第五章 :  決定権は誰にある?  


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 雨音はやさしく響き、八年前のあの夏からいまだ、降り止まない。



 よろめきながら歩いてくる悪友の姿を見た途端、太蔵は裏返った声を上げていた。
「椿っ!」
 隣で息を呑んだニナを置いて、太蔵は椿に駆け寄った。ふらつき、倒れかける椿の体を支える。重みが全身にかかってきた。よく見ると、白衣の肩の部分が赤く染まっている。歩き方を見る限り、怪我はそこだけではないようだ。一瞬、血の気が引いた。
 八年前でさえ、アレクと椿は互角だった。椿にとっては八年のブランク。アレクにとっては八年の力をつけるための期間。どっちが有利かだなんて、考えるまでもない。
「太蔵」
 荒い息の間から椿が呻いてくる。ぐっと腕に爪を立てられた。
「あの子たちは」
「落ち着いてください、椿。アレクとて、すぐに排除には移りませ――」
 恐る恐るといった様子で囁いたニナに、椿がきつい視線を投げた。ニナが息を呑む。
「あやたちは!」
 かすれた声で椿が叫ぶ。その瞬間、甲高い音が耳に届いてきた。
 ガラスが割れる音、だろうか。
 反射的に椿が顔を上げた。太蔵も椿を支えながら首を動かす。今の音は――本校舎か。
 太蔵がそう認識した途端、椿はこちらの腕を払っていた。危なっかしい足取りで、それでも渡り廊下を駆けていく。
「椿、待て!」
 呼びかけにも振り返らず、椿の背中は遠ざかっていった。



「百合ちゃんはね、八年前、【世 界】が勧誘しようとしていた人なんだ」
 ゆっくりと、懐かしむように微笑を浮かべながら、アレクはガラスの散らばった教室を歩いている。教室の真ん中の机に腰をかけ、あやはもう一度扉に目をやった。教室の扉には鍵がかかっている。廊下には、梨花がまだ横たわったままだろう。今すぐにでも駆け寄りたい気持ちが燻っているが、拳を強く握ることで何とか押さえつけていた。
 アレクは、どうも先ほどの魔法のような何かはしなかったようだ。ただ、約束しただけだ。その約束を違えたときどうなるか。それはあまり考えたくはなかった。
「ボクら【世 界】が何を目的としているか、知ってる?」
 振り返り、問いかけてきたアレクに一瞬気圧されながらも、あやはゆっくり唇を開いた。
「さっき、井伊ちゃんと一条に聞いた。監視がどうこう、って」
「うん。もっと的確に言うなら、日常世界に異変をもたらせる恐れのある異能力者の監視、勧誘、だね。今回も、君は勧誘対象になってるけど、あのちびっこは対象外なんだ。君のは暴走させると面倒なことになるけど、あのちびっ子の場合、自覚してるみたいだからね。他の人にあんまり言わないでしょ? そういうのは別に問題ないんだ。この理屈は判る?」
「……なんとなく」
 頷くと、答えに満足したようにアレクが笑った。そのまま、ぴっと人差し指を立てる。
「で、八年前も、君と同じように力を暴走させちゃった異能力者がいた。それが百合ちゃんだったんだ」
 シャリ、とガラスを踏みしめる足音を高く立てて、アレクは立ち止まった。蛍光灯の明かりが、アレクの顔に浮かぶ笑みを作り物めいたものに見せている。
「【世 界】の目的ってのは、さっき言ったとおり監視、勧誘。これはあとで君にも訊くからよく覚えておいて。君には選択権があるよ。一つ目。力を手放し、力に関する記憶を消す。ただし監視はつく。二つ目。【世 界】に入って制御法を学んで力を自分のものとして扱えるようにする。ただしこれは、【世 界】からの指令には応える義務が発生する。一つ目に関しては総帥自らやることが多いね。二つ目は、昔は書類だったらしいけど、今はボクの仕事」
「お前の仕事?」
「うん。さっき見たでしょ。《契約》――それがボクの力だよ」
 得意な手品でも見せるかのような笑みで、アレクは続けた。
「イエス・オーケイ・出来る・いいよ・やるよ。なんでもいいんだけどね、ボクの問いに対して肯定を返してくれれば、その言葉をキーとして《契約》を実行するのさ。あのちびっ子もそう。「出来る?」に「あたりまえ」――つまり「出来る」って答えた。それをキーにちびっ子が大人しくするっていう《契約》を結んだのさ。ボクにしか、これは解けない」
 くすっと音を立ててアレクが笑う。廊下側の窓に一瞥をくれて、軽く肩を竦めた。
「椿や太蔵も、ボクと《契約》してれば今でも【世 界】の人間だったんだけど、二人がいた頃はまだ書類だったからね。運がいいよね、全く」
 アレクの言葉に、あやは何も言わずにただじっと見つめ返した。今は何を言ってもからまわりそうだったからだ。アレクはつまらなさそうに一度伸びをすると、声のトーンを変えて話し出す。
「話がずれたね。ようは、八年前その指令が出たの。ボクとニナ。それから、椿と太蔵にね。ボクとニナは判るよね。《空間》の展開と《契約》のため。太蔵は研究部からの派遣。椿はまだボクらがその頃【世 界】に入りたてだったからサポートで。ま、二人は百合ちゃんと近いところにいたから、ちょうどいいってのもあったんだろうけどね」
「ストップ。その研究部がなんたらって何のことだ」
「ん? ああ。【世 界】の中の部署のことさ。ボクとニナ、椿も実動部。実際に勧誘したりする部署だね。太蔵は研究部。能力に対しての研究を行ってるの。ってまぁ、二人はもう抜けてるけど」
「その話聞く限りじゃ、井伊ちゃんが入ってるのは不思議な感じがするんだけど、普通なのか?」
 アレクが、驚いたような顔をした。口元に手を当てて、感心したように吐息を漏らす。
「へぇ。やっぱり洞察力はある、のかな。そうだよ。君の言うとおり。普通、研究部が実動部に混じって勧誘に乗り出すことはないね。八年前は特別だよ。さっきも言ったけど太蔵たちが百合ちゃんと近いところにいたってのもあるんだけど、研究部的に欲しかった素材らしいんだよね。百合ちゃんの力が特別だったから。だから研究部研究本部PK専門部異種科のチーフだった太蔵に声がかかったんだ」
 よくは判らないが、太蔵は意外とお偉いさんだったらしい。
 微笑んだままのアレクが、またゆっくりと歩き出した。雨に濡れる窓辺へと足を進める背中に、あやは低く声を投げた。
「百合子の力って、何だったんだ?」
 アレクの足が止まった。窓が開けられる。先刻より雨足は強まっているようだった。雨音が教室内に広まっていく。
 窓から手を出して、アレクは雨を受け止める。そしてゆっくりと顔をあやに向けてきた。
「雨だよ」
「――え?」
「百合子の力。《雨水》。雨を呼び、水と相性がいい能力」
 アレクの言葉に、雨音が重なり合った。

 ◇

 一条椿は痛む体を引きずったまま、渡り廊下を駆けていた。
 雨がまだ、降り続いている。
 あの日も同じように雨が降っていた。同じように廊下を駆けた。けれどあの日は、あの時は、伸ばした手は空を切るばかりだった。
 もう、同じ思いはしたくない――

 ◇

「百合ちゃんの力は感情によって天候が左右されるものだったんだ。別に珍しくはないんだよ。よくいるでしょ。雨男とか雨女とか。ようはそういうのの極端なタイプでね。気持ちが沈むほど雨を降らせるんだ。ま、放っておいても問題はないんだよ、普通はね。ただ、百合ちゃんの場合やりすぎちゃったんだね。さすがに毎日毎日、その地域だけ雨じゃ、【世 界】的にも放っておくことは出来なかったんだ」
 窓の外に手を出して、雨に濡れながら、アレクは静かに微笑んだまま続ける。あやはその姿をただじっと見つめていた。
「百合ちゃんは椿と太蔵の学校に実習に来ていた看護学校の生徒でね。椿たちとはそれで出逢ったらしいよ。普通『保護対象』とは必要以上の接触はしないのが当然なんだけど、ま、場合が場合だから仕方なかったんだ」
「看護学校の生徒?」
「養護教諭になりたかったんだって。椿の今の仕事だね」
 あやははっと息を呑んだ。
 屋上で、椿が言っていた言葉を思い出したのだ。

 ――この仕事を好きだといっていた人がいてね。
どんなに素敵なのか、見てみたかったの――
 
 あれは。あの台詞は、百合子のことだったのだ。
「それがまぁ、問題の発端だったんだけどね」
「問題?」
「そう」
 アレクの口元が歪んだ。歪な笑みに、背中に悪寒が走る。
「椿と太蔵に指令が行って、ボクとニナも派遣されて、百合ちゃんに対する指令を遂行するまでに、色々あって三週間かかったんだけど、その間に」
 雨に濡れた手を引っ込めて、ゆっくりと口元に持っていく。歪んだ笑みの浮かぶ口元に、雫が伝った。
「百合ちゃんと椿は、互いを男女として見るようになったんだ」
 静かに静かに雨が降る。アレクの目があやに向けられて、けれど見返す前にあやは視線を落としていた。訊きたい事は沢山あった。けれど何からどう訊けばいいのか整理がつかない。
「指令を遂行したって……じゃあ、百合子は今、【世 界】にいる、のか」
「死んだよ」
 あっさりと――ひどくあっさりと告げられた言葉に、指先が震えた。何を言えばいいのか言葉も出ない。
「まぁ、本当は【世 界】的には排除じゃなくて保護を希望してたんだけど、本人が拒んだんじゃ仕方ないしね」
 あやは唇を強く結んだまま、膝に置いた自分の手を見つめていた。
 思い出すものがいくつもある。保健室に綺麗に飾られていた百合の花。太蔵の言葉に対してあからさまに怒りをぶつけた姿。傷ついたように伏せられた瞳。
 そのどれもが。そのすべてが。
 百合子に、関係しているのだと、したら。
 どんな関係だったのかは判らない。でも、大切に思っていたであろう事は、想像に容易い。
「じゃあ……百合子が雨を降らせ続けたせいで【世 界】が一条やお前らに勧誘の指令を出して……でも、勧誘を断った百合子は、死んで。それがきっかけで、一条たちは【世 界】を抜けた、んだな?」
「そ。飲み込み早くて嬉しいよ。そういうとこも、百合ちゃんにそっくり」
 その一言が、ずんと重くのしかかってきた。アレクの方を見れないまま、ただ自らの手を見下ろしたまま、あやは薄く唇を開いた。
「百合子とあたしは、そんなに似てるの、か――?」
 言葉が、空気に溶けた。
 アレクはのんびりした動作で窓を閉めると、また同じようにのんびりした動作でこちらに近づいてくる。
「パーツごとはそれ程でもないかな。確かに髪も目も君と同じように真っ黒だったけれど、百合ちゃんは髪長かったし、目もどっちかと言うとたれ目がちだったしね。でも、背が高いところとか、こうしてボクの話をわめかずに聞いてくれるところとかは、似てるよ。頭の回転が速いのも、洞察力があるところも、ね。百合ちゃんは君みたいに口が悪いわけじゃなかったけど、でも、強い女性だったよ。凛としてて、芯がしっかりしていたんだね。そういうところが、そっくりだと思うよ」
「ひとつ、訊いていいか」
「なーに?」
「何でこんなこと、あたしに話す?」
 静かに呟いた言葉に、アレクの視線が刺さるのが判った。ゆっくり、顔を上げる。表情が抜けたアレクが、静かにこちらを見据えていた。
 視線が絡み合うと、アレクの顔にまた笑みが戻ってくる。
「君が、気に入ったから。ボクね、強い女の人って好きなんだ。それに君は、いちごだから」
「いちご?」
「そ。ショートケーキのいちご」
 唐突な言葉に、あやは怪訝な表情を浮かべた。話の流れが見えない。
「それどういう」
「あやちゃんは」
 こちらの言葉を遮ると、アレクは強い口調で告げてきた。言葉を飲み込むと、アレクは満足そうに頷いてから、続ける。
「あやちゃんは、ショートケーキのいちご、先に食べる? 後に食べる?」
「それが今何の関係が――」
「どっちかって、訊いてるの」
 有無を言わさぬ強い口調に、あやは苛立ちを何とか押さえ込んで渇いた喉から言葉をひねり出す。
「……先に食う。それが何の関係があるって」
 言いかけた途端、叫び声が届いてきた。
「アレク! いるなら出て来い!」
 廊下から聞こえる叫び声は――
「一条」
 はっとして、廊下側に目を向けた。まだ、この場所からは遠そうだが、確実に一条椿の声だった。
「タイムアウト、か」
 ふぅとアレクがため息をついた。そっと、あやの手にアレクの手が触れた。
「椿のあの口調」
「なん」
「何でだと思う?」
 強く、手を握られ。唐突な問いを、繰り返され。
 あやは答えるすべを持たず、混乱した頭のままアレクを見つめるしか出来なかった。アレクのアイスブルーの目が、あやを覗き込んでくる。
 あの口調。あの喋り方、は。

 ――大人の事情、かしら――

 ドクンと心臓が跳ねた。アレクはこっちの気持ちを知ってか知らずか、軽い口調で続ける。
「推測だけど、ボクは百合ちゃんの代わりだとしか思えないんだ。あの口調も、保健室の先生って仕事も、力を使わないって叫んだのも、全部百合ちゃんだよ。百合ちゃんのものでしかない。百合ちゃんが望んだものでしかない。でも、今ちょっと、椿の口調、椿らしくなってきてるよね。何でだと思う?」
 問いかけておきながら、アレクはこちらの答えを待つ間は作らなかった。
「もちろん、ボクやニナが来たから八年前に近い気持ちになってるのもあるんだろうけれど、一番の理由は君だよ」
「あ、たし?」
「そう」
 心臓が、痛いほどに高鳴っていた。それでもアレクは、笑みを消さなかった。
 指を絡ませてきたまま、机に座ったあやの前に立ち、視線を合わせてくる。歪んだ、アイスブルーの目が、視界いっぱいに広がった。
「百合子の代わりを見つけたから」
 また、心臓が跳ねた。
「雨が降る六月。異端が力を暴走させて【世 界】が動いた。場所は学校。勧誘に関わっているのはボクとニナ。状況は八年前と酷似しているよ。それに加えて、力を暴走させたのは百合ちゃんそっくりの君。八年前、椿は百合ちゃんを守れなかった。後悔しているはずだよ。【世 界】を抜けて、力を封印して、こんな職業を選ぶくらいには、ね。百合ちゃんはあの時死んだ。けれど椿は、百合ちゃんの代わりに生きようとしている」
 ドン! と強い音がした。
 また心臓が跳ねたのかと、アレクにつかまっていない手で胸元を押さえたが、違う。教室のドアが、強く叩かれていた。
 はっとして、顔をそちらに向けようとしたが叶わなかった。アレクの手が、今度はあやの頬に触れた。無理やり顔をアレクへと向けられる。
「でも、もう必要ないんだ。だって代わりを見つけたから。そう、君だよ。君がいるから、椿は自分が百合子の代わりをする必要がなくなった。そして今度は君を守ろうとしている。百合ちゃんの代わりにね」
 そこまで言うと、アレクは手を離した。
 あやの肩を軽く叩いて、教室のドアへと向かう。ドアの向こうからは叫び声が聞こえていたが、心臓の音がうるさすぎて、何も聞き取れなかった。それなのにアレクの言葉だけは、一音一音確かに耳に残った。
 アレクが足を止めるのが判った。顔を向けられなかったが、耳だけはアレクの声を確かに捕らえていた。
「前田あや。君は椿にとって、日野百合子の代わりでしかないんだよ」


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