第三章  割れた水風船


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 薄暮の光が島を包む頃、広場は提灯の明かりで彩られはじめた。
 蕗山とコタマ山との間にある大きな広場だ。公共施設区からもあまり離れていない、集会場的な役割もあるらしい。
 真ん中に大きなやぐらが立てられていて、上には太鼓を叩くおじさんと……何故かばぁばがマイクを持って立っていた。じぃじは下で、浴衣の帯に団扇をさして満足げだ。まだ曲は始まっていないけれど、始まったら最後、たぶんじぃじ一人が『高槻桔梗コンサート』なノリを披露するんだろうなぁと思う。くそ恥ずかしい真似はやめて欲しい気もするけど、どうもこの島の人たちはじぃじとばぁばのらぶらぶを理解してくれているらしいので、まぁいいとしよう。
 広場には人がたくさんいた。まぁ、あくまでこの島基準で、だけど。やぐらの周りには『嵯孤村自治会』とかかれた白いテントがいくつか立っていたり、ささやかだけど屋台もある。美味しそうな匂いが漂ってきている。不思議と、島全体が浮き足立っているような気がした。
 テント近くのベンチに座り、あたしがぼんやりその光景を見ていたときだ。
「あっ! あかねちゃーん!」
 幼い声と同時に、浴衣姿の女の子が駆け寄ってきた。
「若菜ちゃん! かーわいー!」
 ぱたぱたと走る若菜ちゃんを見て、あたしは思わず声を上げていた。若菜ちゃんはあたしの前で足を止めて、えへへ、と微笑んだ。
 赤い金魚の泳ぐピンクの浴衣。頭もきっちり結い上げていた。それが良く似合っている。
「あかねちゃんも、浴衣似合うねっ!」
「あは、ありがと。ばぁばがなんか張り切って用意してくれちゃってさ」
  スタンダードな紺地に、鮮やかな紫の朝顔が咲いている。帯は海老茶。ばぁばが仕立ててくれた浴衣だ。いつもどおり、羽衣はストールよろしく羽織っている。浴衣にこれはちょっと違和感あるけど、まぁ仕方ない。
 髪は結えるほど長くないから、和柄のバレッタで少しだけアクセントを入れてある。浴衣はあんまり着たことがないので、少しくすぐったいけど、でもなんか嬉しい。
「よう」
「つめたっ」
 後ろから声がしたと同時に頬にひやりとしたものを感じて、あたしは思わず声を上げていた。慌てて振り向いて――
「…………うわ」
「うわってなんだうわって」
「いや……その。率直に言っていい?」
「何だよ」
「基、何時代の人?」
『見た目おっさんね、そこまで似合うと』
 あたしと羽衣の言葉に、基は思いっきり渋面になった。いや、だって。……浴衣でどきどきしていたことも、頬に当たった冷たさも忘れるほどの衝撃でした、正直。
 基が、浴衣を着て立っていた。浅葱――と言うのかな。薄い紺地に僅かに蜻蛉の柄が入った着物をさも当然のように着こなしていて、足元は下駄、手にはラムネの瓶。頬に当たった冷たさはこれだったらしい。
 それにしても似合っている。似合っている、というか、似合いすぎている。違和感なさすぎ。
「なんかこう……大正時代とかの文豪みたいな雰囲気だよね」
「お兄ちゃん、顔が時代ずれてるんだよ」
 ごめん若菜ちゃん、あたしそこまで言ってない。
 若菜ちゃんの一言に思いっきり不機嫌な顔をして、基は軽く手を振り上げた。若菜ちゃんはその手をするりとかわして、笑い声を上げて屋台へと走っていく。
「ったく」舌打ちし、基があたしの隣に腰を下ろした。ふわりと夕風が前髪を靡かせていく。
「羽衣、意外とその格好でも変じゃないな」
 基がこちらを見て軽く口元を緩ませた。浴衣の袖から出た右手で、少しずれていた羽衣を肩にかけなおしてくれる。
「え。そう? 置いてきたかったんだけどな」
『ちょっと、あかねっ!?』
「嘘だよ」
 しれっと答えてやる。羽衣は少し身体を締め付ける力を強くしてきたけれど、さすがにそろそろ慣れてきた。あたしたちが慣れてきているんだから、そのやり取りを毎日見せられている基も慣れて来たんだろう。呆れたような小さな苦笑だけを浮かべて、それからふいにあたしの前髪に触れてきた。
「――え?」
 一瞬どうしたらいいか判らなかった。
「いや、髪」
 か、髪? 髪? 一瞬困惑するけれど、基が何を言いたいのかは判った。
「あ、バレッタ。ばぁばに貰ったんだ」
「へぇ?」
 そのまま、指でバレッタに触れる。その仕草で、顔に基の指が当たった。少し骨ばった指先。
 え。あ、あれ。きっと基は特に何か考えてるわけでもないんだろうけど、あれ、だったらなんであたしどきどきしてるのかなぁ……!?
『……へぇ、ほぉ、ふぅん。ふふふーん?』
 にやにやした口調の羽衣に、黙れとも言えない。いや、ごめん、免疫ないんだよねこういうの! どうしたらいいか判らないんだけどどうしよう。
 基は少しの間そのままあたしの横顔を、表情の読めない顔で見た後、するりと指を放した。
「似合うな、そういうの」
 ……男の子に素でこういうこと言われたの、実ははじめてかもしれない。やばい。照れる。
「も、基の浴衣ほどじゃないよ」
「微妙な返事だな、それ」
 基はすこし苦笑いして、それからふっと空を見上げた。つられて、あたしも空に視線を移す。金星が夕空の中に輝いている。基が傾けるラムネの瓶がビー球を落としてカランと音を立てた。
『あかね。くまがいるわ』
「は? くま?」
 羽衣の唐突な言葉に視線をめぐらせると、広場のテントの近くに甚平姿の大島さんの姿が見えた。くま言うな、布。
 大島さんはあたしたちの視線に気付いたのか、にこにこしながら近寄ってきた。
「こんばんは。デートですか?」
「えっ!?」
「妹連れですから」
 基がさらりと受け流す。……。妹連れじゃなかったらデートってこと? いや、深読みしすぎかな、あたし。だめだ。こういうの免疫がない。ド……ドキドキする。いや別に基だからってワケじゃない……はず、だけど。いやでも……。
「あかねちゃん?」
「……何でもないです」
 大島さんはにこっと笑って、手に持っていたものを差し出した。
「あかねちゃん、よかったらこれどうぞ。おじさんのおごりです」
「わっ、りんご飴! ありがとうございます!」
 受け取って、思わずはしゃいだ声を上げてしまう。小ぶりの姫りんごに、赤い飴がかかった、祭りの定番。大好きだ。
『お子様ねぇ』
 羽衣の嫌味も気になりません。だってりんご飴好きだし。
大島さんはもう一本、りんご飴を基に差し出した。
「これ、若菜ちゃんにも良かったら渡してあげてくれますか。基くんは、食べないでしょう?」
「ああ、はい。ありがとうございます、すいません」
 基に微笑みかけて、それから大島さんは軽く首を傾げた。
「ところであかねちゃん。自由研究は進んでますか?」
「それがさっぱり」
『サルの怠慢よね。迷惑極まりないわ』
 ……判ってる。判ってる。この言い草が羽衣なりの照れ隠しか何かってことは判ってる。判ってる。でも。でも! 布ムカつく……!
 ぽん、と腿に感触があった。見ると基が手を置いている。落ち着け、ということだろう。
「……そんなに、進んでないんですか?」
 あたしはよっぽどすごい顔をしていたらしく、大島さんがすごく困惑した顔を浮かべていた。
「あ、ごめんなさい。いや、えー、はい、そんなカンジで……」
「じゃあ、ちょっとは付け足しくらいになるかな。ここの夏祭りの由来は知ってますか?」
 その言葉に、思わずあたしたちは顔を見合わせた。
「知らないです」
「そっか」と大島さんは頷いて、どこから話そうかと考えるようにもう一度首を傾げた。太い腕を組んで、ゆっくりと言葉を紡ぎだす。
「天女が羽衣を取り戻すきっかけになったのが、子どもたちの舞を見たから、というのは前に話しましたね」
「はい」
「これは、ようはそのことにあやかっての祭りらしいです。子どもたちが舞を舞ったことから始まった祭りだそうですよ」
 ――つまり、あまつ三家に結構深く関わるお祭りってこと、か。
「蕗山で舞ったって奴ですよね?」
「はい」
「じゃ、なんで蕗山じゃなくて、ここでやるんですか?」
 ここは蕗林とコタマ山の間だ。蕗山と離れているわけでもないけど、その伝承が元なら蕗山でやるような気がする。あたしの疑問に、大島さんはにこにこと嬉しげな笑みを浮かべた。
「そういうこと、気付いてくれると僕としてもすごく嬉しいです」
「はぁ」
「間だから、でしょうね。まぁもっと端的に、広場として使いやすいのがここだというのもあるでしょうけど。僕が以前、ここに伝わる信仰の話をしたのは覚えてますか?」
 何か、言っていた気はする。あまり覚えてなくて、あたしは曖昧に首を振った。
「すいません」
「ああ、いえいえこっちこそ。言霊信仰ってのがあるんです。これはようは言葉は意味を持って、力になるというようなものなんですが。コタマ山はもともと言霊山といわれて、神霊山と崇められていたみたいですね」
「言霊山がコタマ山ですか」
「はい」
 大島さんは目を細めて山を見上げた。祭りの明かりに照らされて、山は浮き上がって見える。
「これから桔梗さんが歌う祭り歌も、その信仰と合わさっているみたいでして。天女に、この地に降りてきて欲しいと願うような内容でしてね。つまり、天女伝説の蕗山と言霊信仰のコタマ山。聖地両方に跨るこの土地は、この祭りに持って来いの場所なんですね」
 嬉しそうに語る大島さんの言葉に、あたしは基と顔を見合わせ軽くひとつ頷いた。それから、大島さんに向かって笑いかける。
「ありがとうございます。参考にさせてもらいますね」
「いえいえ。詳しくなくてすいません」
 大島さんは軽く笑って、それから「じゃあお邪魔虫は退散します」と去っていった。……なんかもう、いちいち、いちいち心臓に悪い発言を残さないで欲しい。
 いや、それはこの際置いておこう。今は羽衣のことがある。
 大島さんの姿が遠くなってから暫くして、水風船をもった若菜が帰ってきた。少し遅くなったのはそれで遊んでいたかららしい。基が若菜ちゃんにりんご飴を渡した。それから若菜ちゃんにも大島さんのことを話して、三人でベンチに座る。あたしは小さく羽衣に訊いてみた。
「羽衣はそれ、覚えてるの?」
『子どもたちが舞を舞ったってやつ? そうね。それっぽい絵は見えてるけど』
 羽衣は曖昧に頷く。それっぽい絵ってようは、子どもが舞ってるようなものは記憶にあるということなんだろうか。
「……ん?」ふと基が口を押さえた。考え込むように眉根を寄せる。
「基、どうしたの?」
 若菜ちゃんもきょとんとする。基は軽く頭を振って、低い声で呟いた。
「羽衣」
『なぁに?』
「お前が覚えてるってことは、実際にあったことだよな?」
『まぁ、そうなるのかしら』
 曖昧に羽衣が頷く。ん……そっか。あったことじゃなきゃぼんやりでも絵は浮かばないか。じゃあ実際あったことだとして。あたしはもう一度、大嶋さんの話を思い出してみた。
 ええと確か……二人の娘は舞を舞うのが好きで、羽衣を手に、この島の蕗山にて遊んで舞を舞いました、だっけ。……って、あれ?
 ちょっと待って。確か子どもの舞って、お母さんであるツクヨは見てるんじゃなかったっけ?
「羽衣」基がすっと真剣な眼差しを上げた。
「だとしたら、天女は羽衣を見てるな」
 基の言葉に、羽衣は黙り込んだ。
「もしかしたらお前を着て舞ってる所まで事実かもしれない。だとしたら」
「基」
 言いかけた基を遮って、あたしはくいと基の浴衣の袖を引いた。若菜ちゃんが気まずそうにあたしたちを交互に見てる。基は少し息を吐いて「悪い」と呟いた。浴衣の袖から手を離す。
 どこまで伝承が事実かは判らない。でも、でももし基の言うとおりツクヨが羽衣を纏って舞を舞っていたとしたら。記憶はそこで、蘇っているはずだ。天女は天に帰っているはずだ。
 でも羽衣は今ここにいる。きっと天女は天に帰っていない。
 基が言いかけた言葉が判る。そう。もし着て舞って、それで記憶を取り戻していて、それでも羽衣がここにいるのなら。
 ツクヨは、一度手に入れた羽衣を、手放しているかもしれないのだ。
『……覚えてないわ』
 羽衣は曖昧に答え、それから黙り込んでしまった。
 気まずさに、三人と羽衣の間で微妙な空気が流れる。何も言う気にもなれなくて、あたしはそっと手の中のりんご飴を噛んだ。甘い飴の欠片が喉の奥に刺さったみたいな違和感が、どうしても抜けなかった。やぐらに灯がともり、太鼓がなった。歓声が上がる。ばぁばがマイクを持って柔らかな歌声を紡ぎ始めた。祭りの開始だ。一気に盛り上がる広場とは反対に、あたしたちは無言のままだった。
「……羽衣」
『大丈夫よ』
 そっと切り出した呼びかけに、間髪いれず返ってくる上滑りした言葉。
 ……うそつき。判るよ。うその『大丈夫』くらい。羽衣と逢って二週間と少しだけど、寝るときも遊ぶときもずっと一緒なんだから。あたしにまで嘘つかなくてもいいじゃない。
 思ったけど、言えなかった。強がった『大丈夫』はそれでも自分を保つ役に立つことはある。あたしは知ってる。どう見ても落ちてる羽衣は心配だけど、何も言えない。雷の日を思い出す。ああそっか。若菜ちゃんも基も、あの時今のあたしみたいな気持ちだったのかもしれない。何にも出来なくて、歯がゆい。
 また沈黙が落ちて、暫くしてその空気を破ったのは基だった。
 ざわめくやぐらの周りに目をやり、小さく「青太」と呟いたのだ。見ると、青ちゃんがテキ屋の兄ちゃんみたいな格好で誰かと談笑していた。
「青ちゃん、久々に見た。部活だって言ってたもんね」
 気まずさを紛らわせようと言葉を続ける。若菜ちゃんがこくんと頷いた。
「後半に入ったらちょっと暇になるからって言ってたから。そしたら羽衣も一緒に遊ぼうね。一緒に青ちゃんも天女の居場所探してくれるよ」
 精一杯の笑顔で言う若菜ちゃんのやさしさが、あったかくて胸に痛い。それでも黙り込んだままの羽衣を軽く撫でて、あたしは彼女に言った。
「若菜ちゃん、青ちゃんに挨拶してきたら?」
「え。でも」
 あたしの言葉に、若菜ちゃんが僅かに戸惑ったように視線を揺らした。羽衣が苦笑する。
『わたしを心配してるの、若菜?』
「だって……羽衣、元気ないもん」
『ありがとうね。平気よ、どこかの誰かさんみたいな言い分で悪いけど』
 ――あたしのこと、らしい。
『心配してくれるなら、そうね、じゃあわたしも連れてって頂戴』
「青ちゃんとこ?」
 若菜ちゃんが目を丸くする。あたしと基も揃って目を丸くしてしまった。
「じゃあ、あたしも行くよ。基も行ったほうがいいでしょ。青ちゃんもあまつ三家だし、話しといて損じゃないだろうし」
『若菜と二人で行くわよ』
 そう言うと、羽衣はするりとあたしの肩を滑って若菜ちゃんの手に収まった。
「羽衣?」
『意外と心配しいね。あんたも。大丈夫よ、こんな他のサルどものいるところで、騒ぎになるようなことしないわ。わたしを紹介するときは、あの男の子とあんたたちだけの時にして頂戴』
 羽衣は平然とした口調で言うけれど、そうじゃない。あたしが気にしているのは、そんなことじゃない。判ってるはずだ。あたしが羽衣の少しの気持ちの変化に敏感になる程度には、羽衣だってこっちの気持ちを判っているはずだ。だからこれは、ただの誤魔化しでしかない。
 羽衣は……羽衣の考えは判る。どうして落ち込んでいるのかも、判る。考えたくない可能性を、羽衣は考えてしまっている。もしも伝承通り、天女は一度羽衣を纏っていて記憶を取り戻していたとしたら。でも今ここに羽衣が居るってことは。
 ――羽衣は、ツクヨに……捨てられたのだろうか?
 わたしたち羽衣は、天人の傍にあってこその存在なのよ。いつかの羽衣の言葉が蘇る。羽衣の言うことが本当なら。
 天女に捨てられたかもしれないって言う羽衣の気持ちは、どれほど辛いんだろうか――
 見つめるあたしの視線から逃れるように、羽衣はふわりと若菜ちゃんに巻きついた。
「羽衣」
『正直ね』羽衣が小さく呟いた。
『あんたも基も、時々聡すぎて嫌になるわ。少し、放っておいて』
 その言葉に、あたしはどうすることも出来なかった。


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