第六章 :  やさしい言葉  


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 訊きたい事がある。はっきりさせたい事がある。
 だからもう、逃げたくない。



 図書室を飛び出した。走ってきたばかりの廊下を、今度は逆に走っていく。一度は逃げ出す為に走った廊下だ。けれど、今は違う。逃げたくないから走っていた。
 太蔵は逃げることは気に喰わないといったが、実のところあやは逃げることが悪いとは思わない。
 実際ここだって、逃げから見つけた場所だ。
 けれど、違う。
 先のある逃げならいい。得るものがある逃げならいい。けれど、今ここであの養護教諭から逃げたところで、先も得るものも何もない。先のない逃げは、本当にただの愚行でしかない。それは嫌だった。だから、逃げたくなかった。
 廊下をぬけて、角を曲がり、先ほど飛び出した部屋を探す。『環境実習室1』とプレートのかかった部屋を見つけ、そこだと気づいた。リノリウムの床を強く蹴り、速度を上げる。ドアに手をかけた。
 飛び込む。そして次の瞬間、あやは悲鳴を上げていた。
「――一条っ!」
 部屋の中、ガラスや顕微鏡の残骸が散らばった床に、椿がうつ伏せに倒れていた。肩からの血の他に頭も切っているのか、うつ伏せになった耳の脇に赤いものが見えた。床にも転々と、血痕が残っている。慌てて駆け寄ろうとして、ぐっと肩を掴まれた。振り返る。アレクだ。アレクが笑みを浮かべて、立っていた。こちらも頬を切ってはいるようだったが、どう見ても椿のほうが重傷だった。
「あやちゃんから来てくれるなんてラッキーだな」
 アレクの笑みに、あやはぐっと下唇を噛んだ。
「て、めぇ……」
「まだ殺しちゃいないよ」
 倒れたままの椿に一瞥を投げると、アレクが冷たく吐き捨てる。ほぼ同時に、廊下から太蔵の声がした。梨花もいるようだ。甲高い悲鳴が上がる。アレクに肩を掴まれたままそちらを見やり、あやは目を見開いた。
 太蔵の体がびくんと跳ねた。
「……え?」
 梨花の呆けたような声。それに重なるように、太蔵がゆっくりと床に沈んでいく。
「井伊ちゃんっ!?」
「うきゃっ……」
 あやが叫ぶと同時に、今度は梨花の悲鳴が上がった。
 慌てて視線をそちらにやると、梨花の背後にニナが立っていた。
「梨花っ」
 叫び――梨花の首元に、鈍く光るナイフを見つけ、あやは思わず立ち竦んだ。さしもの梨花も動けずに固まっている。
 ひゅう、と口笛が鳴った。あやの肩を掴んだままのアレクが吹いたのだ。
「鮮やか。さすがだね、ニナ。実動特務の影と言われるだけはあるよ。どうだい? かつての恩師でもある本物の《影絵》使いを床に沈めた気分は?」
「口を慎みなさい、アレク。戯言を言う暇があるなら任務を遂行なさい」
「君に命令される覚えはないけれどね。まぁいいや。さって、と。どうする、あやちゃん?」
 問われ、あやはぐっと奥歯を噛んだ。足が震える。背中を冷たい汗が伝った。ゆっくりと後退しながら、混乱する頭を何とか落ち着かせようと試みる。
 今ここにいるのは、自分と梨花、椿に太蔵。それから、アレクとニナ。そのうち椿と太蔵は倒れていて、梨花の首元にはナイフがある。アレクとニナにはほとんど外傷もない。
 あやだけだった。自分の身を守れるのも、梨花を助けられるのも、今はあやだけでしかなかった。
 後退していた足が止まる。背中に、何かが当たった。視線だけをそちらに向ける。掃除用具入れだ。咄嗟に後ろ手で戸をあけた。一本だけ引っつかみ、引き寄せる。乱暴に引き寄せたせいか、ちり取りや箒が倒れて音を立てた。その音を背に、あやはぐっと柄を握りなおした。箒の柄の先を、アレクに向ける。
 一瞬、アレクはきょとんとした顔をした。それから、腹を抱えて笑い出す。
「あ、あっははははは! 何それ、それでボクと戦うつもり? 見上げたよ、驚いた。本当に面白いね、君は!」
「うるさいっ! 梨花を放せよ。井伊ちゃんと一条に何したんだよっ!」
 怒鳴りつけると、笑い続けるアレクの代わりに、ニナが静かに答えてきた。
「太蔵は、少し気を失っているだけです。今のところ命に別状はありません。椿のほうは……このままだと保障は出来かねますが」
 その言葉に、梨花がぎょっと目を見開く。
「なっ、椿ちゃん!?」
「動かないでください」
 動きかけた梨花に、ニナがぐっと強くナイフを押し付けた。梨花が体を強張らせる。まるで非現実的な光景に、身体の震えが止まらなかった。箒を構えたまま、あやは声を上げた。
「一条、一条っ! 聞こえてンだろっ!? 目ぇ開けろよ! 井伊ちゃんも何やってンだよっ、梨花助けろよっ」
「落ち着いてください、前田あや」
 ニナの声は、まるで風鈴のように涼やかで、とてもじゃないがこの状況に似つかわしいとはあやには思えなかった。
「私とてこのような事がしたいわけではありません。ただ、貴女に契約して頂きたいのです。いえ、契約でなくとも、力の破棄でも構いません。どちらかを選んで頂きたいのです」
「何言って」
「さっきも言ったよ、前田あや」
 ひとしきり笑い終えたらしいアレクが、台詞を引き継いだ。横たわったままの椿の傍へ歩み寄っていく。
「君の力は日常に不都合をもたらせる。実際あのタイミングでニナがずらしてなかったら、学校という君の日常は確実に壊れていただろうね。その点では君、ニナに感謝してもいいくらいなんだよ」
「アレク。余計なことは」
「いいから話させてよ、ニナ」
 床に転々と散った椿の血を爪先で延ばしながら、アレクは笑む。
「この状況は全部、君が招いているんだよ。椿も太蔵も、そこのちびっ子もね。さっきニナは太蔵は大丈夫って言ったけど、ボクはどうかと思うよ? 確かにニナは訓練を受けているし優秀だし、あの技も習得してるけど、危険度は高いからね。リミットは五分だね。それ以上目覚めなかったらやばいって思って。さて、太蔵が気絶してから今までで何分経ったかな」
 あやはぐっと柄を握る手に力を込めた。アレクの嫌味なのだろうかとは思うが、それでも高鳴る心臓を抑えられはしない。
 ニナが、ふっと息を吐いた。
「――初めの確認で、驚かせたことはお詫びします。その後も、抵抗に対して実力行使に出たことも重ねて詫びましょう。けれどあれは、力が使いやすくなるこの《空間》内での貴女の力――つまりは潜在的な力量を知りたかったゆえであって、命を狙ったわけではありませんでした。あそこで太蔵が力を使ったのは、想定外でしたけれど」
 かすかに視線を落とし、それからニナはもう一度あやを見据えてきた。
「前田あや。貴女には選択権があります。力を封印し、力に関する一切の記憶――幼い頃から、今この空間での出来事も含め全てを忘れるか、あるいは【世 界】に入り、力の制御を学ぶか。よく考えてください。【世 界】は貴女に不利な条件など与えていないはずです。どちらにせよ、貴女の日常を守る為の手段です」
「君がどっちかを選択すれば、ちびっ子の命は保障してあげる。もちろん君のもね。ニナに《空間》も解かせるから、椿たちも、ま、一応無事さ。ボク的には不満だけど」
「アレク」
「判ってるってば。とにかく《空間》を解けば、ここでの物理的痕跡はゼロになって、ニナがずらす直前へと時間も空間も戻ることになるからね。ああ、死んだら別だけど」
 そう言うと、アレクは微笑んで一歩、足を踏み出してきた。あやは箒を握り締め、声を張り上げた。
「近寄ンなぁっ!」
 箒を力いっぱい振り下ろす。が、その箒の柄がくるりと回った。え、と思う間もなく、腹に衝撃が来た。
「――ッ!?」
 声も出せなかった。掃除用具入れに背中から強くぶつかり、そのまま床に落ちる。落ちた拍子に、散っていたガラスで膝と頬を切った。激痛は、その頃になってようやくやってきた。吐き気がした。身を二つに折り、嘔吐する。胃液と、僅かな『メロンパンだったもの』が床に広がった。何度も咳き込みながら、箒の柄で腹を突かれたのだとやっと理解した。
「あやちゃんっ!」
「正当防衛正当防衛。別にボク、そんなに強くやってないしねー」
 アレクが笑う。悔しさに滲む涙をこらえながら、あやはぐっと口元をぬぐった。身を起こすことは出来ないが、睨むことは出来る。少しでも、抵抗は、諦めたくなかった。
「最後にもう一度訊くよ、あやちゃん。どうする? ボクらのところに来る? 記憶を消しちゃう?」
 アレクの言葉に――あやは一度、梨花を見た。梨花はこちらの視線を受けると、ぐっと唇を結んでみせてきた。ニナにナイフを突きつけられながらも、梨花は強い眼差しを崩していなかった。その目が、言っている。あやちゃんのことは、あやちゃんが決めていいよ。梨花は、大丈夫だから。
 どっちも断ればどうなるのかは、判っていた。それでも、決意したことがある。
 口内に残る酸味も苦味も一度唾とともに吐き出してから、あやはゆっくり息を吸い込んだ。心臓がどくどくと音を立てている。それでも、逃げたくなかった。椿も、太蔵も倒れていて、自分もこの有様で、けれど譲れない思いを譲りたくはなかった。
 ここは、自分で手にいれた自分の場所だから。
 逃げたくなんてなかった。
 この空間でのことも、今までのことも、力に関していい思い出なんてほとんどない。けれどそれも含めて、全部、前田あやなのだ。否定なんてしたくなかった。それにこの空間のことを全て忘れてしまったとしたら、自分は椿に対して、やっぱりただ嫌悪しか抱けないままになる。それは、嫌だった。あの屋上での出来事も、忘れたくなんてない。ましてや【世 界】に入るなど、選択肢になんてなりえない。
「どっちも、ノーだ」
 アレクの目が細まる。あやはアレクを睨みあげた。心臓はかわらず早鐘を打っていて、ともすれば目を閉じて恐怖に身が竦みそうになっていたが、目を閉じることはしなかった。胸中で、呻いた。
 閉じてなんかやるもんか。たとえ死んだって、睨みつけたまま息絶えてやる。
 それが、今の自分に出来る、精一杯の抵抗だ。
「ノーだ。あたしは、この場所で生きていく。梨花たちと一緒に。あたしの全てを、受け入れたまま」
 視界の隅で、梨花が満足そうに微笑むのが見えた。この状況で笑みを浮かべられる彼女の強さが、少しでも欲しいと切実に願う。今すぐには、手に入らなくても、これから、生きていくとするなら。それが叶うなら。
 ――叶うと、するなら。
 叶うとするなら、生きていきたい。力も、孤独主義も、全部受け入れたまま、いつか梨花のような確固たる強さを手に入れられるように前を向いて生きていきたい。チイや佳代やユキ、他のみんなも、もちろん太蔵や椿も含めて、環境も過去も何も、全てを含めて、受け入れたまま、日常を過ごしていきたい。そうだ。力だって、ずっとそばにあったものだから、日常の一部なのだ。
 叶うことなら。叶うならば。
 ただ、その願いは、今は少し無謀に過ぎるのかも、知れないけれど。
 アレクがにっこりと微笑んだ。
「ボク的には嬉しい答え。ゆっくり殺せるね」
「……っ、アレク!」
 ニナが、ふいに叫ぶ。が、アレクは冷たくニナに視線を投げた。
「口出しをするな、ニナ・フランシスカ・ルッツ。今回の件は、排除も【世 界】の指令に含まれていただろう。特にこの件に関しての最終決定権利は、特務リードのボクにある。お前が口出しすることじゃない」
 冷ややかな言葉に、ニナからの反論はなかった。冷たい眼差しのまま、アレクが笑んだ。しゃがみこみ、あやと視線を合わせてくる。
「おやすみ、あやちゃん。一緒に仕事が出来なくて残念だよ」
 アレクの手があやの頬に伸び――


 赤が、散った。


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