第四章 :  百合の残り香  


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 あの年の夏は、全てが雨に彩られていて、記憶はいまだ、霞んでも消えない。



 声と同時に椿が動いた。あやの体をフェンスに押し付け、自らがその前に立つ。フェンスが大きな音を立てて、あやの腕に小さな痛みが走った。
「痛っ……一条?」
 手首を掴まれる。強く。答える声はない。半ば混乱しながら見上げるが、見えるのは後頭部と白衣の背中だけで、表情は判らない。ただ――手が、震えていた。
 ほんの僅かに、あやの手首を握る椿の手が、震えている。その振動が、伝わってくる。
 何が起きたのか判らないまま、あやは椿の肩越しに視線を投げる。薄暗い屋上に、ひとり、少年が立っていた。眉が寄る。少なくともほんのついさっきまでは誰もいなかったはずだ。校舎内に続く階段の脇に、少年が立っている。霧雨のベールと薄闇のベールの両方で、最初はよく判らなかった。目を細めて見やり、あやの頭はさらに混乱した。
「……外国人?」
 背はあやと同じか、ほんの少し高い程度だろう。まだどことなく幼さが残る顔立ちは、それでもはっきりとした目鼻立ちのせいで子どもの印象は薄い。アイスブルーの目の涼やかさも、その一端を担っているのかもしれない。霧雨に濡れた金色の細い髪が、風に揺れた。年齢はよく判らないが、あやと同程度、あるいは少し上くらいだろうか。シンプルなシャツとジーンズがよく似合っていた。
「誰……」
「あやちゃん、喋らないで」
 呟くと、椿に遮られた。強く、鋭く、囁かれる。思わず反射的に口を噤んで、何とか表情を窺おうとするのだが、やはり顔は見えなかった。
 少年、椿、そして自分と向かい合ったまま、あやはただ混乱する思考を持て余すしかない。
 少年が、くすりと小さな笑みを浮かべた。流暢な日本語が型のいい唇からもれた。
「やだな、怖い顔。久しぶりに会ったってのにさ」
「黙りなさい」
「黙らない。ねぇ、椿。久しぶりだよね。八年ぶりかな」
 笑みを浮かべながら、少年が一歩前に出てくる。同時に、椿も一歩下がった。あやも押されるが、すでにフェンスに密着しているので、それ以上後ろには下がれない。
「ちょ、一条、苦しいっつーの」
 白衣の背中を軽く叩くが、手を強く握りなおされるだけで椿は体をどけてはくれない。
「何しに、来たの」
「わざわざ訊くの、それ? 判ってるでしょ?」
「帰りなさい。あんたが来るところじゃないわっ!」
 悲鳴のような椿の叫びに、少年は煩わしそうに顔を顰めた。
「……椿。八年間に君に何があったのさ。何その口調」
「ほっといて頂戴っ」
 問題点そこかよ。
 傍で会話を聞きながら思わず胸中で突っ込んだ。とろんと落ちかけたまぶたをなんとか上げながら、あやは二人を見る。しかし少年の言葉が本当だとしたら、八年前まで、椿はこの口調ではなかったと言うことだ。確かに、疑問にも思うだろう。
「まぁ別にいいけどさ。なんか口調だけ取ったら百合ちゃんみたい」
 椿の手に力が込められて、あやの手首に軽い痛みが走った。思わず顔を顰める。その様子を見て取ったのか、少年が言葉を切って笑みを深くした。
「なるほどね。白衣着て先生やってその口調で、百合ちゃんの代わりのつもり?」
「黙りなさいっ」
「黙らないって、さっきから言ってるじゃんか。しつこいな。そういうところは百合ちゃんそーっくりだよ。良かったね、椿」
 からかうように笑うと、少年があやを見据えてきた。宝石のような水色の瞳に、引き込まれそうになった。
「はじめまして。君が、前田あやちゃん?」
「え。あ、ああ」
 あいまいに頷くと、椿が振り返ってきた。強い眼差しが、喋るなと語っている。しかし少年はにこりと満面の笑みを湛えたままでまた一歩、前に出る。椿も下がろうと動いたが、もはやフェンスに阻まれて下がる場所なんてない。ただ、あやの手を強く握り締めてきた。震えたままの、手のひらで。
「ボクはアレクサンダー・ヴェルト。アレクでいいよ。よろしくね」
「あやちゃん、答えないで。それから、この先何があってもイエスは言わないで」
 少年――アレクの一礼を遮るように椿が低く呻いた。顔を上げたアレクは、不機嫌そうに唇を突き出し、見た目よりも随分幼い口調で告げる。
「なにそれ。最初からそういうこと言っちゃうの? やだな、椿。アンフェアじゃない?」
「下がりなさい、アレク」
「下がらない」
 椿の目前に立ったアレクは、ただ静かに笑んでいる。椿の背後にいるあやに目を留めると、アイスブルーの目を細めた。あやは居心地の悪さに身じろぎをした。
「キレイな子だね。身長高いし、スタイルは――あーまぁ、スレンダーってことでいいかな」
 少しむかついた。顔をしかめると、アレクはいたずらを見つかった子どものような笑みで肩を竦めて、それから言葉を続けた。
「真っ黒な髪に、真っ黒な目。すっごく日本人ってカンジだよね。気が強そうな顔してるし。ホーント」
 ふと、アレクの目が近くなった。覗き込まれている。何かに似ていると思った。何だろうと考えて、すぐに思いつく。
 子どもが昆虫をいたぶって遊んでいるときの、目。
「百合ちゃん、そーっくり」



 誰なのだろう、と思った。
 梨花はその人物を見下ろしながら、意図的に表情を消して思案していた。
 この女性は、いったい誰なのか。
 太蔵と話していて暫くすると、いつの間にか階段の下に立っていた。二十歳前後だろうか。彫りの深い顔立ちに、赤に近い長い髪。背はあやよりはやや低そうだが、足は長い。顔立ちも悪くはないのだろうが、表情が見えなくてつまらない顔に思えた。椿の服装によく似たスタイルの服を身に着けている。彼女を見るなり、太蔵が一言「ニナ」と呟いた。それがおそらく彼女の名前であるのは間違いないだろうが、その言葉だけで何が判ると言うものでもない。せいぜい太蔵と顔見知りであるということくらいしか判らない。そして、と胸中で呟く。勘に任せるなら、たぶん、結構深い知り合いだろう。
 彼女の深い緑の目が、太蔵を見据えた。太蔵がゆっくりと立ち上がり、階下へと降りていく。なんとなく、部外視されているようで梨花はそっと頬を膨らませた。今の状況は色々、本当に色々、面白くない。
 コツン、と太蔵の靴が音を立てた。
 太蔵が女性と向かい合う。女性――ニナとやらは太蔵を見上げ、それから薄く口を開いた。
「お久しぶりですね。太蔵」
 静かな口調に、太蔵の背中が息を吐く。聞き耳を立てていた梨花的には、英語でもドイツ語でもなく日本語なのが少しつまらなかった。
「ああ。こっちにとっては、な。そっちはほとんど毎日、こっちを監視してたんだろう?」
 太蔵の低い声に、ニナは何も答えなかった。相変わらずつまらない顔で立っているだけだ。
「だから、あんな見事なタイミングでお前が『ずらした』。違うか?」
 太蔵の言葉に、梨花はひとつだけ納得した。彼女が『空間をずらした』張本人らしい。
「さすがに、馬鹿じゃありませんね」
 何の話かはよく判らないが、梨花は別に詳しく知りたいとも思わなかった。ただ、あやを守ることさえ出来れば、そして普段の日常に戻れさえすれば、馬鹿な大人たちの事情なんてどうでもいい。
 口に出さずにそう呟いた途端、屋上へ続くドアの向こうから男の叫びが聞こえた。反射的に振り返る。
「椿ちゃん……?」
 今のは椿の声だった。よくは聞き取れなかったが、何か叫んでいた。その事実にぞっとした。椿の傍には、あやがいる。
 ドアから視線をはずし太蔵を見る。太蔵の顔もまた、驚いたような怯えたような、そんな色に変わっていた。
「ニナ」
「はい」
「まさか、アレクも来てるのか」
 太蔵の強張った声に、いやな予感がした。アレク、という知らない人物名が、不吉な雲のようにまとわりついてくる。
「あれの力は、便利ですから」
「便利ですむ問題か。確かに便利は便利だろうが、性格に難がありすぎるだろう。――椿が、いるんだぞ。八年前のこと」
「忘れたわけではありません」
 ニナが、静かな口調で太蔵を遮る。
 梨花は思わず眉間にしわを寄せた。静かは静かだ。顔も相変わらずつまらない無表情だ。だけど、何故か苦しそうに見える。何か苦しいことを吐き出すときの色が、見えた。
「忘れたわけではありませんが、けれど、あれだけの力です。太蔵もご覧になったでしょう。今までは監視だけですんでいましたが、今回の事が決定打になりました。もはや監視だけでは持ちません。いざと言うときずらすにも、《空間》の力は私だけしか持っていません。今回はタイミング的に何とかなりましたが、今後ずっとそうはやっていられません。彼女の《念動》がいつ作動するか判らないからと言って、私がずっと見張っているわけにもいかないのです。ですから、契約、もしくは破棄、あるいは――私はこれは望みませんが――場合によっては排除もありだと。これが、【世 界】の下した決定です」
 契約も破棄も、もちろん排除も、どの単語も梨花にとっては雷雲と同じ不吉さを携えていたが、今はとにかく口を噤んでいた。背後のドアの向こうのあやが気になるが、今不用意に動いてはいけない気がしたのだ。心臓が、そう警告を発している。
「気に喰わん」
 太蔵がニナに背を向けた。吐き捨てるように呟いて、階段を上がってくる。ゆっくり、一歩ずつ。
「俺たちの力でも監視だけですんでいるだろう」
「それはあなた方が制御を見につけているからです。度を越した能力には、私たち【世 界】は常に対処してきたでしょう。太蔵、貴方もかつてしていた仕事を、忘れたとは言わせません。彼女は、度を越した能力なのです。危険なのです。判るでしょう」
 ニナが説き伏せるように言い募る間に、太蔵は梨花の傍まで来ていた。座ったままのこちらの手をとり、立ち上がらせてくる。素直に立ち上がり、梨花は太蔵を見上げた。何か、ある気がする。
「判らんな」
 ニナに向けて一言捨てると、太蔵が小さく囁いてきた。
「俺が合図をしたら、妹連れて逃げろ。いいな」
 ニナには聞こえないであろう程度の囁き声に――
 梨花は頷く代わりにそっと唇を舐めた。



 白衣が舞った。霧雨を裂くように、薄闇の中を白が走る。強く踏み出した椿の靴底が高い音を立てた。
 と、思ったときには視界が流れ、あやは椿の腕の中にいた。いつの間にか、立っていた場所さえもずれている。
「なっ……なななななな、なん?」
 声にならない声が出た。状況が判らない。判るのはただ、椿の腕の中にいる。それだけだ。濡れた白衣が少し冷たい。混乱しながら何とか状況を把握しようと視線を動かすと、少し先でアレクが蹲っているのが見えた。何が起きたのかまでは、判らない。
 混乱しながら顔を上げると、驚くほど間近に一条の顔が見えた。整った顔立ちが、強張っている。
「いちじょ」
「近寄るなっ!」
 口の悪い怒声に、あやは思わず身を竦めた。一瞬、自分が叫んだのかと錯覚したが、むろん違う。椿だ。あやを抱きしめながら、椿が叫んでいる。もはや何がなにやらわけが判らず、混乱するしかなかった。
 蹲っていたアレクが肩を震わせた。
「あは、はははっ」
 笑い声が漏れ出る。アレクが顔を上げて立ち上がった。
「あはははははははっ!」
 体を二つに折って、アレクが大声で笑う。さも楽しそうに笑うその姿に、怖さを覚えた。アレクはただ、笑っている。笑いながら椿を見上げ、うれしそうに叫んだ。
「そうだよ、椿。それでこそ君だよ! 八年の時間を一瞬心配したけれど、杞憂だったね。君は君だよ。何にも変わっちゃいない。ボクを憎んでる。【世 界】を憎んでる。自分を憎んでる!」
 アイスブルーの目に、狂喜の色が宿っていた。ただただ、たまらなく楽しそうに、たまらなくうれしそうに両手を広げ、大声で笑い続けている。アレクの笑いが高まるのと比例するように、あやを抱きしめている椿の腕の力も強くなった。
「いいよ。もっと憎みなよ、椿。ボクを殺したいんだろう? 百合ちゃんを守れなかった椿は、なおさらボクを殺したいはずだよ! さァ椿、八年前の続きをしよう。無様に途切れた八年前の続きをしようよ。ボクはずっと、ずっと待ってたんだ。この日をね! ぞくぞくするじゃないか!」
 八年前に何があったのかなんて、あやには判らない。ただ、何かがあったのだろう。太蔵の言葉。アレクの言葉。椿の言葉。全てに八年前が絡んでいる。
「でもね、椿。忘れないで」
 ふっと、アレクが笑い声を収めた。それでも笑みはまだ消えていない。口元に歪んだ笑みを浮かべたまま、アレクが一歩、足を踏み出してくる。椿を見据えて、嘲笑っている。
「君は八年間、力を一切使っていない。【世 界】の仕事もしていない。ボクは八年間、力を磨いたよ。君は知らないだろうけど、ボクは今【世 界】の幹部にまで昇格したさ。ねぇ、椿。簡単な問題だよ」
 浮かぶ表情は、子どもの残酷さによく似ていた。
「今度はどっちが、勝つと思う?」
 低い声に、思わず鳥肌が立った。怖い。お化けとかの怖さじゃない。生きている人間への恐怖だ。我知らず、体が震えた。
「大丈夫よ」
 震えを、止めるように。
 ぎゅっと強く、抱きしめられた。一瞬、目を見張る。椿に、抱きしめられている。
「貴女はアタシが守るから」
 囁かれた言葉に、あやは心臓が縮んだ気がした。顔が熱い。守るって。守るって。守るって。頭の中をそんな単語だけがぐるぐるまわって、あやはたまらず叫んでいた。
「ちょっ……ちょーしに乗るなァっ!」
 ゴグッ!
 素敵な手ごたえとともに、あやの肘が椿のみぞおちに入った。蛙が潰れたような声を上げながら、椿がその場に蹲る。身を翻して椿を見下ろし、あやは怒鳴る。
「誰もてめぇに守ってくれなんて言ってねぇよ! 気安く触ンなこの変態養護教諭が!」
「ちょっ、今の状況でそういうこと言う!?」
「状況もクソもあるかセクハラオカマっ! 脳髄ぶちまけて鮮やかに死ねっ!」
「いーやーッ!? むしろこっちが敵!? 生徒が敵なの!?」
 椿の悲鳴をかき消すように、笑い声が上がった。見ると、アレクが腹を抱えながら大笑いしている。先ほどの笑いとはどこか質が違う、本当に子どもが見せる笑いのようだ。大声で笑い続けるアレクに、椿がしゃがんだまま睨みあげる。
「笑ってンじゃないわよっ」
「あはは、あはっ、だ、だって。すごいね、その子。椿すごい生徒持ってるね」
「人をこの変態の所有物扱いするんじゃねぇ!」
 反射的に叫んだあやの言葉に、アレクの笑いがまた高くなる。
「すごいな。すーごい性格。あははは、百合ちゃんより強そーっ」
 その一言に。
 ぷちりと、あやの中で何かが切れた。


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