第四章 :  百合の残り香  


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「どっ……やかましいわこのクソガキッ!」
 叫ぶと同時に、手近なフェンスを殴りつける。苛立ち紛れに殴ったフェンスはごめんなさいと叫ぶかのように悲鳴を上げる。痛んだ右手を軽く振り、押し黙ったアレクと椿を睨みつけてから、あやはゆっくりアレクに歩み寄った。先ほどまでの恐怖より、今は単純に怒りが勝っていた。
「さっきから聞いてりゃ人をさんざ誰かと比べやがって。あぁん? ざけんなよクソ野郎。大体古い事いちいちいちいち持ち出して、うちの養護教諭いじめて楽しいか、コラ」
「あやちゃん」
 椿の呆然とした呟きを無視して、あやはアレクの前で足を止めた。腕を組み、睨みあげる。髪の間をすり抜けて流れ落ちてきた雨の雫を手で払う。アレクは笑みを消して、こちらの視線を受け止めていた。そのアイスブルーの目を見返しながら、あやはすっと指を椿に向けた。息を吸い、吐き捨てる。
「こいつを甚振りたいんなら、人巻き込まねぇように存分にやれっ!」
 その一言に、アレクの目が丸くなり、椿はと言うと後ろでまた叫び始める――
「フォローなし!? ヘルプなし!? マジなの、それマジなのあやちゃん!?」
「うるせーっ、何であたしがお前のフォローなんざせにゃならんっ」
「今ちょっと本気で感動しかけたアタシの立場はー!?」
「ンなもん元から塵ほどもねぇよっ!」
 椿と口論になり始めるとまたアレクが笑い出す。体を二つに折って腹を抱えて笑っている。
「あはは、すごすぎ。おもしろすぎ。サイコー!」
「笑ってンじゃねぇよ、イヤミ野郎!」
 怒りのまま、アレクの足元を蹴りで払う。アレクは軽くよけたが、それがさらに苛立ちをます原因となる。睨みながら、あやはさらに続けた。もはや怒りは形として吐き出されてしまっていて、今さら矛先を収めるすべもない。
「一条が八年前てめぇに何やったかは知らねぇが、八年も前のことずるずるずるずる引っ張り続けて、この陰険根暗野郎が」
「椿が八年前、ボクに何をやったか、って?」
 ふっとアレクの顔から笑みが消えた。アイスブルーの瞳が細められ、笑みの代わりにぞっとするほどの敵意が浮かんでくる。悪態をつきかけていた唇は、その顔に気圧されて閉じるしかなかった。渇いた喉に、痛みが生まれた。アレクが静かに、唇をゆがめる。
「殺されかけたのさ。ボクは。その男にね」
 殺され――?
 日常からあまりにかけ離れたその単語に、あやは一度目を見開いた。悪態代わりに言うことならよくあるが、これはきっと、違う。意味合い的な毒舌じゃなく、もっと具体的な――
 喉がこくんと鳴った。意識せず唾を飲み込んだらしい。あやは視線をはずし、傍らに立つ椿に目をやった。椿はいつか桜を見上げていたあの目と同じまま、アレクを見下ろしている。
「一条……」
 呼びかけると、椿の目が揺れた。けれど視線は、あやを向いてはくれなかった。痛みを隠すように静かに伏せられる。逃げるような目に、ふつふつとまた怒りが沸いてきた。肝心なところは隠すだけ隠して、本心を見せないばかりで、そんなのは――卑怯だ。大体傷つくようなことじゃない。こんなことは、傷つくようなことじゃない。
「一条」
 強く、声を固めて呼びかける。椿はまだ目を伏せたままだ。苛立ちが募り、あやはそれを叩き付けた。
「何でその時きっちり片つけておかなかったんだよ!」
「そっち!?」
 椿がぎょっとしたように叫んでくると同時に、アレクがまた笑い出す。
「すごい子だ。すっごい子だよ椿。やっばい、どーしよ。サイッコー気に入っちゃった」
「てめぇに気に入られたくなんざねぇよっ! あたしはてめぇらが大っ嫌いだ!」
 あやが叫んだその瞬間――
「あやちゃん!」
 甲高い声とともに、屋上のドアが開かれた。小柄な女生徒がひとり転がり込んできて、あやの体にぶつかってくる。
「梨花ッ?」
「太蔵ね」
 あやがぎょっとする間もなく、椿が呟いた。混乱しているうちに、梨花に手をつながれる。梨花は真剣な顔で椿に頷いた。何がなんだか判らないまま、あやは椿に背を押された。
「あやちゃん、梨花ちゃんと一緒に逃げなさい!」
 逃げ――?
 理解する間も与えられず、あやはぐいと梨花に引っ張られて走り出していた。ドアが間近に迫る。
「逃がさない!」
 アレクの声が聞こえる。とっさに振り返ったあやの視界に、とがった何かが入ってきた。瞬間、ついさっきの廊下での出来事を思い出し、足が竦んだ。ぞっと背中に粟が立つ。
「あやっ」
 ただ純粋に名を呼ばれた。思ったときには、体を強く引かれていた。目を閉じる。視界を一瞬白が埋め尽くした。
「くっ」
 低い呻きに、まぶたをこじ開ける。視界を多い尽くした白が椿の白衣だったと判って、それからまた椿の腕に抱かれているんだと理解する。その二つの思考の後、ようやく違和感に気づいた。椿の白衣に覆われた肩に一本、ダーツが突き立っている。
「……っ、一条!?」
「ヘイキよ。早くっ」
 ヘイキじゃないだろうそんなのっ!
 叫ぼうと思った言葉が喉をつく前に霧散した。梨花に手を引かれて、椿に背を押されて、また走り出す。梨花が屋上のドアに手をかけようとした瞬間、ドアが向こう側から開かれた。見慣れない外国人の女性が一人、飛び込んでくる。梨花がたたらを踏んだ。女性の手が梨花に伸びかける。
 刹那、蝙蝠が飛んだ。
 手のひらほどの大きさの蝙蝠が十数匹、女性にまとわりつく。抑えた悲鳴が上がった。目を丸くしていると、女性の背後から腕が伸びて彼女を押さえつけた。
「井伊ちゃんっ?」
「行けっ」
 女性を押さえつけながら、太蔵が叫ぶ。若干顔が青ざめて見えた。あの蝙蝠は、太蔵の《影絵》なのか。その考えに至ったときには、梨花がすでに走り出していた。
 屋上の雨に滲んだ景色が視界を流れる。
 太蔵の姿も、蝙蝠も、女性も、アレクも、そして椿の姿も声も遠くなって――
 ただ甲高い靴音が二つ、校舎に響いた。



 梨花のローファーと、あやのコンバースのスニーカー。両方の足音が、実習棟を駆け下りる。何度か階段でつまずきそうになりながらも、梨花はあやの手を引くことも走ることもやめなかった。梨花の二つに結わえられた髪がリズミカルに左右に揺れている。
 実習棟を飛び出す。普段なら屋根のある渡り廊下を伝って、講堂や柔道場、食堂を横切って校舎に入るのに、梨花はその道を選ばなかった。校庭を走り出す。また、雨に濡れた。ぬかるんだ校庭の土を蹴ってがむしゃらに前に進む。
「梨花、どこへ」
「校門っ」
 校庭を突っ切って、校門へとたどり着く。普段から開け放たれている校門から外へ出ようと突っ込んで行く。しかし、梨花の体がはじかれた。
「うきゃっ」
「梨花っ」
 慌てて抱きとめる。小柄な体は雨に濡れたままだ。
「大丈夫か?」
「かーべーっ! 見えないのに壁ー! 梨花超パントマイム上手いみたいじゃんっ」
 睨みつけながら、梨花がじたばたと足を動かした。どうやら、校門から先には出られなかったらしい。
「あーもーっ、やっぱり無理ッ。あやちゃん行こうっ」
 諦めることなく、梨花がまた手を引いてくる。引かれて走り出しながら、あやは弾む息をあげた。
「やっぱりって、知ってたのか?」
「知らないよっ、勘だよっ。あやちゃん知ってたの?」
「一条が言ってた」
「先に言ってようっ」
 昇降口からピロティに入り、校内に入る。一階は空間が広く取られていて開放的だ。左に行けば保健室がある。すぐ手前の階段を上ればLL教室と図書室が近い二階に、正面をまっすぐ抜ければ進路指導室とその先の渡り廊下と中庭。どこに行けばいいのか、と一瞬足を止めた途端、梨花に強く腕を引かれた。
 よろめき、壁に背がぶつかる。視界を銀光が掠めた。髪の毛が数本、飛んだ気がした。息を呑む。心臓が痛い。
 さっきの女性だ。こちらに向かって伸ばした手には――
「……くっるなぁ!」
 叫ぶと同時、体の中から何かが抜けていく。この感覚。胸中で呟いた。この感覚には、覚えがある!
 空気が悲鳴を上げた。無理やり力でひしゃげられたかのような、圧縮された音。甲高い音が耳に突き刺さった。そして、上からガラスが降ってくる。
「あやちゃんっ」
「くっ」
 梨花が強く手を引いてきた。女性の微かなうめき声。咄嗟に梨花の頭を抱えた。ガラスは降ってこない。だが、女性のほうにはいくらか落ちたようだった。ガラスが床に落ちた軽い音が、いくつも校舎内に響き渡る。
「前田っ!」
 また、声。同時に、手。混乱した視界の中で、太蔵が女性を後ろから抱きとめていた。追いかけてきたのだろう。濡れた顔は雨と汗とが混ざっているようだった。
「太蔵、離してくださいっ」
「いいかげんにしろ、ニナっ!」
「なっ、井伊ちゃんっ」
「何ぼけっとしてる、行けっ」
「行こう、あやちゃん!」
 太蔵に促され、梨花に手を引かれ、あやはまた走り出す。どこへ行くかを考えることもなかった。その場を離れたい一心で直進する。放送室。印刷室。狭い廊下を走り抜けて行く。
「あやちゃん、体ヘーキ!?」
 手を引いたまま、梨花が叫んでくる。
「え、何?」
「体! さっき使ったばっかで『たまって』ないでしょ? 無理に使うと体に負担がかかるって、さっき井伊ちゃんが」
 言われて、思い出す。さっきの『授業』だ。確かに、足が重い気がした。けれど、それだけだ。大して辛くはない。
「ヘイキ。大丈夫」
 それでも不安げな色を消さない梨花に微笑みかける。実際、問題ないと思った。多少足の重さはあっても、走るのにも支障はない。
 進路指導室に進路資料室。梨花と二人、校舎内を走る。渡り廊下へ出た。右に行けば講堂、食堂、柔道場、その奥にはさっきまでいた新実習棟があり、左に行けば本校舎に入る。梨花は無言で左に曲がった。中庭を横目に、本校舎へ入る。校舎は五階建てだ。教室数も多いが、ほとんどは普段入らない教室だ。選択している系列が違えば、その系列の教室には入らないから当然といえば当然だ。あやたちが普段使うのは二年生が主に使用している四階と、芸術メディア系列の教室――暗室やコンピュータールーム――などを含めた特殊教室が入っている二階になる。本校舎に入ってすぐ、梨花は階段を駆け上がった。ついていく。二階に上がってすぐ、あやは手近な教室のドアに手をかけた。写真の授業で使う暗室だ。酢酸臭いのは否めないが、とにかくどこかに入るべきだと思ったのだ。
「あやちゃん待って!」
 が、ドアに手をかけると、梨花に止められた。まだ幼さの残る顔立ちに真剣な色を乗せた梨花が、息を切らせて言ってくる。
「この教室はやめたほうがいい。さっき、あの女の人が監視がどうのこうのって言ってたの。よく判らないけど、普段梨花たちが使ってる二年の教室とか芸メの教室はやめたほうがいい気がする」
 一瞬、ぞっとした。
 この暗室は、チイや佳代たちと酢酸が臭いだのピントが合わないだのと一緒に騒ぐ、あやにとって『日常』の場所だ。そこに『監視』とやらが関わっていたかもしれないという。日常の中に、土足で踏み込んでくる非日常の象徴のような気がして、その単語に震えが来た。
「あやちゃん」
 梨花が、繋いだ手に力を込めてきた。心配をかけている。そう思う。不安なのは梨花とて同じだろうに、この従姉はいつも強い。
 あやはドアにかかっていた手を離し、頷いた。
「判った」
 再度、走り出す。どこに行けばいいのかなんて判らない。二階の廊下を駆け、適当な教室に飛び込んで鍵を閉めた。普段、入らない教室だ。内部をきちんと確認する前に、窓にかかっていたカーテンを引いた。暗幕だった。廊下側の窓も、裏庭側の窓も全てカーテンを閉める。そこでようやく、息をついた。
「梨花、大丈夫か?」
「うん。大丈夫」
 肩で息をしながらも、梨花が頷いてくる。少しだけほっとして、ようやくあやは教室全体をきちんと確認した。
 白い長机と、丸椅子が並んでいる。黒板ではなくホワイトボード。窓際と教室後方の棚には実験機材が並べてあり、教師用の大きな木の机にも実験機材が乗っている。人はいないが、授業の最中だったのだろう。長机にはそれぞれ顕微鏡やらプレパラートやらが置かれている。
「理科室、みたいだな」
「でも梨花たち使ったことないよね、理科で」
「シャレか?」
「こんなつまんないシャレ言いません。理科室みたいだけど、違うよねってこと」
 どうやら準備室もあるらしく、教室前方には扉がついていた。そこの鍵もきっちり閉めながら、梨花が呟く。
「環境系列の教室、かな」
 普段、一般教科の授業で使う理科室とは別の理科室、だ。他系列の教室なのだろう。入ったことがないのも道理だ。
 納得した途端、足に震えが来た。やばい、と思ったときにはすでに遅く、力が抜けて立てなくなった。リノリウムの床に直に座り込む。


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