エピローグ:  


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 つい数分まで降っていた雨は、まるで風に吹かれたかのように止んだ。


 かつて廃ビルがあった場所は、今はただの駐車場に変わっていた。八年の歳月で、失った場所も消えた場所も多い。けれど消してそれは、思い出が消えることとイコールではない。
 駅から続く坂を上りきったところにある小さな駐車場の傍らに、椿は花束をそっと置いた。
 百合の花束。
 まだ湿気の残る風に揺れて、甘い香りを漂わせている。
 僅かに、目を伏せる。今日はちょうど、百合子の命日だった。
 目を閉じ、軽い黙祷を捧げる。それから立ち上がると、ゆっくり歩き出した。いまは厚い雲も、もうすぐ切れ間から太陽が顔を覗かせる程度にはなるだろう。
「つーばきちゃんっ」
 ふいに横手から飛び掛られ、椿は軽く笑い声を立てた。
「あら、びっくりした。どうしたの、梨花ちゃん。あやちゃんと太蔵ちゃんは?」
「ちょっと下にいるよ。梨花だけ先に来たのー」
 フリルの多いゴシック・ロリータファッションの梨花に見上げられ、椿は微笑んだ。どうでもいいが、パンクロックファッションの自分とこの少女では、養護教諭と生徒には見られないのだろうな、とぼんやり思う。
「どうしたの? 何か用?」
「うん、あのね。警告しとかなきゃって」
「けいこ……警告?」
 さらりと言われた言葉に、椿は思わず目を丸くした。梨花が、にっこりと微笑む。
「あやちゃんは、渡さないよ」
「……え?」
「あやちゃんは、梨花のだから」
 満面の、けれどうむを言わさない顔で告げられ、椿は一瞬呆然とする。その間に、梨花のふわふわとしたスカートは風と一緒に遠ざかって言った。どうやら、警告とはそういう意味、らしい。答えられず、椿はただ苦笑した。
 顔を上げる。と、雲の切れ間に青空が見えた。陽射しがきつく差し込んでくる。もうそろそろ、本格的に夏になる。
「一条」
 再度、名を呼ばれた。自販機の隣に、シンプルなジーンズ姿の前田あやとやたらふわふわした格好の梨花、それから太蔵がそろって立っていた。
「終わったのか? 百合子の」
「ええ」
 あやに頷くと、太蔵が先に歩き出した。いつも、近くまでは来るのだが太蔵は花を捧げるまでは行かない。それが彼なりのけじめなのだとしたら、少し寂しくはあるが仕方ないのだろうと椿は思っていた。
 その太蔵が、ふっと足を止めた。顔を上げ、空を見上げている。
「虹だな」
 手にしたビニール傘で、上空を指す。つられてみると、なるほど、雲の切れ間に一筋、虹が伸びている。
「きゃーっ、きれーいきれーい!」
 きゃあきゃあと飛び跳ねる梨花と、そこまで騒ぐ意味が判らずに首を傾げている太蔵が坂を下りていく。その背中を見守り、椿はふと笑んだ。
「一条」
 また、名を呼ばれた。振り向くと、あやが傍で立っている。
「どうしたの、あやちゃん。行かないの?」
「いや、行くけど。あのさ。この間のこと、でさ。話が、あって」
 つい先週の、あの一件の事だ。あの後アレクもニナも無理やりドイツへととりあえず返して、事は落着している。軽く首を傾げて、椿はゆっくり歩き出した。
「なぁに?」
 あやは少しだけ緊張した面持ちで、俯きながら歩いている。ゆっくりとした彼女のペースに歩を合わせながら、椿は坂を下り始める。
「あの、さ」
 あやが顔を上げた。正面から向かい合う。切れ長の黒瞳が、微かに揺れていた。
「――あたしは、誰かの代わり?」
 その言葉に、一瞬心臓を掴まれた気がした。けれどすぐ、椿は微笑んだ。
「百合子はね」
 あやの目に疑問符が浮かぶのを見ながら、椿はゆっくり言葉を続けた。
「百合子はね、自殺だったのよ」
 あやの目が、見開かれる。
 その目を見、椿はふぅと息を吐いた。風が頬を撫でていく感触が気持ちいい。
「雨が降り続いた原因、はね。その直前に百合子はフィアンセを亡くしていたのよ。それなのに【世 界】のことでもいろいろあって……追い詰められていっちゃったの、ね。自分の力がなければこんな事にならなかったのに、って。でも、記憶を消したくはない、って泣いたのよ。こんな力、いらなかったのにって、百合子は泣いたわ」
 あやは何も言わなかった。ゆっくり、ゆっくり、隣を歩いている。
「百合子を追い詰めたアレクに対して、アタシは容赦できなくて、殺し合いみたいになっちゃって、結局共倒れしてね。アタシが目を覚ましたとき、百合子はもう、遺書を残して自殺していたの」
 ふいに、手のひらに感触を覚えた。視線をやると、あやが俯いたまま手を握ってきていた。思わず、微笑んでいた。ゆるく、その手を握り返す。
「そのとき、もう自分は死んだんだって、思ったのよ」
 守れなかった。その罪悪感に押しつぶされそうだった。もう死んだも同じだと、思った。
「【世 界】を抜けたわ。力も使わないように決めた。進路も看護系の大学に決めて、百合子の代わりに生きようって、そんなふうに思ったわ」
「その口調もか?」
「あー……。これは最初は、ただのノリ。なんとなく、定着しちゃったんだけどね……」
 きちんと意識していたわけではない。ただ、言われて気づいた。確かにこの口調もどこか、百合子を意識してのことだったのだろう。
「今も、代わりに生きてるつもりじゃないよな?」
 あやに見上げられ、椿はふっと微笑んだ。
「ええ。貴女の言葉で目が覚めたわ。今のアタシは、花総の養護教諭の一条椿、だから」
「じゃ、何で口調そのまんまなわけ?」
 問われ――椿は思わず視線を泳がせていた。
「……それが、その、ねぇ。八年って結構長いわけ、なのよね。こう……ああいう状況ならともかく、普段はなんというかこう、ねぇ。癖と言うか慣れというか、なかなか元に戻らなくて。うふ、うふふ……困っちゃうわねぇ」
「……あ、そ」
 冷たい言葉に、恐る恐る顔を覗き込む。
「や、やっぱりこの口調、気持ち悪い?」
「気色悪い。」
 ざくっと言い切られ、椿は泣きながら笑うしかなかった。生理的に受け付けられない場合はもうどうしようもないだろうな、と思う。
「けど」
「え?」
「……『一条椿』がその口調なら、許さなくもない」
 そっぽを向いて、ぼそりと呟かれた言葉に、椿はまた小さく笑っていた。意地っ張りだが、やさしいのだと確かに伝わってくる。
 ゆっくり、ゆっくり、歩いていく。空にかかった虹の下を、ゆっくりと進んでいく。
「なぁ、一条」
「ん?」
「お前さ、一度死んだって、言ったけど」
 虹を見上げながら、あやが呟く。
「……おまえ『椿』だろ。いいんじゃん? 椿の花って、落ちた後も咲いてるし、二回目生きてるって事じゃダメか?」
 その、言葉に。椿は思わず目を丸くしていた。それから、思わず声を立てて笑っていた。悔しいし、今思い出したいとも思わなかったが、アレクの言っていた『すごい子だ』を確かに身をもって理解した。
 そんな言葉、百合子にも言われたことのないものだった。
「なんっ……笑うなよっ、あーもうーっ、言うんじゃなかったっ」
 顔を赤くしたあやが、手を振り払って走っていく。慌てて、その手をもう一度掴んだ。
「ああ、待って待って。ごめんなさい! 嬉しかったの、嬉しかったんだってば!」
「うーるーせーっ。バカにしやがって!」
「してないわよっ、最高よ貴女もう。ときめいちゃったわ」
「気色悪い台詞を抜かすな」
 くすくすと笑うと、あやは拗ねたようにそっぽを向いた。その頭を軽く叩いて、もう一度手を握りなおす。嫌がれるかと思ったが、振り払われはしなかった。
「素敵ね、そういう考え方」
「……笑いやがったくせに」
「嬉しかったからよ。この名前母が付けたのよ。好きな花の名前ってね」
「へぇ。じゃ、一緒か」
「え?」
 目を瞬かせると、あやは少し恥ずかしそうに俯いた。
「あたしの名前、二個由来があんだけど、一個は同じ。母さんが好きな花の名前。ホントは、あやめってつけるつもりだったんだって。誕生日が九月だからあわないって事でやめになったらしいけど」
「……あらー。じゃ、同じ花の名前だったのね。ああ。そっか。梨花ちゃんも梨の花って書くものねぇ」
「そう。梨花四月生まれだし」
「もう一個の由来は?」
 問いかけると、繋がっていない方の手であやは空中に文字を書いた。
 ――彩。
「色彩の彩。彩りって意味。ひらがなにしたら、両方入れられるだろ、って事で、この名前」
 その名は――雨上がりに今空に咲いている、虹のようで。
 そう思うと、椿はまた笑っていた。恐らくそんな事を口に出した日には、この照れ屋の生徒は殴りかかってくるかもしれないな、と考えたのだ。
「……何だよ。どうせ似合わねぇよ」
「いいえ。すっごく素敵な名前よ」
 微笑んで、頭を撫でる。それから、椿は虹を仰いで息を吸った。
「貴女が強い子で良かった」
「え……?」
「アタシは、百合子の代わりにはなれない。もちろん、貴女もね。百合子は自殺を選んでしまったけれど、貴女はアタシの目を覚ましてもくれたわ」
 小さな手を握り返して、椿は立ち止まった。ゆっくりと微笑む。
「百合子の代わりはいないわ、誰も。貴女は、貴女。強くて、カッコよくて、綺麗で、口が悪くて、でも、やさしい。――アタシの大切な生徒よ」
 あやが俯いた。ゆっくり、手を離される。そのまま、数歩先へ駆けて行く。虹の向こうへ消えてしまいそうで、椿は慌てて声を上げた。
「あやちゃん?」

「椿!」

 走っていたあやが、立ち止まった。振り返ってくる。
 その顔は、満面の笑みに彩られていた。
「――ありがと」
 虹に彩られ、微笑を浮かべる少女を椿は目を細めて見やった。すぐにあやは正面を向いて、前を行く従姉のもとへと走り出す。
 その背中を見送って、椿は空を仰いだ。
 虹が架かっている。雨の残り香を胸いっぱいに吸い込んで、椿も駆け出した。

――Fin.


執筆:中原まなみ

掲載: "夏空ノスタルジック" http://manamin.itigo.jp/


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