第二章  夕立と秘密基地


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「うわあ、降って来た、降って来た!」
 若菜ちゃんが甲高い声を上げて先頭を走る。ハナも一緒だ。基と、羽衣を肩にかけたあたしもばたばたとその後についていった。むくむくと膨れ上がった入道雲が不穏な色をした雲に飲み込まれていった夕方、あっという間に空全体が灰色になって、大粒の雨が降り出したんだ。
 その日あたしたちはいつもの如く若菜ちゃんに連れられて、コタマ山の麓の森で遊んでいた。
「あかねちゃん、お兄ちゃん、早く早くっ」
 若菜ちゃんが大きく手を振っている。彼女の後ろには、木造の建物が見えた。
「え、入っていいの?」
「いいから」
 基が躊躇うあたしの背中を押す。いいと言うんだからいいんだろう。軽く頷いて、あたしは基たちと一緒にその建物に飛び込んだ。埃と、甘いような木の匂いがする。若菜ちゃんが扉を閉めた。雨音が、締め出される。あたしは大きく息を吐いた。
「あーっ、濡れたーっ」
「本降りになる前で良かったな」
『ちょっとあかねっ、わたしも拭きなさい!』
「うるさい布っ。あんたで拭くよ!?」
 ぱたぱたと身体の水滴を払うあたしの隣で、基が小さく苦笑する。羽衣と一通りいつもどおりの口論をしてから、あたしは天井を見上げた。大きな建物だ。古い木造で、天井も床も黒ずんだ木の色をしている。足元で床がきゅっと音を立てた。
 あたしたちが入ったところは、玄関口か何かだったらしい。入ってすぐの場所は少し開けていて、左右に廊下が伸びている。正面右手側に二階へ続く階段があって、正面左手側は奥へ続く廊下が伸びている。
「ねぇ、ここ何?」
「学校」言うと、基は二階へと足を進めた。羽衣を見下ろしてから、あたしも基の後についていく。階段がぎゅぎゅっと音を立てた。
 外の雨は相当強くなっているらしく、激しい雨音が聞こえてきていた。
「学校? 基たちの学校って御木島じゃなかった?」
「今はな。俺と青太は一時期ここに通ってた。若菜は通ってないけど」
「中学とか?」
「いや。廃校。俺が小学生のときまでは使われてたんだ」
「もともと、小学校も中学校もこの校舎だったんだって」
 若菜ちゃんが付け足してくれた。言われてからよく見れば、確かにそれらしい場所だと判る。低い階段やぼろぼろの手すりがそんな匂いを醸し出していた。
「木造校舎ってやつかぁ。あたし本物始めてみた」
「へぇ?」
 むしろまだ木造校舎なる建物が残っているとは考えていなかった。しげしげと眺めながらゆっくり歩く。壁に、卒業制作か何かのものだと思われる、木彫りのモチーフ画が掛かっていた。天女の絵だ。下に小さく、文字が彫られている。『村立 嵯孤島中学 第四十三期生 卒業制作』。
「廃校になっちゃったのって、過疎で?」
「そう。もともと少なかったけど、今俺や若菜くらいの年齢のやつって、島中で十人もいないし。校舎も古いから建て替えって話結構あったらしいけど、十人未満のためにそんな金裂くなら、廃校にしちゃって隣の島へ通わせればいいってことになったらしい」
 珍しく、基が長く話してくれた。それはたぶん、基にとって口を滑らかにするほどにはこの学校が大切だったということなんだろう。
「使わなくなってずっと放置されてるの?」
「壊されるよりはいい」
 基が微かに笑った。二階の廊下を少し進んで、近くの教室の扉を開ける。
 そこで、あたしは少し驚いてしまった。羽衣も驚いたのか、小さく『へぇ』と声を上げた。
 教室の中は思っていたよりずっと整理されていた。机は教室前方に寄せられてあって、面白いことに目新しいポスターがいくつも貼られていた。サッカー選手のもの、少し前にはやった映画のポスター。野球のバットやグローブも、漫画も置いてある。どこから調達してきたのか、アンティーク調の椅子やら穴の開いたソファなんかもある。古い黒板には落書きがしてあった。少なくとも、大分前にうっちゃられた場所という感じはしない。
「これって」
「俺と青太」
 基が端的に答えて教室に入り込んだ。なれた仕草で窓際に置いてあるソファに座る。
 若菜ちゃんも慣れているのか、ハナのリードを放した。ハナもハナで、わんと一声鳴くと教室の隅でおとなしく座っている。
「これってもしかして、秘密基地とか言うやつ?」
「まぁ、そんなとこ」
 羽衣がふわりと浮き上がって、面白そうに教室を眺めまわっている。
「あのね、羽衣、あかねちゃん。ここ教室いっぱいあるから。ここはお兄ちゃんたちのとこだけど、若菜が友だちと使ってる部屋もあるんだよ」
 若菜ちゃんがにこにこしながら教えてくれた。完全私用化してるんですか、廃校舎。
『面白いこと考えるわね』
 羽衣がひらひら舞いながらそう呟く。あたしも頷いた。秘密基地とかって子どもの頃あこがれたことはあるけれど、ホントに作ってる人がいるなんて考えてもなかった。ちょっと楽しい。
 感心してあたしも椅子に座ろうと足を踏み出しかけた、その時だった。
 ――ドォンッ
 激しい音ととほとんど同時に、窓の外が真っ白に光った。思わず、足が止まる。
「近いな、雷」
「ほんとだぁー。すぐにここ来て良かったねぇ、お兄ちゃん」
 のほほんと会話する兄妹のすぐ傍で、あたしは動けなくなっていた。
 ……ち、近いって言うか、近いって言うか……近すぎ……っ!
「あかね?」
 基がきょとんとした声を上げる。あたしは慌てて笑顔を作る。
「アッハ、ハハハハ、ちちちかいねぇっ」
「いや全力で不自然だから」
 基に冷静に突っ込まれた。だって、だってそれ以外にどうしろと……!
『あっら。あかねちゃーん。怖いんでちゅかー? いっつも強気でわたしに色々言うのに、雷が怖いんでちゅかー?』
 にやにや笑いながら、羽衣が纏わりついてくる。うわあ、うわああ、最高にムカつく……!
「このあたしに怖いものなんてあるわけないで――」
 雷鳴が響く。
「――ひゃうっ」
 うううう嘘です。嘘です。ごめんなさい……!
 咄嗟にしゃがみこんで何も言えなくなってしまう。音が、光が、ほとんど一緒って、うわぁ、どうしようどうしよう本当に近い……!
 羽衣は無言になってその場でふわふわ浮いている。ふっと短く息を吐く音がした。基だ。
「若菜。お前んとこ、ラジオと懐中電灯あったっけ?」
「うん、あるよ。取って来る?」
「念のためにな」
「はぁい」と若菜ちゃんがハナを連れて出て行く。その間にも、何度か雷鳴と雷光が轟く。
『あかね』
「ななななによっ!?」
『……いや、いいわ』
 羽衣が低く呟いた。教室に沈黙が落ちる。心臓が、いつかみたいにどっどっと早打っていた。
 じ、自慢ですが、あたしゴキブリ平気です。倒せます。虫も平気です。掴めはしないけど平気です。お化け屋敷の類も絶叫マシンも平気です。だけど雷は。雷だけは……! だって自然現象って倒せやしないし!
「あかね」
「だからなに!?」
「座れ」
 ため息と同時に吐き出され、あたしは無言で基の隣に座った。外はその間にもどんどん暗さを増していき雨も強くなって嫌がらせにしか思えない雷とかいう自然現象もひっきりなし――
「あかね」
 もう一度、名前を呼ばれる。あたしはすうっと大きく息を吸った。ゆっくり、吐き出す。
「平気」
「どこが」
「平気ったら平気」
 断言すると、基は困ったように目を歪ませた。羽衣が傍に寄ってきて、あたしの膝の上に乗る。ほんのり、湿っていた。
 大丈夫。好きじゃないけど、むしろ積極的に嫌いに分類したい現象だけど、大丈夫。めちゃめちゃに取り乱したりなんてしない。そんな恥ずかしい真似、しない。あたしは平気。だって皆、言うじゃない。あかねなら平気。あんたしっかりしてるから。あかねは強いから。皆、言うじゃない。だから平気。だから大丈夫。大丈夫じゃなきゃいけないんだ、あたしは。だから。
 ぐっと膝の上でこぶしを握ったとき、ぱっと視界が真っ白に光った。同時に、さっきとは比べ物にならないくらい大きな音が響いて、おしりがびりびりっと振動した。
「ひゃっ……!」
「どっか落ちたな」
 ぎゅっと強くこぶしを握って、強く強くまぶたも閉じて、それで何とか耐えようとしているとき。ふっと、耳に隣から基の呟きが聞こえてきた。
「お前、疲れない? そんな、気、張ってばっかで」
 ――一瞬、内心を見抜かれた気がした。
 動揺を外に漏らさないように、軽く唇を噛んでから基を見る。基はこちらを見ているわけではなく、壁のポスターを眺めながらじっと座っていた。
 気、張ってばっかで。
 基の声が、耳の奥に残ってリフレインしていた。心臓が、どくどくしてる。
「そんなの、基に判んの?」
 小さく、呟いていた。ああ、やだ。あたし、ヤな奴だ。羽衣が、膝の上で軽く嗜めるようにあたしの腿を叩いた。でも、あたしは唇を噛むしか出来なかった。
「さあ。知らないけど。見てて、よく持つな、とは思う」
「……何が」
「若菜に付き合って、俺に付き合って、時雨さんらの手伝いもして、羽衣と口喧嘩も毎日して」
 基がふっと言葉を切る。
「楽しそうだけど、時々違和感覚える。お前いつも、何かあるとすぐ平気だとか大丈夫だとかばっか言って。それ、本心か? って思うことがある」
 ――海に落ちたとき。羽衣のことでパニックになりかけたとき。最初の夜。夢を、見たとき。
 全然、平気、大丈夫。
 自分の声が耳に響いてきた気がして、あたしは思わず俯いてしまった。
 何を言えばいいのか判らなくなった。判ったのは、基がやけに人をちゃんと見る奴だってことくらいだ。思い当たるところはある。あたしの微妙な表情の変化を読み取って、基は会話をする。あたしだけじゃなくて、若菜ちゃんにも、多分青ちゃんにもそうなんだろう。人をよく見てる。だから、困った。上手く誤魔化せる気がしなかった。
 また、雷が鳴った。心臓がぎゅっと縮み上がる。
「怖いのか?」
「怖くない」
 反射的に答えていた。基が小さく息を吐く。「そういうとこも、気、張ってるように見えるんだよ」。そんなこと言われても、困る。他にどうすればいいのかなんて、あたしには判らない。
 ほんの少しの無理くらい、誰だってあるだろう。
 頭の中で、いつか見た夢の光景が蘇る。あれは、夢じゃない。ほんの少し前の、現実。
 そりゃ確かにそうだよ。疲れるよ。いつも強気でいるのも、明るくいるのも、確かにあたしだけど、でも時々、疲れるんだよ。でもそんなの、あたしに似合わないから――
「肩の力抜いて生きりゃいいのに」
 呟きに、逆にぐっと肩に力が篭ってしまった。
 そんなの。……そんなの。出来たらとっくに、やってるよ。
「……悪い。言い過ぎた」
 俯いたあたしを見てか、基が気まずそうに呟いた。同時に、扉が開いた。若菜ちゃんが懐中電灯とラジオを両手に持って立っている。足元にはハナもいる。
 目が合うと、若菜ちゃんの顔が急に険しくなった。ばんっ、と乱暴に扉を閉めて大またであたしたちに近づいてくる。そして――
「お兄ちゃん。あかねちゃんに何したの!?」
「してねぇよ」若菜ちゃんに詰め寄られて、基が困惑した声を上げる。
「若菜ちゃん、ごめん、平気だから」
「平気じゃないよ!」
 叫ばれて、あたしは困ったような参ったような、曖昧な顔しか作れなくなった。また、雷鳴が響く。おしりがびりっと振動して身体が強ばる。
 ふっと。小さな手が、あたしの左手を包んだ。
「……若菜ちゃん?」
「あかねちゃん、すぐ雷どっか行くからね。大丈夫だよ、若菜もハナもいるからねっ」
 ……えっと。ぽかんと口が開いてしまった。これはええと……慰められて、る?
 ハナも傍に寄って来て、あたしの足元で身体を丸めた。尻尾が揺れている。
「若菜の言うとおりだ、夕立なんてすぐ終わる」
 苦笑したような声と同時に、ふっと右手にもぬくもりを感じた。羽衣じゃない。驚いて手を見ると、基の手があたしの手に重なっていた。角ばった骨の浮き出た、大きな手。それがあたしの小刻みに震える手を包み込んでいた。
「気休め」
 低い呟きが耳に入った。内耳に沁みる、低い声。すうっと、何かが溶けていく気がした。似ている。ふと、思った。最初にこの島に来て、防波堤に上がったときの感覚に似ている。あの日は潮風に感じたものを、今は基の手のひらに感じている。
 また、雷が鳴った。
 若菜ちゃんの手が、基の手が、ぎゅっと強くあたしの手を握ってくれた。最初はびくりとしたけれど、その強さで怖さは少し和らいだ。恥ずかしい。でも今は、その手が心強かった。
『あかね』
 ふいに、羽衣が小さく呟いた。視線を膝に落とす。
『わたしもいるわよ』
 短い、やさしい言葉。
 なんだか上手い言葉は出てこなくて、あたしはただ小さくこくんと頷いた。羽衣がするりと、あたしの肩を覆ってくれた。

 ◇

 それから暫くもしないうちに、雨はすっかり上がった。
 外に出ると、驚くほど青い空に二本の虹が掛かっていた。夕立が激しいときは、さっと上がると虹も綺麗に見えるんだよ。基が小さく笑っていた。
「そういえば」
 あたしが虹を見上げていると、基が思い出したように口を開いた。
「お前が来る前の日も、こんな天気だったな」
「あ、うん、すごかったね!」
 若菜ちゃんが大きく頷く。七月最後の日、だろう。あたしが来る前の日。
「夕立?」
「そう。今日より荒れたかも。雷もたぶん、近くに落ちた。すげえ音したから」
『ああ……わたしもよく覚えてるわ』
「……その日いなくて良かったとつくづく思うよ」
 小さく呟くと、基は一瞬目を丸くして、それからポンとあたしの頭を叩いた。
 虹が薄れていく。晴れた夕焼けの空の下を、今日は公道を通って家まで向かう。島の一番南東にあるコタマ山のふもとからだと、あたしたちの家は遠い。夕焼けと長く伸びる影を楽しみながら、あたしたちはとろとろとのんびり家路を歩む。島全体がトワイライトブルーに染まる頃、あたしたちは家に着いた。若菜ちゃんがハナを小屋へと連れて行く。
「じゃあね、あかねちゃん、羽衣。また明日ね」
「うん。ばいばい」
『またね、ちびっ子』
 羽衣がひらりと体を振り、あたしも軽く手を振る。若菜ちゃんの姿がなくなると、あたしは基と向き合う羽目になってしまった。
 き、気まずい。ありがとうとか言ったほうがいいんだろうか。いや本当は言うべきなんだろうけど……駄目だ。恥ずかしいし、上手く言える自信ない。羽衣を抱えて、黙り込んでしまう。
「あかね」
 頭上から声がかかった。そっと見上げる。ジーンズのポケットに手を突っ込んだ基が、少し首を傾げてこちらを見ていた。彼も彼で、やっぱりどこか気まずそうに苦笑を残して。
「あさって。嵯孤神社で夏祭りあるんだけど」
 ぶっきらぼうな、いつもの淡々とした口調で言ってから、一瞬口を噤んだ。それから、
「一緒に、行くか?」
「――行くっ」
 ほとんど何も考えず、あたしは反射的に声を上げていた。自分でもびっくりするくらいの大きな声に、羽衣が腕の中でびくりと震えていた。
 基の目も大きく見開かれている。し、失敗した、かな。ちょっとなんか自分でも何こんな必死に頷いているのか判らないのだけど。ヤバ。顔、熱いし。
 誤魔化すように軽く手の甲で顔を覆うあたしの前で、基の顔がふっと和らいだ。目が細まり、僅かに歯が覗く。
 子どもみたいな、まっさらな笑顔。
「判った。じゃあな」
 ひらり、と手を振って基が家へと入っていく。その背中を見送って、あたしはぎゅうと羽衣を握り締め、ぱたぱたと家に駆け込んだ。
 返事をしてから、はじめて気付いた。いつもあたしを遊びに引っ張りまわしてたのは若菜ちゃんのほうで、あの始終面倒くさそうに生きている基から誘ってきたのははじめてだったんだ。


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