第三章 :  絶対孤独主義  


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 まだ霧雨は止んでいないと言うのに、椿は屋上の入り口にある小さな屋根から出て歩いている。細やかな雨粒が椿を濡らしていくのを見ながら、あやは抱えた膝を抱き寄せた。
「濡れるぞ」
「そうね。でも、寒くはないわ」
 ひとりになりたいと言ってわざわざ離れたのに、椿はこちらに踏み込んできた。そこまで、無神経な男と言うわけでもないだろう。だとしたら何か思うところがあるはずだ。風に揺れる白衣の背中を見据えながら、あやは口を噤んだ。何の用だ、と問うのは簡単だけれど、今はそうしたところで意味があるとも思えない。
 雨の中で、白衣が揺れる。
「あやちゃん」
 背中を向けたまま、椿が名を呼んで来た。
「巻き込んじゃって、ごめんなさいね」
 静かな言葉に、あやは思わず立ち上がっていた。キン、と耳鳴りがする。
 巻き込んだ? 違う。巻き込んだのは、だって――
「ば……、何言って。だって、巻き込んだのは、あたしがこんな」
「ええ。でも、【世 界】と関わっていたのは、アタシたちだから」
 肩越しに振り返って、椿が自嘲気味に笑いかけてくる。歪んだ笑みは、笑みなんてものじゃない。ただ、痛い。
 後悔を閉じ込めた表情に、知らず足が前に出ていた。肌が雨に濡れる。夢を見ているような不安定な足取りで、あやは椿のそばに寄っていた。
 一瞬、見上げ、視線を落とす。すぐ傍で見上げた椿の顔は、驚きを見せていた。その残像が溶けないうちに、うつむいたまま、低く漏らす。
「よく、判ンねぇ」
 椿の手が、頭に触れてきた。髪についた雫を払うようにそっと撫でられる。
「濡れるわよ」
「判ンねぇよ、こんなの」
 うつむいたまま呻くと、椿の手がゆっくりと離れた。
「あやちゃん」
「何なんだよ。【世 界】って。力って何。空間がどうの猫がどうの影がどうの、いきなり言われたって訳判ンねぇよ。何であたしが狙われんのさ」
 一度口を割った言葉は、堰を切ったように溢れ出てきて、あや自身どうすることも出来なかった。ただうつむいたまま、濡れて色が変わっているコンクリの地面を見下ろしながら、コンバースのスニーカーを見下ろしながら、動く口を抑えられない事実を受け入れるだけだ。
「そりゃさ。変な力あんのガキの頃から知ってたし、判ってたけど、でも、自分で何とかすればいいって思ってたんだ。隠せるって思ってた。中学の頃までは時々ヘマして気味悪がられたりもしたけどさ、わざわざ中学の連中が選ばないようなこんな遠い学校来て、チイたちと仲良くなって、今まで、何とかバレずにすんでたんだ。何とかやってけるって、これなら何とかやってけるって思ってたのに。それなのにこんな。こんな急にさ。もう、訳判ン――」
 言葉は、そこで途切れた。泣いたわけじゃない。涙なんて、こんな奴の前でなんて絶対見せてやらない。ただ、物理的に止められた。
 唐突に抱きしめられて、言葉はそこで、途切れざるをえなかった。
「いちじょ……っ」
 一瞬にして視界が白くなって、ただそれだけで何が起きたのか瞬時には理解出来なかった。抱きしめられたのだと気づいた途端、顔が熱くなった。
 硬い腕だ。大きいと感じた。白衣が頬に冷たかった。それなのに、やわらかい。
「ごめん」
 耳のすぐ傍で、低い声で囁かれる。後頭部にまわされた手が、ひどくやさしい。心臓がどくんと胸を押し上げた。誰に聞こえるわけでもないだろうが、その事がやけに恥ずかしくて。
「……っはなせぇっ、セクハラオカマァッ!」
 ゴッ!
 叫ぶと同時振った頭が、見事な音を立てて椿の顔面を強打する。
 その場に蹲る椿から逃げて、あやは自分のシャツの胸元を強く握った。頭も痛いが、呼吸もつらい。
「み……みごとにきま……」
「お前が見境ないからだこのけだものっ」
「すーげひどい言われよう……」
 うつむいて顔を覆っていた椿が、視線を上げる。目が合う。子犬みたいな目に何故か笑いがこみ上げてきて――あやは奥歯を噛んでかみ殺した。なんか無駄に、恥ずかしい。
 くすっと、小さな笑いが椿から漏れた。
「何だよ」
「いえいえ、別に」
 軽く睨むが、椿は小さな笑みを浮かべたまま首を振るだけだ。その動作が無性に腹立たしくて、軽く蹴ると文句が返って来る。もう一発、と蹴ろうとしたら椿は軽く身をかわした。
「【世 界】はね」
 その言葉に、あやは思わず蹴りの動作をやめた。椿は蹴られたところを軽く手で払いながら、何気ない口調で続ける。
「アタシの祖父が現総帥なの」
「は?」
「判りやすく言えばヤクザ屋さんの親分ねー」
 肩を竦められるが、あまりにいきなりなカミングアウトに、ついていけない。判っているのかいないのか、椿はまた手を椀型にして雨をすくうように空に掲げている。
「血縁でそういうのって、やっぱりある程度受け継がれちゃったりするものらしくてね。アタシの場合は隔世遺伝で、両親はそういうの何もなかったんだけれど、祖父が結構強い力を持っててねぇ。で、爺様ドイツの人間でしょう」
「あ?」
 低く呻くと、椿が振り返った。
「あら。生徒さん知ってる子多いんだけど、知らない?」
 首を傾げる椿に、無造作に首を振る。
「つか、あたしはお前が嫌いだから、お前の情報は知らんと思え」
「フフフ。切ないけど了承したわ……。まぁ、ともかく、ドイツ人なのよ。で、さっき言ったとおり【世 界】ってそもそも発端はドイツでしょ。その流れなのか何の因果なのか、祖父が【世 界】の総帥に収まっちゃっててね」
「……はぁ」
 話がやけにファンタジックだなぁ、とぼんやりした頭で思う。事実があまりに日常と遠すぎて、理解が及ばない。けれど椿にとって、それはあくまでも日常なのだろう。するすると、流れるように話している。
「おかげでアタシは物心つくかつかないかの頃から、【世 界】に所属しててね。その流れで太蔵ちゃんにも会って」
「腐れ縁?」
「そう。それで」
 椿が言葉を切った。何かを懐かしむように軽く目を閉じ、手の中にたまった雨水をゆっくりと空気に解放させる。
「色々あって、八年前【世 界】を抜けたのよ」
「じゃあお前のせいじゃないじゃん」
 気づくと、あやは自然にそう告げていた。椿が目を瞬かせて振り返る。帰ってきたテスト用紙が、思わぬいい点だったみたいな、そんなきょとんとした表情。
「お前が【世 界】の人間で、お前のせいで狙われるとかなら許しゃしねぇが、抜けてんなら関係ねぇじゃん。お前が謝んな」
 こんな言葉を言うときにでも、むすっとした表情が抜けない自分が少し情けなかったが、言わないよりはましだろう。自分でもぶっきらぼうな口調だと感じる声音で、あやは椿に言葉を投げた。椿は暫くさっきのきょとんとした顔を見せていたが、やがてゆっくりと微笑を浮かべた。
「ありがと、あやちゃん。アタシ、本当にいい生徒に恵まれてるわ」
「……別に」
 そんな素直に言葉を返されると、恥ずかしい。うつむいて、前髪をいじる。椿の顔は見えなくなったが、声は変わらず笑みを表現していた。
「先生になって良かった」
 静かに、けれど深く呟かれた言葉に、あやは顔を上げた。
「……その、仕事、好きか?」
 唐突な問いかけだったかもしれない。けれど椿は柔らかに微笑んで頷いた。
「ええ」
「何で、選んだんだ?」
「え?」
「だって珍しいじゃん。男の保健室の先生なんて」
 椿が笑って頷いた。もうずいぶん雨の中に二人して立っているせいで濡れていたが、あまり気にならない。雨の冷たさが少し、気持ちがいいほどだ。
「そうね。大学の頃もさんっざ脅されたわー。養護教諭なんてただでさえ就職ないのに、男なんてなおさらないぞって」
「そういうもんなんだ」
「ええ。滑り込めてホントにラッキーよ。就職浪人にならなくてすむなんて、奇跡だって言われちゃったもの。ホント、花総が個性的な学校で良かったわぁ」
 軽く笑う椿に、疑問を覚える。
「だったら、何でこの仕事なんだ?」
 そんなに難しいらしいのに、何故養護教諭なんて選んだのだろうと、不思議に思う。同じ先生でも、教師ならまだ就職先はあるだろうに。
 椿は笑みを一度収めると、もう一度空を仰いだ。音もない霧雨を顔に受けて、長めの髪をかきあげる。
「見て、みたかったのよ」
「え?」
「この仕事を好きだといっていた人がいてね。どんなに素敵なのか、見てみたかったの」
 懐かしむように。いとおしむように。静かな口調で告げる椿の言葉に、どれだけの意味と本音が閉じ込められているのか、あやには判らない。それ以上深く問うには、自分はあまりに距離が有りすぎる気がして、あやは何も言えなかった。
 椿の横を通り抜けて、雨の中屋上のフェンスまで近寄る。緑の柵越しに、誰もいない中庭を見下ろした。中庭の向こうの校舎も、人気はない。
「一条。学校の外に出て、警察とか呼べんの? 梨花、やってないみたいだし」
「やってない、というか出来なかったんだと思うわ。さっきも言ったけれど空間的にずらされているから、学校の外には出られないだろうし、たぶん電話も通じないでしょうね。あっち側見てみれば判ると思うけど、学校の外は普通に車も通ってるはずよ」
 指されたほうを顔だけ向けてみると、なるほど大型のトラックが一台過ぎるのが見えた。フェンスに手をかけて、小さく呻く。
「変なカンジ」
「そうね」
 沈黙が落ちる。雨の中こんな風に立ち尽くしているのは馬鹿げていると自分でも思ったが、それ以上に雨は今やさしくて、このままでいたかった。
「あやちゃんは?」
 椿の言葉に顔を上げる。
「あやちゃんはどうして、この学校選んだの?」
 質問されるとは思わなかった。少しだけ困って中庭のベンチを無意味に凝視した。ペンキが少し剥がれかけている白いベンチは、雨に濡れたまま独りぼっちで置き去りにされている。
「さっきも、言ったけど。中学の頃はあたし、気味悪がられてて、孤立してたんだ」
「ええ」
「だから、中学の連中と一緒になる公立の学区内の高校は最初から選択避けててさ。それに勉強嫌いだったし、普通科にいく利点が見いだせなくて、進路どうしようかなぁって悩んでた。いっそ就職とかもありかなぁって。そういう時にさ、梨花が創立二年目のこの学校見つけてきて。総合学科ってよく判らんかったけど、自分で授業選択できるって自由だし、それにあたしもともと写真とか興味あったんだけど、そういうのも勉強できるんだって知ってさ。いいなぁって思ったんだ」
 数学も英語も取り立てて好きじゃなくて、でも高校という進路はほとんど決められていて、どうしようかと悩んでいたあの頃。乗り継ぎが悪い電車で一時間半かかる場所だったけれど、すぐにここに決めた。同じ中学からは、梨花以外誰も受験しなかった。逃げなのかもしれない。けれど、合格したときはひどくほっとしたのを覚えている。
「この学校、好き?」
 椿の問いにも、だから素直に頷けた。
「うん。こんな学校選ぶ奴だからなのかな。皆割りと個性的ちゅーか変ちゅーか、そういう奴ら多いし、授業も楽しいし。井伊ちゃんの課題の多さには時々泣けるけどな。それにチイたちもいるし」
「そう。良かった」
 微笑む椿は、確かに『先生』の顔をしていた。その顔が、少し歪む。
「でも、寂しいわね」
「え?」
「あやちゃんの日常、こんなに静かになっちゃって」
 呟く椿に、あやは苦笑した。見つかる寸前で笑みを消して、もう一度中庭を見下ろす。
「別に、こんな状況じゃなくても、ここ、いつも静かだよ」
「え?」
「立ち入り禁止だけど。ここ、時々忍び込んでるんだ、あたし」
 新実習棟の屋上をすぐに選んだのは、いつもの場所だったからだ。そのことを告げると、椿は虚をつかれたような顔をしていた。
「今のこの空間だって、状況別にすれば悪くないんだ。人がいないのは、ちょっち怖いけど、でも、気持ちいい」
「あやちゃん」
「チイたちとバカやって騒いでンのも楽しいよ。でも、時々辛くなるんだ。中学の頃まで、騒いだりしたりするのほとんどやってこなかったせいもあるんだろうけど、なんか慣れなくて、時々、一人になりたくなる。そういう時、ここ来てたんだ」
 ぽんと、頭に手がのった。椿が頭を撫でている。梨花やユキの頭を撫でることならよくするが、あや自身は身長が高いせいか、撫でられることに慣れてない。軽く睨むと、手がどけられた。椿が笑んでいる。
「人と関わるの、苦手?」
 問いかけに、また小さく頷く。
「こんな力、あるせいかな。人と違うんだって、どうしたって気づかされるだろ。昔からそうだったんだ。皆と騒いでて、ふって時々、違うんじゃないかって思う。ここ、あたし、居ていいんかなって。なんか発作みたいにさ、時々耐えられんくらい苦しくなって。そういう時、ひとりになりたくて」
 人の中で感じる孤独に耐えられなくて、ひとりの孤独を望んだ。かしゃん、とフェンスに額を寄せる。冷たさが少し心地いい。こんな気持ち、誰かに話した所でどうしようもないのは判っているのに、何故か、口をついて出ていた。
 隣でふっと短い呼気が聞こえた。顔を上げると、椿が細めた目で、中庭を見下ろしていた。
 雨のせいだろう。明かりひとつ灯っていないのも合わさって、辺りは夕方にしては暗すぎるほどだ。暗い屋上の上で、静かな口調で椿が呟く。
「苦しいわね。ここじゃないんじゃないかって思っちゃう。ここ以外に居場所なんてないのに、ここでもないのなら、どこに居場所があるんだろうって、アタシはずっと考えていたわ」
 その言葉に、あやはフェンスから身を離し、椿を見上げていた。
 心臓が、きゅっと縮んでいる気がした。
「お前も、そんなこと考えるのか?」
 信じられない気がした。『保健室の椿ちゃん』は生徒にだって人気で、いつも誰かと笑っている印象がある。それなのに、自分の中の不可解な孤独主義を、この男も感じているということが、不思議に思えた。
「意外と、寂しい人間なのよ、アタシ」
 おどけるように肩を竦める椿に、孤独主義の共犯のような、不思議な感情がわいた。椿が、ぽんと頭に手を乗せてくる。大きな手だった。
「判るなんて言葉、安易に使うと不誠実だから好きじゃないけれど、ね。でも少しだけ、理解は出来るわ。人と違うから、自分がそういう目で見られてる気がして、怖くなっちゃうのよね。だから、それならいっそ一人がいいって、思っちゃう」
 ふいに、思い出す。
 桜を見上げていた、あの目を。全てを拒絶するような、孤独を好む大人の目。あれは――
 目を閉じて、思い返した。あの、目は。もしかしたらこいつの、一人を望むときの目だったのだろうか――
 誰かといれば、孤独を感じるから、なら最初から一人でいれば孤独に苦しまなくたってすむと言うことを知っているが故の、目だったのだろうか。
 だとすればそれは、あの目に対して抱いた嫌悪は、ほとんど自己嫌悪に近いものだ。
 あや自身だって、知っている。最初に期待を抱けば、裏切られたとき怖くなる。だったらはじめから全てを拒否していれば、傷つかないですむ。人の中のひとりじゃなくて、ひとりの孤独を望む。そんな思いは、知っている。だけど普段は、チイたちと騒いでいる間はそんなそぶり見せやしない。椿だって、そうなのだろうか。あくまでも先生としている間は、孤独主義の側面なんて見せられないのだろうか。
 そう考えると、少しだけ恥ずかしくなった。あの目を毛嫌いしていたが、それはもしかしたら、その目に自分を重ねていたせいなのだろうか。
「あやちゃん?」
 俯いたあやに、椿の声がかけられる。恥ずかしくなっていた。手をどけてくれないだろうか、と思う。背が高いせいもあるのだろうが、梨花の頭を撫でることはよくするが、撫でられることには慣れていない。
「またそういう発作起きたら、保健室にいらっしゃいな」
 椿の言葉に、少しだけ視線を上げた。
「何であたしが、わざわざ鬼門に行かなきゃならん」
「鬼門って……」
 椿が小さく苦笑して、乗せていた手をどけた。
「周りの目が怖くなって独りが良くなっても、ね。アタシは貴女を否定しないわ。約束する」
 知っているんだ。その言葉に、椿はあの孤独を知っているのだと確信した。否定されているかもしれないと、勝手な被害妄想だけど思ってしまう、いつかなくなる居場所なのではないかと怖くなってしまう、あの孤独を、この男は知っているのだ。だからこそ、こんな言葉を吐けるのだろう。
 自分にだって孤独主義はある。時々、そう、時々だけれど、チイたちだってうざったくなることがある。それを他人が見せたからってそれを毛嫌うのは、あまりに自己勝手すぎる。
「駄目、かしら?」
「……考えとく」
 似ているんだ。そう、思った。少し、ほんの少しだけ、この奇妙な養護教諭と自分には、共通点があるんだ。
 そう感じると、少しだけ、一条椿と言う男のことを知りたいと思った。
 瞼の裏に揺れる残像がある。
 鼻腔の奥に残る香りがある。
 一輪挿しの、百合の花。
「一条」
 顔を上げ、椿を見据え、切れ長の目に映る自分を睨みながら。
 あやは問いを、口にした。
「百合子って、誰なんだ?」
 椿の目に、傷ついたような光が走る。そして――
「椿の昔の彼女だよ」
 声は、思いがけないところからした。


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