
 こちらの疑問の声に、太蔵が口を開く。が、開いて少しだけ固まった。何だ、と見守ると、そのままソファから立ち上がりながら低く呟いた。
「場所を変えるか」
「は?」
「どこでもいいが、教室に入ろう。保健室以外がいい」
「なんで」
 あまりに唐突な太蔵の言動に呆然とする。が、太蔵は無造作に言い切った。
「黒板がないと説明しづらい」
「授業かよ」
「似たようなもんだ。それに」
 有無を言わさず保健室を出て行こうとする太蔵の背中が、少しだけ揺れた気がした。
「保健室は、百合の匂いが纏わりついてくる」
 椿が、そっと立ち上がるのが判った。
 結局太蔵に従って、あやたちはぞろぞろと保健室を後にした。出る直前、椿はまた花瓶に水を入れて百合を飾り直していたが、その行動が何故か痛ましくて見ていられなかった。
 どこにするかで悩むのはバカらしかったので、結局あやの使い慣れた教室――二年一組の教室へと足を向けた。あやは自分の机に、梨花はその隣へと腰を下ろして、椿は少し離れた場所に座る。太蔵はと言うと普段どおり教卓の前に進んで、やっぱり普段どおりチョークを手にした。
 まるきり授業の体勢だな、と小さく苦笑が浮かぶ。しかし、あまりに異質すぎる授業だ。
「俺たちが消えた、というところだったな」
「うん」
「ここから先は、推論と推測になるが。多分、空間がずらされたんだろう」
「……は?」
 あやは思わず間の抜けた声を上げていた。あまりに日常からかけ離れすぎている単語だ。むろん、現状自体が日常とかけ離れているのだが、それにしても非日常的過ぎる台詞だった。
 太蔵もそれを感じたのだろう。少しだけ視線を彷徨わせてから、小さく息を吐く。
「量子論って、お前ら習ってたか?」
「知らん」
「だろうな」
 ただでさえ、一般教科が少なく、選択科目が異常に多い総合学科制度の学校なのだ。二年の必修ではなかった数学や科学は、あやも梨花もそもそも授業選択に入れていない。
「アインシュタインの相対性理論は?」
「なんかホントに授業っぽいな……名前くらいは、さすがに聞いたことはあるけど」
「姉は?」
「SF小説とかで読んだことはあるよ。あんまり詳しくは知らないけど」
 梨花の答えに、太蔵は一つ頷く。
「別に、詳しく知れってわけじゃない。俺も専門じゃないしな。ようは量子論ってのは、マクロな事柄を扱う相対性理論の逆に位置する物理学で、ミクロな世界の事柄を扱う物理学なんだが」
「うーわ。マジ聞きたくないかも。それ、何か関係あるのかよ」
 思わずうなだれて机に突っ伏す。数学も物理も科学も苦手だった。
「いいから聞け。量子論もいくつかに分けられるんだが、量子力学の一つにエヴェレットの多世界解釈ってのがある」
「あ。タイムライン? マイケル・クライトン?」
 梨花がポツリと呟く。が、あやは全く判らない。
「なに、それ」
「SF小説。ちょっと前に映画化されたよ?」
「知らんし」
「意外と本読むんだな、姉は」
 太蔵が感心したように呟いていた。梨花の部屋の惨状――具体的には溢れかえる本棚の惨状を知っているあやは、何を言う気も起きなくてただ黙る。ちらりと椿に視線をやってみたが、彼は静かな目で雨が糸引く窓の外を見つめているだけだった。
 太蔵がかつっと音を立てながら、黒板に文字を書き始める。エヴェレットの多世界解釈。
「量子論で有名なのはやっぱりシュレディンガーの猫だな。一般的にはコペンハーゲン解釈が支持されているが、今回はエヴェレットの多世界解釈を説明する」
「日本語喋れ。宇宙語話すな」
 ざくっと言い切ると、太蔵のチョークを持つ手が止まる。それまで黙っていた椿が、小さくうめいた。
「太蔵ちゃん、貴方、授業下手ね……」
「仕方ないだろうが。俺の専門は写真と映像と社会なんだ」
 さっき殴り殴られあったばかりだというのに、二人ともそんなことは忘れたように会話していた。しばらくは痣になるであろう太蔵の頬が、実際にあった事柄をただ留めているだけで、二人の会話にはそんな過去が存在してはいないようだった。少しだけ感心して、少しだけ嫌悪した。あやなら、ケンカしてすぐに何事もなかったかのように話すなんて出来やしない。出来るようになったら、大人になったと言えるのかも知れないが、だったら子どものままでもいい気がした。自分にまで嘘を吐きたくない。
「あやちゃんと梨花ちゃんは、シュレディンガーの猫って、知ってる?」
「梨花は知ってる。あやちゃんは知らないと思う」
「おうよ。知らねぇよ。文句あっか」
 一人置いてきぼりにされた気分でうめくと、椿が苦笑した。
「習ってないこと知らなくても、当たり前よ。気にすることじゃないわ」
 そう告げる椿の口調は、いつもの口調で、太蔵を殴りつけたときの面影すら失せている。
 ――やめろ、太蔵。
 ああ告げた男は、本当にいったい誰なのかと、違和感が膨れ上がる。
 太蔵がくしゃりと頭をかいて、黒板に絵を描き始める。四角い箱と、その中に何か装置らしいものと、そばには石のような何か。
 それから――
「……井伊ちゃん、その猫は」
「さっき姉に押し付けられたストラップの白猫だが」
「見れば判るけど、そしてめちゃ上手いけど、いや、なんでそれなんだ」
「猫だからだ」
 きっぱり言い切ると、太蔵は絵の中にもうひとつ描き加える。装置のそばに、瓶のような絵。それから、最初に描いた石をこつっと示した。
「この石は放射性物質を少量含む鉱石だとする。で、この鉱石が原子核の崩壊を起こして放射線を放出した場合、装置が放射線を感知して作動する。この瓶には毒ガスが発生する液体が入っているものとする。装置が作動した場合、瓶が割れる仕組みになっていて、毒ガスが発生する。ここまではいいか?」
「……いいか、って。割れたら、その」
「この芸達者な白猫は死ぬな」
「うっわ。すーげシュール……って、絵を描くな絵を!」
 白猫に天使の羽と輪っかを描き始めた太蔵を慌てて止める。可愛いのは可愛いが、シュールすぎる。羽の生えた白猫と、ノーマルな白猫を二つ描き終えた太蔵が首を傾げる。
「判りやすいと思うんだが」
「……まぁいいや。続ければ?」
「そうさせてもらう。ようは、この鉱石が原子核の崩壊を起こせば猫は死ぬ。そうでなければ猫は生き残る。でも全ては箱の中だから、ふたを開けて見なければ判らん」
「ったりめぇじゃねぇか」
「だが開けないと判らん。ふたを開けない状態で、猫は生きているか死んでいるか、判るか?」
 判るわけがない。当たり前すぎる事象に顔をしかめると、太蔵はひとつだけ頷いた。
「まぁ、そういう顔もしたくなるだろうな。判るわけがない。だからこの白猫は、生きていて死んでいる状態になる」
「……生きている『か』死んでいる状態、だろ?」
「生きて『いて』死んでいる状態、だ。これを状態の共存というんだが、そもそもこの考えは電子が複数の場所に同時に存在できるという前提があってな」
「で、電子?」
「二重スリット実験というのがあってな。スリットの――」
「ちょっ、ちょっと待てっ」
「太蔵ちゃん、貴方本当に授業下手……」
 混乱し始めたあやを見かねたのか、椿が息を吐いた。吐かれた太蔵はむすっとしている。
「だから教えるのは専門じゃないと言っているだろう。ならお前がやれ」
「アタシは教師じゃなくて教諭なの。……まぁ、貴方に任せてたらいつまでたっても終わらないでしょうから、とりあえず代わるわ」
 椿が立ち上がって太蔵と入れ替わる。太蔵が座ったのを見てから椿がチョークを手に取った。変な状態だな、と改めて思いながら、あやは少し椿を睨んだ。困った顔で笑ってくる。取り繕った、大人の目だ。
「ごめんなさいね。ちょっとだけ聞いて頂戴。ようはこの猫さんが生きているか死んでいるかは、ふたを開けて観測を行ったときに決定される、って言うの。どっちかは、そのときまで判らない。たとえば梨花ちゃんがふたを開けました」
「開けましたー?」
「猫さん、どっち?」
「死んでます」
 そっち選ぶんだ。とあやは隣で頭を抱えた。
「そう。じゃあこれをAとしましょ。梨花ちゃんがふたを開けたら猫さんは死んでました、と。でもあやちゃんが開けたとき、猫さんは生きているかもしれないわけよね」
「まぁ、どっちもありうるが」
「そう、どっちもありうるの。生きていた結果をBとしましょ」
 箱の絵をぐるっと大きく丸で囲み、そこから二本線を書くとそれぞれの先にA・Bと椿は記した。
「猫はA・Bどっちの状態かは判らないわけね。だけどふたを開けたとき、事象は決定する。まぁ、ふたを開ける前に決定はしてるって考えが正論なんだけど、これはさっき太蔵ちゃんが漏らした電子における状態の共存に関わってくるから、省くわね。ややこしいでしょ。だからとりあえず、ふたを開けたときに事象が決定する、って考えて」
「考えた」
「ありがとう。じゃ、梨花ちゃんが開けた場合。A……つまり猫は死んでいたとする。じゃあ、生きてる猫は?」
「いるわけねぇだろが」
「そう。いるわけがないの。これが、コペンハーゲン解釈ね」
 教室にチョークの音が静かに響く。扱いなれていないのだろう、チョークで書かれた椿の文字はやや歪んでいたが、読めなくはない。
「観測された結果がAの場合、Bの事象はなかったことになる。観測を行ったときに、生きていたかもしれないという結果は、なくなるわけね。Bは消失する。これが、コペンハーゲン解釈って言うの」
「……はぁ」
 当たり前すぎる椿の説明に、生返事しか出てこない。だが、あやのそんな様子を特に気にするそぶりもなく椿は続けた。
「でも、Bだった結果もありうるわけね。Bの結果が消失しないと仮定する。これがエヴェレットの多世界解釈になるの」
「は?」
「猫が死んでいる世界Aと、猫が生きている世界Bに世界が分岐する、っていう考え方なのよ。難しく言えば電子がマクロに痕跡を残した時点で世界が分岐する、とかそういうことになるんだけど、ようはアタシたちは常々、どちらかの世界を選択して生きているということ。選択されなかった世界も存在するという考え。世界がどんどん無数の平行世界に分岐していくって考えるわけ」
「世界って」
「大げさでしょ? でも、そういう考えが実際あるのよ。ただ、分岐した世界同士は距離的には離れていないのだけれど、互いに干渉することはない。今の状況は、そういうことね。空間……世界の任意の一部分をずらされて、AとBに分かれてる。Aはチイちゃんたちがいる『通常の世界』。でもアタシたちは今、通常なら選ぶことがなかったであろうBの世界にいる、ってわけ」
 そう言われて――
 何がどうなったのか、全てを理解出来たわけがない。あやは半ば呆然としたまま天井を見上げてみる。普段見上げている教室の天井と変わりない。これが、Bの世界。通常なら選ばれなかったはずの場所。コペンなんとか解釈とかなら、消えているはずの場所。
 ふいに、隣で手が挙がった。梨花だ。
「はい、梨花ちゃん。なぁに?」
「さっき。井伊ちゃんは『空間がずらされたんだろう』って言ったんだけど」
「ええ」
「ずれたんじゃなくてずらされた、ってことは人の意思がそこに入ってるって事だよね」
 思わずあやは机の上に置いていた手を握り締めた。椿が小さく息を呑んだ。
「ええ、そうね。……さて、バトンタッチしましょうか。太蔵ちゃん?」
「ああ」
 太蔵が立ち上がり、また教卓の前に立つ。椿は下がって、窓際に寄りかかった。どうも、説明的なことは椿より太蔵が担当したほうがいい、と言うのがこの二人の考えらしい。
 太蔵がこちらを見据えたのを逃さず、あやは質問を投げた。
「そんなバカなこと、ありうるのか?」
「何だ?」
「その、空間とか世界とかをずらすとかって」
「不可能だと思うか?」
 太蔵の目が暗く光り、あやは二の句を続けられなくなった。思わず視線を逸らした途端、太蔵の声が耳に滑り込んでくる。
「だが実際、お前はガラスを割っただろう」
 反射的に――
 がたんと派手な音をさせて、あやは椅子を蹴って立ち上がっていた。また、血の気が引いていくのが判る。ただし今度は恐怖と言うよりは、不安だ。
「お前の力は《念動》、それもどうやら《念波動》タイプのようだな。物理的なものに波として働く。だがそれが物質でなく空間に点として働けば、ずらすことも不可能ではない」
「知って」
 声が震えて上手く音にならなかった。一度つばを飲み込んで、意識して声を音にする。その間、椿の顔も太蔵の顔も梨花の顔でさえも、見れなかった。
「知って、たんだな。井伊ちゃん」
「誰でも判る。あの廊下を見ればな」
 太蔵の言葉に軽く目を伏せる。判っていた。あのガラスの散乱した廊下を視界に入れたとき、自分のせいなんだとすぐに理解した。
 それは、幼い頃からあった。特に赤ん坊の頃は、泣けば物を壊す子だったと親に言われたことがある。今はさすがに多少落ち着いていた。それでも、時々ある。自分の感情が上手くコントロールできないときに、意思とは無関係に、手を触れることもなく物を壊してしまう。
 そんな、普通とは違う、何か。
「そんな世界が滅亡するような顔するな」
 太蔵が大きく息を吐いた。そんな顔をしていただろうかと思わず頬に手をやる。ただ、視線を太蔵に合わせることは怖くて出来なかった。
「大体、今ここにいる時点でお前も俺たちも似たようなもんだ」
「え?」
 唐突な言葉に顔を上げた。視線が交じり合う。眼鏡越しの太蔵の目は、意外なほど穏やかだった。表情は相変わらず薄くて判りづらいが、それでも、穏やかさは確かに伝わってくる。
「さっき言ったが、この空間はずらされてる。ずれた空間を無理やり固定してあるから不安定ではあるんだが……結果的に、ある程度任意の条件を空間に課すことが出来る。言ってる意味判るか?」
「さっぱ判んねぇ」
「ようは、この空間内に存在することが可能なのは、異能力者……つまり、お前のような『一般的でない力』を持つ者だけなんだ」


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