第二章  夕立と秘密基地


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「うーん、羽衣伝説って意外とややこしいんだねぇ」
『そうみたいね』
「自分のことなのに、他人事?」
 パジャマ姿で布団の上でストレッチをしながら、隣に置いた布に話しかける。しっかり筋肉ほぐしておかないと、今日はもうなんか絶対疲労しているから、明日の朝が怖い。朝、神奈川の自宅を出たことがえらく遠く思える。
 ――ホント、変な一日だ。ちょっとだけ苦笑が漏れた。朝起きて夜寝るまでがこんなに長かったのっていつ以来だろう。頭も身体もパンパンに疲れてるけど、なんだかちょっと楽しい。
『他人事、って言われてもねぇ。自分のことだとしても判んないわよ、伝説なんて言われても』
「まぁ、記憶ないなら仕方ないか。あ、ねぇ、大島さんいろいろ知ってそうだし、話してみる?」
『あのねぇ。確かにあのくまの知識は使えそうではあったけど、こっちの言葉が判らないんじゃ意味ないでしょうが』
 くまと言い切ったか布。まぁ、一理あるけどさ。
「そっかぁ。天女の子孫にしか聞こえないんだっけ?」
『推測だけどね。詳しくは覚えてないから。可能性として考えられるのはそっちしかないからきっとそうでしょうけど』
「じゃ、じぃじも聞こえるの?」
『ああ、時雨のほうが本筋なのね? だったら、たぶんね。桔梗は無理でしょうけど』
「ばぁば無理なら言わないほうがいいかな」
『あら、どうして?』
「きょうちゃんには聞こえないなんてひどい、かわいそうじゃ、って泣くよ絶対」
 羽衣が軽く声を立てて笑った。
 コツン。
 ふいに軽い音が部屋に割り込んできて、あたしと羽衣は同時に笑いを引っ込めた。
 と、もう一度コツンと軽い音がする。窓からだ。
 布団から立ち上がって、もう閉めてあったカーテンを引いた。もう一度、コツン。
「……心霊現象だったりしないよね」
『自分で言うのもなんだけど、わたしに話しかけながら心配するものじゃないと思うわ、それ』
 確かに喋る布のほうが心霊現象っぽいけどさ。
 また、コツン。一度羽衣をぎゅうと握ってから、あたしは思い切って窓を開けた。
 外灯の少ないこの島の夜は、神奈川の夜よりずっと闇が濃い。潮風がふんわりと流れ込んできて、あたしの前髪を揺らしていく。りりり、と何かの虫の音が聞こえて――そして、闇の中に知った顔を見つける。
「――瀬戸くん?」
 思わず驚いて声を上げた。窓から見えるのは、向かいの家――瀬戸家で、その部屋の窓からは瀬戸くんが顔を出していた。夜の中で、部屋の明かりがあるせいで妙にくっきり浮かび上がって見える。その瀬戸くんがひらり、と手を振ってきた。
「よう」
「びっくりしたー。今のコツンコツンて瀬戸くん?」
「ん。消しゴム」
 単語だけで喋ってくるけど、何となく判る。消しゴムの欠片でも投げてきていたんだろう。
「瀬戸くんの部屋、そこなんだ?」
「そう」
「若菜ちゃんは?」
「寝た。まだ起きてたんだな、あんた」
「羽衣と話してたの」
 その言葉に反応してか、布団の傍から羽衣がふわりと舞ってきた。あたしの肩に巻きついて、瀬戸くんに布の片方だけをひらひらと振る。
『あら、ひねくれ坊や。こんな時間に女子を呼ぶなんてなぁに、夜這いでもかけるつもり?』
「別に」
『……少しは会話を成り立たせようとしなさいよ』
 瀬戸くんが布に会話の説教を垂れられたのが気に喰わないのか、少し不機嫌な顔をする。その顔を見て、あたしは小さく笑っていた。
「口喧嘩とか、苦手そうだね」
「まぁ、しないな」
「若菜ちゃんとかは?」
「負けてる」
 一方的に、ってことだろう。苦い顔の瀬戸くんにもう一度笑って、あたしは軽く首を傾げた。
「で、何か用?」
「え」
「……? 用、あったんじゃないの?」
 消しゴムで呼んだんだし、と続けると瀬戸くんは口を噤んでしまう。
「あれ、瀬戸くーん?」
もとい
「へ?」
 唐突な言葉に、あたしと羽衣は揃って顔を見合わせてしまった。もう一度瀬戸くんの方を見ると、彼はまた眉間に皺を寄せて軽く頭をかいていた。少し早口になって、言う。
「名前。基でいい」
「えっと……呼び捨てにしろってこと?」
「くんは気持ち悪い」
 気持ち悪いって……。すごい言い草だな、と思いながらもあたしは軽く笑って頷いた。
「判った、じゃあそう呼ぶ。用って、もしかしてそれ?」
「まぁ」
 う、ううむ。律儀な人だ。口数少ないし顔立ちは割りとクールめだし、冷たいように見られる気もするけど、中身はものすごく義理堅いのかもしれない。ギャップがあって面白い。もっと知ればもっと見えてくる、かな? 羽衣に囁くと、布は軽く笑ってくるん、と回転した。
「あかね」
「え。あ、何?」
「今日、疲れただろ。しっかり休めよ」
 瀬戸くん――じゃない。基がそう言って軽く微笑む。
「そうでもないよ。意外と頑丈に出来てるんだ、あたし」
 にっと笑って見せると、基は小さく苦笑した。
「嘘付け。疲れた顔してる」
 ――そう、かな。そっと頬に手を当ててみる。あんまり人に心配なんてさせたくないから、疲れた顔なんてしてるつもりなかったんだけど。実際ばぁばだって、気付いてないはずなのに。
 あたしの内心を知ってか知らずか、基はもう一度ひらりと手を振った。
「じゃ、おやすみ。ちゃんと寝ろよ」
「あ、せ……、基!」
「ん?」
 窓を閉めかけた基を呼び止める。あー、呼び捨てってちょっと緊張する。少しだけ身を乗り出して、早口で告げた。
「今日、ホントにありがとう!」
 あたしの言葉に、基の目が瞬いた。きょとんとした顔が、少しして笑顔になる。微笑じゃない。子どもみたいな、まっさらな笑顔。
「うん。おやすみ」
 笑って、手を振る。基の部屋――だろう、たぶん――の窓が閉められる。カーテンも引かれたのを見届けてから、あたしも部屋の窓を閉めてカーテンも引いた。電気を消し、羽衣を抱いて布団に潜る。小さく、笑みが零れた。
「ああいう顔、出来るんだね、基」
『子どもみたいな笑い方よねぇ。中身じじむさいのに』
「ね。なんか可愛かった」
『あら、あんたああいうの好み?』
 小さく笑い合いながら、なんだか楽しくなりそうだとわくわくしていた。
 ちょっといい気分で目を閉じた。身体はやっぱり疲れていて、いやたぶん精神方面も疲れていて、すぐに眠気が襲ってきた。眠りに落ちる寸前、やわらかい羽衣の声が耳に届いた。
『おやすみ、あかね』
 ――うん。おやすみ、羽衣。

 ◇

 夢を、見た。教室の夢だ。あたしは皆と笑っていて、張り切ったようにブイサインを出していた。あれはたぶん、入学してすぐの頃の夢だ。学級委員を決めるときだったと思う。
 ――あかね、あんた学級委員くらいチョロいじゃん?
 同中の女子にそう言われて、あたしは笑っていた。
 中学の頃は生徒会長もやっていたあたしにその話を振って来たのは、妥当な判断ではあったんだろうと思う。あたしもそう思ったからこそ断ることも出来ずに、結局笑顔で引き受けた。
 ほんの数ヶ月前の、現実。その現実をあたしは神奈川から遠く離れたこの島で夢に見た。
 まだ薄暗い部屋の天井を見上げてぼんやり思う。
……夢の中って、妙に自分を外から見ている気がするもんなんだな。
『あかね?』
 ふいに隣からの声に視線をずらすと、枕の脇に置いて合った布がするりと揺れた。漏れ掛けたため息を飲み込んで、ぽん、と羽衣を軽く撫でた。
「羽衣、起きてたの」
『まぁね。どうしたのよ』
「え?」
『うなされてたわよ』
 羽衣の一言に、そっと目を閉じる。まぶたの裏に浮かぶ青や緑の斑点を追い出すように、細く長い息をつく。
「平気。まだ夜明けまで少しあるでしょ。羽衣もちゃんと寝なよ」
 宥めるように笑って言うと、羽衣はそれ以上何も言わなかった。

 ◇

「ふぁぁ。でかいねぇ」
 その松の木を見上げて、あたしは間の抜けた声を上げた。
 嵯孤島の、港とは反対側に海水浴場がある。砂浜の傍に立った一本の松の木は、夏の陽射しを存分に受けて緑濃く堂々と聳え立っていた。
 あたしと基と若菜ちゃんと羽衣。それから若菜ちゃんが連れている犬のハナ。三人と一布一犬で、島の散策を始めたのだ。大島さんの話だけではよく判らない部分も多すぎたので、結局足で探すことになったわけだ。まぁ、足で探して天女に逢うための方法を見つけられるかというとそういう気は残念ながらあんまりしないのだけど、だからといって諦めるわけにもいかない。で、基たちに連れてこられたのがまずここ、嵯孤海岸だった。そしてその傍に立っている大きな大きな松の木。
「樹齢、何年くらいなの?」
「四百って聞いてる。二代目らしいけど」
「二代目? 初代は?」
「松喰い虫にやられたらしい」
 基がぶっきらぼうに答えてくれる。これが四百年で二代目か。初代がどれくらい立ってたかは知らないけど、相当昔の伝説なんだなぁ、天女の羽衣って。
「で、これがなんだっけ? 羽衣松?」
「天人松」
 基が言い直してくる。天人松。口の中で反芻してみた。
 足で探すにしてもどこから手を着ければ……足を向ければいいか判らなかったあたしに、この場所を勧めてきたのは大島さんと基だった。曰くこの木は、天女が水浴のときに羽衣をかけた松らしい。もっとも基の話を聞く限り、その二代目、になるけれど。
「あのね、あかねちゃん。天人松はうちが管理してるんだって」
「瀬戸家が管理? へぇ」
 つまり、瀬戸家は天人松と『後日談』を継承しているってこと、か。
 ……もしかして、高槻にも何かあったりするのだろうか。
「ねぇ。もしかしたらあまつ三家って、そういうのあったりするのかな?」
 あたしの言葉に若菜ちゃんが首を傾げる。
「そういうの?」
「瀬戸家みたいに伝承や継承があるかもしれない、ってことか?」
 基の補足に頷く。
「何となく、ありそうじゃない?」
「かもな。俺は瀬戸家のしか知らないが、高槻家にもあるかもな」
 だよね、と頷いてもう一度松を見上げる。こういうのがそうゴロゴロあるかは判んないけど、今度ばぁばかじぃじに訊いてみたほうがいいかもしれない。
「あ、そういえば羽衣。いっこ疑問が」
『なによ?』
 あたしの肩にストールよろしく覆いかぶさっていた羽衣が、ぴょこりと布の端を上げた。
「いや単純な疑問なんだけどさ、天女って羽衣とって隠されたら記憶なくしましたって言ってたけど、だとしたら何で羽衣脱いで水浴できるの? 記憶は平気なわけ?」
『だから松なのよ』
 当たり前の口調で意味不明な答えが返ってきた。
「はい? どういうこと?」
『松は常盤草ときわぐさというでしょう。神の降りる樹でもあるし、天女と存在の場所が近い樹だからね』
 ……ぶっちゃけあんまよく判んないけど、当人がそう言うならそう言うものなのかもしれない。あたしが腕を組んで松を見上げていると、若菜ちゃんが羽衣の裾をひっぱった。
「ねぇねぇ、羽衣」
『なに、ちびっ子』
「羽衣はどこまで覚えてるの?」
 若菜ちゃんの言葉に、あたしは基と顔を見合わせた。確かにそれは、確実に聞いておかなくてはならない部分だろう。忘れまくってたけど。
 羽衣はするりとあたしの肩を離れて宙に浮かび上がった。ハナの前をふらふら舞ってから、羽衣は器用に空中で停止した。
『よく判らないわ』
「駄目じゃんっ!?」
 思わず叫ぶと、羽衣にうるさい、と怒鳴られてしまった。理不尽だ。膨れるあたしの隣で、基がすっと手を上げた。
「羽衣。俺もいいか?」
 基の言葉に、羽衣は『ハイハイ』と軽く頷く。
「伝説では天女は天に帰ってる。でも今ここにお前が居るってことは、天女は地上か?」
 その言葉に、あたしと羽衣は一緒に黙り込んでしまった。
 確かにそうだ。伝説も羽衣も本当なら、どっちかに誤りがあることになる。羽衣が偽物じゃないなら、伝説が間違っている、ということだろうか。だったら、天女はどこに居るんだろう。
 しばらく無言になったあと、羽衣がはぁと大きな声を出した。
『ああもう。覚えてないこと突付かれてもほんっとに判んないんだからどうしようもないじゃない! ちょろちょろ見えてる絵はあるけどそれがどこでどう繋がってるのか全然判んないし……わたしだってどうしたらいいか判んないんだから。たぶん地上だと思う、くらいなのよ』
「うー……ごめん。じゃあその、見えてる絵って、例えば?」
『そうね。……そう、この松には見覚えある気がするのよ』
 羽衣はそう言うとさらに高く舞い上がった。基の頭の高さを超える。見上げるあたしたちの前で、風に舞い上がるしゃぼん玉のように高く高く上がっていく。そしてそのまま、羽衣はひらりと松の枝に引っかかった。
「羽衣ー?」
 呼びかけてみる。羽衣は心配ないとでも言うようにひらりと一片だけをこちらに振ってきた。
『何か思い出せないか、ちょっと考えてみるわ』
 そう言ったきり、羽衣は動かなくなった。少しの間下で待ってみたけれど、羽衣はそこから動こうとはしなかった。夏の陽に、照り返す海面の光に、羽衣はきらきらと輝いていたけど、どことなく艶やかな雰囲気はないように感じて、あたしたちは羽衣を残してその場を離れた。なんか、放っておいて、って言われている気がしたから。


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