第六章 :  やさしい言葉  


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 ◇

 死んだのだと、思った。
 目を開けたまま、視界が赤に染まったとき、あやは自分が死んだのだと思った。だからこそ、声が聞こえたときは心臓がひっくり返りそうになって、ひっくり返りそうになった心臓が動いていると言う事実にもう一度驚愕した。

「――人がちょっと気を失ってる間に、何しくさりやがってんのかしらね、クソガキ」

 赤が舞っていた。身体を、誰かが支えてくれていた。誰か、なんて考えるまでもなかった。この奇妙な喋り口は、この場所にいる限り一人しかありえない。
 あやは目を見開いたまま、顔を上げた。視界に椿の顔が飛び込んできた。
 一条椿。
 彼に抱きしめられたまま、あやは立っていた。
「いちじょっ……!」
 思わず、叫ぶ。椿の目がかすかに緩んだ。額からあごにかけて赤い血が流れている。肩の怪我もある。口も切っているのか、血が滲んでいた。それ以外にも、腹や足にも、怪我をしているようだ。白衣もかなり、血で汚れている。それでも、椿は確かに立っている。
 周囲を、赤いものが舞っていた。花弁のようだ。空気中に舞う、無数の赤い華。いつの間にか、アレクは後退している。よく見ると、赤い華は椿とあやを中心に、旋風のように踊っていた。
「くっ……何、そろそろ死ぬ頃だっただろう、椿! 何で起きてるのさ!」
「相変わらず詰めが甘いわね、アレク。意識さえ取り戻せれば、力使って傷口くらい無理やり塞ぐわよ」
 吐き捨てるように椿が呟く。そして、あやを見下ろして微笑んできた。
「ごめんなさいね。遅くなって」
「一条……」
「これが、アタシの力。血液――体液を意思のままに操る能力。《血華》」
 赤い華が舞った。血液の華だ。アレクとニナが、再度後ろに下がる。ある程度距離をとると、華はそこで一度動きを止めた。椿は倒れたままの太蔵へと無造作に歩み寄ると、あやを片手で抱えたまま、太蔵の肩を蹴り飛ばした。
「ちょっ、何やってんだよお前っ」
「いーのよ。ほら、起きろよ太蔵。仕事だぜ」
 蹴られた太蔵が、微かに首を振った。顔を顰めながら、上体を起こす。
「……っ、何が起きて……」
「仕事だっつってんだろ」
「……?」
「生徒を守るのが、教師の仕事だろうが」
 床に落ちていた眼鏡を拾い上げ、まだ幾分ぼんやりした様子の太蔵が立ち上がる。椿の言動に、あやはひたすらぎょっとするしかなく、自分が生きている事実も、椿が立って力とやらを使っている事実も、いきなりには受け入れられなくて呆然とする。
 まだやや意識がぼんやりとしているのか、片手で顔を覆ったまま立ち上がった太蔵が、無造作にポケットに手を突っ込み――
 そして、その手が霞んだ。
 急な速さで、手にしていたらしい『何か』をニナへと投げつける。ニナと梨花が小さく声を上げた。同時に、金属が床に落ちる音がした。
「来い、姉!」
 太蔵が叫ぶ。それよりも早く梨花は動いていた。ニナの手を振り払い、こちらに駆けてくる。あやは手を伸ばし、梨花の手を掴んだ。抱き寄せる。
「梨花っ」
「あやちゃん、よかったっ」
 梨花が叫ぶ。梨花の頭を抱き寄せながら、あやは太蔵を見た。
「井伊ちゃん、今、何投げたんだ?」
「某白猫メロンパンバージョンの携帯ストラップだ」
「……へぇ」
 梨花の携帯にジャラジャラついているのは見た事があるが、太蔵がそれを持っている理由がよく判らなかった。が、今は特に問う必要のないことだと、あやは自分に言い聞かせた。
 とにもかくにも、とりあえずはほっとして椿を見上げる。若干、青ざめている。当然だろう。これだけ怪我しているのだ。
「一条、大丈夫かよ。井伊ちゃんも」
「まぁ、今のところはね。気をつけなさいよ、太蔵ちゃん。脳震盪だとしたらセカンド・インパクト・シンドロームが怖いんだから」
「どう考えてもその心配はお前のほうだろうが」
 太蔵が悪態をつく。相変わらず周りには血の華が停止していた。
 ナイフを落とされたニナが、手を庇いながらこちらを睨みすえている。アレクも、やや遠巻きにしながら、こちらを見つめていた。
「力、使わないんじゃなかったのか」
 片手で額を押さえたまま、太蔵が呟く。どう見てもまだ、本調子ではないらしい。足取りもやや危ないが、何とか立っているという状態だ。
 アレクを見据えたまま、椿がふっと笑みを浮かべた。
「ちょっと、ね」
 あやの頭に、椿の手が触れた。急に恥ずかしくなって、俯く。ふいに、椿が身をかがめ、あやの耳元で囁いた。
「あやちゃん」
「な、んだよ」
「力、使える?」
 問いかけに、一瞬梨花と顔を見合わせた。それから、静かに頷く。
「判らんけど、たぶん」
「可能だろう。《空間》内だから、力が使用しやすくなっているはずだ」
 太蔵の補足に、椿が満足そうに頷く。
「あやちゃん」
「……だから何だよ」
「アタシ、本当は今すぐ貴女にも梨花ちゃんにも逃げてもらいたいの。その間に、何とかするのが一番いいと思ってね」
 じりじりと後退しながら、椿が囁く。その目は、まっすぐアレクたちを牽制するように前に向けられたままだ。
「だから本当は、逃げて、って言いたい。でも貴女、それはいや、でしょう?」
 その言葉に、あやはもう一度梨花と顔を見合わせた。ふ、と苦笑が浮かぶ。
「ああ。嫌だ」
「ええ、だから。――アタシたちを、助けて頂戴」
 椿の目が、あやに向けられた。穏やかな、それでいてしなやかで強い眼差しに、一瞬呑まれる。ゆっくり、あやは頷いた。
「ああ。どうすれば、いい?」
「いったん外に出ろ」
 答えたのは太蔵だった。す、と視線を背後に向ける。つられて視線をやると、準備室への扉が見えた。すぐに、視線を前に戻す。太蔵が背中を扉につけて、後ろ手に鍵を開けた。
「ここは狭すぎる。あいつらは二人とも飛び道具だ。障害物があって広い場所のほうがいい。中庭に向かえ」
「逃げろってのかよ」
「手伝えって言ってるんだ。下で待っていろ」
「……判った」
 小さく、頷く。ふいに、椿があやの手を握ってきた。ぎょっとして、見上げる。横顔のまま、椿が笑んでいた。
「信じてるわ」
 ささやきと同時に、手が離される。
 とくんと、心臓が熱を持って跳ねた。手のひらも、顔も、熱かった。ふぅと息を吐き、腰を落とした。まだ、腹を突かれた気持ち悪さは残っていたが、自分のこれは、椿たちに比べれば大した事もないはずだ。
「さん」
 太蔵が呟いた。
「に」
 椿が身をかがめる。
「いち」
 梨花があやの手を強く握った。
「ゼロ!」
 あやは梨花の手を引いて、準備室のドアを蹴り開けた。

 ◇

 準備室に飛び込んだ。同時に、実習室のほうでは騒ぎが起きていた。喧騒を背に、梨花と二人廊下を駆け出す。心配でないと言えば嘘になる。けれど、椿はあやを信じるといったのだ。だったら、信じ返すのが当然だろう。
 図書室側の階段へと走っていく。二段飛ばしで階段を駆け下りた。膝もおなかもがくんがくんと衝撃を受けたが、今はとにかく無視だ。リノリウムの床に滑りそうになりながらも、上がる息を何とか抑えて走る。ピロティに降り、すぐに中庭が見えた。左手には保健室もある。中庭に飛び出した。まだ雨が降っている。
 確かに中庭は障害物が多い。青々とした桜の樹が数本に、小さな溜め池。ベンチにテーブル。花壇。隠れやすいのは隠れやすいだろうが、太蔵が何故ここを指定したのかは判らない。
「あやちゃん、上っ!」
 梨花が叫んだ。反射的に視線を上げる。ちょうど保健室の真上に、実習室はあるはずだ。
 そう思って見上げ――あやは思わず裏返った声を上げていた。
「う、えええっ!?」
 男が二人、危うくおちそうな状態で窓辺で押し合っている。椿と、アレクだ。
「きゃーっ、落ちるーっ!?」
 梨花も悲鳴を上げた。窓ガラスが割れて、破片が落ちてくる。慌てて下がる。木の葉に遮られて、ガラス片はほとんど落ちてこなかった。
「妹! 落ちたら力使え!」
「はぁっ!?」
 上から顔を出し叫んでくる太蔵に、混乱して叫び返すしか出来ない。
 その瞬間、窓枠ギリギリで揉みあっていた椿とアレク、二人の手が、離れた。
「――ッ!」
 何も、考えられなかった。
 二人が、同時に落ちてくる。何も考えず、あやは目を閉じた。ただ、信じようと思った。どうすればいいのかまでは、判らない。いまはもう、何とかして力を発動させることを、考えるだけだ。体の芯から、何かを急速に引っ張り出されたような脱力感が襲ってきた。同時に、木々が悲鳴のような音を立てた。目を開ける。梨花が強く手を握ってくれていた。
 恐る恐る、顔を上げた。視界に、赤色が飛び込んでくる。
「……いち、じょう」
 椿が、地面に座り込んだまま笑っていた。彼の周りを、赤い華が踊るように舞っている。
 そのすぐ傍に、意識を失った状態のアレクが横たわっていた。死んではいないようだ。うっすらと胸が上下している。
「一条。無事……なのか」
「ええ、一応。見ての通り、ね」
 ゆるく微笑む椿に、あやは思わずその場にしゃがみこんだ。
 梨花も一緒に座り込んで、安堵からか二人して涙を堪えきれなくなった。
 嗚咽が、漏れた。

 ◇

「……心臓、止まるかと思いました。なんて無茶するんですか、太蔵」
「二階程度じゃ、あの二人なら何とか受身とるだろう。普通でも死にはしない」
「アレクはともかく、椿のあの状態で受身なんて取れませんっ!」
 窓枠にしがみついたまま、ニナが叫ぶ。その姿を見下ろしながら、太蔵はひとつため息をついた。
「お前が素直に諦めてくれたら、最初からこんな真似はしないですんだんだよ」
「無茶言わないでください。私のせいにしないでください。卑怯です、太蔵、さっきから」
 うぅ、と呻いて、ニナが頭を抱えた。
「……悪かった。いいから落ち着け」
「あれ、何をしたんですか」
 何とか立ち上がり、中庭を見下ろしながらニナが問いかけてくる。太蔵は腕を組み、息を吐いた。
「単純だ。前田妹の力は《念動》の中でも《波動》タイプだからな。落下にあわせて力を発動させることで、下から波動を放出させた。その力で落下そのものの衝撃を相殺させ、ついでにアレクの身体に傷を負わせた。椿は前もって気づいていたから、自分の血で結界を張った。後は落下時に、樹が衝撃を和らげるのと、その樹の影に俺が質量を与えた。影をクッションにしたんだ」
「……そ、んなに一気に色々、考えてたんです、か」
「研究部出身を舐めるな。ついでに言えば、アレクが落ちるほうの質量はわざと落としてあるから、衝撃は結構あっただろうな。あのざまだ」
「はぁ……」
 生返事をしてくるニナの頭にもう一度手をやり、太蔵は息を吐いた。
「ニナ、諦めないか? 総帥に直接言え。椿と俺が、あの二人のことは見てるってな」
「でも貴方たちはすでに【世 界】を抜けています。その権利は」
「ないかもしれんが、実力はある。そのつもりだが?」
 反論を思いつかなかったのだろう。ニナが苦い顔をした。
「それに。――どういう理由かは判らないが、椿も力を使うようになった。妹が暴走を起こしかけても、何とか抑えられるだろう」
 少し、沈黙があった。ニナが大きく息を吐く。
「……総帥に、掛け合ってみます」
「頼む」
 ニナは、ほんの少し唇の端を持ち上げた。
「貴方に頼み事をされるとは思いませんでした。――では、《空間》を解きます」

 ◇

 椿の身体は実際、満身創痍と言って差し支えがないほどぼろぼろだった。あちこちに怪我を負っている。一通り泣きはらした後、あやは椿の傍に寄った。泣き顔を見られた恥ずかしさはあったが、無事なのは嬉しかった。
 力尽きたのか、樹の幹に体を寄せたまま、椿は目を閉じていた。そっとその背に手を回し、上体を起こしてやる。椿は一瞬驚いたようだが、すぐに微笑んできた。
「あやちゃん、ありがとう」
「……別に、これくらいは」
「ええ、それもそうなんだけど、そうじゃなくて、ね」
 ふっと言葉を切ると、椿はもう一度まぶたを下ろす。荒い息の間から、それでも緩やかに言葉を紡いできた。
「――意識、失ってた暗いところでね、貴女の声が聞こえたの。……あたしの全てを受け入れたまま、って」
 椿の頭を支えながら、あやは気恥ずかしさに視線を逸らした。それでも、椿が笑んでいるのは判る。
「やさしい言葉だった」
 静かに、言葉が広がる。
「すごく、やさしくて……気持ちいい言葉だったわ。許された気がした。百合子が死んでから、自分のこと、力も、何も、否定していたけれど……否定しなくていいんだって、言われた気がしたの。代わりじゃなくてもいい、って」
 くすぐったい言葉に、唇を引き結ぶ。それは、オブラートにも包まれていない椿のストレートな感情だ。
「死んでも、力は使わないって思ってたわ。でも、違うのね。自分を、誰かを守る為なら、使ってもいいのよね」
 ふっと、椿の手があやの頬に触れた。血で汚れた手ではあったけれど、汚いとは思わなかった。梨花も同じように思ったのだろう。椿のもう片方の手を、そっと握っていた。
「どんな力があっても、アタシはもう花総の保健室の先生なんだから、ね」
 小さく、頷く。ここは、自分たちの居場所だ。全てを受け入れたまま、生きていく場所なのだから。
「そう思ったら、目が覚めたのよ。だから。ありがとう、あやちゃん」
 椿の言葉と同時に――


 ゆっくり視界が白く染まっていく。
 ゆっくり《空間》が解けていく。


 椿にばれないように、あやは緩む顔を俯いて隠した。
 どこからか、百合の花の匂いが漂ってきた気がした。


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